2022年12月20日火曜日

長かった 寝不足続いた W杯

ワールドサッカーが終わった。アルゼンチンとフランスが決勝戦に。前半の様子では、アルゼンチンが優位に、しかし、後半戦ではフランスが得点で挽回、延長戦でも決まらず、PK戦でアルゼンチンの勝ち、という結果になった。昨日の早朝、いつもの起床時間4時、「あゝ やっぱり見てしまった」、とひとりごと。

実は、日本が勝ったドイツ戦、スペイン戦、勝ち進んでいたので、そのつもりではなかったのに、テレビ観戦をしてしまった。もちろん、3戦めのクロアチア戦、やっぱり見てしまった。これまでの人生で、サッカーは、それほどのスポーツではなかった。関心度は低かった。なのに、なんで、84歳の今になって、と思った。PK戦というのもはじめてで、なんのことなのかを知った。penalty kickの略語。それに、サッカーでは、ボールに「手」を触れてはいけないことも、知った。

出場の選手たちの国、いろんなことを思い出すきっかけでもあった。

モロッコ、そうそう、あのモロッコのサハラ砂漠を走ったっけ。セネガルのダカールでは、国際会議で、まだ有名になる前の、獄中から出所したばかりの南アフリカのマンデラさんに会った。スーパーの袋からとり出したテープ(旧式)を「あとで、聴いて下さい、私のアパルトヘイトへの闘いの人生が、入っています」と。会議出席の各国代表たちが、まだ彼に注目していなかった・・・・

アルゼンチンのブエノスアイレスでは、市長選挙に立候補の男性の選挙応援をしたことがあった。市内の貧困層地域で、子どもたちが、サッカーをやっていた。

サッカーの試合を見ながら、自分の人生の思い出シーンを、思い出す日々だった・・・

それも、昨日で終了。なんだかほっとしたけれど、さて、どうするか。こういうのって、もしかしたら「W杯ロス」状態。

せかせかと 音がするような 今 師走

巷は、いつの間にか師走。あと2週間で「お正月」なのである。今朝、都内足立区神明町で、初氷。新潟では、想定外の大雪で、大変らしい。そういえば、今年は、想定外がいくつもあった。首相が撃たれて死亡、ウクライナにロシアが軍事侵攻、統一教会問題、北朝鮮のミサイル発射などなど。コロナも継続案件。

生きていることが、めっけもん、って感じです。

といいながら、ほぼ毎日、乗り鉄、路線バス乗りを実行しています。都心、観光地を避けて、相も変わらず、埼玉、群馬、千葉、茨城、首都圏東部地域です。同じ電車に乗っても、乗客はいつも違う、車窓からの景色からも、季節の移り変わりがわかる、線路の上を走る車の音も、毎回、違う(ように聞こえる)。電車もバスも、いつも、どこでも、ゆっくり、ゆったりで、「ちょい旅」最高、です。という、贅沢三昧の日々であります。

2022年12月5日月曜日

朝の4時 走る車も ワールド戦

12月5日(月) 朝から曇り空。ここのところ、寒い日が続いている。12月だもんね。寒いよ、やっぱり。師走っていうんだから、寒くなくっちゃ。

テレビも、新聞も、ほとんど連日、サッカーが話題の中心で、普段は、関心薄い人間でも、なんとなく気になります。深夜、早朝のドーハ―からの試合が気になってしまう。恒例毎朝4時の3PO中も、携帯ラジオで実況を聞いてしまう。たまに会う早朝から働いている人たちの車の中からも聞こえてきます、ワールド戦の放送。サッカーって、昔は蹴球(しゅうきゅう)っていってたのを、思い出す。高校時代、ずいぶん昔のこと、バスケットボール部員で、体育館近くのバスケット部の隣りが蹴球部だった。ちなみに、バスケットボールは、篭球(ろうきゅう)といっていました。蹴球のルールは、あまり理解していなかったけれど、部室お隣り同士で、仲良くしていた。オトコばかりの蹴球部のコーチが、いい男で、みんなの憧れだったっけ。ドーハ―、本日は、試合は夜中だけれども、どうするか、起きていようか、迷っています。

ところで、アフガ二スタンで中村哲さんが殺されてから3年めということで、いろいろ報道されています。実は、あの中村先生に、お会いしたことがある。日本の総理府(当時)企画のアジア諸国を訪問する青年指導者団というのに参加した時のことでした。訪問先のバングラデシュで、たまたまお会いしたのが中村哲先生だった。現地で活動しておられる先生が、いろいろ話をされた際、「日本の私たちは、アジアの貧困のために何ができるんですか」と団員のひとりが、また「古着など送る、というのは」、などという団員もいました。

中村哲先生は、「日本から、なにかを送る前に、ぜひ実行していただきたいことがあります。それは、みなさん、古着を出さない生活をして下さい」、と一言。

今、私たちは、古着を出す生活に、どっぷりつかっている。大量生産、大量消費、そして、大量廃棄が日常的に行われている。それなのに、もっと、もっとを追求する、もっと、もっとの快適を望んでいる。せっかくやめる気になったのに、とめる気になったのに、原発再稼働が取りざたされています。原子力発電所の廃棄物、今ある廃棄物の処理方法がみつからないのに、どうするのか。

貧しいのは、よくない、我慢はしたくない、一生懸命働いて、お金を稼ごう、そして、「豊かさ」を手にしよう、という風潮が蔓延しているみたい。

もっと早く、もっと遠くへ、飛行機や、新幹線に乗って「旅」に出よう、ではなくて、もっと時間をかけて、各駅列車で、路線バスで、ゆっくり、ゆったり、「旅」に出よう。こんな発想、どうですかね。


2022年11月29日火曜日

雨ごとに 落ちる葉っぱ 冬はじき

11月27日(日)晴れ  いい天気。これなら富士山、しっかり見えるはず、と出かけた。綾瀬駅から千代田線乗車。荒川の鉄橋を渡る際、はっきり富士山を確認した。東京駅から東海道線。9時20分だった。品川駅まで、立ちんぼ。ここで、お気に入りボックスシート、ゲット。進行方向右手、時々富士山が見える。よろしい。これがいいのだ。平塚駅行きだったので、いいんじゃない、いいんです、と平塚駅下車し、バス停へ。すでに10名ほどの乗客が 座っている「伊勢原行き」が、停まっており、乗車。いちばん前の運転手さん左横の一人席が空いており、もちろんゲット。

すぐに出発。駅前の七夕祭りの飾りで賑やかな東海道通り、歩道部分が広くなり、すっかり整備されていた。コロナで七夕祭り、実施したのかな。ここから北へまっすぐ、大通りを往く。真ん前に丹沢の山々。バスは、旧道へ入る。両側は田んぼ。畑も多い。まだ平塚市内だ。左方向を見るも、いつもなら見えるはずの富士山がない。電車の中からは見えたのに、あんなにはっきり見えたのに、見えないのだ。箱根の山々一帯に、いつの間にか雲がしっかりかかっている。というわけで、Mt・Fuji View Tourは、残念でした、終点の伊勢原駅までの間、まったく姿を見せなかった。

ここら辺は、昔、歩いたことがある。中原街道、東京は、港区から品川を通り、洗足池、ここら辺の地名は、たしか千束だったのを思い出した。丸子橋を渡り、神奈川へ入り、川崎を通り、中原までの歩き旅、日帰りを3~4回、繰り返してのちょい旅だった。バス停に、平塚中原3丁目、なんていうのがあり、思い出した。11時20分、伊勢原駅着。バス停は、結構、混んでいる。バスの利用者が多いようだ。ここら辺は、神奈川中央交通、「かなちゅう」が主流。駅構内の立ち蕎麦屋で、かけそば(340円)を食べ、11時50分の快速急行新宿行に乗り、代々木八幡で千代田線に乗り換え、綾瀬駅帰着。富士山に会えず、残念の路線バス乗りでした。

マレイシア 新首相は わが旧知

新聞に、「マレイシア首相 アンワル氏就任」、という大見出し。そっか、首相になったか、と独り言。97歳のマハティール前首相の立候補が気になっていたが、アンワルがついに首相になった。1980年代、当時、首相は、マハティール氏で、アンワルは副首相、次期首相などといわれていたが、政敵だったアンワルは、投獄されるという不運が繰り替えされ、それでも政治の舞台から離れることはなかった。遂に念願の首相に、なったというわけ。実は、そのアンワルと、ずーと昔、イギリスのマンチェスターで、政治活動をした、ということがありました。なにがテーマだったか、よく覚えていないけれど、段ボールに、フエルトペンで主張を描き、タイプ打ちでビラを作成、港湾労働者たちの集会で、スピーチをした。アンワルのスピーチは、なかなかだった。その帰りがけに、彼からの依頼で、マレーシアの、彼の出身地のカンポン(村)を訪れ、2~3日滞在、地元の若者たちとの交流会に参加したことがあった。当時、ヨーロッパが最大の関心事であったが、イギリスの植民地政策、中国系マレー人との諸問題、対シンガポール政策などを知る機会でもあった。その彼、アンワルは、75歳。新聞のプロフィ―ル写真、少し、昔の面影が感じられた。

この道は いつか来た道 バス路線

11月22日(火)曇り 朝4時、ほぼ頭上の空には、下弦の月。思っていたよりも寒くはない。明日は、祝日なので、人出日、だから本日は、出かけよう、なんて考えながら朝食。といっても、どこへ行くか決めておらず、こういう時は、まず神明町からバスに乗る。終点の西新井駅まで、25分かかる。この間に考えればいい。

西新井駅から、池袋駅行きに乗車。まだ10時なので、学生らしき乗客が多い。女性の場合、働いている女性よりも、学生女性の方が、お洒落で、着ているモノ、身に着けているモノ、持っているモノなど、よっぽど金をかけている、っていう印象だ。いつもは、途中の王子駅前で下車するのだが、あまりにも混んでいたので、下車するチャンスを逸した。終点池袋駅に行ってみよう、と決めた。

明治通りを走るこの路線バス 、これまでにも何度か乗車したことがあるが、この2年間くらい、乗ったことがなかった。大正大学あたりは、すぐに思い出せるが、池袋駅が近づくにしたがって、道路両側は、新しいビルになっていた。駅すぐのあたり、「ハレザ・ビル」前という停留所。バスの車窓から見上げても、てっぺんは、見えないほどの高層ビル。この後ろの方に、たしか豊島公会堂があったなあ。終点停留所は、駅前だった。駅構内は、人、人、人、だった。数年前には、駅反対側(北)から、歩いて通った大学、3年間だった。ちょっとどうなっているかの見学、結構、長い構内を歩く。駅を出て、一回りしてみたが、それほどの変化、ないみたい。特に目的もないし、山手線に乗ろうか、歩いて都電の駅まで行こうか。フクロウ像のある出口に出たら、目の前に都バスが止まっていた。これだ、と乗車。池袋から「浅草寿町」行きのバス。

乗客といえば、ほぼ満席。女性、それも高齢者が多い。みなさん、買い物袋を持っておられる。この路線、たぶん乗ったことがあるはずだが、記憶なし。しばらくして右折。白山通りに出る。ここをまっすぐ行くと、飯田橋から神保町方向だ。間もなく巣鴨駅、右は巣鴨地蔵。ここから左折、細い道に入る。東洋大学の正門、高い、でっかい学び舎ビル。坂を上がると、白山。ここら辺は、よく歩いた。樋口一葉ゆかりの地。銭湯もある。本郷通りを抜け、明治通りを西日暮里へ。いつの間にか、客は、3人。荒川区役所、大関横丁、ここら辺は、今でもよく通っている。常連の銭湯大勝湯、三ノ輪商店街は、すぐだ。三ノ輪の交差点、都心方向は、「昭和通り」、荒川方向は、「日光街道」、だ。バスは、国際通りに出て、龍泉、千束を経て、終点の浅草寿町に。道路は、空いていて、10分ほどで、終点に到着。

この後、久しぶりに行ってみるか、と浅草寺へ。しかし、すぐにやめた。とにかく、人が多い。外国人観光客(インバウンド)だけではなく、日本人割安制度利用客で、混んでいた。こんなに大勢の人間が、集まっている場所、みなさん、のろのろ歩いている、久しぶりでした。つい最近、銀座、六本木へは、ちょいと、行ったけれど、これほどではなかった。デパートの駅地下で、肉まんを買って帰宅。路線バスは、楽しかったけれど、浅草は、だめだった。

2022年11月18日金曜日

アジア「今」 国際会議 目白押し

 11月18日(金)晴れ                          ここのところ、東南アジアでいくつもの国際会議が開催されました。      東アジア首脳会議      プノンペン(カンボジア)               アジア太平洋経済協力会議  バンコック(タイ)           ASEAN首脳会議      プノンペン(カンボジア)              G20首脳会議        バリ(インドネシア)

ざっと、こんな感じです。世界中の首脳が東南アジアにやってきた。アメリカのバイデン大統領、中国の習近平、ECや、ヨーロッパの首脳、アジアの大国(?)である日本の総理大臣や韓国大統領、などなど。会議出席もさることながら、個別の会談が多かった。日本の首相は、日米、日韓、日中首脳会談など。ウクライナ戦争で、プーチンは来なかったが、ロシアは、どちらかというと、冷たくされていた。会談多し、されどウクライナ戦争は、終わらず。なんとなく、むなしい。

シンガポールの母娘のふたりは、レンタカーで箱根へ行っている。お天気でよかった。富士山がきれいだろう。明日、19日は、銀座でデイトの予定。

いい天気なので、これから、お出かけ。王子の飛鳥山へでも行こうか。        

2022年11月17日木曜日

楽隠居日記 11月17日

 友来る 3年ぶりの 六本木                        パンデミックで来ることが出来なかった友人が、久しぶりに来日。といっても友人は、ご主人の方だけれども、奥さんとも大の仲良し。六本木のマンションの持ち主でもある。今回は、3年ぶりの来日で、医師である娘のサラとの二人連れ。留守の3年間、定期的に掃除をしてくれる会社もあるんだそうだ。3年ぶりの東京についてのふたりの感想。                               「電車が以前ほど混んでいなかった」、「六本木界隈で、closeの店が多い」、「昼頃の六本木、なぜか、スーパーやレストランが、混んでいる、サラリーマン風でない、一般の人、中高年の女性が多い」、「六本木って、他よりも、モノの値段、高いよね」、「タクシーが少なくなったみたい」、などなど。                                  携帯を見ながら、昼食処の寿司屋をさがして、あちこち歩いた。たしかに閉店の店が多く、ヒルズ内でも、営業していない店が多かった。だからか、営業している食べ物屋さんのほとんどが満員だった。                       ようやく見つけた「寿司店」。天井が高く、30席ほどの広ーい室内。これならコロナ大丈夫。ところが、握っている職人さんたち、全て若いあんちゃん、頭髪スタイルが全員同じで、坊主寸前の短めスタイル、手ぬぐいの色(緑)もお揃いだ。案内された席につくと、「メニューは、ありません、昼は、お任せです」、とのこと。下手な英語。それでも、草履ばき。大きなお皿に、3人分のお寿司が、2巻づつ運ばれてくる。寿司のネタは、小さく、もちろん、シャリもちっちゃくて不味いコメ。ネタの上になんか塗ってあり、味付けネタ。醤油は出てこない。取り皿もなく、大皿からまっすぐ箸で口に運ぶっていう段取り。この状態が、1時間ほど続く。3年間ブランクだったので、話題も多く、まあ間がもてた。それにしても、こんなまずい寿司、これまでの人生(84歳)で、最悪。六本木で、商売している店に、こんなのがあったんだ、と。周囲の客、全員が日本人だったが、みなさん、結構満足気で、不満そうな雰囲気でもなかった。どうなっているんだろうか、日本人。お会計、これで、ひとり9000円。わたしが払ったわけではないけれど。

                              

2022年11月12日土曜日

楽隠居日記 (11/7~11)

11月7日(月)曇り 晴れ  秋晴れの 今日は立冬 落ち葉掃く      暦の上では、立冬。朝のウオーキングから戻ったら、近くの路上にゴミ。コンビニ弁当の食べ残しなどが散乱。土日曜日の翌朝に多い。たばこの吸い殻、缶ビールの空き缶などなど。どうやら、若者たちのたまり場になっているらしい。ぶつぶついいながら拾う。落ち葉もそろそろ落ち始めた。桜の葉がどうやら盛り。夕食はシチュー。じゃがいもが、煮すぎで、とろとろに。でもうまい。

11月8日(火)晴れ  秋の夜 皆既月蝕 鍋料理          秋の今夜は、月蝕を見ることが出来ると、新聞テレビで大騒ぎ。早朝の空には、まん丸のお月さんが、しっかり出ていた。天気よく、太陽がいっぱいの一日、真冬用のダウンを干した。整理したつもりだったが、7着もある。これら、全部手を通すのかな。この3年間、まったく買っていないけれど、ほぼ一生もの。本日は、三ノ輪の銭湯へ行く日。銭湯の女将に、奈良からの柿を持っていった。皆既月食ははじまりの7時すぎから観察開始。ベルリンで手に入れた双眼鏡が活躍。路上で買ったもの。当時は、まだ壁が開いてじきの頃だった。鍋料理を食べ食べ、ベランダから月を眺めたが、1時間ほどして、弱いシルエットになった頃、くたびれた、そして止めた。

11月9日(水)晴れ  西の空 月食終えた 月 残る          夕べ大騒ぎで見上げた「月」、今朝4時、西の空にあった。それほど寒くはない。アメリカの中間選挙の実況放映を半日、テレビで見てしまった。トランプとバイデンが出たり入ったり、下院では、共和党が、上院は共和、民主党が拮抗しており、簡単に結果が出ないということなので、ちょっと出かけた。と、これまであった近所のバス停、いつのまにか廃線になっていた。乗る人が少ないので、なくなったらしい。都内でも、こういう例があることを知った。久しぶりに綾瀬駅から新小岩へ。距離は4キロほどだが、30分かけて走行する。途中、京成の踏切があるが、道路は、そう渋滞しないので、ちょい旅にはいい。昼間の時間帯は、ほぼ全員乗客は、高齢者。みなさん、シルバーパスの愛用者です。新小岩駅からは、同じ京成バスで、亀有へ。亀有からは、常磐線で、綾瀬に戻る。この日足立区のワクチン接種の申し込みをした。11月1日にインフルエンザの予防注射をしたので、2週間後。結果は、12月1日の予約がとれた。

11月10日(木)晴れ  秋晴れ日 小湊鉄道 ほぼ満員         いい天気、秋晴れが続く。右の下方が少し欠け始めた「月」が、ほぼ頭上に。アメリカ中間選挙は、まだ結果がでない。近所の銀杏の木、ほぼまっ黄色。ちょっと東京を出てみよう、と千葉へ。千葉駅から木更津行きいに乗る。五井駅下車。ここから小湊鉄道に乗る。JRから乗り換える途中で、前に来た時には、おばさんが弁当を売っていたが、今回は、いなかった。終点の上総中野駅から、大原へ行く路線ー小湊鉄道いずみ線、に乗らずに往復するつもりで、1日フリー切符を買った。五井ー上総中野間、39.1kで1840円。乗車時間は、約90分。一両編成だが、ワンマンではない。車掌がいる。駅は、ほぼ無人駅で、スイカが使えず、停車するたびに、この車掌が降りて、乗客の改札をする。さて、12時25分、五井駅を出発。客は30人ほど。途中の駅で下車し、最後の上総中野駅まで乗っていた人ー乗り鉄は5名だった。折り返しには、近くの紅葉の名所養老の滝見物の客がどーんと乗り込んできた。一両編成の座席は、ほぼいっぱい、50名くらいは乗っている。地方の私鉄としては、立派。途中の車窓からは、まっ黄色に色づいた銀杏、鈴なりの柿、ゆずの実など、秋らしき風景。養老の滝帰りの人たちの会話。「思ったほどではなかったね」、「テレビの方がきれいだった」、「黄色が多く、赤が少ない紅葉だった」、などなどの感想。4時近く、五井駅に戻った。ここから千葉に出て、新小岩へ戻り、バスで綾瀬へ。神明町に着いたのは、6時すぎだった。本日の夕食は、買い食いでした。アメリカの選挙、まだ決着がついていない。


  

2022年11月7日月曜日

新幹線 貨物も運ぶ 柔軟性

11月6日(日)4時半、曇っていて、ほぼ真っ暗。あと2時間たたないと、太陽は出てこないけれど、それでも行く。寒くもない。10時すぎには、晴れてきた。宅急便、奈良からだった。旅友のMさんからの「柿」。段ボールには、渋抜きした、でっかい柿が40個ほど入っていた。奈良といっても、本場ものの、地元法隆寺の柿です。自宅が、斑鳩町、法隆寺は、歩く距離にある。リストを作って、ご近所さんに配る。みなさん、毎年のことなので、アテにしていて、今年は法隆寺、まだかね、なんて催促する人も。さっそく1個食べてみた、あまい、うまい。

開業150年の鉄道、一か月ほど、新聞、テレビなどでの記念特集が続いているが、どこもかも赤字で、これからどうするか、の内容。ローカル線、地方の鉄道は、深刻な経営状態で、廃線がすすんでいる。日本全体が、人口減少で、地方の旅客減少は、もっともっと深刻なのだ。ここのところ、近場の路線を乗りまくっているが、電車は、一両のみ、ワンマン運転、駅は、ほぼ全て無人、で、乗客はといえば、朝晩のラッシュ時は、通勤客、学生でなんとかなってはいるものの、昼間時間帯は、ほんの数名で、ひとりっきりなんていう体験もたびたびだった。一方、自家用車の数は増えている。地方では、一家に2台、3台、という家も多い。地方ならば、駐車場には困らないけれど、車を持つと、駐車料金もかかるし、それにガソリン代もかかる。車検や、保険も安くはない。車が増えたといって、それを走らせる道路が増えるわけではない。そうそう、ガソリンって、日本で、自前出来ないんですよ。電気自動車にすれば、ガソリンはいらない、という人もいるが(タクシードライバーのご近所さん)、コバルトとか、リチュウムとか、電気自動車に必要な資源は、原産地のアフリカから輸入しなければならないわけで、どれも有限資源なのだ。などなど、車社会のこの先は、真っ暗。     

最近、収益を増やすため、貨物を運ぶ新幹線や、特急列車が、あちこちで利用されている。朝採りの果物、野菜、朝陸あげの漁獲類などが、人口の多い都市部に搬送されている。物流といえば、トラック、というのが定番だったが、高速道路の渋滞がたびたび起こっており、また高速料金の値上げ、駐車場の値上げ、働く運転手不足など、なかなかうまくいっていない。人が快適に「旅」をするための新幹線のはずだが、その人(乗客)が、乗ってくれないことには、はじまらないわけで、これも、あれも、考えてみるに、赤字の鉄路利用は、いいことだ。「地球温暖化」対策でもあると思う。

そんなことを考えながら、王子の飛鳥山公園に行ってみた。紅葉は、始まっており、落ち葉いっぱいの園内だった。スマホ写真撮りのみなさんで、混んでいた。まだまだコロナ禍、急いで下山。京浜東北線で南浦和駅へ行き、武蔵野線に乗り換えて、新松戸駅へ。電車は、日曜日の午後3時だったが、家族連れが何組か乗車していて、席は、ほぼ埋まっていた。「みなさん、電車、ご利用いただき、ありがとうございます」、と心の中で、つぶやき。下車の綾瀬駅改札で、スイカ250円だった。


2022年11月3日木曜日

鉄道と 絵画コラボ の 展覧会                       11月2日(火)予報は晴れなのに、朝は曇り空。桜のはっぱが落ち始めた。朝の散歩の途中にある銀杏の木、かなり色づいてきた。というわけで、銀杏通りへ行ってみよう、と。東京駅から荒川土手間の路線バス、これがお茶の水から本郷へ出て、東大通り、銀杏通りです。まだ、午前中なので、まだ、通勤客で混んでいるはず、東京駅へ行くよりか、荒川土手の都バス操作場へ。ところが、東京駅丸の内行きバスは、1時間に1本しか出ておらず、とりあえず、田端駅まで乗る。ところが、田端では、30分待ち。しかたない、待つ。電車に乗れば、15分くらいで、東京駅に着くけれど、なにしろ、行きたいところは、本郷通り。待つしかない。

バスがきた。乗客は、数名で、乗り降りなく、全員終点までの客だった。さて、本郷通りの銀杏、残念ながら、まだでした。東大構内の銀杏は、若干色づきがはじまってはいたが、大通り側は、まだ。ま、しかたない、と丸の内側東京駅で下車。改札手前に「鉄道美術の150年点、150年」の看板。そういえば、どこかでそんなのを見たっけ。迷うことなく、入った。東京駅丸の内駅舎内ギャラリー、入場料1400円。高いんじゃないの? 案内の女性が、親切だったので、ま、いいか。展示は、3階、2階で、汽車、列車、車内風景、車窓からの風景などで、有名な絵描きさんの作品。広重、芳虎、勝海舟の絵など、大宮の鉄道博物館で見たものが多かった。客は、まばら、高齢者が多かった。鉄道150年にあわせての企画だったようだが、特に感動しなかった。ただ、東京駅舎内のギャラリー(3階建て)を見学することが出来たのは、よかった。

帰ったら、現役弁護士の友人からの郵便が届いていた。彼女は、アフリカのガーナでの大使歴のある、ブータンにご一緒したこともある。まだ、働くのと、よく冗談を言ったが、まだ、弁護士職を続けている。その彼女が、コロナ禍の上海を訪問した際の一部始終の記述。

出発前の手続き、上海に着いてからのホテルでの隔離生活、PCR検査、健康コード、上海の街中での体験、買い物、タクシー体験などなど、結構、事こまごまと書いてある。最後に、「原油以外の鉱物は何でも存在するという中国、中国国内だけで、充分な経済圏を確立、独自の社会システム、文化を構築できる。ゼロコロナ政策推進のため、健康コードという途方もないシステムを、独自に開発、実際にそれを運用している。・・・・・こういう国、中国と平和的に共存することが、わが日本にとって必要なこと」、とあった。

私たちのいう、民主主義が、問われている、そんなことを考えている。


2022年11月2日水曜日

楽隠居日記 10月31日

ハロウィーン 押しくらまんじゅう 負けたら死               10月 31日(月) インドのグジャラート州で、吊り橋が切れて、大勢の人たちが落下、亡くなった、とのニュース。グジャラート州、と聞いて、思い出した。今から60年ほど前のこと、同州の首都アーメダバードで、20日ほど過ごしたことがあった。テキスタイルが盛んなアーメダバードで、繊維労働者たちの労働条件改善のため、労働組合を立ち上げる、というプロジェクトにかかわったことがあった。どんな成果があったかは、覚えていないけれど、スウエーデンやシンガポールの、いわゆる同志たちとあれこれ活動した。自分にとっては、初めてのアジアで、マラリアの洗礼を受けたのも、この時だった。20日間のうち半分の10日ほどは、マラリアで寝込んでいた。現首相の出身地でもある。   朝一番のニュース、韓国のソウルの繁華街で、大勢の若者たちが、人流混雑で亡くなったとのこと。あの地区には、海路で韓国を訪れた際、二泊したソウルでのホテルがすぐ近くだったので、ぶらぶらしたことがあった。ハロウィーンで、多くの観光客、韓国の若者たちで混雑していた地区、原宿みたいな所、で大惨事が起きたようだ。155名が亡くなったと。                 毎日、人が死ぬ、というニュースは、ウクライナだけでも十分なのに、地球のあちこちでは、こうしている「今」も、続いていることを実感。

アメリカや、EUの国々がいう「民主主義」の持つ意味を考えている。対話が出来ない人たちを相手に、「民主主義」を繰り返すことの虚しさ、こういう時代なのだ、と。いろいろ考えながら、本日は、西新井大師で、手を合わせた。神頼みっていうわけ。お大師さんなら、聞いてくれるかな。

2022年10月31日月曜日

楽隠居日記 (10/23~29)

大臣が 辞めても支持率 そのまんま                                          10月23日(日) 朝の気温が、10度以下とのことだったので、寒い。本日は、しかし、一日中晴れというので、朝から機嫌がよろしい。時間をかけて、ゆっくり新聞を読む。これこそ隠居の醍醐味っていうことか。どの新聞も、現政権の大臣たちの、統一教会関連関係についての記事で満載。新聞のテレビ番組を見ると、午前、午後とも国会の予算委員会の中継が放映されるとある。で、論戦の始まる9時から、テレビにくぎづけ。糾弾側の野党の質問、あまりにもくだらない、下品。に対しての疑いのかかった大臣の返答、これまた、聞いていられない、不思議な日本語でした。任命責任を問われた総理大臣、「個々の議員が、正直に誠意をもって、国民に説明をすることが大切」、だなんて、言っておられました。外は、晴れてはいるけれど、寒い。「やーめた!」、と叫んで、出かけました。綾瀬に出て、亀有まで、ひと駅だけれども、電車に乗る。ここから、京成路線バスに乗車。30分かけて新小岩へ。浅草行きもあるけれど、インバウンドで混雑しているらしいので、だめ。環七を走り、新小岩駅着。そのまま、綾瀬行きに乗り換えて、帰宅。3時、まだ、晴れていた。

リハビリに 踏み台加えて まだやる                        10月24日(月) 霧雨程度の雨だったので、予定通りウオーキング。歩いているうちに止んでくれた。ほんの少し、濡れただけ。この日は、一日中、降ったり、止んだりだった。昼の温度が16度、寒い一日。3PO(さんぽ)から戻り、本日から、朝のトレーニングに一種増やした。踏み台を、登ったり、降りたり、左右30回、というもの。駅の階段など、結構段差の多い「外」、これって必要、有効ですよね。本日も、予算委員会のテレビ。内容はわかっているのに、やっぱり見てしまう。民主主義って、面倒くさいな、手間暇かかるね、なんていいながら、与野党の論戦(?)を見ている。こんなことしていると、体に悪い、心にも悪い、と1時8分のバスで西新井、乗り換えて王子へ。京浜線で南浦和、武蔵野線で新松戸経由で、綾瀬駅。いつものコース。たまには、都心へ、という気にならないのです。結局、東京都の東端足立区から、さらに東へ、ということになると、こんな路線になってしまう。でも、なんど同じ路線に乗っても、あきない、乗っていることが楽しい、うれしいんですよ。本日も、帰宅してテレビをつけたら、まだ予算委員会、やってました。

商店街 コロッケ食べてる インバウンド                       10月25日(火) 今朝も曇り空。「夕空晴れて 秋風吹き」、なんて日はない。本日は、三ノ輪の銭湯へ行く日。都電に乗ったら、小学生の団体(15,6名)に会った。みなさん、おりこうさんばかり。座席に座らず、全員、たちんぼ。高齢の乗客おばあさんが、「偉いねえ、どこの学校かい」、と尋ねると、豊島区の学校とか。本日も、観光客らしい外国人(韓国人)が乗車していた。終点の三ノ輪駅に着いても、降りる様子がないので、「終点だよ」、というと、ありがとう、と日本語の返事だった。銭湯は、この時間、いつも、5~6人の入浴者っていう状況。同じ時間に、同じ顔、商店のおかみさん、ご隠居さんたちだ。風呂上りに、商店街をゆっくり歩く。と、コロッケを食べながら歩いているインバウンドさんたちに会った。さっき都電に乗っていた人たちと、アメリカ人グループが、いっしょに歩いている。コロッケを食べながら。都心では、こういう風景なんだろう、と思った。 

ふとん干し 洗濯もした 晴れ日和                    10月26日(木)早朝の東の空、本日は、晴天の兆し。それほど、寒くはない。ふとんも干したいし、洗濯も。しかし、午前中に、友人に会う約束があるのだ。コロナで、なかなか会う機会がなかったが、もう、そろそろいいかな、と会うことにしたのだ。10時、約束の綾瀬駅で再会。駅近くのコーヒー店で、2時間ほど、会話。看護師として、働く現役さん。これから、福島の施設に入っているお父さんに会いに行くとのこと。母上が亡くなり、ひとりになったお父さんが施設入りし、定期的に会いに行っているとのことだった。そのために、常勤としての勤務がむづかしいので、非常勤での勤務で、収入も低く、大変と。高齢者の多い病院、施設の現状を、ただただ聞くばかり、大変さが、よくわかった。これから上野へ出て、新幹線で福島までいく、とのことだった。いろいろ考えながらの帰宅。まだ12時。空は晴れ上がっており、それじゃあ、とふとんを干した。洗濯もした。5時近くの夕日、それでも、しっかり乾いた。

私鉄線 ホームは駅の 端っこに                     10月27日(木) 朝9時すぎのバスで、西新井~王子から、大宮駅へ。お天気です。大宮駅は、ここら辺の駅では、最大、大きな駅だ。駅構内には多くのお店が軒を並べている。新幹線だってとまるし、高崎線、東北線、埼京線、川越線などの乗り換え駅だ。東武線のアーバンパーク線、これまでなんどか乗車したが、大宮駅は通過駅で、ここからの乗降りは、はじめて。ひろーい駅構内の、ほとんど端っこに、アーバンパークラインのホームがあった。改札で、スイカを通す。10時すぎだったが、遅い通勤者たちが、どーんと降りてきた。これは赤字路線じゃないんだ、とひと安心。しかし、船橋方面行きの電車には、六両、乗っていたのは、それぞれ数名の客。大宮駅を出て、しばらくは、マンション、アパート群だったが、戸建て、それに畑も広がっており、いなか風景。遠くに筑波山も見える。紅葉は、まだだったが、柿の実が、あっちにも、こっちにも見えた。この景色、車窓からの景色は、なんど見てもあきない。毎回、新鮮なのだ。それなのに、スマホに見入っている人たちの気がしれない、というのは、自分だけなのか。取手駅に着き、いつもの手順で乗り換えて綾瀬まで。本日も、いいちょい乗りだった。

落花生 今年も八街 宅急便                       10月28日(金) 3PO時は、曇り空だったけれど、だんだん晴れてきた。本日は、晴天なり。北朝鮮が、またミサイルを撃ったというニュース。こう頻繁に撃っていると、そっか、またか、という感じになっている自分に気づく。お父上がやんちゃで、有名だった国会議員のご子息、防衛大臣は、深刻な面持ちで、「わが国は、敵の射程に入っており、これをなんとかして防がなくてはならない。国民の命を守るための防衛の見直しが、必要」、と述べておられる。午後、いつもの銭湯へ。都電の線路の両サイドに、薔薇が植えられている。三ノ輪駅周辺は、特にきれい、満開だ。薔薇は、年1回でなく、2回、いや3回も咲くことを知った。手入れは、東京都がやっているが、種類もいろいろ、花の色もいろいろで、カメラーさんたちの被写体に。商店街の八百屋さんで、新採り落花生をみかけた。そういう時期なんです。というわけで、今年も、八街に注文しました。いつも世話になっているみなさんへの、お歳暮がわり。今年の落花生の出来はどうかな。

行くべきか 行かざるべきか 古本まつり                 10月29日(土) なぜか、今朝も曇り空。ダウンは暑いので、薄目のパーカにした。でも、北海道などでは、氷点下の地がいくつもあるらしい。夕べ、きんぴらを作った。ごぼう、にんじん、にレンコンをまぜたきんぴら。今朝、試食したが、なかなかいい味だった。レンコンは、お隣さんからの差し入れで、どうやって食べたものかと、一週間ほど、ほっといたが、料理本「だれでも出来るお料理」調べたら、あった。なるほど、結構、うまい。テレビの首都圏番組を見ていたら、神田神保町古本まつり、の様子が。コロナで、久しぶりの開催とのこと。現役時代、海外出張から、まっすぐ神保町へ直行したこともあった。本を買いすぎて、タクシーで帰ったことも。それらの本で、身動き出来ない事態となり、たいへんな思いで、6か月かけて整理し、処分した。買うまい、もう買うまい、と思いつつ、本屋が気になる。入ると、手にとりたくなる。買いたくなる。と思いつつ、綾瀬駅へ。千代田線、お茶の水方面は、だめ。ということで、我孫子行きに乗った。次の亀有で下車。駅前から出るコミュニティバスでに乗った。これで葛飾区内を時間をかけてぐるっと乗車。神保町は、忘れよう。


                            

2022年10月30日日曜日

楽隠居 この一週間

山の手線 一周しても 210円 

10月16日(日)朝4時、曇り空、といっても、この時間、東の空は、まだ暗い。早朝でも、車は走っている。たまに、バイク、自転車にも合う。夏の間は、運河の遊歩道を歩いていたのだが、街灯がなく、真っ暗なので、コースを変えた。午前中は、町内の周辺掃除の日だったので、それをすませてのお出かけです。空いている道路、交通手段でいつものように西新井駅経由で、王子駅へ。ここまでは、シルバーパス可能。王子駅で、京浜線に乗る。田端駅で、山の手線の外回りに乗りかえる。約1時間かけて一周。上野駅下車、といっても改札は出ない。駅構内の本屋へ。見るだけ、見るだけ、のつもりが、買って、「しまった」、2冊。常磐線で北千住経由で、綾瀬駅まで、で、改札口へ。210円、でした。

雨だけど 傘をさしての ちょい乗りへ

10月17日(月) 予報では、降る、といっていたが、いつもの4時、降っていなかったので、いつものように、歩く。6時半頃、体操をしていたら、降ってきた。8時、電話。こんな朝早くだれからと、おもいながら受話器をとる。シンガポールからだった。夜は、早寝なので、朝の電話。「11月の16日から、東京へ行くので」、とのこと。コロナで、3年ほど、来ることが出来なかったのだ。六本木のマンションで、とのことだった。そういえば六本木、この3年、行ったことがなかった。なんたって、人流の危険地帯だもんね、用もないし。午後は雨だったが、傘をさしてのお出かけ。昨日と同じルートで、王子駅から上野駅へ。ここで本屋の見学。見学だけだったが、常磐線に乗ってから、気になる「本」が、気になり、北千住駅下車。駅ビルの本屋へ。『人新世の資本論』の著者斎藤幸平氏の対談本、でも北千住では見つからなかった。上野駅の本屋にはあったのに。

国会の 論戦見飽きた 銭湯へ

10月18日(火)  小雨に濡れながらのウオーキング。寒い朝。一日中、降ったり、止んだりだった。午前中は、参議院予算委員会の実況テレビに、かじりつくように見入ってしまった。12時、なんか、くたびれた、なんとなく、むなしい。そうだ、こんなことで、貴重な時間を無駄にするなんて、と思いなおして、出かけた。綾瀬駅から町屋駅経由で、都電に乗って三ノ輪へ。ここの商店街のど真ん中にある銭湯「大勝湯」へ。だいたい、週二回ほど、通っている。大正時代に開店の、この銭湯、天井が高く、脱衣所も、風呂場も、広ーく浴槽は、6個もある。もひとつ、気にいってるのは、「水風呂」の存在。番台の女将さんとは、相性がいい。もう、10年以上、通っている。4時に帰宅したら、予算委員会、まだやっていた。

客ひとり 見えた電車に 乗り換えた

10月19日(水) 今朝も、暗い、曇り空。冷たくなったので、手袋の出番。なにしろ両手に、ストックを持つので、手が寒い。国鉄150年関連の本に目を通していたら、「そうだ、乗りに行こう」、と。9時15分のバスに乗る、行く先は、西新井駅、なにしろ、シルバーパス可能なので。もう一回、西新井から、王子駅まで、都バス。王子から赤羽駅へ出て、宇都宮線に乗る。10両編成、先頭、後方の車両がボックスシート、もちろんボックスシートに。客は、3名。利根川を渡る頃、晴れてきた。右に筑波山、左前方に日光の山々が見える。小山駅で下車。新幹線も止まる駅。駅前大学が、白鷗大学。新幹線で通学している学生さんたちもいる。水戸線に乗る。6両編成で、中の2両以外、前後各2両がボックスシートだ。客は、数名ほど。まあ昼の時間帯なので、客は少ないのは、仕方ない。鬼怒川を渡り、下館駅へ、ここで、対向車待ちをしていたら、向こう側のホームに一両編成の電車が止まっている。見ると、乗客はひとり。そっか、あれに乗ろう、と階段を上がり、降りる。階段の下で、係の人らしい男性が、「急がなくて、いいですよ」、と手を振る。こうして、気が変わり、水戸線で友部駅へ行かずに、関東鉄道真岡線に乗り換えた。発車時、乗客4名、地方の赤字私鉄路線です。なんどめかな、この路線。でも、すずなりの柿、稲刈りを終えた田んぼ、紅葉はまだだけれども、充分に「秋」を感じられる乗り鉄だった。ワンマンの運転手さんの鼻マスがおかしかった。筑波山も見えた。乗客の乗り降りは、残念ながら、ほとんどなく、ガラ空きのまま守谷へ。80分も乗ったので、ここで、つくばエクスプレスに乗り替えた。真岡線、ここまでで1310円。守谷駅から八潮駅へ。20分くらいだった。つくばエクスプレス・TXは、スピードも速いけれど、運賃も安くない。

時刻表 発売20日 なぜないの

10月20日(木)  今日は、快晴、4時でも、東の空は、うっすら明るい。この天気、旅どころではない、洗濯だ、ふとんも干そう。そうだ、衣替えもしよう、というわけで、家事労働。朝がはやかったので、午後1時には、全て終了。ちょこっと、おでかけ。綾瀬駅前のヨーカ堂4階にできたばかりの大型本屋。毎月20日、JR,交通公社それぞれが、時刻表(本)を発売する。どちらかといえば、JR派だが、たまには、交通公社モノも買う。ところが、まだ入荷していない、とのこと。本屋のスタッフ「そうなんですか、JRの時刻表、毎月20日ですか」、だって。それくらい、覚えておけよ。

朝の4時 下弦の月が 西の空

10月21日(金)寒い。早朝ウオーキング、家を出て、西に向かって歩き、ターンして東に向かう、というのがパターン。家を出て、すぐに西の空に、下弦の月。本日も晴れ。だから寒いのだろう。朝食は、夕べのに残りのシチューをあたためて食べた。今週は、うどん、そば食が多かった。午後、三ノ輪の銭湯へ。なにしろ、都電に乗れるのがいい。都電が好きなんです。それに、シルバーパスが使えるのもいい。風呂上りに、商店街の八百屋で、栗を買ってきた。昔は、旅の途中で、特に東北、奥の細道を歩いた時は、栗をずいぶん拾ったもんだ。

旅友の 宅急便は 丹波豆

10月22日(日)  いつもほど寒くない。帽子も毛糸モノ、手袋、それに、真冬用のダウン上着、にしたので、寒さ、感じなくなったのかも。曇り空。月は、もうない。牛乳配達のおじさんから、なぜか、「早いね、頑張ってるね」、と声かけがあった。はじめて、だ。「あんたも、がんばってるね、」、とお互いにエール交換。朝の4時すぎ、歩いている人なんか、めったにいない。9時すぎ、宅急便。丹波篠山の黒豆の枝豆が2箱も届いた。コロナ期に入ってからは、いったんお休みしていたが、もう、何年くらいになるかな、毎年送られてくる。送り主は、神戸在住の旅友。さっそく、ご近所さんにおすそ分け。茹でて食べました。うまい。感謝。丹波篠山は、西国巡礼に行った際に、訪れたことがある。午後は、綾瀬から金町へ。ここから、バスで新小岩へ。だだ乗るだけで、綾瀬駅に戻る。夜は、湯豆腐、納豆、めざしで、ご飯は、仙台からの宅急便の新米。



2022年10月20日木曜日

武蔵野線 その先乗ったら デイズニーランド

いつものように、なんとなくバスに乗り、王子駅へ。ここから田端駅へ出て、山手線でも一周するか。と、すぐに来たのが南浦和行きの京浜東北。乗った。南浦和駅で下車。昼すぎの武蔵野線は、学生はいるが、一般乗客は、それほど乗っていない。途中のレイクタウン駅で、乗客の入れ替えはあったものの、まあ、ガラすき状態。武蔵野線は、府中本町から西船橋駅の71キロ、西船橋までは、なんどか乗ったことがあるけれど、この電車、行く先、つまりか。終点が、なんと「東京駅」となっており、それじゃあ東京駅まで行ってみようか。

西船橋駅から、千葉県の市川塩浜駅を通り、ここからが、京葉線になる。実は、この路線は、はじめての乗車。地下鉄日比谷線の八丁堀で、京葉線乗り換え、のアナウンスは、ちょくちょく耳にしてはいたが、実際、どこを走っているのか、知らなかった。

西浦安を通り、舞浜駅へ。と、ここで、あのデイズ二ーランドのみやげ袋をかかえた子どもたちが、ドーンと乗ってきた。外を見ると、デイズ二ーランド、お城や、いくつもの施設が眼下に広がっている。広い駐車場も見えるが、多くの人たちは、電車で来るのだ。

デイズ二ーで、遊び疲れたのか、子どもも、親たちも、すぐに眠っている。お金、かかるんだろうな。行ったことないので、どんな様子なのか、わからないけれど、ご近所のデイズ二ー好きのお母さんは、「とにかく、お金がかかるんだよね、デイズ二ーは、なんでも高い」、と言っている。でも、アメリカのデイズ二ランドは、2回行ったので、内部の様子はなんとなくわかる。

この後、京葉線は、都の湾岸施設を見ながら走る。ずいぶん、高層ビルが建ったものだ。ここに、多くの人口が住んでおり、朝晩、住人たちが京葉線に乗って通勤しているのだ。間もなく地下に入る。八丁堀をすぎ、東京駅へ。終点。デイズ二ーランド袋を持った人たち、結構、満員だったようだ。東京駅の地下。ここから、始まったのが「動く通路」。空港などにある平らな動く通路。たしか、新宿駅にもあった。列に並ぶのがいやな人たちは、通路の横を歩く。この動く通路、3回、乗り換えた。ようやく改札が見えた。

丸ビルサイドに出て、丸善で立ち読みをして、西新井行きのバスに乗り、途中で、都電に乗り換えて、帰宅。5時、ちょっと前だった。

2022年10月9日日曜日

紅葉は まだか どこかと 路線バス

朝から雨。今日は10月6日。予報では、一日中、雨模様とのこと。明日も、明後日も、同じような天気とか。ぐーんと、寒くなるとも。

「それなら、今日、行くべき」、と決めたのは、朝、4時半。勿論、傘持参での、ちょい旅です。

家の前を、一日6本しか走っていないコミュニティバスで、西新井駅まで。池袋行き都バスに乗りかえて、王子駅へ。もちろん、シルバーパスOK。王子駅から京浜東北線で赤羽へ。ここで、高崎線に乗りかえる。階段 を降りて、お隣ホームへ。と、発車のベルが鳴っていて、滑り込みセーフ。10時40分の籠原行き。いちばん前車両の、ボックスシート席。がら空きでした。理想的な乗り鉄のはじまり。グリーン車もついており、しかし、高崎まで行かない列車なので、空いている、ボックスシート車両も、客は少ない。にんまり、です。

荒川の鉄橋を渡る。下流の岩淵水門あたりが、雨でけぶっている。いいね、いいね、雨の車窓も、なかなかです。車内の各地の交通状況のお知らせにでは、あっちの路線、こっちの路線で、事故、確認などでの見合わせとか、遅延が多いようです。この電車、通常通りに走っています、おもわず、よろしい、ありがとう。

新都心駅では、ホームで待っていた人、2名。降りた人、なし。これでは、JR、経営は大変なはずです。大宮駅では、ドアが開くと、とーんと外気が入ってくる。寒い。この感覚、久しぶり。

4人掛けボックスシート、その後も、客なしで、ひとり独占のまま、11時36分、熊谷駅着。ここで下車。まっすぐ駅前のバス停へ。待つ人ゼロ。「小川」行きをチェック。なんと1時間半後の13時発。待つか、あきらめるか、一瞬考える。小川行きバスは、山間部を走るので、紅葉を楽しめるはずの路線バス。せっかく来たのだから、やっぱり乗ろう。

駅構内に戻り、「うどん屋」へ。熊谷名物のうどん、埼玉県は、うどん県で、県内、どこでもうどんがうまい。ここは、良く知られている店で、なんどか来たことがある。秩父鉄道での乗り鉄の時でも、うどんのためにここで下車する。かけうどん、550円。この後は、お隣に新設された大型本屋で時間をつぶす。椅子が3個あり、そこで、読書。買わない、買わないを繰り返しながら、立ち読みでない、座り読み。といっても、やっぱり買ってしまった、1冊。中央公論10月号ー「ポスト資本主義、斎藤幸平x佐藤優」が読んでみたくなり、買ってしまった。

13時、きっちりのバスに乗った。乗客3名。バスは、熊谷市内の国道を、しばらくはしる。熊谷名物の五家寶店、以前は、何軒かあったのが、今は、一軒のみ。老舗デパートの八木橋も近くにできたイオンモールに押され気味とか。

バスは、荒川を渡る。まっすぐは、松山方面、小川行きは、右折。あとは、畑と林の中を行く。紅葉、ぜんぜんだめ。まだまだの状況です。早すぎた。乗客2名は、いつの間にか下車していて、ひとり客になっていた。14時、終点の小川駅着。スイカでOK。690円だった。このバスは、すぐに熊谷駅に戻る。どうしようか、一瞬思った。雨も降っており、やっぱり、やめとこう。到着した電車からの客数名が、迎えの車を待っていた。不便なところなんです。駅前の「おからドーナツ」店で、ドーナツを2個買って、食べながら14時22分の池袋快速に乗る。東武東上線、途中の大学のある駅で、若者たちがどーんと乗ってきた。この頃の学生たちって、あまりお喋りをしない。ほぼ全員、スマホとお話し中です。だからとても静か。電車の走る音が、なんとも心地よく、紅葉、だめだったけれど、ま、しかたない。出直しします。

2022年10月3日月曜日

国葬に 参列した

といっても、最近行われた日本の元総理のことではありません。

この9月25日は、日中国交正常化が実現した日。田中角栄首相が、北京で日中共同声明に調印した日、1972年(昭和47年)のことだった。

その日中関係史に、中国側の実質的に活躍されたのが、廖承志、中日友好協会会長だ。その廖承志さんの葬儀に参列した。1983、ずいぶん昔のことだ。実は、当時、参列はしたもの廖承志さんのことは、あまり理解していなかった。で、調べてみた。

日本が、戦前、戦中、中国で何をしたのか、学校では、それほど学ばなかったが、それなりに知っていた。だから、中国の人たちが、日本を恨んでいたことも。

そんな中国との関係をなんとかしようと、日本の財界人、文化人が、積極的に活動をしていた。まだ、国交が樹立する前のこと。多くの日本の財界人が、訪中し、中国のための協力を行っていた。文化人たちも、さまざまな交流のため中国各地を訪れていた。その中日交流の中国側の窓口が廖承志さんだった。

その間、中国では、全国的な食糧危機や文化大革命などの国難があり、日本でも、反共の岸信介 内閣が誕生、対中関係は、悪化。そうした状況の中、突然のアメリカによる、ピンポン外交で、アメリカが中国を承認。で、田中首相の北京訪問となり、日中共同声明に至ったという次第。

このような歴史の流れの中で、重要な役割を果たされたのが、廖承志氏。北京での葬儀に、なんで、杉村春子さんや、有吉佐和子さんが参列されていたことが、今になって、よくわかった、という次第です。40余年経って、今になって理解した、時間がかかったもんです。

日本でも、最近、偉かった人の国葬が行われ、海外からも要人が多く参列されたということで、そういえば、自分も、現役時代、職務で、海外での葬儀に参列したことがあったっけ、と思い出した。

1983年6月、北京での、廖承志氏、中日友好協会会長、の葬儀

1986年3月、ストックホルムでの、オロフ・パルメ氏、スウェーデンの現役首相で、テロによる暗殺。日本からは、福田赳夫元首相が参列された。福田康夫さん(元首相)がご一緒だった。

1992年2月、社会主義インターナショナル議長の、ウイリー・ブラント氏の葬儀、ベルリンの市長でもあったブラントさんの葬儀は、ベルリンで行われた。日本政府を代表して、海部俊樹元首相が参列されていた。

偉い人が亡くなり、海外からの参列者の多い葬儀会場周辺で、「葬儀反対!」のデモは、経験したことがない。

なお、対中関係だが、今の中国とは、はかばかしくない。経済でも、日本は抜かれ、軍事的にも、核保有国となり、中国は、今や世界の大国。なんとなく、友好というよりも、憂慮を感じる、日本国民です。    

2022年9月24日土曜日

久しぶり 新幹線で ちょい旅へ

 9月21日朝、いつものように起床、4時。昨日、あんなに降っていた雨、今朝はやんでいた。台風は、おきまりコースで東北からぬけて、温帯低気圧に。まだ、暗いので、よくわからないけれど、ま、大丈夫でしょう、行くか。3POも、般若心経の読経、エアロバイク漕ぎもいつもの朝のように、こなす。

5時50分の北千住行きバス、いちばんのバス、これに乗る。ちょっと小雨がおちてきたけれど、ま、行ってみよう。上野行きの常磐線電車、6時20発、それほど混んではいないけれど、もちろん座れない。女性客は、ちらほら、少ない。オトコがほとんどで、それも7~8割が中高年のおじさんたち。みーんな、しっかり眠っている。立ったままで目をつぶっている人も。くたびれているんだね。昼間の乗り物では、ほとんど全乗客がスマホをいじっているのが、車内風景なのに。

上野発6時58分の新幹線あさま601号、長野行きに乗る。東京駅発の新幹線、がら空き状態だったが、大宮駅へついたら、どーんと乗ってきた。通勤客だ。ほぼ満席に。でも熊谷、高崎駅でほとんど下車。列車が、高崎を出て左へ曲がる頃、車内は5名。外は、降ってはいないけれど、曇り空。浅間山は、見えない。8時7分、軽井沢駅に停車。1名、下車、乗る客なし。

8時26分、上田駅着。ここで下車。ホームを出て、端っこにある上田鉄道改札へ。人気(ひとけ)なく、「スイカは使えません」の張り紙。ホームを見ると列車は、スタンバイしており、窓口で、「すいません」、と大声をだすと、中から男性が出てきた。帽子に線が入っている。駅長さんだ。往復切符を下さい、というと、すぐ出してくれた、1100円。

8時41分発、別所温泉行。本日の目的の上田鉄道別所温泉行の電車に乗車。えっまだ9時前なんだ。2両編成、でワンマンだけれども、なぜか、さっきの駅長さんが乗っていて、車内切符係をしている。通勤らしい客が、11名。途中駅で、みなさん下車。始発の上田駅から終点の別所温泉駅までは、30分。これに乗るために、はるばるやって来たのです。

実は、この路線、北国海道の歩き旅の時、高齢者グループを引率しての旅、単独ついで旅、そして今回で4回め。車窓からは、周辺の低い山々が見え、線路すれすれに、すすき、コスモス、朝顔が風に揺れている。電車の、のろのろスピードがちょうどいい。

線路は、ほぼまっすぐ。人家の間を走る。この路線、結構古い。大正10年(1921年)に開通というから、歴史を感じる。今は、途中の駅、全て無人駅だが、木造の駅舎は、歴史を感じる。別所線をアテに建てられた大学や、メディア情報センターなどが沿線にある。

終点別所温泉に着いた時、乗客は1名だった。だーれもいない駅。ここも無人駅で、乗ってきた駅長さんが、終点駅構内の点検をしていた。

まだ9時すぎ、次の列車は、1時間後なので、せっかくきたんだから、と坂道を15分ほど登る。そこにあるのが『北向き観音』さん。北の長野の善光寺さんの方向を向いて立っている、ということで、知られている。薄暗い建物の中の観音さんに手を合わせる。あの時は、ここから北国海道を善光寺まで歩いて行ったっけ。

北向き観音は、都内にもある。三ノ輪の明治通り交差点近く、昭和通りを西に入ってところ荒川図書館脇にあり、行ったことがある。

10時40分、上田駅に戻る。戻り列車には、学生さん、ご近所の高齢者など20名ほどの乗客、結構、利用する人たちがいるんだ。

まだ、早い。まっすぐ上野に戻るには、早すぎ。ということで、行ってみるか、長野へ、ということに。上田は、晴れていたのに、10分ほど乗った長野は、曇り空だった。せっかくなので、長野といえば、善光寺。駅から外へ出たら、バスが待っていた。善光寺さん行き。山門近くで下車。参拝者は、ちらほら。山門入って右側、いくつか宿坊があるが、ここに泊まったことを思い出した。お参りをして、山門に戻った頃、急に雨がおちてきた。バスがきた、すぐに乗った。駅からまっすぐの善光寺さん参道、両側の店、かなり閉まっている。インバウンドの影響がここでもおきている、そんな感じ。駅に着く。濡れずにすんだ。駅構内の立ち食いで、新そばのかけ310円を食べ、金沢ではなく、長野発の新幹線各駅列車に乗り、14時22分、上野駅着。

久々の新幹線、長野電鉄別所線、どっちもよかった。おまけの善光寺さんも。


2022年9月22日木曜日

紙製だった ランドセルの話

 戦争のリアル「紙のランドセル」、という見出し。(朝日新聞9月20日)

『こんな学歴 あんな職歴 そして今、隠居』の中で、私は、こんな思い出話を書いた。

    ー疎開先で終戦を迎えた私。小学校は、二学期から始まった。東京のだれかから送って貰った赤いランドセルで学校へ。ところが、当時、モノ不足の折、ランドセルなんかもっている子はおらず、クラスメートのあこがれの的になっており、それが我慢できなかった。学校帰りに会ったどこかの「犬」にランドセルを背負わせた。びっくりした犬は、ランドセルを背負ったまま、桑畑の中を走りまわった。新品とはいえ、素材もよくなかたのか、赤いランドセルは、原型をどどめないほど、ぼろぼろ状態になってしまった。翌日から、しばらくの間、教科書、ノート、筆箱を風呂敷に包んでの通学となった。

というのが私の体験だが、これと同じ体験の話が新聞に載っていたのだ。

「戦争が進むにつれて、革製品の使用が制限されて、紙や竹に置き換わったのだという。(略)母親が隣町まで自転車をこぎ、やっとのおもいで買ってきてくれた厚紙製のランドセル。赤い花の模様は、雨で色落ちして、溶けてしまった」(2008年投稿欄より)。

そうだったのか。あの赤いランドセル、紙製だったのだ。犬が背負ったまま、畑の中を走りまわっているうちに、ぼろぼろになってしまったわけが、よーくわかった。紙製のランドセルが、実際に出回っていたという思い出を共有している人がいた。

「紙」といえば、当時、米軍キャンプ内で、クリーニング店をしていた父が、時々持ち帰ってきたのが、英語の雑誌。英語の理解は、全く出来なかったが、あのすべすべのアート紙の感覚が、珍しかった、まぶしかったのを覚えている。あの時の手触りの感覚、今でも覚えている。当時の教科書の紙といえば、黒っぽくて、ガサガサの、今おもえば、ひどいもんだった。あれ以来、今日に至るまで、「紙」に対する思い入れが、特別のものとなっている。「紙」、大好き人間です。「本」の収集も、その一環かも知れない。海外でも、行った先の街で、必ず立ち寄るところ、本屋と文房具店。ノートはじめ、紙製品が気になる。買ってしまう。ほとんど、びょーき、って感じ。

               

2022年9月2日金曜日

ぬれ煎を 買いまくって乗る 銚子電鉄

今朝のニュースで、ゴルバチョフさんの死亡が伝えられた。91際だった。

モスクワのクレムリンで、ゴルバチョフさんに会ったのは、1985年。それ以前に会ったブレジネフ書記長と比べると、この人、やり手だな、違う人種だというのが、直観。ブレジネフ書記長とは、1982年に、同じクレムリンで2時間ほどの会談だった。冒頭の30分間、事前にタイプされた原稿を抑揚なく読み上げる、というブレジネフ。一方通行の会談で、おきまりの内容だった。

ブレジネフ亡き後に登場のゴルバチョフ、どんな人だろうと同行者たちと話し会っていた。会談の部屋で、待っていたら、ニコニコしながら入ってきたゴルバチョフさん、10人ほどの来客者たちと、ひとりひとり握手。会談の前に、こちら側出席者の紹介があり、軍縮代表団の団長だったソルサフィンランド首相が、「フィンランドのクロススキー大会を完走し、人々からシス(ガッツ)と呼ばれている日本のタグチさん」、と紹介。と、ゴルバチョフさんは、「わが国にも、冬のスキーが出来るところがたくさんありますよ。そう、日本からならばウラジオストック、ぜひいらっして下さい。歓迎します」、と。

そのゴルバチョフ、ペーパーなしで、自ら主張する「グラチノチス」(情報公開)や、「ペレストロイカ」( 政治改革)について言及。東西冷戦の終結、核兵器削減の提案なども主張されていた。書記長になって、初めての外国からの代表団だったのが、われわれだったということを、後で知った。

そんなことを思い出しながら、本日の乗り旅へ。8月最後の日、8時すぎのバスで、綾瀬駅へ。ここで新小岩駅行きの路線バスに。片道25分なので、JRで秋葉原経由よりも早い。バスも、道路も、空いていた。曇り空。新小岩駅から千葉へ。ほとんど待たずに快速に乗れた。市川、船橋、津田沼、稲毛に停車。グリーン車つき。9時50分、千葉駅着。

同じホームから銚子行きのドン行が、10時17分発。4両で、前後がボックスシート車両だ。うれしい。勿論、ボックスシート車に。乗客は、申し訳ないほどで、6人。ガラガラです。なのに、冷房がガンガン利いていて、寒い。佐倉駅で、ゴロ曳トランクの客が下車。ここから成田空港へ行ける。

八街を過ぎた頃から、急に空が明るくなった。車窓には、茶畑が続く。落花生だけでなく、お茶も出来るということがわかった。あれっ 柿が色づいている、黄色くなっている。はずです、明日は、9月1日。田んぼでは、稲刈りのまっ最中。ぜーんぶ機械化で、働いているのは、1人か2人。各駅停車なので、ひとつづつ停まる。駅は、ほとんど無人駅。それに特急の通過待ちで、10分、15分、と待たされる。先日乗った東金線の乗換駅の成東駅。ここからは、見えないけれど、右側、田んぼの向こう側は、九十九里浜。風力発電の塔が並んで見える。

銚子駅着は、12時17分のはずだったが、10分ほど遅れた。なのに、目指す銚子電鉄の電車が、ホーム先端で待っていてくれた。今着いた、こちらの同じ電車からの客、20名ほどが、走った。

銚子電鉄。この日のお目当ては、銚子電鉄です。実は、昨日の夕刊(朝日)に『ローカル線物語 銚子電鉄』の記事があり、行ってみるか、になったのです。以前、犬吠埼灯台の近くのホテルに泊まった時、朝の散歩のついでに、この銚子電鉄に乗って、銚子駅を往復したことがあった。お目あての「ぬれ煎」は、まだ店が開いてなく、買えなかったけれど。

さて、この日の銚子電鉄、すでに乗っている客もおり、2両編成で、50~60人ほど。早くなく、ガッタン、ゴットン、文字通りの乗り心地。この音が、なんとも言えない。線路の両側は、ほぼやぶ、木や草が、しっかり生い茂っており、たまーに、民家がポツン、ポツン。地元の客といえば、ほんの2~3名が、乗り降りする。あっという間に終点駅。全長6.4キロ、9駅、乗車時間は、15分間。

終点駅で全員下車。改札を出ると、記念品を売る店。客のお目当ての、あのぬれ煎が、どーんと置いてあり、行列が出来る。みんな大量に購入。大きな袋いっぱいの人も。食べても音がしない、しめっぽいせん餅なんて、煎餅とはいわない、というコンセプトなので、勿論、買わない。少し色落ちした絵葉書を買う。15分ほどで、銚子行きの戻りの列車が出る。ほぼ半数ほどの客が乗る。この電車、乗車券は、往復で700円。15分で銚子駅に戻る。

銚子駅に戻ると、ホームには、電車が待っており、成田行きに乗る。四両で、これにもボックスシート車がついていた。ラッキー。客は、2人。右手遠くに鹿島灘の工業地帯、煙突が見える。これも普通列車なので、各駅に停車。乗る人、降りる人、ほとんどなし。最後部に車掌はいるが、ほとんどアナウンスなし。停車する駅ホーム、駅名を書いた看板が古くなっていて、ペンキがはがれ、読み取れないほど。JRも貧乏なんだ、と。田んぼの中を線路は走る。秋ですね、収穫の秋。本日、3つめのトンネル。千葉県は、平らなんですね。

2時すぎ成田駅着。余裕なく、向かい側のホームの我孫子行き電車にとび乗る。我孫子は、成田線の続きなのだ。もうボックスシートはない。空港からきたらしい大きな荷物のインド系の男性2人と、日本人高齢男性1人。途中で下車。30分ほどで我孫子着。

上野行きの常磐線に乗り、松戸で千代田線に乗り換え、綾瀬駅着。改札口で、スイカを通すと、396円、だった。朝、新小岩駅でスイカを通し、その後、どこの駅でも、改札から出なかったので、新小岩~綾瀬間の乗車、となったわけ。銚子鉄道の700円を除き、約6時間乗車のJR料金が、396円、だったということです。なんとなく、得したな。

2022年8月30日火曜日

虫が鳴き 朝夕めっきり 秋めいて

金町駅から、水元公園行のバスが出ている。バスが着き、首から虫かごをぶら下げた男の子が降りてきた。お父さんらしき男性も。

「一匹しか、でごめんね」、お父さん。「ううん、いいよ、一匹でもとれたんで」、息子。夏休みの宿題だったのか、水元公園で虫とりをしてきたようだ。本日は、夏休み最後の週末。ぎりぎりだったんだね。でも、よかった、一匹か、一匹でも、とれてよかった(他人のひとりごと。この日は、一日中曇り、ときどき、小雨っていう天候だった。

金町から新松戸駅まで行き、武蔵野線に乗車。北越谷駅で下車。駅構内の本屋さんに立ち寄った。この本屋さんは、有名な旭書店。大きな本屋さんで知られていいる。実は、最近発見したのだ。改札を出るんだけれど、ともかく駅構内にある。一時間ほど、あれこれ立ち読みをして、AERA 22.8.8No.34 「やっぱり鉄道が好き」、エコもミスト8・30「鉄道150年 復活の条件」、週刊現代プレミアム「にっぽんの追憶の旅 あの鉄道で どこまでも」、「新幹線に乗るのがおもしろくなる本」レイルウエイ研究会、「鉄道会社は どう生き残るか」、佐藤信之著、占めて5冊。ここのところ、ほとんど支出がないので、思い切って買ってしまった。鉄道が、これからどうするのか、今、マスコミでも連日のように取り上げられており、なんとなく、気になっていたので。

東武スカイツリーラインで、西新井駅へ。ここから一日5本しかないコミュニティバスで、綾瀬駅までのちょい乗り。4時、神明町に帰着。

曇ってはいたが、雨はやんでいた。虫が鳴いている、うるさいほどの虫の声。そういえば、この時間帯は、昨日まで蝉の声だった。虫も鳴いていたけれど、今日は、蝉の声がまったくしない。どうしたのかな。夏の終わりをつげて蝉たちは、退場。待ってましたの虫の大合唱。なんだか、秋を実感したのだった。

 

2022年8月26日金曜日

沢田久雄さんのこと

有楽町の日比谷公園よりの出口を出てすぐのビル「電気ビル」、玄関を入ってすぐのエレベーホールで、それほど大柄でない男性が、待っていた。「沢田です、どうも、どうも」とまず握手。日本人なのにやるね、というのが第一印象だった。この日が初めてだったが、その後、2,3年くらい、沢田さんとは、ちょくちょくお会いした。場所は、いつもここ、電気ビルに外国人記者クラブ。

沢田久雄さんが、大磯のエリザベスサンダースホームの沢田美喜さんの息子(次男)であることを知った。終戦直後、アメリカ兵とのあいだに生まれた子どもたち、ひきとり手のない子等を引き取って育てたホームとして、NHKなんかで、なんども放送されていた。彼がどんな仕事をしていたのか、定かでなかったが、なぜかいつも私たちは、外国人記者クラブを常用していた。

お母さんの沢田美喜さんは、岩崎財団の孫で、ご主人は、沢田康三氏(外交官)。神奈川の大磯にあった岩崎財団の土地に作ったのが、サンダースホーム。世話をした子どもたちがなんと2000人といわれている大プロジェクト。久雄さんによると、金策で大変だったよ、とのこと。久雄さんと、毎回どんな話をしていたのか、あまり覚えていないけれど、「大磯のホームをなんとか残しておきたい」、と話していたのを思い出した。

その間、歌手の安田祥子さんに、歌の個人レッスンを受けていたが、彼女が、沢田久雄さんの奥方であることは、しばらくの間、まったく知らなかった。月1~2回の練習は、四谷三丁目の由紀さおりさんの自宅兼事務所だった。ある時、安田先生の娘さんの留学のことで、相談があり、本名が沢田姓であり、久雄さんがご主人であることがわかった。ほんとうにびっくりだった。

しばらくして、久雄さんが、信濃町の慶応病院に入院。安田先生が、母上とご一緒にアメリカに出かけることになった。たしか娘さんの卒業式だった。留守の間、一日一回、病院に顔を出して欲しいとの依頼。お引き受けした。一週間くらいだったか、毎日、病院に久雄さんを見舞った。彼の希望で、毎日、新聞を届けたが、その新聞、フランス語の新聞で、日本橋の丸善でしか手に入らず、丸善経由でのお見舞いだった。彼のお父さんが、フランス留学だったのを、後で知った。

久雄さんとのご縁は、最後まで続いた。退院され、しばらく経った頃、安田先生からの電話で、ご主人が亡くなられたので、葬儀を手伝ってほしい、との依頼だった。東京タワー近くの教会での葬儀で、外国人参列者向けの受付のお手伝いをさせていただいた。そういえばお母さんの沢田美喜さんも、経験なクリスチャンだった。

そんなことを思い出しながらの半日のちょい旅、東武線(スカイライナー)で春日部へ、ここで、アーバンパークラインに乗り換え、おおたかの森で下車、TXつくばエキスプレでつくば駅へ。駅構内の産地直売店をのぞく。2軒のうち1軒がお休みだった。ここで、泥つきねぎを購入。夏休み中だからか、人影の少ない学園都市。近くのバス停から、土浦駅行きのバスに乗車。乗客5人。道路もそう混んでおらず、20分で到着。土浦駅からは品川行きの常磐線で松戸駅、ここで千代田線に乗り換えて綾瀬着。4時だった。電車は、どれもこれも乗客は、わずか。これじゃあ、やっていけない。本日も、心配しながらのちょい旅でした。


2022年8月23日火曜日

白河の関越えた 高校野球優勝校

 全国高校野球の決勝戦、始めから最後まで、テレビ観戦。ほぼ毎年、見てきたが、去年は、コロナで、余裕がなく、ついつい見逃してしまった。もとソフトボール選手で、ピッチャー、4番打者で、主将だった中学時代、なので、ルールは、熟知。昔、洗濯屋(クリーニング店)だった我が家は、あのジャイアンツ巨人のユニフォームの洗濯をしていたことがあり、父親は、ラジオでよくプロ野球の実況を聞いていた。

この高校野球、昨年は、観客なしで行われ、あの頃、毎日の雨で、8月末の決勝戦だったというのを思い出した。仙台育英高校と、下関国際高校の決勝対戦だった。どちらかを応援するほど思い入れはなかったが、どちらも、歩き旅で行ったことがあり、なつかしい思い出をいくつか。

下関は、山陽道歩きの西の起点。旅の第一日めに、下関側から小倉側へ、地下道で往復するという体験。なあんだ、こんなに近い、というのが、印象だった。下関から、山口、広島、岡山、姫路、兵庫を歩き、京都三条大橋までの旅で、安芸の宮島、錦帯橋などへも立ち寄った旅だった。そういえば、山口あたりで、大雨、集中豪雨に遭遇、新幹線のガードの下で、雨宿りをしたっけ。兵庫から大阪に入るあたり、新幹線から見えるサントリー工場では、見学後のウイスキーの試飲、うまかったな。でも、甲子園、優勝旗を逃して、残念。でも、よくやった、下関国際高校!

仙台育英高校の本拠地宮城県は、奥の細道の旅、奥州街道の旅などで、なんども歩いている。東北の高校が、念願だった「白河の関越え」、その白河の関には、三度行った。松尾芭蕉も通った白河の関は、福島県白河市だが、平安時代から、歌枕に出てきていて、いわゆる歌人たちのあこがれの地。ここを過ぎると都から離れて、東北地に入る、という境界の地であり、神社には、『白川の関』の文字、大きな碑が立っていた。近くの街道沿いの食堂で、大盛ラーメンを注文したら、洗面器サイズの丼に入ったラーメンが出てきて、びっくり。忘れもしない体験だった。

能因法師の詩「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集)という歌碑もあった。いよいよここから東北。甲子園で、これまで12回、負けてきた高校野球の決勝戦、いつかは、勝つ、必ず勝つを合言葉に、励んでいた、という。「白河越え」は、ようやく達成された、というわけ。 「おめでとう」。

2022年8月19日金曜日

あの時 機内で見た森英恵さん

今朝の新聞に「森英恵さん死去 世界的服飾デザイナー」、の見出し。皇后雅子さまの結婚衣装、オリンピックの日本選手のユニフォームなどのデザインを手がけた有名な女性。たしか文化勲章を貰っておられる。その森英恵さんと、同じフライトに乗ったことを思い出した。ヨーロッパ行きの機内。エコノミイが満席で、グレードアップでファーストクラスの席に。すぐ前の女性が、森英恵さんだった。実は、その時は、森さんを存じ上げていなかった。ファッションなんか、ほとんど関係ない、という日常だったので。席を立った姿、彼女の下半身が「もんぺ」だった。ところが、機内のスチュワーデスさんたちが、みな「先生」と呼んでいたので、トイレに立った時に、聞いてみた。「森さんですよ」、えっ森、なにさんですか、と尋ねると、「森英恵さん」、とのこと。 聞いたことがある名前だったが、それ以上でも、それ以下でもなく、たいした関心がなかった。その話を、山本寛斎さんにしたら、「そうなんだよ、彼女、パリ行きの際は、いつも、もんぺ、なんだ」と言っていた。

長い職歴だったが、そういえば、どんな格好していたのか、服歴、思い出してみた。

ごく普通の背広スーツ、季節毎に3~4着、男性一般とほぼ同じ。背広(上着)には、多少凝っていた。芸能人が、深紅を裏地に使っていたのを見て、香港で作ってもらった。Yシャッツは、シルクで有名なバンコックのジムトンプソンで、まとめて5~6着注文。結構、いいお客さんだった。シルクは、洗濯がたいへんだけれども、父親が洗濯屋さん、いつもアイロンがしっかりかかったYシャッツを着ていました。

アフリカスーダンに赴任した当時は、なせか、インドネシアで手に入れたバティック布地で作ったシャッツで過ごした。いくつものポケットのあるベスト、パスポートなども入るポケットが重宝した。

その後、国際会議などに頻繁に出席する環境になった頃、たまたま訪問したキエフで、民族衣装姿の人たちをみかけ、持ち帰えった写真を見本に作ってもらったのが、「ルパシカ」。これは、3年ほど着用。今、ロシアと戦っているウクライナ、ルパシカ姿の人は見かけない。

そうそう、モンゴル衣装は、着るチャンスがないまま、何着も持っている。

本日は、これから、ちょい乗り路線バス乗りに出かける。いで立ちは、Tシャッツ、Gパン、夏用のベスト。この3年、コロナ到来で、いつもこんな姿です。デイバッグに飲み水、あんぱん2個が入っている。3~4時間で戻ります。


2022年8月17日水曜日

急がず 転ばず 躓かず

「躓かず」、つまずく、という漢字、あるんですね。パソコンって、凄い。

実は、ここ数年、毎日、毎日、呪文のように繰り返し唱えてきました。現役時代は、とにかく他人に抜かれない、抜かれたら、抜き返す、だったこともありました。特にチャリの時は、相当のスピードで走っていた。高校生などが、前を走っていると、とにかく抜きたい、抜かねばならない、だった。減速してきたのは、10年ほど前、スペインのサンチャゴ巡礼の頃から。75,76歳頃で、そろそろ年季の納め時を実感していた。知り合いの同年配が、自宅で転んで入院したとか、厚労省の統計で、高齢者が怪我をするいちばんの原因が自宅での転倒だということを知り、80歳になったら、「急がず 転ばず 躓かず」、を実践しようと、決めていたのだ。

最近の乗り鉄、路線バス乗り、不要不急のこのご時世なので、そう遠出せず、近場めぐりを繰り返しています。都心は、感染地なので、だめです、近県です。それも、東方面。千葉、栃木、埼玉あたりです。水戸、宇都宮、千葉など、その前後の小さな駅を楽しみながら、通過する小さな旅。最近、ローカル線の見直しが始まり、赤字路線は廃線に、という検討がなされているようですが、乗ってみて、実情は、そう簡単ではない。ほとんどが都電並みの一両編成で、もちろんワンマン車、客は、始発でも数名、乗り降りほとんどなく、 駅は、無人駅。それでも、運賃の値段は、以前通りという現状。なのに、駅そのものには、エスカレーターとか、エレベータが完備されており、高齢者乗客を意識しています。赤字あたりまえの状況だ、と思われます。

そんなことを思いながらの乗り鉄の旅は、なんとなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。昨日は、4時間かけてのちょい旅で、つくばしエキスプレのつくば駅へ。駅の売店で、朝採りのトウモロコシを購入。茹でて食べたら、あまくておいしい。重たかったけれど、持ち帰った冬瓜、みそ汁に入れてみた。こちらも最高、夏の味でした。なんで、「冬瓜」っていうのか、夏の瓜なのに。

熱中症、コロナ感染、まだしていないけれど、こんなことを繰り返しながら、「秋」を迎えるのかな、と。



2022年7月27日水曜日

運転手 車掌コロナで 運休です

JR九州が、運転手・車掌38名が新型コロナに感染、列車の運行が出来なくなり、7月27日から8月5日まで、特急列車を運休する、との記事。首都圏でも、路線バスが運転手のコロナ感染のため、運行を減らす、ということも。

今、国が赤字路線の実態を調査し、提言(?)を出している。乗車人数が極端に少ない路線名が挙がっている。大糸線の南小谷から糸魚川間、紀勢線の新宮から白浜間、小浜線の敦賀~東舞鶴間、関西線の亀山~加茂間など。どれも、これまでに、なんどか乗車したことがある。たしかに、その通り、乗客は、どれもヒトケタだった。

地域の人口が減り、マイカー利用者が増え、その上、コロナ禍で、利用者が減ったというわけ。朝晩の通勤、通学客でなんとか営業出来ているが、それ以外の時間帯・昼間などは、ほとんど数名の高齢者専用になっている。これじゃあ、やっていけないな、といつも思っていた。どの列車も、都電並みの一両編成ではあるけれど、車掌なしのワンマン車ではあるけれど、しっかり冷暖房つきで、きちんと時間通り走っているのは、あっぱれ、というしかない。電車賃も、それほど高くないし、環境的にも、二酸化炭素の排出排出が少ないのもいい。

廃線になると、多くの場合は、バスに転嫁している。乗り降り停留所が短く、便利になるが、そのバスも、気がつくと減便されているのが実情だ。地方創生なんて、政府は言っているが、これじゃあ地方消滅、といいたい。

そんなことを考えながら、都内唯一の路面電車に乗ってきた。始発の三ノ輪橋から、終点の早稲田までの約1時間の都電乗り。ここのところ暑いので、完全冷房の都電で過ごす高齢者が少なくない。シルバーパスが有効なのです。それに、夏休みに入り、荒川遊園地行きの子どもたちもおり、結構、混んでいた。JRと連絡している王子駅と、大塚駅では、乗り降り客が多い。それにとげぬき地蔵の庚申塚では、高齢者が多い。池袋駅に近い雑司ヶ谷あたりから終点の早稲田までは、往復ともに、客は、少ない。そんな車内事情を調査しながら、往復した。三ノ輪橋で下車、商店街で冬瓜を購入、今夜は、冬瓜汁を作ろう。夏野菜なのに、なんで「冬」瓜っていうんだろう。

もひとついいことがあった。ラッキーな夜。6時45分から2時間、「乗れない鉄道」シリーズが放映されていた。名古屋臨海鉄道、岡山水島臨海鉄道、富山県立山砂防工事専用軌道、岡山県倉敷臨海鉄道、千葉県京葉臨海鉄道、愛知県衣浦臨海鉄道など。時刻表には掲載されていない鉄道ばかり。冬瓜汁、どんな味だったか、覚えていない。



2022年7月23日土曜日

みんみんと 鳴く蝉の声 あゝ夏だ

みーん みーんと鳴きはじめた。一か所で、ではなく、あちこち居場所を移しているようだ。地面から出てきて、まだ定位置が定まっていないのかもしれない。毎日、毎日、ここのところ蝉の動向に気をとられていた。

「梅雨あけは、ウソだったのね 今日の雨」  梅雨があけたとの気象庁からのアナウンス  だったのに、翌日から毎日、雨、雨、雨。

「蝉鳴いた でもまた雨で 声止んだ」    5日ばかり前のことだった。

「蝉鳴くも まだ降る気配 空眺め」     同じ日、鳴いたけれど 雨が落ちてきた。

「みんみんと 鳴く蝉の声 あゝ夏だ」    というわけで、昨日、今日は、どこかからか聞こえてくる。本格的な夏になった。

気象庁によると、これって『戻り梅雨』というんだそうです。そういえば、東北地方は、まだ梅雨があけていないって、NHKの気象予報士のお姉さんがいってました。

この間、まだまだコロナ続きで、新種のオミクロンっていうのが主流で、日本全国、どこでも流行っていて、この先、油断出来ない状況とか。症状は比較的軽いそうだが、高齢者、特に80歳以上は、要注意、死亡するかも、と。アメリカのバイデン大統領も感染したとか。というわけで、ここのところ、外出は、控えています。ちょっこっと、近場へ。

野菜の買い出し つくば山   TX(つくエキスプレス)になんとなく乗車。冷房がしっかり効いている。40分ほどでつくば駅到着。駅構内につくば物産店が2店ある。春には、ふきのとうがおいてあった。今回は、夏野菜が並んでいた。買ったのは、とうもろこし、みょうが、枝豆、にんにく。せっかくだから、つくば山に行こうかな、どうしようか、と外に出たら、バスが止まっていた。常磐線の取手行き。そうか、これに乗ろうと、乗車。客は、3名。もう夏休みか、それとも暑い昼間だからか、学園都市の道路は、空いていた。なんどか乗ったことのある路線。田園地帯を通り、小貝川を渡ると取手市だ。途中での乗り降り客はおらず、ずっと同じまんまで45分間で到着。一時間に2本のつくばー取手間のバス、関東鉄道も楽じゃあないようです。ここから、綾瀬駅まで50分。野菜を買って、つくばから。

4時すぎに帰宅。6時頃まで、蝉の声。まだ、定位置ではなく、あっちこっちを巡回しているようです。あと何日鳴き続けるのか。長い、長い地下生活からせっかく、出てきたのだから、もっと長生きしてもいいのでは、なんて、ひとりごと。



 

2022年7月15日金曜日

おめでとう やっぱりケーキで 誕生日

 今日も、また雨か、と空をながめていたら、玄関で「こんにちは」の声。出てみると、M先生が立っていた。えっ、今日は、なんで、と言ってしまった。

「今日は、これで、きましたよ」、とバッグの中から取り出したのは、ケーキ。それでは、と「Happy Birthday to You」を歌いはじめた。

誕生日は、5月22日。とっくに過ぎている。本日は、7月13日。でも、まあ、いいや。

ケーキをたべながら、その後は、いろいろ話題が行ったり、来たりの、いつもの会話。

ウクライナ情勢:トルコ留学体験ありで、一見識。エルドワン大統領が、いろいろあったけれどスウエーデンとフィンランドのNATO加盟を認めるに至ったことがわかった。背景には、トルコの歴史的、地政学的があげられる。国際会議で、なんどか訪問、滞在したことのあるイスタンブール、ボスボラスの大きな橋を渡った時、ここがアジアとヨーロッパの「境」か、と実感したのだった。街中には、世界遺産のイスラム教の寺院がいくつもあった。そういえば、モンゴルの友人に初めて会ったのもイスタンブールだった。      ウクライナ戦争で、活躍しているドローンは、トルコ製が多い、とのこと。兵器には、あまり関心がなく、知識もなかったが、ドローンが兵器として活躍してるなんて、気づかなった。エルドワンさんは、ロシアのプーチン大統領とも仲がいいみたいだし、ウクライナに肩入れしていていいのかな、とつぶやいてみた。「それが、エルドワンなのだ」、と。

元総理大臣の死:びっくりした、は同じ反応だった。捕まった犯人が、「宗教団体が憎かった。その団体に関係していた首相を殺さねば」というのが、理由とのこと。その宗教団体について思い出すことがある。昔、昔、UNDP(国連開発機構)のスタッフとして、アフリカのスーダンで働いていた頃、首都カルツームの日本大使館で、日本の情報という欄に、その団体のパンフレットがいろいろ置いてあったのを思い出した。日曜日には、現地邦人とその団体の若者たちとの野球の試合がある、見にいかないか、と誘われたことがあった。また、これは、日本国内でのことだが、衆議院選挙の時、その団体の信者たちが、応援に動員されているのを見たことがある。集団お見合いなどは、テレビを通して知った。まだ、宗教団体として生き残っていたことを、確認したのだった。

城崎の植村直己冒険館:今年の受賞者の式典に行ってきたとのこと。冒険館が、これまでと様変わりして、賑やかだったという。町長が変わって、運営方針が変わったらしい。植村さんが亡くなってから、どれくらい経ったのだろう、そろそろ風化か、と思っていた。これも昔の話だが、冒険館には二度ほど伺った。あそこが選挙区だった方の記念館を、とのことで訪れたのだ。温泉に入ったり、地元の方たちと鮎を食べたのが思い出だ。そうそう、町長が変わって、冒険館には、スターバックスが入ったりして、地元の人たちの憩いの場になっているそうだ。

こんな具合に、時間が過ぎていった。

       友 遠方より来る  

       ケーキを持って来る  

       いろいろだべって 過ごす

       また 楽しからずや                  

  

2022年7月10日日曜日

夏到来 出番まだまだ 蝉の声

突然、「本日、梅雨があけました」と気象庁が宣言。翌日から、夏本番の猛暑。まったく雨が降らず夏日が何日も続きました。早朝の散歩時でも、蝉の声がまったく聞こえない。地下の蝉たちにとっては、夏はまだなのだろうか。7月10日、本日も、まだ聞こえてこない。

7月8日は、たいへんな日だった。総理大臣を長ーく務めていた方が、亡くなった。参議院選挙の応援演説の最中だった。手製のGUNに打たれての死。犯人は、すぐに捕まったが、日本中がびっくりさせらてた。昨日も、一日中新聞も、テレビもそればっかり。同じ内容の記事、映像が繰り返された。It's enough,という感じで、なんとかこのニュースから逃げられないか、と出かけました。久々のお出かけでした。

東武線に乗った。快速南栗橋行きに乗る。朝10時頃。浅草から出ている電車は、各駅停車と、快速、東武動物公園行か、南栗橋行きどまり。日光行きは、座席指定の特急のみ。南栗橋で、35分待ち。日光行きで栃木駅へ。ここで、前橋からの両毛線に乗り換える。栃木駅は、蔵で有名な宿場町。なんどか来たことがある。駅は、立派な近代づくり。JRよりも、東武線がはばを利かしている。JRのホームは、いちばん端っこにあり、両毛線は、前橋方面、水戸の友部方面ともに、1時間に1本しか走っていないのだ。待ち時間45分。駅構内のコンビニで買ったサンドイッチを食べる。

12時14分発に乗る。栃木市の高校の下校時間とぶつかり、ホームは、いっぱいの学生たち。そっか、今日は、土曜日。4両がほぼいっぱい。すぐに小山駅に着く。両毛線は、ここまで、でこの先は水戸線。13時6分なので、40分ほどの待ち時間。でも、乗車する電車がホームに入線していて、ありがたいことに、冷房も効いている。もひとつ、全5両編成のうち、真ん中の2両がわたし好みの「ボックスシート」なんです。「やったあ」、と思わず叫んでしまった。

小山駅の駅前は、洒落たビル・白鷗大学だ。まるで駅ビルって感じの接近ビル。小山市内を走っているバス、大きな文字で『おーバス』と書かれており、次々に駅にやってくる。ボックスシートからのいい眺め。そういえば、小山駅は、東北新幹線の停車駅でもある。

乗客は、結構多い。水戸方面から乗車したことはあるけれど、こっち、小山方面からの乗車は、初めてだ。しばらくして、鬼怒川を渡る。沿線は、工場が多く、あとは田園風景だ。田植えから1~2か月がすぎ、稲も立派に成長している。前方左方向に筑波山。いい眺めだ。

13時30分、下館駅着。水戸線は、ここまで。下館からは、真岡鉄道が出ており、終点の茂木駅まで乗車済み。ここでも、ホームに入線の列車が、待合室代わり。1両編成で、13時49分発車。車内に、「関東鉄道は2022年、100年を迎える」との記述があった。発車時刻には、20名ほどの乗客。まあまあ、だ。関東鉄道は、下館から取手間を走るが、途中の水海道駅で、乗り換えることになっている。13時49分発車。

ほとんどが無人駅、乗客の乗り降りは、ワンマンの運転手さんが、切符や定期券、スイカなどを拝見している。相変わらず筑波山は、車窓左側だ。途中の大宝駅では、下車して、神社参拝をしたことがある。下妻駅では、わが家の前を通っている下妻街道を調べた時、ここの図書館、市役所などへ資料を貰いに行ったのを思い出した。

水海道駅で乗り換える。停車中の取手行きは、ほぼ満席。途中の守谷駅で、つくばエキスプレスに乗る人たちだ。守谷駅でほぼ全員が下車。でも、関東鉄道の終点は、取手駅なので、ともかく最後まで乗る。15時30分、取手駅着。関東鉄道51.1キロ、約80分の乗車時間だった。ここからは、乗り慣れた常磐線。快速で、北千住駅まで乗り、千代田線で綾瀬駅着。それほどの猛暑ではなかったが、待ち時間が多く、なんとなく、くたびれた。久々の乗り鉄だった。

テレビをつけたら、まだまだ画像は、暗殺の続きだった。

2022年6月22日水曜日

京成線 こんなところを 走ってた

 新聞を広げたら、まる一面刷りで、寅さんのビデオ広告があった。そっか、50本もあったんだ、ということは、50本全部を見た、ことになる。東銀座の東劇で、「寅さんシリーズ一挙上映」、というのを見るために、4か月通った。広ーい劇場、同じ席に、同じ人(寅さんフアン)が、今日も、座っていたっけ。ということで、柴又あたり、行ってみるか。

特段、これという目的もなく、ただなんとなく、柴又へ。

柴又は、金町駅から2つめ。金町は、綾瀬駅から2つめで、路線は、常磐線なのだが、乗り入れで、地下鉄千代田線駅。金町駅改札をいったん出て、100mほど歩くと、京成金町駅だ。スイカOK。高砂行きの電車が、1時間に3本出ている。11時頃だったが、柴又へ行くという高齢者グループと、母娘連れひと組、それに単独行10名くらいか。乗客が少なくても、4両編成だ。

実は、この路線、京成金町線に乗るのは、はじめて。でも、柴又は、なんども行ったことがある。金町から柴又までの線路わきの道路、いつも歩いての柴又。距離にして、1.5キロ、電車なんかに乗る距離ではなく、帝釈天まで歩くのがいつものコースだった。道路の向こう側は、金町浄水場で、金町から柴又まで、ほぼ浄水場の壁だった。

乗客のほぼ全員が、柴又で下車。乗ってくる人はその半分くらい。次の駅が終点高砂駅。金町駅からなんと2.5キロで、乗っていた時間は、5~6分だった。京成金町線は、金町駅から高砂駅までで、たった2.5キロを数分で走るだけの路線。ところが、この金町線は、京成電鉄で最初に走った路線だそうで、1912年(大正元年)11月に開業。その前は、帝釈天人車軌道といわれ、人が客車を押して走った鉄道だったとの歴史がある。歴史あり、由緒ありの金町線です。

金町線も終わってしまい、どうするか、改札口で一瞬、考えていたら、成田空港行きの快速電車がやってきた。ま、いいか、とこれに乗車。上野駅からの快速、客は、まばら。現役時代は、愛用(?)していました。スカイライナーという特急がその後走りはじめ、空港への行き来に利用していた。東中山駅、京成船橋駅、そして、京成津田沼駅に着いた。と乗っていた客たちが、下車。で、なんとなく降りた。なるほど、ここから千葉方面へ行けるんだ、と。ホーム反対側、えっなんで。停車していた電車が、なんと、「松戸」行き、とある。ここから松戸まで、行く電車があるはずがない。停車中の松戸行きの運転手のところまで行き「これ、本当に松戸駅まで行きますか」、と聞いてしまった。運転手さん、几帳面に「松戸まで行きます」、との御返事。5両編成、これに乗った。

間もなく発車。京成津田沼ー松戸間、24駅、26.5キロを43分で走る新京成電鉄ということが判明。しかし、昼の電車の乗客は、それほどおらず、もったいないな、と。駅と駅の間隔が、2~3分というところも多い。しかし、駅周辺の駐輪所や駐車場は、いっぱいだったので、通勤客が多いに違いない。以前は、田畑だったところに、家が建ち、アパート、マンソンが出来、首都圏って、こうやって人口が増えているんだ、と思った。

乗り慣れた松戸駅に到着。改札を出て、駅周辺を眺めていたら、「八潮駅」行きのバスが入ってきた。あっ、これに乗ろう、シルバーパスは使えないけれど、と乗る。客3人。他の2人は、途中下車。あとは、運転手さんと2人、35分後に、つくばエクスプレス八潮駅着。隣りに待っていたように「綾瀬」行きのバス。ラッキー。これに乗る。客ひとり、15分後に神明町着。よかった、新京成電鉄、はじめてだった。


2022年6月9日木曜日

あの頃の 友 想う本 今朝届く

 今朝、小包が届いた。シンガポールからだ。開けてみると、本が2冊。

”BELIVER”Conversations with Mike Moore、もう一冊は、”Beyond Storms &Stars "という題名で、Noeleen Heyzerー著者名。

送り主は、シンガポールの病院院長Dr.LOO CHOON Yong.

マイクは、ニュージーランド人で、国会議員から、労働党政権の首相、WTO(世界貿易機関本部ジュネーブ)事務局長、駐アメリカニュージーランド大使を務めた。

もうひとり、ノーエリンは、シンガポール人で、シンガポール大学、英ケンブリッジ大学で学び、国連本部(ニューヨーク)勤務で、いくつかの任務を経て事務局次長に、その後、バンコクのESCAP(国連アジア・太平洋経済社会委員会)事務局長を務めた。女性。

マイクは、彼が初めて立候補した時、オークランドまで選挙応援に行ったことがあった。私の日本語でのスピーチを、候補者マイクが、見事なニュージーランド英語に翻訳しての演説会だった。ちなみに、マイクはまったく日本語は、だめ。本の中には、そんな内容はなかったが、この本は、彼の友人Peter Parussiniさんという人が著者。マイクは、3年前に亡くなった。

ノーエリンは、本人による自伝。彼女のシンガポール大学時代、いっしょに学生運動をしていたアジア、シンガポールの活動家たちとなんども会っていた。Choon Yongもそのひとり。彼女が、マレイシアの、やはり政治活動かだった男性と恋におち、後に結婚するというプロセスなんかも、思い出す。Choon Yongは、訪米のたびにニューヨークで彼女に会い、その報告を帰国時の東京で話してくれていたので、かなり詳しい。ノーエリンと再会したのは、Choon Yongの結婚式だった。あれ以来、会っていないが、この本の表紙カバーの彼女は、素敵な女性、知的な大人の女性だ。

これから、時間をかけて、久しぶりの「本」を読もう。ヨコ時本は、最近、あまり目にしていないが、楽しみだ。海外の友人たちも、自伝を書く、そういう年頃になったんだ。




2022年6月6日月曜日

この本を 買う 買わないと 迷うまた

 本屋といえば、今は、丸の内の「丸善」、月1~2回、通っている。その間は、綾瀬と北千住駅ビルの本屋。買わない、買わない、といいながら、それでも、手にとって、ページを繰っているうちに、やっぱり買おうか、買おう、という具合で、買ってしまう。それらの本が、結局、いつの間にかたまりつつある。先がないのに、まだ集める気かよ。

こうして集めた本が、部屋を丸ごとひとつ占拠してしまい、にっちもさっちもいかない状態となり、思い切って処分したのが、10年ほど前のこと。一冊づつ手にとり、本を束ねながら、これが終わったら、もう思い残すことはない、なんて考えながら。

どんな「本」があったのか。

山の本:全国各地の登山関連本、串田孫一、尾崎喜八の著作も、ほぼ全巻持っていた。地図もかなりあった。ヒマラヤ、南米の山々など海外の山の本もあった。          街道本:日本国内のほぼ全ての街道本、100冊以上はあった。歩き旅で行った先々で手に入れた本、パンフレット類、各地の郷土歴史学会本もあった。旅先で手に入れた本を、郵送するために、封筒、切手をいつも持っていた。本は、持ち歩くと重いんです。     

ユダヤ関連本:早い時期、高校生だった頃、神田神保町へよく通った。それも、足立区から自転車での神保町通い。その頃から、ユダヤ問題に関心を持っていて、古本屋で安価で手に入った。同じ本を2冊、3冊買った。50円、60円で買った本が、その後のユダヤブームで、2000円、3000円で売れたのには、びっくり。売るつもりで、買い占めたわけではなかったのだが。でも、結果的に、後にイスラエル留学、卒業論文のテーマにするなど、おおいに役立った。                                    イスラエル関連本:留学時、イスラエルでは、ユダヤ問題、新しい国イスラエル事情、労働運動、政治など、帰国時に段ボール3個分を船便で持ち帰った。ヘブライ語は出来なかったが、ほとんど英語版になっており、さすがは、ユダヤ人の国、イスラエル。       各国事情資料:訪問先の国事情、特に政治、政党事情関連の本、資料は、よく集めた。なんども訪問した北欧各国の本、資料は、充実していて、研究する大学の先生方に重宝された。スウエーデン語、トライするつもりで、リンガフォンを買って試みたが、挫折。なぜかよくわからないけれど、留学したアメリカの本は、少ない。ユダヤ系アメリカ人関連本は、何冊かあったが、アメリカそのものを知る本はない。イギリス労働党、西ドイツ社民党、オーストリア社会民主党の歴史など、ヨーロッパの政党については、かなり多くの本、資料を集めており、国会図書館などへも、提供していた。                     雑誌類:バックナンバーを集めていたのは、朝日ジャーナル、月間国際問題、の2誌で、朝日ジャーナルは、赴任先のスーダンの首都カルツームまで航空便での定期購入をしていた。帰国時は、船便で、東京の自宅まで送り返すという「凝り」ようであった。

読書歴は、たどってみれば、小学校入学以前からで、京橋木挽町の洗濯屋で生まれた当時からで、意味もわからず、毎日、読んでいた新聞。病弱で、外に出かけられず、自宅二階でのひとり遊びが、意味もわからず、新聞の文字を読むということだった、だけのこと。        

     

2022年6月5日日曜日

どくだみの 白い花咲き 夏はすぐ

うちのベランダ と前のマンションとの間に20mほどの空間があり、どくだみがギシッと生えている。そのどくだみが、いっせいに白い花を咲かし始めた。あゝ今年もまた夏が来るんだ、その前に梅雨もくる、なんて84歳は独り言。

昨日は、久しぶりに北千住駅へ。駅ビルの本屋、知る限りでは、北千住界隈には、ここしかない。駅ビルは、2つあるけれど、もう一方の本屋・紀伊国屋は、もう5、6年前に閉店したままだ。佐伯啓思氏の最近の著書を目的に行ったのだが、みつからず、他に用事もないので、改札口へ。と、水戸行き列車が、あと5分で来るとの掲示。考えることなく、乗ることにした。14時2分。10両編成の常磐線だ。

なんども乗っている路線だが、なんど乗ってもいい。車窓からの景色が、毎回違うのがいい。この時間帯は、乗客も少なく、お気に入りボックスシート、ひとり占めというのもいい。空は、晴れており、取手駅あたりから、田んぼも見える。田植えは、ほぼ終わっており、田んぼには、白鷺がちらほらおり、あゝいい景色、と。左前方に筑波山が見えはじめる頃、両サイドは蓮の畑、土浦。畑というより、池っていう感じの泥沼の中で、腰ほどつかりながらの作業をしている人たち。水戸までは、まだ1時間もかかる。

終点の水戸駅に着き、ホームの売店で、納豆を買う。特にやることもなく、ホームに戻ると、さっき乗ってきた列車が、あと5分で出るとのアナウンス。学生が多い、制服の違いから見ると、3校か、4高校あるらしい。水戸といえば、茨木の県庁所在地、それくらいは、あるんだろう。上野行きの列車は、いつの間にか2両たして12両編成に、車内アナウンスも女性車掌になっていた。学生さんで、ほぼ満席だが、車内は、とても静か。みなさん、スマホに集中しておられる。途中から、通勤客の乗降があったが、北千住駅までの2時間は、それほどの混み具合ではなかった。

この日の夕食は、あたたかいご飯を炊いて、水戸納豆をいただきました。

夕刊に、鉄道運賃値上げの記事。JRでも、地方路線がたいへんらしい。深刻のようだ。利用者数が、極端に減っている路線は、廃線するしかない、という選択。コロナ影響、もちろんあったが、鉄道の赤字は、ずいぶん前から続いている。かつては、地域の足として、利用されていた鉄道だったが、人口減少、自宅勤務(テレワーク)、マイカー利用者の増加、高速道路の整備などで、乗客が減った。採算がとれない地方の路線は、廃線もやむなし、という実態。あの新幹線さえ赤字といい、地方の野菜、果物、魚などの運搬に利用しているという。

飛行機も、環境要因にマイナスといわれており、ヨーロッパとか、オーストラリアなどでは、もっと鉄道を、との動きが始まっている。早いことは、いいことだ、みたいな考え方を、この際、見直しすべき。「乗り鉄」は、困るんです。

もひとつ、インバウンド(外国旅行者)がOKに、という政府方針に、みなさん、大歓迎との声が多いようだが、オーバーツーリズムによる弊害、考えた方がいい。ネパールのカトマンドゥや、ブータンなどでは、オーバーツーリズムにならないよう、インバウンドの規制を実施している。コロナ前の海外からの観光客、異常な状態だった。受け入れ側も、儲かって、儲かって、という状況で、インバウンド向けの投資が増えていた。ということは、だからインバウンドなしで、多くの人たちが、破産という現状に直面したのだ。

鉄道も、インバウンドも、急がず、人を大切にする、が大切と思います。


2022年5月30日月曜日

誕生日 84歳 めでたくもあり めでたくもなし

 2022年5月22日、84歳になりました。

海外の友人たちからの「おめでとう」電話、メールがあった。いつも長ーい、長ーい電話のお祝いお喋り、オーストリアのフリッツイ、今年は来ない。彼女は、長年の闘病生活だったけれど、一昨年、ウィーンに会いに行った。元気だった時のように、本当に明るかった。滞在中、4日間、毎日、彼女のお見舞いに行き、いろいろ、なんとなく、他愛ないお喋りを楽しんだ。そうそう、毎年の誕生日の電話で、彼女が「娘さん、よく聞けよ、山男に惚れるなよ」の歌を冒頭に歌ってくれたっけ。ちょうどHappy Birthday to youのように。日本でいちばんポピュラーな歌と称して、日本語で彼女に教えこんだ歌。なぜか、憶えていてくれた唯一の日本語の歌だった。今年の誕生日には、フリッツイの歌を聴くことが出来なかった。さびしい限り。

イスラエルのヌザット、なぜか、今年は、電話の代わりにCARDが届いた。最愛に連れ合いだったルーベンさんが亡くなったとのこと。二人とも、イスラエルのヒスタドルート(労働総同盟)の役員だった。彼女ヌザットは、イスラエル国内に住むアラブ系女性の部門の責任者で、イスラエル労働党のクネセット(国会)議員でもあった。ルーベンさんは、10年ほど前から難病で、自宅療養だった。ヨーロッパへ行った時、イスラエルに立ち寄って、お見舞いをしたが、フィリピン人の在宅看護人を雇って、世話をしていた。ヒスタドルート,クネセットは辞任していたが、ガザに住むアラブ女性たちのためのNGOを立ちあげ、自宅を事務所にして、活動を続けていた。

シンガポールの病院院長ローチョン・ヨン、いつも誕生日には、チーズとワインを送ってくれる。今年は、奥さんのジャッキーとイタリアのミラノからの電話だった。彼は、院長だが多くの公職についており、そのひとつが、シンガポールのイタリア大使。年2~3回、イタリアのシンガポール大使館に出かける。ミラノに別荘があり、そこに滞在する。というわけで、今年の誕生日には、ミラノにいた、というわけ。こどもが二人いて、ふたり共、医師。長女のサラは、マレー人の医師と結婚、この2月、男の子が誕生、メールで写真を送ってきた。長男のデヴィット、彼の結婚は、どうなっているのか。

トン・ウオンは、ビルマ人(ミャンマー人)。インドネシア人女性と結婚、ウイーンとジャカルタ、双方に家があり、行ったり、来たりの生活。フリッツイのお見舞いウイーン滞在では、彼の家に泊めてもらった。ドイツ銀行に長く勤務していて、アジア局長でもあったが、今は、ご隠居さん。奥さんのソフィーは、父親は、インドネシアの元外交官で、海外生活が長く、自身もウイーンの国連本部のスタッフだった。子どもはいない。トン・ウオンは、昔の友人たち、世界各地の友人たちの動静を、ときどき知らせてくれる。今回も、写真つきのメールだったが、「メール、見てくれた」の念押し電話もあった。

「Happy Birthday to You」を歌いながらの電話は、モンゴルのナランゲール。彼女は、昔から、そそっかしくて、5月22日誕生日びったしというのではなく、早すぎ、遅い、の誕生日電話だ。「ウランバートルも、春ですよ、待ってるよ」、とのお誘い。

今年も、こんなお祝い電話があった。84歳って、めでたいのかな、めでたくないのかな。毎日、毎日をなんとか過ごしては、いるけれど、体力も、脳力も、日々減退しており、あと、どれくらいもつのか、そんなことも考えるポスト誕生日です。このトシになれば、だれもが考えることなのかも。日本人の女性の平均年齢は、87.74歳。だとすれば、あと3~4年。まあ、一日一日を、大事に生きるってことかも。



2022年5月29日日曜日

梅雨前の 田んぼの景色 車窓から ー秩父鉄道

お出かけついでの ちょい旅です。

東武線の谷塚駅(草加の手前)へ行く用事があり、ちょっとその先まで行ってみよう、と。111時すぎに谷塚駅から乗車、各停だったので、草加駅で急行に。この先、いろいろオプションはあるけれど、日光みたいな人込み駅は、さける、となると、空いている路線、左折することにした。急行は、加須駅行き。そこから館林行きに乗ろう。加須は、上野駅から宇都宮方面へのJRの停車駅でもある。前回は、ここでかなり待たされたが、今回は、ほとんどすぐに乗り換えられた。羽生駅には、11時20分に到着。約30分待ち。1時間に一本なので、これくらいは、許せる。

羽生駅周辺は、水をはった田んぼが多い。まだ植えてはいないが、田植のためのウ準備は、すっかり整っている。遠くに日光連山が見える。突然、車が現れ、「よろしくお願いしまーす」、選挙カーだ。ホームで待つ人20名くらい。学生さんがほとんど。土曜日なのに、休みじゃないんだ。11時58分なのに、10分前に到着。30名くらいの乗客が降りてきた。列車は3両 ワンマン。

えっ、こりゃなんだ、と叫んでしまった。電車の外側、車内天井部分いっぱいのラッピング。「World Cup 2019 Kumagaya」の文字。あれからずっと、この状態で走っているのか。乗客(といっても6名)のみなさん気にならないらしい。無視。他に吊るし広告なし。

発車、時間通り。進行前方を見るため、いちばん前の車両に座る。またまたびっくり。線路が、まっすぐなのだ。線路両サイドの電柱が見事、先々までまっすぐ、次の駅も見える。乗り降り客は、1~2名、あるいは、ゼロ、なのに、駅前には、どこでも大きな駐輪所があり多くの利用者がいるはず。土曜日でも、30~40台のチャリが見えた。という状態のまま熊谷駅に到着。ほぼ全乗客は、ここで降りた。乗ってきたのは、5名。

12時22分、発車。前方の秩父の山々がかすんで見える。ほぼすべての駅は、無人、ホームに屋根のない駅もあった。が、ひとつ、立派な、大きな屋根つきのホームと駅舎で、改札口には、女性の駅員がいた。ふかや花園駅。NHKの大河ドラマに出てくる畠山重忠の墓もここには、あるとのこと。

線路は、相変わらず、曲がらず、ひたすらまっすぐです。秩父鉄道が出来た当時、ここら辺は、土地問題などなく、とにかく最短距離で、走りやすい、まっすぐ線路が可能だったのだろう。12時50分、寄居駅到着。ここで八高線に乗り換える。先日、相模線で八王子駅まで乗ったので、なんとなく、その先の八高線と思っていたのだ。ここも1時間1本走行で、約1時間待ち。外に出て、うどんでも食べるか、と改札口へ。人がいない、無人改札だった。駅の表にも、裏にも、店は、一軒もなく、客待ちのタクシーが2台あった。

しかたなく、駅に戻り、屋根なしホームnベンチですごす。と、高校生集団がどーんと入ってきた。200人、いや300人ほど。先生らしい男性が、大きな声で列車ホームに彼らを誘導している。聞くと、寄居郊外の山を会場に、20キロ歩き大会があったとのこと。みんな汗びっしょりで、ペットボトルの水を飲んでいる。秩父鉄道で熊谷方面へ。同じ方向でなくてよかった。

八高線ホームに列車が入ってきた。13時58分発の高麗川行き。時間通り発車。対向の八高線高崎行きは、なんと1両きり。こちらは、3両だった。乗ってびっくり、八高線の高麗川駅行きは、3両で、いちばん前の車両、ボックスシートタイプ。4人がけが4つ、2人がけが、3つ、ついている車両。にこにこ顔で、2人用ボックスシート、ゲット(get).

進行方向を向いた姿勢での「旅」は、最高。寄居を出てすぐに荒川を渡り、八高線は、山間部をゆっくり、ゆっくり走ります。空は、青空、いい日、旅立ちのメロデーがなんとなく出てくる。最高、いいね、ちょい旅。小川駅、越生駅など、なぜか、栗の木が多い、白い花が咲いている。畑の端に雉が一羽。

14時25分、高麗川駅着。待ってい川越行きに乗り換える。ここから先は、もう山はなく田んぼと畑、それに戸建て住宅群。麦畑も多い。川越駅で大宮行きに乗り換え、大宮で京浜東北に、あとは、いつもの通りで、神明町には、17時45分帰着。

この日の 乗り鉄は、 東武伊勢崎線、秩父鉄道、JR八高線、JR川越線、JR京浜東北線、地下鉄千代田線、でした。



 

2022年5月23日月曜日

八高線 その先 海老名 茅ヶ崎へー相模線

関東の私鉄を調べていたら、神奈川県内を走っている相模鉄道というのがあり、本線が横浜ー海老名間24.6km、18駅と、支線のいずみ野線二俣川と湘南台間11.3km、というのがあった。ところが、もうひとつの相模線、茅ヶ崎から橋本駅までの路線を発見(ちょっと大げさかな)。やっぱり気になり、確かめることにした。

東京駅から東海道線の熱海駅行きに乗車。前回(南武線乗り)と同じプロセスです。この列車には、最前と最後部にボックスシート(4人掛けシート)がついていることは、確認済み。勿論、ボックスシートに。8時55分、東京駅発。まだ、9時前。雨は降ってはいないけれど、ビルがもやっている。右側に座ったので、今日は、大森の貝塚の碑をしっかり見ることが出来た。乗車率は、まあまあで、ほぼ全員座っている。それでも、横浜駅、9時20分、さすがに人の乗り降りは、多い。並走するように濃いブルーの電車が走っている。ブルーは珍しい。東京にはない。相模鉄道の湘南台行きだった。戸塚あたりから雨が降ってきた。歩いている人たち、みんな傘をさしている。大船では、右手の観音像が、雨にけぶってみえる。9時50分、茅ヶ崎駅着。

10時5分の橋本行きの電車が、ホームで待っていた。20分おきくらいで走っている。4両編成。いちばん前の車両に乗車。10名ほどの客。英語のアナウンス「only one driver,please push bottan when you get off」、つまり、ワンマンカーなので、乗り降りは、ボタンを押してください、と。客は、慣れたもんで、この先、どの駅でも、客はボタンで出入りしていた。

茅ヶ崎駅を出てすぐ、両サイドには、畑が見える。もちろん、戸建ても多い。まだまだ開発の余地ありかと。気になるのは、駅に着いても、すぐに発車しない、3分とか5分停車して、対向の茅ヶ崎行きを待つ。茅ヶ崎行きが優先されているのか。どうも、単線のようです。寒川駅、ここでも5分待ち。歩き旅で寒川神社には、二度来たことがある。相模の一の宮だ。東海道藤沢宿から、丹沢まで歩いた時にも、立ち寄ったことがあった。電車から右の方に大きな鳥居が見えた。

倉見駅でも待ち時間、駅前に大きな横断幕「新幹線新駅を倉見に、東海道新幹線促進期成同盟」とある。実現するのかな。雨は、本降りとなり、乗ってくる人の傘がびしょびしょだ。ようやく発車、門沢橋駅、ここは、海老名市。社家(しゃか)駅、ここでも停まる、ホームは屋根なし。10時45分、厚木駅着。ここまで、茅ヶ崎駅からなんと50分もかかった。小田急線の茅ヶ崎駅、厚木駅は、なんどか来たことがある。高層ビル、工場、マンションなど、地方の大都市です。客の多くがここで下車、と、どっと学生さんたちが乗ってきた。厚木に高校があるのだろう。駅を出ると、昔のまんまの畑風景、低い山々も見える。結局、終点橋本駅に着いたのは、11時15分だった。33.3キロ、18駅を70分かかった。

橋本駅下車。11時24分の八王子行きに乗った。この路線は、八王子から高崎行きの八高線に連絡している。八高線は、好きな路線だ。高崎駅で、だるま弁当を買って、食べながらの八高線、なんども乗っている。だがこの路線横浜線は、初めて。橋本駅を出てすぐに、結構長いトンネル。出たら、八王子郊外の戸建て住宅がびっしりの地区だった。11時35分、八王子駅着。

駅の立ちそばを食べる。12時55分の中央線特快に乗り、お茶の水駅下車。前回とほとんど同じプロセスの乗り鉄だ。さあ、改札口へ。スイカを乗せる。あゝ、今回も、やった、やってしまった・・・・・126円。すみません、でもありがとう。

相模線は、JRだったんです。今朝乗り換えた西日暮里駅からの運賃だった。




2022年5月19日木曜日

武蔵野を 南へ走る 南武線

時刻表本で、首都圏の鉄道路線を眺めていると、東京を中心に、西と東の様子の違いがよくわかる。西、主に神奈川だが、かなりの数の私鉄が走っている。小田急、京王、西武、東横、京浜などなど。それに比べると、東方面ー千葉、埼玉、茨城、栃木など東地域は、JRは多いが、東武が中心で、私鉄は、それほど頑張っていないのがわかる。足立区が東端に位置しているため、なんとなく、東方面への乗り鉄が多かった。同じ路線を、なんども乗りに行ったりしていたが、もう少し、西へも、ということで行ってのが、南武線。

東京駅から東海道線茅ヶ崎行きに乗車。10時すぎだったので、通勤時間は過ぎており、しかし、乗客は多い。新橋、品川駅では、乗り降り客が多かった。

川崎駅で下車。階段を上り、南武線ホームへ。立川行きは、頻繁に出ており、10時40分発に乗車。六両で、全員座れる状態で発車。出発前からお喋りの女性3人組、学生さんも目立つ。高齢者もいる。すぐの尻手(シリテ)駅では、南武線の支線浜川崎方面へ乗り換えられる。海の方向だ。電車は、川崎市内を走る。見えないけれど、南武線は、右手に流れる多摩川にほぼ沿って、立川まで走っている。

線路の両サイドには、10階以上もあるアパート群が続く。ここに住んでいる人たちが、朝晩、この南武線を利用して通勤・通学しているのだ。どこの駅でも、客が乗ったり、降りたり。聞き覚えのない駅名が続く。矢向(ヤコウ)、鹿嶋田(カシマダ)、平間(ヒラマ)、などなど。それに、当たり前かも知れないけれど、「武蔵野」がつく駅名がいくつかある。武蔵小杉、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝の口。

武蔵溝の口では、どーんと降りて、どーんと乗ってきた。ここは、私鉄との乗り換え駅。学生が多い。今日日の学生さんは、男性も、女性もお洒落。へえー こんな格好で大学へ行くのか。隣りに座った若者、オーデコロンの匂いがプンプン。登戸駅で、またどーんと降りて、どーんと乗ってきた。手押し車の子連れお母さんが3人。ガチャ引きの高齢者も多い。ガチャ引きという単語は、名古屋で元気なおばさんたちが話していた単語です。つまり、高齢者たちが、手押ししている車のこと。足立区でもよく見かける光景です。

稲田堤駅前には、駅すぐのところに、大きな駐輪所があった。ここら辺は、ビルではなくて、戸建ての住宅が多い。丘陵地帯には、びっしり住宅が建っている。みなさん、毎朝晩、駅まで自転車で通っておられるのです。

春霞の向こうに奥多摩の山並みが見えると、終点の立川駅。川崎駅から35.5キロ。南武線は文字通り、武蔵野を南に走る電車でした。

余談:11時50分発の立川から東京駅行きの特快(特別快速)に乗りました。40分ほど でお茶の水駅着。駅改札で、スイカを通すと、「168円」の文字。えっ、あっ、そっか、西日暮里駅でスイカを通したのが、9時半頃、その後、全てJRだったので、いちどもスイカを通さなかったのだ。駅前の丸善で、本を2冊買った、買えた。いい旅でした、大当たりの旅だった。     

2022年5月16日月曜日

50年 沖縄今も 基地だらけ

 沖縄が日本復帰して50年、復帰を記念しての行事が沖縄那覇と東京で行われたとのニュース。沖縄知事と、日本国政府首相の挨拶が報道されている。米軍基地をすぐなくせ、という知事への答えは首相の演説にはない。どんな解決方法があるのか。

その沖縄、実は、復帰前の1969年に行ったことがある。なぜか、これまでの全てのパスポートが残っている。「身分証明書」の文字がある粗末な厚紙の表紙で、発行は、日本政府総理府とある。実際にその証明書で沖縄入りしたんは、1969年1月25日で、5日間滞在している。目的は、現地の国際大学の取材だったが、復帰前の那覇市や地方へも行ったと思うが、あまり覚えていない。その後、復帰後の沖縄へは、3度ほど行っている。仕事が1回、あとの2度は、観光目的。それでもかつての激戦地区、ひめゆり、平和祈念公園、サミット開催地、米軍基地などを廻った。いろんな思いがある。

保存のパスポートの束(全部で47冊)の中に、日本政府発行でない、こんなのがあった。発行は、国際機関で働く人のためのパスポートLAISSEZ PASSERレセパセ。内部文章は、英語、スペイン語、フランス語、中国語だ。ニューヨークの国連本部、アフリカスーダンの首都カルツームで働いていた時に使用していたものだ。特権というか、これを携帯している人は、空港などでの出入国ゲートが、一般旅行者とは、別のところだった。

あの頃のパスポートには、予防接種証明書がついている。アジア、アフリカなど途上国への渡航には、この証明書が必要だった。なぜか、今は、コロナの予防接種署名書が不可欠のようだ。

パスポートを忘れた夢をときどきみる。実際には、人生でたった一度だったが、忘れた、があった。アイスランドの首都レイキャビックへ行った時のこと。前の晩、現地の友人たちと盛大な飲み会だった。朝いちばんの飛行機に乗るため、タクシーでホテルを出た。走りはじめて、チェックしたら、パスポートがない。あわてている客の様子に気づき、運転手さんが「どうした?」、というので、ホテルにパスポートを忘れたみたい、というと、無線で会社に連絡、会社からホテルに連絡し、戻ったホテル玄関で、ホテルスタッフが待っていてくれた。なんと、ホテルの部屋のテーブルの上に置いてあったのだ。運転手さんは、空港にも連絡をしてくれた。まさに離陸寸前の搭乗機が、待ってくれていて、最後の乗客だった。あの時のタクシーの運転手さんには、ちゃんとお礼を言わなかったことが、今もすまない気持ちだ。そういえば、どんな人だったかも、思い出せない。でも、なぜか、今になっても、ときどき空港へ行く途中、パスポートを忘れた夢をみる。

2022年5月12日木曜日

咲く藤の 棚の下で深呼吸

 友人が西新井大師へ行ってきた、というので、地元じゃん、行かねばと行ってみた。普通の日だったのに、結構な人込みだった。牡丹は、すっかり萎れており、しかし、藤が最高、きれいだった。でも、カメラ(スマホ)を持って見上げている人、人。ほんのちょっと、棚の下に。空が見えないほどの藤の花。でも、藤といえば、やっぱり亀戸天神でしょう、なんどか行ったことがあるけれど。でも、いまは、もっと混んでいるんじゃないか。そうそう、駅から歩いて行く途中の豆屋さん、あそこ、まだやっているかな。

天気がよかったので、いつものように、ちょいと電車に乗った。東武スカイ線の新越谷駅で下車、武蔵野線で、北へ。次の駅が東川口、それからが続く。東浦和駅、南浦和駅、武蔵浦和駅、西浦和駅、と浦和が四駅も続くのだ。南浦和駅で京浜線に乗り替え、赤羽駅下車。ここから路線バスで、西新井駅まで行き、さらにバスで北千住駅へ出て、神明町まで。シルバーパスが活躍、だった。

4時すぎに帰宅。テレビをつけたら、ウクライナの現地報道。ハルキフの市民が、旧ソ連時代のモニュメントを破壊している映像。そういえば、モンゴルのウランバートルホテルの前のレーニン像は、どうなったかな。2019年のシベリア鉄道に乗った時、バイカル湖手前のウラン・ウディ市にも、巨大なレーニン像があった。そうそう、始発駅のウラジオストックの駅前の高台の公園、あそこにも海を見下ろすレーニンさんが立っていた。プーチン大統領も、そのうち銅像になるのかな。

新聞を見ていたら、こんな記事。「ラーメン議連、立ち上げ」。4月28日、国会内で、設立総会が開かれ、国会議員60人が出席、したんだそうです。石破茂さんが「ラーメンがさらに普及し、世界に広がって地方創生に」、と挨拶。ご当地ラーメンを振興し、地方創生と世界に発信する、んだそうです。いいですね、このご時世に、なんともノー天気な、私たち国民の代表である国会議員先生たちの昨今です。

生きていると、いろんなことがあります。

2022年5月7日土曜日

代掻きの すんだ田んぼに 春の風

不要不急が続いている。遠出を控え、不必要な移動はだめ、といい聞かせながら、本日もちょい旅。用事、なーんもないけれど、ま、行ってみるか、乗ってみるか、ではだめなんです。なんでもいい、旅には、目的が必要なんです。本日は、田植え前の水をはった田んぼを見ること、これが目的。方向は、東。大都市横断の西方面でなく、人気(ひとけ)の少ない房総半島。

つくばエックスプレス(TX)で、終点のつくば駅まで。なんども乗車の路線。大型連休中、各停は、申し訳ないほどの乗客。途中の景色には、田んぼはない。ビル、マンション、戸建て住宅群、急激に増えた感じ。つくば駅も、人影まばら、構内の店もほとんど閉まっていた。駅前のバスターミナルから、土浦行きに乗る。大丈夫かな、客は、3人だった。そのうち2人は、途中で下車。終点の土浦まで、ひとり占め。途中、残念ながら、田んぼなし。それじゃあと、土浦駅から乗ったのは、水戸行きの常磐線。友部駅、すぐに田んぼがありました。ひとつづつ駅に停まるし、特急列車待ちなどで、とにかく、よく停まる列車。こういうのがいい。列車好きには、たまんない。

車窓からの田んぼには、あちらにも、こちらにも、田植え作業の人たち。といっても、腰をかがめて、苗を一本づつ植えるなんていう姿はない。あれは、今やパフォーマンス。現代の田植えは機械です。だから、広い田んぼには、機械を操る人、ひとりしかいない。それでも、田植えの風景です。連休なのに、休みなし、の人たちがいるんですね。

そういえば、あちこちの千枚田へ 行きました。和歌山県だったか、三重県だったか、有名な千枚田。千枚田ではないけれど、ネパールの段々畑、あれは見事だった。あんな級な斜面にどうやって畑を作ったのか、人間の力を実感しました。

大型連休で、久々に新幹線も混んだらしい。帰省だったり、温泉だったり、レジャーだったり、「久々の、いい旅でした」、「実家で、ゆっくりしてきました」。

なんの目的もなく、用事もなく、それでも汽車に乗って出かける、なんて人はいない。最近は、家を出て、なにかに乗って、移動しながら、どこへ行くか、どこで降りるか、なんていうちょい旅が多い。連休だから行く、なんてことはせず、毎日が旅日和、楽隠居の旅です。

2022年5月5日木曜日

空高く コロナに負けるな 泳ぐ鯉

実は、この一週間、パソコンの回線がストップしていました。原因は、よくわからないけれど、ご近所のテレワークの男性から、「お宅のパソコン、回線、切れてませんか」、と聞かれ、やってみたら、出来ない、切れていたっていうわけです。我が家は、詳しいことは、わかりませんが、回線の都合で、電話もいっしょにダメになっていました。ということで、電話もかけられなかった、かかってこなかった。まあ、生命にかかわる事件もなく、よかった、です。

本日は、5月5日、大型連休真っ只中、毎日、高速道路の渋滞の実況、羽田、成田の混雑状態、東京駅の様子などの報道、そうか、みなさん、お出かけ中なんだ、と神明町の楽隠居。

先日、テレビ出演中の小池都知事が、「わたし、ウクライナの大統領選挙の応援に行ったことがあるんです」、とおしゃっていました(2014年)。私なんか、なんども行ったことがある。ざっと、こんな感じです。

ニュージーランド 労働党の党首だったマイク・モアさんの選挙だった。日本語で応援演説をすると、候補者の彼が英語に翻訳する、というやり方で、日本語がまったくわからないマイク、好き勝手な演説になっていたにちがいない。

イスラエル  マパイ・労働党のシモン・ペレスさん、後に大統領になり、ノーベル賞を受賞。ペレスさんの選挙区は、集団農場(キブツ)のひとつで、選挙期間中そこの食堂で働きながらの選挙運動だった。ペレスさんからは、その後、国際会議でなんども会う機会があり、その都度、「テイクバには、選挙で助けられた」と言ってくれました。テイクバとは、ヘブライ語で、「幸福、幸せ」という意味で、今でも、イスラエルの友人たちからは、「テイクバ」と呼ばれている。

オーストリア  政権与党だった社民党の選挙応援は、同党の党員だった友人フリッツイの選挙活動に同行。たまたま会ったザルツブルクで選挙運動中の党首クライスキーさん、「必ず勝つよ、日本人も応援してくれているんだから」と言い、コーヒーをご一緒。社民党は、歴史ある政党で、なんども政権を担当している。

マルタ  政党の名前は、憶えていないが、大統領の名前は、ドミントフさん。マルタ島で開催の会議に出席中だった。イギリスの軍隊が駐留していたマルタが、米軍が駐留している沖縄の状況と、似ているというので、現状報告ということで、短いスピーチをさせられた。その後、ドミントフ大統領と一緒に、「ビーバー、ドミントフ」、を叫びながらの行進に参加。大統領選挙だったことを知った。

モンゴル 25年間のソ連統治下から解放され、初めての総選挙だった。出来たばかりの社民党の選挙のために、日本から選挙活動用の印刷物をトランクに詰めてのモンゴル入りだった。社民党には、結党当初より、かなり入れ込んでいたので、不思議なくらい、頑張った。広い草原には、羊、牛、ラクダなど動物しかおらず、有権者のいるゲル(テント)をさがすのは、大変なことだった。一日中、ランドローバーで走っても、せいぜい20~30名ほどの人にしか会えない、かったるい選挙運動だった。初めての選挙だったが、友人たちが当選、社民党からは、感謝状をいただいた。その後、バイカル湖近い北のセレンゲ州での州議会議員選挙の手伝いに行った。冬、雪の中の個別訪問だった。やることがない老人たちと、2時間、3時間を過ごす選挙運動だった。ウオッカを飲み、羊の肉をご馳走になったりで、候補者といえば、まるで、手ぶらの個別訪問。候補者だった彼女は、今、州議会の議長を務めている。

スリランカ  選挙活動ではないけれど、選挙用のポスター、資金をヨーロッパの政党に頼まれて、コロンボに運んだことがあった。当時、ご主人の後を継いで首相になったバンダラナイケさんの自宅に。入口から車で、15分ほど走って自宅建物に到着というほど、広い敷地だった。応接間で首相にお会いしたが、何人ものお手伝いさんがいるのを目撃。持参の資金、本当に選挙に使われるのかな、と思った。

選挙監視ーカンボジア  大量虐殺が行われ後の民主化選挙、現地の責任者は、日本人の明石康さん(国連代表)だった。

選挙監視ーネパール  初の民主化での選挙、日本の監視代表団の一員としての参加だった。代表団の事務局長は、自民党の二階俊博さん。

選挙監視ーフィリピン  前大統領の妻だったアキノさんが立候補した大統領選挙。選挙集会では、ほとんどが、若者、女性たちで、その熱気は凄かった。

こうしたみると、外国の選挙にずいぶんかかわってきたことか。なのに、日本での選挙、いちどもかかわったことがありません。



2022年4月27日水曜日

今から60年前 体験したアメリカ(その2)

7月28日、SDSの 集会に招ばれた。どこなのか、会場をさがすため広いキャンパス内をうろうろ。日本の大学のような、いわゆる立て看がない。どうやら、あれは、日本だけのものらしい。学生たちが、歩いている方向について行くと、会場があった。受付のデスクで、長髪の学生さんが、持ち物チェック。政治的な集会なので、しかたないかな。

黒人、白人、留学生などがおり、ヒッピー風の髭もじゃ、かと思えば、しっかりスーツを着こなした青年など、ともかく多彩だ。黒ジャンバーのミニスカート嬢がたばこを吸っていた。近隣住民らしき人たちも、参加者の中におり、100人くらいの集会だった。

開会が9時といわれていたが、実際に始まったのは、9時40分、夜の9時40分だ。日本では考えられない。先日、学長の要請で、警官隊がキャンパスに入った事件の、いきさつ報告があった。ベトナム介入に反対するトラブルだったようだ(知らなかった)。学生200人が逮捕され、それぞれ20ドルの罰金、18名が退校処分になったとのこと。

この後、ベトコン支持、キューバー革命支持、南アフリカ人種差別反対、毛沢東、ゲバラ支持など、次から次に世界中の革命家の名前が出てきた。ようやく、番が回ってきた。アメリカの植民地沖縄の実情、日本に返還をという運動を支持しよう、との決議を採択。採択文面は、あらかじめ用意してあって、日本人のわたしの発言は、ほんの5分くらい。それでも、金一封、50ドル、を頂いた。学生運動って金持ちなんだ、ちょっと違和感。

この3年間にアメリカの全学生の2%、13万4000人、が学生組織のメンバーであるとニューヨークタイムズ。コロンビア大では、全学生の5%、870人がSDSで活動している。組織の目玉スローガンは、黒人差別問題で、意外だったのは、黒人学生側の強い希望で黒人学生だけの学部の新設、黒人学生用の図書館、食堂などの設置が要求されているということで、どうも、理解しがたい思いだった。自ら自分たちを白人から切り離す、孤立化させるという黒人学生の意図がよくわからない。

アポロ11号は、無事月面着陸。日本でも、世界中の人たちが、テレビの前に釘づけになった瞬間。アメリカでも、もちろん大々的に報じられた。それでも、この快挙に反対した人たちがいた。地上に飢えた人、貧困、失業、病気などに苦しむ人たちがいるのに、多額の費用(250億ドル)、大勢の人材(20万)を費やしてやるべきことか。アメリカって、なんでも税金がかかる。コーヒー一杯、ノート一冊、毎朝の新聞にも別途税金がかかる。先日、はがきを買ったら、なんと税金4円。

またまた考え込んでしまいます。この国は、豊かなのか、それとも貧しいのか。

2022年4月26日火曜日

今から60年前の 体験したアメリカ

今から60年前、ということは、1960年代、アメリカに留学。当時の原稿が出てきた。

 今朝、大学近くの公園(コモン)で、演説をしている集団を見かけた。学生らしい、長髪の若者3名、労働者風の屈強な男性2名。なにを話しているのか。「アポロ計画、本当に必要なのか」、「アメリカに、なにをもたらすのか」、といい、「アポロ計画、反対」、が目的のようだ。ここケンブリッジは、ハーバード大学、MIT、ボストン大学などのある学術都市として知られており、文化的にも、他州よりレベルが高い、アメリカの良識は、ケンブリッジからなどといわれている。

下宿の掃除にきてくれるおばさんが、テレビを見なければならないので、今週の掃除の時間を変更したい、というので、どうぞ、と。部屋にテレビのないのを知っているおばさん、「よかったら、うちへテレビ、見にこない? アメリカがはじめて月に人間を送るのよ、すばらしいこと」、と誘われた。というほど、アメリカ中が、エキサイト。

一方、学生組織SDS(Students for Democratic Society)はじめ、ラディカルな学生団体が、抗議集会、討論会などを行い、反対アポロ計画を叫んでいる。ニクソン大統領のベトナム撤退のニュースは、アポロに影にかくれたしまった感じ。アポロの月面着陸は、アメリカが宇宙科学技術で、ソ連の挑戦に打ち勝つ、との評価は、マスコミなども大々的に報じている。そういえば、ソ連艦隊が、キューバを公式訪問するというニュース、これもアポロに押しつぶされている。

というこれら海外事情と裏腹に、国内事情は、それどころではない。たとえば、この7月4日の独立記念日から始まる飛び石連休の土曜日、自動車事故で亡くなった人が、170人、五月の一か月で、ニューヨークだけで、200人の青少年がヘロインなどの麻薬で死んだという記録が新聞に出ていた。喧嘩やモノとりなどで、ピストル刺殺のニュースも、ほぼ連日というアメリカの現状。それらの主な原因が、ホワイト対ブラック問題。政府も、なんとかしなくては、と方策をいろいろ出しているようだけれど、解決はみえない。

この巨大な国アメリカが、豊かさでは世界一とはいえ、社会に、貧しさを抱えた国であることを実感している。羽田から9時間で、西海岸に、さらに5時間もかけて大陸を横断して東海岸(ニューヨーク)に、という、広大なこのアメリカ。日本が小さな島国であることも実感していると共に、安全、安心、経済もそこそこ、いい国なのかも知れない、と。

                         (日本の雑誌に投稿した原稿です)


2022年4月20日水曜日

房総の 半島横断 東金線  ちょい乗りの記

「JR在来線 6割が廃線路水準」、衝撃的な見出しの記事(4月12日、日経)を見つけた。他の新聞にも特集されていた。人口減少、道路がよくなりバス、自家用車利用が増えたという現状による地方の状況。年間2000人未満の路線は、営業赤字状態で、廃線するしかない、との報道だった。コロナ禍で、更に深刻な鉄道会社の状況、そういえば、首都圏でも、鉄道は以前ほどの混雑はない。事態は、深刻、早く行かないと、なくなってしまう、と危機感が募ります。ということで、行ってきました、東金線。

東金線は、房総半島の上の方、半島がくびれている部分を走る路線。大網駅から成東駅までで、駅は、5つ、距離は15.2キロ、17分、というミニ路線。1896年に大網駅‣蘇我間を、なんと馬車が線路を走っていた、房総馬車鉄道 が始まり。現在の房総を走る外房線、内房線、総武線などよりも歴史あるJR東金線。

東京のお天気は、曇りだったが、降りそうもないので、行く、と決めた。前夜、買ってきたばかりのJR時刻表をぱらぱらしていたら、全てクリアしたはずの房総半島に、まだまだ路線が見つかった。それが東金線。

千葉駅から一宮駅行きの各停外房線に乗ったのが、10時5分。ラッシュは過ぎており、客はまばら。8両なのに、なぜか、ボックスシートがついていた。千葉市周辺は、団地、マンションが立ち並んでいるけれど、5分も走ると、もう田舎。畑よりも、竹やぶの小高い山、否里山、が続く。ところどころに、満開の八重桜、桃、菜の花が見える。しっかり春なのです。珍しく長いトンネルに入り、出たら大網駅。房総半島を東京湾側から、太平洋側に横断したことになる。大網駅からは、九十九里浜は近い。

大網駅は、外房線の駅でもあるので、ひんぱんに列車がやってくる。時刻表を見ると、東金線の次の成東駅行きは、40分後。で、改札を出てみる。コンビニが駅舎内に二つあり、大網みやげ店もある。みやげ店には、八街の落花生商品、九十九里の魚の佃煮などが並んでいた。そうそう、神戸屋(パン屋)もあった。どちらも、客の姿は、なかった。駅の外へ出ると、広ーい広場、タクシー、成田行きバスなどが駐車しており、そうか、ここは成田空港に近いのだ。でも、人影は、ほとんどなし。

東金行き列車のホームは、メインホームより、かなり離れており、100mほど歩いて、エレベーターで上がる。まだ早いけれど、ホームに出ると、10名ほどが待っていた。小雨が降っていて、高台のホームは、吹きっさらしで、寒い。ホーム向かい側の藪には、みかんがなっており、藤の花も咲いていた。ここから、眼下にさっき歩いた駅周辺が見下ろせる。改札口を出たところに、八重桜の古木があった。

東金線大網駅から成東駅までは、朝晩は、3~4本、昼間は、1時間に1本の走行。11時15分、発車。ボックスシート車ありの3両編成車。車窓右方向は、海のはずだが、見えない。窓の掃除、行き届いていない。田植え前の準備が整った田んぼが続く。福俵駅、次の東金は、有人駅だった。求名駅(ぐみょう)、駐輪場に自転車がいっぱい。城西国際大学の看板があった。こんなところにも、大学があるんだ、と。通学、大変だろう。

乗り換える、ここから先は、総武本線。これにもボックスシートがあった。今日は、ついている。この線は、以前二度ほど乗ったことがある。車窓は、ほとんど変わらず、耕作放棄地、竹の多い藪山が続く。ところどころに茶畑。落花生の八街駅通通過。八街といえば、毎年年末に落花生を購入している。老舗の生産者から直送の落花生、もう数年になる。

佐倉駅、成東からの、この電車は、千葉行きの総武線、乗り換えたのは、成田空港行き。すぐに成田駅に到着。ここからは、我孫子線。外は、どしゃ降り状態。単線なので、ときどき対向列車待ちの時間のかかる電車。竹藪、荒れた里山、こんな土地に出来たのが成田空港だったのだ。小林駅、駅舎の軒下から、つばめが2匹、初めてみたつばめ。小林の次は、「きのした」木下駅、と思ったら、「きおろし」、だった。日本語って読み方、いろいろある。はじめは、客は、ぱらぱらだったが、我孫子駅が近づくにつれて、増えてきた。終点の我孫子駅についたら、雨は、やんでいた。ここで、千代田線に乗り換え、あとは、まっすぐ綾瀬駅へ。14時15分、綾瀬帰着。東京は、晴れだった。



間もなく終点 の成東駅に到着。千葉行き、成田空港行きの列車ののりかえ

2022年4月13日水曜日

ダムサイト まだ間に合うか 花筏   宮ケ瀬ダム

宮ケ瀬の桜がいいらしい。ちょい旅で、西に、東に、充分に花見見物は、したつもりだったが、やっぱり気になる。というのは、宮ケ瀬ダムは、丹沢山系の山頂から、ちょいと遠目にみたことがあった。が、行ったことはい。

山岳会現役時代、丹沢は、ちょくちょく行った。綾瀬駅から千代田線、代々木上原から小田急線で、行ける手頃な山、それが丹沢山系だった。夜行、最終便で行き、暗いなかを登山口まで歩いて、登って、帰る、を繰り返していた。大山から丹沢あたりは、目をつぶっても歩けるくらい頻繁に通った、日帰り山行。丹沢山から北への山道で、下の方に見えたのが、宮ケ瀬ダム湖だった。

いい天気。千代田線綾瀬駅を9時30分にスタート。通勤ラッシュは、終わっており、向ヶ丘遊園地駅まで「急行」の地下鉄。代々木上原、下北沢あたりから乗ってきた乗客、大学生たちだった。若い人たち、こんなに見たのは、久しぶりだった。でも、ほぼ全員、途中の駅で下車。沿線に、大学があるのだろう。町田駅から各駅停車になり、本厚木に着いたのは、11時20分、綾瀬駅から約2時間、東京横断の車内旅。

駅前のバス停で、宮ケ瀬行きを探す。神奈川中央交通ーかな中、といわれている。1時間に2本で、次は、11時40分。すぐに来た。乗客は、10名。といっても、終点の宮ケ瀬までの客では、なさそうだ。厚木市内をしばらく走る。幼稚園の新人たちが、横断歩道で、手をあげて、渡る練習をしていた。4月11日、今日からピカピカ新入生です。

 車内放送「お隣り、ご近所にひと声かけて、おでかけを」の声かけ注意。これってこそ泥、空き巣、OKだよ、といってるみたい、と、笑っちゃった。考えすぎかな。

 20分ほどで、前方に丹沢の山々がうっすら見えてきた。本日は、晴天だが、春霞、遠くがすっきり見えない。清川村に入る。たしか、神奈川県で唯一の「村」。村の要所、要所、役場、消防署、駐在、郵便局、学校など、かな中バスの停留所になっており、乗客が乗り降りする。村内巡回バスって感じ。村の人たちの文字通り、「足」の役割を果たしている。宮ケ瀬ダム湖行きの観光バスではない。道路は、狭く、ほぼ上り坂、曲がりくねっていて、運転は、大変。村人が下車した後は、観光客ひとり状態。峠とか、登り口とか、登山者のための停留所もある。と、目の前に見えてきた宮ケ瀬ダム湖。周辺の山々の桜、まだまだ盛りで薄い緑色に白い山桜のコントラストが、神秘的。

12時20分、宮ケ瀬ダム湖の駐車場到着。月曜日だからか、数台のみ。バスは、20分後に本厚木駅に戻るという。ダム湖畔をちょっと歩いてみる。桜は、まだ若木で、湖の見える湖畔の小道通りに植えてあり、花は、ほぼ散っていた。桜見物といえば、50年、100年など、年季もの、というのが定番だが、ここの桜は、まだまだ。先が楽しみ桜。周辺に食堂や喫茶室などが、ずらっと並んではいたが、みな掘っ建て小屋風で、なぜか、沖縄そば店もあった。そうそう、清川村製の漬物も売っていた。ダムサイト湖の岸に、花筏がゆらゆら揺れていた。花は、まだ散ったばかり、だった。

12時50分、本厚木駅行きに戻るバス、乗客は5人。観光客ふた組。清川村の停留所では、ひとり、ふたりと乗客。駐在所近くを、3匹の野生の猿が、学校帰りの子ら(3人)を追っかけていた。へえっ、猿と共生の村なのだ。村からは、厚木の町が眼下に一望出来、バスは、かなり高い所を走っていたことを知った。帰りのバスは、1時間かかった。

気になっていた宮ケ瀬ダム湖、あまり感動しなかったが、清川村がよかった。3時半すぎに地下鉄千代田線綾瀬駅に帰着。



 

2022年4月10日日曜日

むかし馬 4.5キロ いま電車  龍ヶ崎鉄道

りゅう鉄って知ってる? と友人から訊かれた。りゅうてつ・流鉄、最近、乗ってばかり。でも気になってJR時刻表をめくってみた。ありました、あるではないか流鉄。茨城県の竜ケ崎にありました。

実は、竜ケ崎市へは、行ったことがある。なんにもない駅前、たまたま来たミニバス(コミュ二テイバス)、市内一周というバスで、竜ケ崎市をひとまわり。その時も、たしか、客ひとり、貸し切り状態で、運転手さんがいろいろ説明してくれた。ニュータウンの竜ケ崎市は、早くから広大な土地に戸建ての家を建て、東京通勤の家族の受け入れてきた。おかげで、市は、いろいろな施設も作った。図書館、体育館、文化センター、大きな公園などなど、ミニバスは、これらの施設をぐるっとまわった。大きなショッピングセンターもあった。そうそう流通大学も郊外に。というわけで市についての基礎知識はあった。

この日も、都心と反対方向、北千住駅から常磐線で、東方向へ。竜ケ崎駅に11時到着。この駅は、主駅ではないのに、なんと、ホームから改札口への上り降りが、エスカレーター。だいたいが、上りだけなのに、下りもエスカレーターになっていた。ちょっと離れたところには、エレベーターもしっかりついている。

龍ヶ崎鉄道、どこから乗るのか。ホームは、JR竜ケ崎駅の外にあった。いちど駅舎を出て建物のはじっこにホームはあった。改札横に、こんな看板「1971年、日本の旅客列車で初めてワンマン運転をした路線です」。なるほど、なるほど。改札口、もちろん自動化、駅員の姿はどこにも見当たらない。ホームの駅名は、『佐貫驛』(さぬき駅)。この地名だ。竜ケ崎鉄道は、全長4.5キロ、これを7分かけて走る。流鉄より短距離だ。双方とも関東鉄道が経営しているが、やるねえ。

昼間は、1時間に2本、しばらく待つとご到着。一両編成で、それでも20名ほど降りてきた。一往復14分働いてきたワンマン車の運転手さん、それでも交替。別の運転手さんが、カバンを下げて登場。電車のあちこちを点検。発車、乗客は、12名、うち学生さん5名。

電車は、しばらく、といっても一分間くらいだけれど、市街地を往く。じきに田んぼと畑の中を走る。三つしかない駅の真ん中『入地驛』(いりちえき)に到着。駅でなく、驛というのが、なんともなつかしい。駅名の横に、ひらがな、英語、韓国語の表示があった。国際的なのだ。3名下車。残りの距離を終点駅に向けて、まじめに走る、ガッタンゴットン、本当にそう聞こえる。シベリア鉄道の列車のあの音そっくりだ。

間もなく到着。『龍ヶ崎驛』、竜ケ崎鉄道の終点駅です。入地驛は無人だったが、ここには2名の駅員スタッフが、改札口に立っていた。スイカを出すと、「ありがとうございました」、とお礼をいわれてしまった。同じ電車で、戻るため、スイカをかざすと、もういちど「ありがとうございました」。

高校が近くにあるらしく、戻りの電車は、ほぼ満席状態、一般客は、5名。時刻通り正確に発車。最前列で前方を見たら、なんと線路がほぼまっすぐ。勿論、単線だけれども、一直線に線路が見える。帰ってから調べたら、この路線、明治33年(1900年)、馬車鉄道として開通したとあった。そっか、馬が客を乗せて、線路の上をひっぱっていたのだ、だからまっすぐ。そんなこんなで、戻りの7分間は、あっという間に終了。佐貫驛に帰着。

JR竜ケ崎駅から常磐線で取手駅へ。ここから関東鉄道の路線バスでつくばエクスプレス(TX)の守谷駅へ。客は3人、途中で降りて、あとは、運転手さんと二人っきり。周辺は、麦畑が広がる田園風景、「間宮林蔵旧宅」の看板を見た。洪水被害のあった小貝川の橋を渡り、守谷市へ。昔、お城があったという史跡前、城跡停留所があった。まだ建物が新しい小学校、校庭周辺のさくらの木々、まだ背は低かったが、花は満開だった。守谷駅に着いたのは、13時15分だった。終日、晴れの天気に恵まれた。


 

2022年4月9日土曜日

満開の さくら見物 路線バス

昨日も、今朝も、ラジオも、テレビも、ウクライナのニュースでいっぱい。ロシア軍に何人殺されたという数字が発表されています。でも、あの戦争では、沖縄だけでも10万人以上の住民が殺された。東京大空襲で下町の惨状を読むと、その凄さは、ウクライナと同じ(半藤一利氏著書「日本のいちばん長い日」)。とにかく戦争は、してはいけません。

そんなことから、ふっきれた一日を、と本日もちょい旅に出かけました。

高崎線から八高線に乗ったのは、たしか三月でした。あの時、小川町駅あたりで見た街並みは、これまでのとちょっと違っていた。熊谷駅からの路線バスで行った時、たしか駅周辺に見どころなし、と思っていたけれど、そうでもないんじゃないか、と。駅ポツンではないことを、確認しなければと思っていました。で、その実態調査、っていうわけで、再度、小川町駅まで行ってみることにしたのです。さくらも、満開のはずだし。

この日も晴天。バスの始発の熊谷駅へ。熊谷といえば、やはり、高崎線で行く、というのが定番だけれども、乗り鉄は、そこがちょっと違う。東武スカイツリーライン(東武線)で東武動物公園駅まで行き、加須駅経由で、羽生駅へ。秩父鉄道の始発駅です。ここから熊谷駅へというルート。動物公園駅でも、加須駅でも、乗り換え時間、待ち時間もあって、時間ロスはあったけれど、それはそれで、折込み済み。この日は、入学式の学校が多いようで、どの電車にも、母親同伴のピカピカ新入生たちに会いました。子どもたちは、新品の制服にきまっているけれど、母親(父の出番ではない)は、黒、白など一張羅・晴れ着姿で、上から下までバッチリきめている。というわけで、車窓よりも、車内見物。

秩父線は、3両編成、ワンマン、スイカOK.乗客は、一両に4~5名。 どこの駅にも、桜、さくら、桜で、それもみな満開状態でした。12時25分、熊谷駅着。この電車は、この先、秩父の影森まで行く普通列車。ここで乗車の客は、少ない。

改札を出て、まっすぐ駅前のバス停へ。小川町駅行きは、13時15分。「よし、よし、いいぞ」、といいながら、駅構内に戻る。うどん屋さんです。熊谷駅の名物、ここで下車してまで食べる、常連さんです。いつものかけうどん、550円、いただきました。

小川町駅行きの路線バス、時間通りに発車。駅前を左折し、中山道に出る。しばらく走って、老舗デパートの八木橋のところで、左折、荒川大橋へ。手前の荒川土手、ここが名所の桜並木です。真っ白なさくらの花の帯が、ずっと続いている。満開状態です。荒川大橋を渡り、右方向へ。この道は、旧道で、周辺は、集落、畑。どこの家も、庭先には、花、花、花で、桃、桜なども見事、ところどころにまっ黄色な菜の花畑。6名の乗客は、途中の県立循環器病院で下車。あとは、ひとり、バス一台、ひとり占め。いい気分です。

13時55分、小川町駅前に到着。運転手さんに聞くと、このバスが熊谷駅に戻るのは、20分後とのこと。で、駅周辺を一回り。旧街道の宿場だったこともあり、旧家、それになぜか鰻料理店が3軒もあった。そういえば、小川町の伝統技術の和紙づくりを見にきたこと、あったっけ。忘れてた。

再びバス停へ。時間通り出発。乗客は、3名。春爛漫の農村風景を堪能しながらの路線バス旅、最高でした。終点の熊谷駅から、東海道に連結している電車ー沼津行き、ボックスシートで、ご機嫌に上野駅帰着。生きているって、こういうことなのだ。

2022年4月1日金曜日

汽車の旅 さくら満開 どこもかも

朝起きて、そらを見上げ、「それ 行け」パターンでない、ちょい旅。前日に、その気になって、北千住駅へ切符を買いに行った。天気予報では、曇り空、とのことだったが、 どうせ車内移動、車内旅行なので、ま、いいかな、と。

ところが、です。北千住駅で、大変なことに。これまであった「みどりの窓口」がなくなっていたのです。スペースを半分にして、自動券売機が2台設置されており、機械の前で、戸惑っている人のおかげで、行列ができていました。学生さんたちが春休みということもあり、並んでいたのは11名。マイクで内部の駅スタッフとオンラインしながら、手順をふんでの券売機。

結構、待ちました、30分ほど。その頃になると、中からお助けマンのスタッフが出てきて、手伝ってくれる。ジパング利用なので、手帳番号、発行年月日などをまず聞かれ、乗りたい列車、時間帯なども。結構な時間がかかり、並んでいる人がいらいらしているのがわかります。ともかく終了し、「近くの駅で、みどりの窓口のある駅って、どこですか」、と尋ねると、「上野駅です」とのお返事でした。

さて、手間をかけて手に入れた切符で、新宿駅へ。7時30分発の特急あずさに乗れました。全席指定です。以前は、自由席があったのですが、いつの間にか指定席だけの特急。座席の上に小さな電池が三ついている。緑は、予約済席、黄色は、このあと停車の駅で、客が乗るかもしれない席、赤色は、当面は、空席、という説明がありました。北千住駅で買ったのは、特急券の自由席だったので、赤色席に着席。ところが、八王子駅手前で、黄色から緑になり、駅で男性が乗ってきた。隣りです、車窓席。サラリーマン風のこの男性、発車すぐ、おにぎり2個を食べ、スマホを取り出して・・・朝日がまぶしいので、窓は、シャッターをおろしています。残念。車窓の景色を楽しみにしている乗客がいるのに。

勝沼ぶどう卿駅は、さくらで有名で、ここからの甲府盆地の景色は、最高です。仕方なく、席を立って列車の出入り口で、いつもの景色を堪能しました。春霞にけぶる景色、一面のぶどう畑、桃の畑、白い花、うすピンクの花がグラデーションになり、とってもきれいでした。

甲府駅に到着。身延線ホームへ。待つことなく、8時45分発の特急ふじかわに乗れました。駅前のお城のさくらは、満開、ジョギングの人が2人。4両編成、車掌1人、スイカOK。結構、乗ってます、20名くらいか。甲府市内を走り、善光寺駅通過。ここの善光寺には、二度、きたことがある。武田信玄時代、戦火を免れるため、長野の善光寺の仏像などが、いっとき引っ越してきた、という話をきいた。右前方には、南アルプス。山頂は、まだまだ雪だが、里は、どこもかも一面花、花、花、春爛漫です。どの駅でも、さくらの木々が植えてあり、どれもこれも、もう満開です。

笛吹川を渡る。市川大門駅というのがあり、市川團十郎発祥の地、とのこと。ここの桜も最高。甲斐岩間駅には、大きなはんこ型の看板に、「ハンコの町六郷」の文字。そっか、ここだったのか。

富士川が眼下に見えはじめ、身延駅に停車。乗客は、ほとんどここで下車。日蓮さんが開いた久遠寺、二度ほど行ったことがあります。どちらも歩き旅。静岡側からの旅でした。

車窓右側の富士川、あちらの岸にも、こちら側も、見事なさくら並木。ぜーんぶ満開。遠くの山々にも、ところどころに山桜か、白い花がてんてんに見えます。気の早い一匹の鯉が、農家の庭で、泳いでいます。じきに富士宮、静岡県です。と、突然、目の前に富士山の雄姿。頂上までしっかり見えます。富士宮の市街地も眼下に広がっています。天気も最高、いいですね。この景色のために、来たのだ。。。

10時30分、富士宮駅着。待っていた東海道線に乗り換える。熱海行きだ。4両で、ワンマン車。結構な乗客率、若い男女がほとんど。ほぼ全員、スマホ熱中族。市内は、大きな工場が多く、煙突が目立つ。右側、国道の向こう側は、沼津から続く千本松原が続く。東海道の旅の時には、なんども歩いた海岸道。ここら辺は、あまり桜はない。沼津、三島、そしてトンネルを出ると熱海駅。

駅周辺をちょっと歩いてみたが、たいそうな人出だった。そこそこに引き上げて、11時45分発の東海道線高崎行きに乗る。この電車は、ボックスシートが最後部、最前部、に二両つづついている。もちろん、最後部のボックスシートに。湯河原駅のさくら、どちらかというと、白っぽい花だが、満開。右は、海、左の山側は、みかん畑。しばらくさくらの満開風景が、楽しめました。

13時45分、上野駅着。熱海駅から2時間かかった。身延線乗りは、3度めだったが、この季節、満開のさくらを愛でる旅、天候にも恵まれ、最高だった。全貌の富士山、あれもよかった。



2022年3月27日日曜日

終点まで12分 流鉄流山線

 ちょいと新松戸あたりまで行ってみるか、と綾瀬から千代田線に乗った。常磐線は、北千住から松戸までの間は、停まらないので、各駅停の地下鉄千代田線しかない(実際には、北千住駅からは、地上走行)。天気もいいし、見慣れた景色を楽しんでいた。馬橋駅、次が新松戸駅。いつもは、南側を眺めていたので、気づかなかったのだ。馬橋駅ホームの北側に、でっかい文字で「りゅうてつ」、とひらがな文字。えっ、といいながら下車。発車直前だった。階段を上がって、行ってみた。駅ホームのはずれに、「流鉄流山線乗り場」とあった。階段を降りながら、思い出した。数年前だったか、乗ったことがある。

スイカはだめで、自販で切符を買う、発車のベル。飛び乗る、閉まる、いいタイミングだった。二両編成、ワンマン車。10名ほど乗っている。車内に各駅間の走行距離、所要時間、それに時刻表が張ってある。始発から終点の流山まで、駅の数は、7つ。

 馬橋ー赤谷ー小金城跡ー鰭ケ崎ー平和台ー流山  総距離 5.7キロ  

                        所要時間 12分

午後2時だったが、乗り降りは、結構ある。時刻表をみると、朝晩の稼働時間帯は、10分おきに出ており、昼間でも3~4本は、走っている。昨今、日本中、あっちこっちで、鉄道の廃線がすすんでいるが、この駅数、所要時間にしてはなかなか健闘している。

そのわけは、すぐにわかった。線路すぐわき(右側)には、びっしり戸建ての住宅、見ると駐車場のない家も。これら住宅の住民たちは、日々の足として流鉄を利用しているのだ。馬橋駅に出て、千代田線に乗れば、40分ほどで大手町へ出られる距離なのだ。電車賃も、最長で200円だった。

線路左側は、はば3mほどの水路で、桜並木。3分咲きほどの桜の下を幼稚園児たちが手をつないで歩いていた。

終点の流山駅に着いた。女性の駅員がいた。

以前ここへきたのは、流山線に乗ることではなく、ここ流山の富士塚を見るのが目的だった。駅前の一本目は、現在の流山街道、も一つ先の万上通りの方が古い。この通りに、浅間神社があり、立派な富士塚がある。幕末、この神社に近藤勇ら新選組が、本陣をおいたことでも知られている。他にもいくつか史跡のある通りである。通りの西は、江戸川の土手。ここから、富士山が見える。当時、水路での江戸からの要路だったのだ。

駅前の流山街道に戻り、京成バスで松戸駅まで。1日に10本しかなく、大型トラックがばんばん走る街道を行く路線バスだ。乗客は、乗った時のひとりは、途中の日大病院で降りた。乗客ひとりの路線バス。停留所に面白い地名があった。「膝丸(ひざまる)」、「主水(もんど)」など。混雑で、1時間もかかってしまった。、これなら12分の流鉄の方が、はるかに速い。

松戸駅から乗った千代田線、途中で、江戸川の鉄橋を渡る。江戸川土手が、菜の花で、まっ黄色な絨毯になっていた。まだまだ陽は、高い。


 



2022年3月22日火曜日

ちょい乗りの旅ー八高線

 がくるのが、だいぶ早くなった。5時半頃から、少しづつ明るくなる。本日は、土曜日、3月19日。夕べ、蔓延防止措置が3月21日まで、その後は、全面解除、旅行もOKになるとの政府発表があった。今朝の新聞には、さっそく見開きの広告ーGO TO トラブルじゃあなくて、トラベルのPR満載。それなら、ちょいと行ってみるか。都心の土日は、混むので、都外、県境を越えた旅も悪くない、なんて、いろいろ言い訳をしながら、上野駅へ。上野の方が、目的地の選択余地が多いから、東京駅より上野駅です。

9時30分発の高崎行き、これにすると決めた。週末なのに、準急並みのアーバンというのもいい。ボックスシートのある最後車両に乗車。乗車率は、土曜日にしては、混んでいるが、ほぼ全員が座れる状態。上野を出て、鶯谷、日暮里、西日暮里を通過、と尾久駅も通過。列車の車庫のある尾久駅、ここには、高崎線も宇都宮線も停車するのに、土曜だからか、アーバンだからか。

赤羽駅には、停まった。これじゃあ座れない、というほどの乗客。ボックスシートを目指す人たちが多いってことか。「ここ、いいですか」、と高齢のご夫妻。どうぞどうぞ、というわけで、着席。座るなり、ご主人、カバンから取り出した本を、めがねをかけて読みはじめる。図書館から借りてきた本だ。奥さんは、といえば、大きな財布をしばらくいじっており、乗車券を確認したり、東京都のシルバーパスを取り出したり。彼女、都民です。熊谷駅で、多くの客が下りたけれど、おふたりは、一向に降りる気配なく、旦那は、めがねをかけたまま、爆睡状態。奥さんの方も、目をつぶっており、結局、終点の高崎駅まで、ご一緒の「旅」でした。あの二人、高崎止まりなのか、その先、どこかへ行くのか、でも、観光じゃあないみたいだけれど、ま、どうでもいいことです。

改札を出て、駅構内を一回り。高崎駅といえば、昔、月2~3回、通ったことがあります。山岳会に属していた頃の話。西上州の山、20峰くらいあり、それらすべてを登頂する、という計画でした。東京をいちばんの電車で出て、高崎駅で上信電鉄で終点の下仁田駅まで乗り、駅から歩いて、目的の山へ、というのが日程でした。山が低いので、だいたい4~5時間で往復可能の登山でした。どちらかというと、妙義山の裏側です。その際には、朝いちばんの高崎での駅うどん、帰りは、下仁田駅近くの茶屋でのこんにゃくの刺身(と日本酒)というのが定番、楽しみでもありました。

この日も、上信電鉄戦の改札近くの立うどん店へ。もちろん、そばもありますが、群馬は、うどん県、うどんの味は、絶品です。すうどん、280円、値段はあまり変わっていない。

さて、八高線のホーム、3番線とあるのに、その3、がなかなかみつからない。2番線ホームの最先端、駅構内からは、ずっと離れていました。11時56分発の高麗川行きは、一両編成、ワンマン車。座れない乗客も。沿線の駅は、すべて無人で、しかし、スイカ使用可でした。そういえば、いつだったか、いちど乗った記憶がある。それと、高崎から、ほぼ八高線沿いの街道を、鎌倉までの歩き旅をしたこともあった。いくつかある鎌倉街道のひとつで、「いざ鎌倉!」の緊急事態の街道なので、途中、宿場がなく、友人の親類の家に泊めてもらった。

八高線は、始発は、本来ならば倉賀野駅だが、いつの間にか、高崎駅になっている。列車は、高麗川駅までと、高麗川駅から八王子駅までの二段階の路線になっている。高麗川駅から、八王子駅の方が、乗客が多く、車両も多い。

車窓からの景色、もう春だ。でも、麦畑が多い。青々とした麦が、ずーと、続いている、ところどことに菜の花の黄色、れんげ草のピンクがいい感じ。春ですね。高崎から67キロを約1時間で高麗川駅着。ここで、川越線に乗り換え、大宮経由で、神明町には、4時すぎ帰着、今日もいい旅でした。



2022年3月16日水曜日

華厳の滝で拾ったご縁(五円) 路線の旅日光

 いつものように朝4時、雨は降っていなかったが、曇り空。昨日、洗濯したし、布団も干したし、今日は、どうするか。ストレッチ、体操、エアロバイクにも乗った。般若心経もあげた。朝のルーティングもすませ、6時30分。東の空が明るくなってきた。空が青い。

昨日、買ってきたばかりの、今月から大幅に更新されるというJRの時刻表、パッとひろげたら「わたらせ渓谷鉄道」のページ。

  「行くか」、「行こうか」、「行こう」。。。。。

ちょっと厚着をして、ペットボトルに水を入れて、玄関を出る。7時10分のバスに乗る。北千住駅は、通勤の人たちで、もう混みはじめていた。駅売店でコロッケパンを2個買う。特急列車ホームへ。5~6人乗客。ここで待つこと40分。

8時15分のけごんスペーシア日光行き、全座席指定だけれど、始発の浅草からの客は、おらず、北千住から3名のみ。週末以外は、毎日、こんな状態で走っているのか。自宅の水道の水を飲みながら、コロッケパンを食べながら、これから職場へ、学校へ急ぐ人たちの姿を見ながら、「こちらは、旅ですよ」。月曜の朝、空は青空、いい日、旅立ち。

8時50分、利根川の鉄橋を渡る。土手は、菜の花で、まっ黄色。大谷石の蔵のある農家が点在する。畑は、もう春です。春霞で、遠くは、見えない。

9時47分、東武日光着。日光には、宇都宮からのJR日光駅もある。まっすぐバス停へ。

「えっ 出たばかり」、9時30分、本日二本目のバス。なにしろ、一日6本しかない足尾銅山(旧)の病院行きのバス、日光市民のためのバスなのだ。3時間半、どうやって時間をつぶすか。上(中禅寺湖)へ上るバス停では、待つ人4名だったので、決定、中禅寺湖に行くことにした。混んでいた頃と比べると、信じられないほどのがら空き状態。いろは坂も空いていた。30分ほどで、中禅寺湖着。道路わきには、残雪が残っており、しかし、まったく寒くはなかった。

人っけはなく、みやげ物店、食堂なども、多くが閉まっている。華厳の滝、入場料窓口にも人の姿はない。料金を払わず、ただで見ることが出来るところへ。階段を下りると、目の前に華厳の滝。雪解けなのに、水は少ない。迫力なし。と足元に発見、五円玉。周辺にダレも居らず、拾いました。ついている、ご縁があるはず、ポケットに入れた。

修学旅行なのか、バスが何台も通る。華厳の滝へ行くらしい。さっき降りたバス停に戻る。とすぐに、東武日光駅行きのバス、湯本からのバスがやってきた。乗る。「ついているねえ」、とポケットのご縁玉に触れた。帰り(下り)のいろは坂も、スムーズ。なにしろ月曜日だし、ご縁だもんね。

12時15分、駅に着いてしまった。足尾行きバスは、13時7分。昼食、どうするか。開いている食堂、結構、いい値段だ。コンビニでおにぎりを買う。日光には、コンビニが二軒しかない。駅近くの一軒に。駅舎の外のベンチで、山々を、青空を見ながら、お昼ご飯。

時間通り、バスがきた。マイクロバスで、10名ほどの座席。男性がひとり、のみ。町営なので、地元乗客は、別料金だけれども、外部のお客さんは、高め料金、それも現金払いのみ。道路は、それほど広くは、ないけれど、足尾を抜けて、桐生方向につながっている。周辺は、山と沢、廃屋もいくつか見える。足尾銅山最盛期時代には、人口は、多かったにちがいない。長いトンネルを抜けると、人家が見えてきた。

1時半、間藤駅に着いた。約30分、乗車賃は、現金で、1120円。無人駅、なんどか来たことがある。時刻表を見ると、出たばかりで、次の電車は3時9分。1時間半ほど、待たねばならない。幸運の五円玉、ぜんぜん、ご利益、ないんじゃないの。でも、ここまできて、他に選択の余地はなく、とにかく、待つしかない。周辺を歩いても、なーんにもない。山しかない。

駅の案内版によると、足尾銅山全盛期の頃、中国人、朝鮮人が働いていたらしい。近くに、中国人捕虜収容所跡、朝鮮人供養塔、という記述があった。見る人が見ると、国際問題に発展しそうな、史実、そんな気がした。

上着14時45分に、電車が来た。終点で降りた客は、女性1名。ワンマン車の運転手さんが、をぬいで、車内掃除を始めた。終わると「お客さーん、乗ってていいですよ」、と。時間ぴったりに出発。一両編成の運転手と客一名。この先、相老駅で降りるまで、乗った客は10名以内だった。これじゃあ、クラウドファンディングをしても、持たないはず。それでも、春になり、桜が咲く頃は、トロッコ列車も走るので、賑わうのだろう。無人駅前の広場で、猿(野生)が3匹、珍しそうに電車を眺めていた。

1時間20分かかって相老駅に着く。料金1070円。北千住まで2270円、赤城リバティりょうもう特急に乗車。ここでも45分間、待った。華厳の滝の五円は、ほとんど、「いいご縁」の効果がなかった。

それでも、北千住駅には、6時50分に着いた。朝、うちを出て、12時間、結構、長ーい、一日だった。くたびれたけれど、ま、これも、ちょい旅。

2022年3月12日土曜日

あの日、東京でも10万人が、の事実

 ウクライナで、ロシア軍が町ぐるみ破壊を続けています。一般市民が逃げ惑う姿が、テレビのニュース番組で、繰り返されています。世界中の人たちが、こうしたシーンを見ながら、しかし、なんの手助けも出来ない、どうなる、どうする、を繰り返しながら。

こんなテレビを観てばかりいないで、どっか、出かけなければ、と、久しぶりに都心へ。山手線で、新橋駅へ。ゆりかもめ、に乗りました。たまには、海を見よう、と。人流を気にしながら。

新橋駅から終点の豊洲まで、30分くらいかな。ま昼だったので、乗客は、ほんのちらほら。お天気は、最高だったけれど、春霞がかかっていて、スカイツリーあたりは、ぼーとしています。座席は、いつものこだわりで、六両編成のいちばん前か、いちばん後ろの席、ここは、窓が全面ガラス張りで、東京湾の景色を堪能できます。この日は、最後部。始発から終点まで、他に乗客は来ずに、独占状態だった。

この5,6年の間、まったくご無沙汰だったけれど、それ以前、一年に一度、必ず乗ったことがあった。お台場の海浜公園で、毎年開催されていた「24時間チャリティーランニング大会」に、参加していました。いつも、ゆりかもめを利用していました。

東京ベイエリアは、本当に、別世界、高層ビル群だらけで、これには、びっくりしたり、感動したり。終点の豊洲駅に着く頃の車中は、乗客は、2人しか乗っておらず、運転手もいない電車なので、ま、こんなもんか、と。それにしても、この電車、いったいどうやって走っているのだろうか。

豊洲駅構内をさがしても、説明パンフレットらしきものはなく、改札近くの受付オフィス、にヒマそうな係のお兄さんに、

「あのう、ゆりかもめって、モノレールじゃあないですよね」と、「どういう仕組みで走っているんですか」、と尋ねると、ちょっとお待ちください、と事務所の中へ。説明書みたいなのを持ってきて、説明してくれました。

電車の車輪は、4個のゴムタイヤです。エネルギーは、電気使用、とのことです。だから線路なし、接触用の電柱もない。その説明書は、いただけないのですか、と懇願したものの、前には、沢山あったんですが、残部なしなので、「ごめんなさい」、と。この間、15分ほどだったけれど、他に客なし。ゆりかもめは、モノレールでは、ありません。

ゆりかもめ豊洲駅から外に出る。ここら辺は、はじめてではない。東銀座方面から都バスのスカイツリー行きに乗ると、ここを通るのを、承知していました。東劇でシネオペ(オペラを映像で見る)のシリーズを観ていた頃は、このバスを愛用していました。

深川の木場あたりをまわり、清洲橋を渡り、吾妻橋手前で右折、目の前に、でかいスカイツリー。634m(むさし)というのと、オープンが5月22日(自分の誕生日と同じ日)だったので、この数字は、しっかり覚えています。いつもは、ここでバスを降り(終点)まっすぐ東武線の業平橋駅へ、今は、スカイツリーライン駅っていうんですが。

エスカレーターで、4階へ。ここで搭乗券を買う。修学旅行の学生さんたちと、エレベーターで、50秒でいっきに第一展望台に到着。この上へのエレベーターは、別料金です。ここまでは、2100円。ここで十分です。スカイツリーは4回め。すぐ下に隅田川。両国橋、吾妻橋、言問橋などは、見えるが、東京タワーは、うっすら見える。右回りの下界は、本所あたりだ。高層ビルは、それほどない地区。それでも、民家がびっしりだ。

今から77年前、1945年、アメリカのB29爆撃機が、焼夷弾を雨のように落とし、本所など下町一帯がまたたく間に大火災。当時の日本の家屋は、紙と木材で出来ていたために、消化する間もなく灰となった。『日本のいちばん長い日』という著書で、ご自身の体験で語った半藤一利さん。吾妻橋あたりは、逃げ惑う人たちで大混乱、川には、死体が積み重なるように流れていた、と悲惨な事実を書いている。

ウクライナの人たちの惨状は、77年前の東京下町の大惨状と重なる。東京大空襲の方が、何倍もの死傷者だったことを、忘れたわけではない。戦争という名の、愚かな人間たちの争い、いつまで続くのか、繰り返されるのか。






2022年3月10日木曜日

王子の卵焼き と 焼売(しゅうまい)

 王子駅、久しぶりでした。

埼玉の高齢者団体のお手伝いをしていた頃、帰りがけのルートは、王子駅経由で、ここから都電に乗るか、都バスに乗るか、いずれもシルバーパス可能なのです。その王子駅周辺には、飛鳥山公園があり、博物館が3つもある。公園は、四季それぞれ、風情があり、特に春の桜は、見事です。ただ、花見見物人が多いのが難。

王子駅で下車すると、楽しみなのが、卵焼きと焼売です。

卵焼きは、JR王寺駅の裏側すぐのところにある『王子扇屋』。卵焼きしか売ってない、屋台風の店です。実際に卵を焼いている調理場は、奥の方にあるはずですか、売っているところは、気付かずに通りすぎてしまう。

ところが、です。この扇屋さん、昔は、料亭だった。1684年創業というから、江戸時代からの老舗。広重の絵に登場する立派な料亭で、この卵焼きを、江戸の人たちも味わっていたなんて、ロマンを感じます。今は、ちなみに、日本橋高島屋で買えるとのこと。値段は、本店(?)と同じ650円。

これまで、なんどか買いに行ったことがあり、いつも、店番兼料理人の高齢のご主人だったのに、この日は、女性(やっぱり高齢)だった。そっか、ご主人、もしかして亡くなったのかな、と。しばらくして、もうひとりお客さん。常連さんらしい。特に急ぐでもなく、中から出てくる店の人を待つ。「甘すぎず、それでも味がしっかりしていて、ね」、というので「そうですよね、うまいんだよね」。

おしゃべりをしていると、後ろから声がかかった。「毎度、ありがとうございます」、と、見るとあのおやじさん。白いYシャッツに、紺色の背広姿、杖をついていたが、まちがいなく扇屋のおやじさんだった。今日は、町会の寄り合いがあったんでね、とのこと。「コロナで大変ですね」、というと、うちは、都や国などから、オカネもらってないけど、ま、いつものように、好きにやってるんでね、とのこと。なるほど、なるほど。この日も、650円の卵焼き、おいしくいただきました。

もう一軒は、焼売。王子駅前の反対側、「お札と切手の博物館」沿いにある豚肉専門店。息子と、その母(90歳くらい)のふたりでやっている店。息子は、肉を切っており、お母さんは、豚肉の焼売、ぎょうざを調理、それに店番役。肉の販売が主だが、焼売、ぎょうざも、結構、売れている。客が来ると、「ばっちゃん、お客さんだよ」、と息子が声をかける。中の方から、ばっちゃんが「あいよ」、と出てくる。いつだったか、トシを聞くと、もうじき90だよ、と息子。買うのは、いつも焼売。380円。買わない日も、なんとなく気になり、店番さん、健在かな、と覗いている。焼売、でかくて、6個入り。味、抜群。

帰りのルートは、本日は、都バス。王子駅から北千住駅まで、約40分。1時間に1本という路線バス。10分ほど走ると、北区から足立区に入る。足立の西の端、新田地区。ここに大きな団地ができた。「ハートアイランド」という高層ビル住宅地で、バスは、ビル群の中をぐるぐる回る。ここの小中一貫校(足立区立)に、うちの近くの子どもが通学しているので、存在は知っていた。

ハートアイランドを出ると、荒川土手。右に墨田川、左は荒川で、バスは、土手下の道路に沿って走る。住宅は、ほとんどないので、乗り降り客は、ほぼゼロ。

ここは、赤羽駅からのルートで、荒川に架かる江北橋、扇橋、西新井橋を見ながら、千住新橋をすぎ、堀切橋を渡って、堀切から綾瀬、そして神明町と3~4時間かけて自宅までを、月1~2回は、歩いていた。おかげで、11年前の東北大震災の日、浦和駅から神明町まで6時間ほどかけて、歩くことができた。

途中の江北橋の宮城側には、富士塚のある氷川神社、墨田川向こう側には、荒川遊園地が見える(今は、工事中)。西新井橋で、土手とわかれて側に右折。周辺は、最近、大学が新設され、若い人たちで賑わっている。ここから、10分も乗れば、北千住駅だ。



2022年3月6日日曜日

東武アーバンパークライン

 若気(わかげ)のいたり、っていうのが、いくつもあった。

フランスとの国境を越えて、スペインへ。トラックの荷台に乗り、幌をかけて、ピレーネ山脈を越えて、スペイン側の地元教会へ。スペインの州独立派を激励するため、というのが、たしか目的だった、ような気がする。あまり確かではないけれど、政治的な国際会議に出席の仲間たちが参加し、それに加わった、ということ。その時の、全員が、目隠して撮った教会での集合写真が、日本に送られてきたので、あれは、事実のことだった。

思考回路が狂ったようなプーチンの暴挙、毎日、そればっかり見ているうちに、そんな昔のことを思い出した。そんな日常から抜け出したくて、出かけた。どこでもよかった。

とりあえず、線路のあるところ。西新井駅から東武線に乗った。どこへ行くか、どこで降りるかを決めずに。急行や、快速ではなくて、考えるため、すぐに降りられるように、ドン行(普通)に乗車。竹の塚(東京都)から谷塚(埼玉県)へ。越谷をすぎ、車内アナウンスが春日部、というので、下車。ここを、東武野田線が通っている。

ホームへ出ると、すぐにきたのが普通列車の船橋行き。これに乗った。昼すぎなので、乗客はちらほろ。空いている。乳母車に乗った赤ん坊が、大声で、わけのわからない歌をうたっていた。お母さんは、スマホに熱中していて、気にする気配もない。わりと近くで、サラリーマン風の男性が、カバンを抱えたままで、爆睡している。電車は、まじめに、各駅に停車。コロナ対策で、窓開け中なので、寒い。でも、こういう車中にいることが、なんともいえない、いい感じなのです。

駅に着いても、乗る人はなく、降りる人もいない。沿線はといえば、駅周辺は、戸建ての家が多く、しかし、まだまだ、たんぼや畑がいっぱい残っている。白い梅の花が咲いている。間もなく清水公園駅。公園には、バラを見にきたことがある。野田市は、あのキッコーマン醬油の発祥の地だ。醤油工場が並んでいる。

野田市で、思い出した。20年くらい前のこと。夏山の北アルプス、常念岳頂上近くで、5名の女性グループに会った。うち一人が体調が悪くなり、みんなで、心配している様子。で、こちらは、単独行、ここら辺の山は、ワケ知りなので、お助けマン、ということで、彼女のザックを持ってあげて、小屋まで、ご案内。そのことがきっかけで、リーダー格のNさんと知り合いに。Nさんは、松戸の病院の看護師さんで、野田市の住人。ある時「うちの庭の栗、たくさんあって、困っているので、採りにきて欲しい」との連絡。もちろん、すぐに参上。

Nさん宅は、元農家。広ーい敷地で、庭には、栗の木が10本ほどあり、畑も広く、ご近所さんたちに開放していた。ご自分は、新築の瀟洒な2階建てに住んでいた。もともと山菜採りや、栗ひろいが趣味だったこともあり、秋になると、野田通いを楽しんだ。拾ったばかりの栗を、庭で火を焚いて、大きな釜で茹であげ、ひとつづつ実を取出す作業。20キロ近くを背負って、つくばエキスプレスで八潮駅まで。わが家のベランダで、3日間ほど干して、ご近所さんにプレゼント。秋のいい思い出。

東武野田線は、今は、東武アーバンパークラインという。乗ってみて、Urban(都会)というよりも、Local(田舎)という感じ。大宮駅から船橋駅までの約60キロ、沿線には、計画なしの戸建てやアパート群があるけれど、たんぼ、畑、やぶ地が多い。こういう路線、首都圏には、いくつもあるんじゃないか。

一日中、いい天気だったので、夕日がきれい。風は、つめたい、でも、なんとなく、いい気分だった。やっぱり、乗り鉄。やめられない。



2022年3月2日水曜日

久しぶりの「山手線一周」 乗り鉄

月曜日なので、そう混んではいないはず、と出かけました珍しく都心です。しっかり都心ー山手線を一周してみました。

3月1日、春いちばんの旅です。

上野駅をスタート。時間は、11時30分。電車は、そう混んではおらず、鶯谷から池袋方面へ。

電車のタイプ、しばらく乗らない間に、随分、よくなっています。車内の広告が、貼り付けの紙広告ではなく、動画です。

①予備校 合格者が、私は、この予備校でがんばりました。合格しました。

②新発売 缶入り赤ワイン、白ワイン、男女の俳優さんが乾  杯!

③美容外科 ムダ毛の手術は、

④ふるさと納税 北海道の町の宣伝

⑤リクルート 転職をサポートします

⑥韓国医療 美容系

⑦東京都のPR,お知らせ 職業訓練所、だまされない

⑧デイズ二ーランドの特集のお知らせ

⑨東京スター銀行

⑩スキンクリニック 男性頭髪ケア 

こうした動画が、繰り返し、繰り返し出てきます。乗客のみなさんは、といえばスマホに忙しく、あまり見ていない。電車は、混んでおらず、ほぼ全員が座れる状態です。約1時間、たのしかった。

  上野をあとに池袋 走る電車は内まわり わたしゃ近頃外まわり 

  彼女の招いたうぐいす芸者 日暮里笑ったあのえくぼ

  田端を売っても 命がけ  想うはあの娘(こ)のことばかり

  この胸のうち 駒込と 愛の巣鴨に伝えたい

  大塚なびっくり度胸をきめて 彼女に会いに池袋

  高田の馬場や 新大久保のおじさんの意見など

  新宿聞いてはいられません

  代々木になったら家を出て 原宿減ったら 渋谷顔

  彼女に会ったら 恵比寿

  おやじのいきてて目黒いうちは 俺もいささか五反田

  大崎まっ暗 恋の島 

  彼女に贈るプレゼント どんな品川よいのやら

  田町にゃ夢中で踊るよな 色よい返事を浜松町

  そのことばかりが新橋で だれに悩みを有楽町

  想った私が す東京なんだ神田の行き違い

  彼女はとうに秋葉原 ほんに御徒なことばかり

  山手は暮れ行く 恋でした。

          (その後、追加された新駅2つを除く)

  高校時代、今から〇〇年前、上野鈴本亭に通って、覚えた落語の一節です。ま  だ覚えていた。この5月22日、84歳になる予定です。

  


  

2022年2月28日月曜日

青空だ どこへ行こうか 筑波山

洗濯ものも乾いたし、昼ご飯も食べたし、ウクライナが気になるけれど、出かけるか。昨日は、ほぼ一日、テレビ、ラジオに釘づけ。「わがロシアには、核もある」と 発言していたプーチン。戦闘服姿のルカシェンコ大統領「なにがなんでも、わが祖国ウクライナを守る」との悲痛発言。

どうなることやら、ベランダから空を眺めていたら、「どうなるわけでもない」、「行くっきゃあない」、といいながら、出かけることに。ペットボトルに水を入れて、この範囲でのお出かけです。

北千住駅は、日曜日だし、晴天なので、この人出。人流をさけて、改札に。電車に乗ります。都心じゃあなくて、郊外へ。すぐに来たのが、特別快速土浦行き。14時18分。もちろん、いつものように最後部のボックスシート車に乗車。トシの頃、同じくらいかな、高齢の女性が座っていた。手提げかばんから出した印刷物を読んでいる。盗み見すると、都内の福音協会とある。なるほど、今日は、日曜日、教会帰りなんです。こちらは、取手駅で下車されました。

雲ひとつない、すばらしい天気。いい日、旅立ちです。中川、江戸川、利根川、小貝川を鉄橋で渡り、荒川沖の次が土浦駅。終点です。さあ、どうするか。車窓からの景色に感動していて、土浦から先のことは、考えていなかった。北千住~土浦間は、990円。

改札を出ると、駅構内には、店舗が多い。松戸駅、取手駅などより多い。覗くと、水戸産のおみやげ、納豆、納豆菓子などもあった。

駅から外へ出る。と、右手向こうに山。筑波山だ。決めた、つくばへ行こう。バスがあるはずだ。バスターミナルで「つくば行き」のバスがとまっていたので、運転手さんに「エキスプレスのつくば駅に行きますか」、と尋ねると、OK.もちろん、都発行のシルバーパスは使えない。日曜日だからか、客は6名、少ない。前方右に筑波山をみながら走る。

と車内アナウンス「わたしたちの茨城県にようこそ。茨城には、いい所が沢山あります。しかし、よく知られていないのが、残念です。途中、いい所を、ご案内します」、と女性の声です。国際興業バスの土浦駅からつくばセンター行き、その間、それらしきご案内、ありませんでしたが。

しばらく走って、左折。筑波山の勇姿が、かなり近くなってきた。ひろーい田んぼの中の山、かっこいい。小貝川を渡ると、つくば学園都市に入る。20階以上もあるかな、高層アパート群が続く。こんなに大勢の人たちが、ここで働いているのか。つくば市へは、反対側ー北側ばかり通っていたので、南側から入るのは、はじめて。知らなかった。そういえば、何年だったか、つくば博覧会、来ているのに、なーんにも思い出さない、出せない。

間もなく、バスセンターに到着。運転手さんが「あそこの階段を下りると、駅だから」と教えてくれた。地下構内、人気(ひとけ)、ほとんどない。レストラン、コンビニ、それにつくば物産店が二軒あった。もう帰るだけなので、店を覗いてみる。さすが、ここでは、水戸産はなかった。野菜ーきゅうり、大根、ニンジンなど、ニンニクもある、さつま芋、やき芋もあった。売れ残りか、ふきのとうがひとつあった。サイズは、小さい。15個ほどで、230円。買ってしまった。手づくりパンもあり、値引きで1個100円のあんぱんを買った。改札の手前に、小さなお店。日本酒の立ち飲み店だった。一升瓶が並んでおり、縁台が3つ並んでいた。へえ、やるねえ、帰りがけに一杯、っていうわけですね。自家用車は、だめ、バスで帰る人、OK。

4時すぎ、秋葉原行きのどん行に乗車。下車の八潮駅は、快速、急行が止まらない。ここでも電車は、がら空きで、きれいな夕日を眺めながら、本日も、いい旅だった、と超満足の一日でした。5時30分、神明町帰着。




2022年2月26日土曜日

人生を変えたオデッサの「戦艦ポチョムキン」

 黒海の港町オデッサ、沖に停泊中の船、「戦艦ポチョムキン」、船上で乗組員兵士と、船長が衝突。食事はじめ、船上での生活改善を要求する兵士たちが、反乱を起こしたのだ。勝利を勝ち取った兵士たちが、船上に赤旗を立てる。集まってきた市民たち。と、突然、現れたコザック兵士たちの発砲で、船上の兵士、市民らが逃げ惑う。その時、乳母車を押していた母親が、その手を放してしまう。階段のいちばん上から母親の手を離れた乳母車、赤ん坊を乗せたまま、ガタン、ガタンと落ちていく。

オデッサの階段は、今は、観光名所として残されており、そのオデッサは、ウクライナの港町。ロシア革命の運動の拠点で、ロシア社会民主労働党bがここでされた(1900年)。

監督ポチョムキンの映画を見たのは、今から60年前のこと。大学の卒業論文のテーマが「ロシア革命における社会民主労働党とボルシェビキ派」。二月革命後、オデッサに臨時政府ができた。というわけで、革命思考の青春時代を送ることになった。日本だけでなく、独立したばかりの後進国を、なんとしても助けなければ、なんて、真剣に考えていました。

ミンスクには、モスクワから列車で往復したことがある。滞在期間が1日だったので、町の印象は、ほとんどない。当時は、ソヴィエト連邦のメンバー国家のひとつだった。日本に帰ってから、ウクライナで見た衣装が気に入り、撮ってきた写真をもとに、コサック風の上着を作って、着ていた。2~3年間、愛用していたが、写真が残っていないのは、残念。

その後、国連の仕事で、スーダンに赴任した際、ホテル住まいをしていたが、そのホテル、オーナーがギリシャ国籍のウクライナ人だった。ホテルの名が「アクアポール」。食事に、ときどきピロシキが出てきた。

留学していたイスラエルで、ウクライナに住んでいたというユダヤ人(イスラエル人)の友人がいた。オデッサには、ユダヤ人が多く住んでいて、スターリン時代に数千人が殺された、ということを、彼は、話してくれた。今も、オデッサには、ユダヤ人のコミュニティ(ゲット)がある。

ここのところ、毎日、ロシアのプーチン大統領の映像、侵略されているウクライナの様子を見ている。核兵器があるよ、とちらちらさせながら、西側陣営を牽制しているモスクワのドン、この先、ウクライナは、どうなることやら。

2022年2月25日金曜日

東京都発行のシルバーパス、越境使用可

 今年の二月は、カレンダーの赤丸がふたつ。そのふたつめの23日、上天気なので洗濯、ふとん干しを挙行。昼すぎに片付けをすませ、時計をみたら、いい時間じゃないの。西新井行きのコミュニティバスの時間、一日5本しか走っていないバス。うちの玄関から、300歩のところが神明停留所。13時8分発、お出かけしました。

バスのサイズが小さいので、細かいルートで西新井駅へ。客は、4名、25分で終点の西新井駅に到着。さあ、ここからどこへ行くか。

駅前のバスターミナル、2台のバスが止まっている。両方とも、赤羽行き。ひとつは、最近、荒川区の尾久から引っ越してきた東京医療センター経由の路線で、赤羽駅へ。もひとつは、足立区から埼玉県に入り、川口から荒川を渡って、都内に戻り、赤羽駅へ、というルート。いずれも乗車時間は、40~50分。さあ、どちらにするか、と考えるヒマもなく、医療センター行きが出発してしまった。乗客は数名。祝日の昼間だもんね。

で、本日の路線バス乗りは、越境バス。5分ほど待って13時55分、出発。足立区内は、東武バスが主流で、次が都バスだが、このバスは、国際興業バス。車内には全国に展開する国際興業グループのホテルの写真がぶら下がっている。

運転手さんに、終点の赤羽駅まで行きたいんだけれどと、シルバーパス(東京都発行)、使えるかどうかを尋ねると「埼玉県内の停留所でおりなければ、大丈夫です」との返事。

西新井駅から、環七に出る。祝日だからか、車が多く、お大師までの道、かなり混んでいた。大師前の東武バス車庫で5人乗車。そのあとは、ほとんど裏道の狭い道路を走る。右、左をなんどか曲がり、足立工業高校へ。停留所になんと、Adachi Technical High Schoolと外国語で書いてあった。すごい! スレスレの細い道が続く。尾久橋通りが見える。日暮里舎人ライナーが走っている。間もなく西新井大師西駅。鹿浜の産業道路をすぎると、土手が見え、新荒川橋を渡る。埼玉県に入りました。

新荒川のこちら側も、あちら側も、超大きな建物群で、倉庫なども多い。佐川急便の倉庫は、かなりの大きさ。そういえば、モンゴルの首都ウランバートルで、佐川急便の、あの車体の絵、そのまんまで走っているのを、なんどもみかけました。運転手の男性が、日本人顔なので、びっくり。

10ほど走ると、バスは、南方角に舵をきり、荒川を渡る。荒川大橋を渡ると東京都だ。橋の下は、ゴルフ場、左方向には、東京都の農業公園、手前には、岩淵水門が見える。あそこで、隅田川とわかれるんだ。バス乗客は、15,6名。埼玉県内での乗客だ。この人たちの運賃、埼玉県内から、都内に入るわけで、どうなっているのか。橋から赤羽駅までは、数分。14時35分、到着。

バスターミナルには、別のバスが客を乗せたまま、止まっていた。見ると、医療センター経由の西新井駅行き。考えもせず、飛び乗った。と、すぐに出発、14時40分発。こちらは、ほぼ満席の客。東京都民ー都発行のシルバーパス利用者がほとんど。ルートは、ルートは、大きな道路で、沿線の景色は、おもしろくない。一軒だけだったけれど、国旗を掲揚している家があった。国民祝日、天皇誕生日、どれくらいの人たちが、なんの祝日なのかを、意識しているのかな、と思った。

この日の路線バス乗りは、天気も良く、行きの路線、楽しかった。せまーい道をゆっくり走るバス、周辺の景色がよく見え、乗り降りする客もおり、田舎のバスの感覚だった。都内でも、こんなところを走っている路線バスが、まだまだあるんです。コロナ禍、近場での楽しみ、めっけ、の半日でした。






2022年2月23日水曜日

春です、ふきのとう、食べました

 朝の散歩コース、運河なので、水が動かず、ほぼ毎朝、水面は凍っています。春は、まだまだ、と思っていたら、見つけました、ふきのとう。まだ、採るには、ちょいと早い。すぐに思い出しました。ふきのとう、沢山出る場所、あそこへ行けば、必ずある、という場所、秘密の場所を知っています。

翌日、行ってみました。ありました。ほぼ両手にいっぱい、という収穫です。どこか、場所は言えません。持ち帰り、料理してみました、今季はじめての山菜です。レシピは、いろいろあるようですが、ふき、といえばこれです。「酢味噌あえ」。熱湯をさっとくぐらせて、丁寧にきざみ、味噌、酢でまぜる、それだけなんです。仙台から送ってもらった宮城産の「つや姫」でいただきました。お米が主役でなく、ふきのとう酢味噌、が主役の食事。

「あーうまい、うまいなあ、やっぱりうまい」。

これで、気分は、もう春です。ふきの、ちょっと苦い感じ、これがなんともいえない。からだいっぱい春を実感。幸せ、生きていてよかった、本当によかった、です。

足立区内だけでも、以前は、ふきのとうは、どこにもありました。毎年、毎年、採れる場所は減り、今は、あそこ、だけです。それでも、よかった、今年も出てくれて、ありがとう。

なせか、山菜採りが好きなんです。この時季になると、血が騒ぐというか、まだかな、出たかな、と気になります。日本中を歩き回っていた頃は、行き先々での山菜採り、本当に楽しみでした。奥の細道の旅、東北で、ちょうど、この季節だったので、ずいぶん、山菜採りをしました。歩きながらなので、わらび、うど、たらの芽などでした。宿泊の民宿周辺で早朝の山菜採りで、採ってきたばかりの山菜を味噌汁に入れて食べました。

そうそう外国での山菜採り、実行しました。ロンドンでは、郊外の公園で、わらび。スイスの山岳地帯で、ふきのとうをみつけ、ざる一杯をゲット。スイス人の友人宅で食べました、たしか、天ぷらにしたような気がします。オーストラリアでは、メルボルン郊外の友人の別荘の庭で、わらびを発見。塩ゆでにして、マヨネーズをつけて食べました。みなさん、感動してました。たいへんなことになったのは、フィンランドでのこと。あの国は、地面が岩盤でできており、土を採ることは禁じられている、法律で禁止されているのです。そのことを知らず、「めっけた」、とふきのとうを採ろうしたら、フィンランド人の友人から、「だめっ、だめ、です」と大声で叱られました。法律違反、知らずにいたら、逮捕されるところでした。

日本国内でも、ずいぶんあちこちでの山菜採りを、実行しました。山菜採りを目的の旅でいちばん通ったのは、水上の奥・藤原です。豪雪で、天気予報にどきどき登場している地域です。飛騨の穂高温泉、あそこの雪解け時のふきのとう、最高でした。クロカンの練習のために通った乗鞍高原の山菜も圧巻でした。北アルプスは、黒部川のたらの芽、小屋に持っていったら、ご主人に叱られたけれど、あげたら小さい声で、お礼をいわれました。

2022年2月17日木曜日

JR赤字路線、6割だって !

 困るんですよ、そう簡単に廃線されては、困る。

新聞に、国交省発表として、JR全路線の57%以上が、廃線になると。そもそもJRが民営化して、無人駅が増え、路線は廃止され、バスに変わるというプロセスが進んでいることは、よーく承知していました。でもねえー

無人駅では、ずいぶんとお世話になりました。

かれこれ15,6年ほど、通い続けた熊野古道の旅。東京から名古屋まで新幹線、その先は、紀伊半島をぐるっと走る紀勢線で熊野、新宮、田辺など、古道歩きの駅まで乗車。速玉神社、熊野大社などへの下車駅ー紀伊勝浦駅は、無人駅でした。出入りは、ガラス戸で、閉まるので駅舎内で寝泊まりするには、好都合でした。ベンチや、土間に段ボールを敷いて、寝ました。早い時間に列車の終電となるので、無人駅での宿泊は、最高。なにしろ、無料ですから。まさに、「Staition Hotel」。3,4回は、利用しました。

新宿駅から、中央線で、特急あずさに乗ると、「みなみ小谷(おたり)行き」が、終点です。松本駅をすぎて、大糸線に入り、車窓左側に北アルプスの山々をながめながらの、乗り鉄は、な最高。春、夏、秋、冬を通して、どの季節でも最高です。松本を出ると、乗客はほとんどおらず、いつ乗っても、貸し切り状態。で、終点の南小谷駅で下車すると、小さな駅構内売店がある。高齢の男性が店番。駅周辺に店屋がないので、菓子パンや、飲み物があるだけの店。白馬など、観光地は遠く、だから、みやげモノはない。店番じいさんに、新宿駅で買った手土産を持っていったことがある。と、その日は、なぜか、店は開いていなかった。しかたなく、その先の大糸線糸魚川までの車中で、東京みやげのお菓子を、食べたのを思い出した。どうなっているかな、小谷駅の今。

敦賀駅で、ねぎを拾った、そんなことがあった。西国巡礼を終えて、あそこら辺の鉄道乗りをしていた。小浜線で敦賀駅に着き、京都方面へ行くつもりで、乗り換えの階段を上ったところで、ねぎの束を発見。周辺を見たが、乗客は、おらず、まだ泥のついているねぎ束、どうするか、と迷っているうちに、北陸線の列車入線のアナウンス。どうするか、と一瞬迷ったけれど、そのままホームへ。下車したばかりの小浜線のホームを見たけれど、乗客なし。持ったまま乗車。車内は、空いていたけれど、強烈なねぎの匂い。これで新幹線に、とおもうと、なんとかしなくては。ザック内の荷物を出して、ねぎを入れ、出した荷物を手荷物にして、東京駅へ。ねぎの匂い、大丈夫かな、と気にしながらの新幹線だった。

千葉の五井駅。小湊線に乗るつもりで、出発駅の五井で下車。乗り換えのため、階段を上がった所で、高齢女性のお弁当屋さん。種類は、いくつもなく、いちばん安いのが、赤飯弁当。300円。買おうかと、「次の小湊線、何時?」、と尋ねると、「今出たばかりだから、あと1時間は、ないよ」とのこと。あまり気乗りがしなかったので、そのまま、戻って内房線に乗ることに。弁当は、買わなかった。その後、数か月後、五井駅へ。こんどは、時刻表で調べていったので、待たずに、すんなり乗車。お弁当屋さんに「やっぱり乗りたくてまた来ちゃった」というと、ゆでたまごを一個くれて「よく戻ってきてくれた」、と。もちろん300円の赤飯稲荷を一個、買いました。

コロナで、新幹線も赤字のようで、いつ乗っても、空いています。そんな中、地方の路線はますます赤字で、廃線やむなしの現状。北海道や、四国など、観光客で結構、持ちこたえていた路線も、廃線やむなしの現状のようです。地方でも、みなさん、自家用車利用があたりまえの昨今、輸入に頼っているわが日本、この先、どうなるのか。EV(電気自動車)化が叫ばれているけれど。乗り鉄愛好者、これから、どうするか。





2022年2月13日日曜日

朗報です、シンガポールから

「生まれたよ、ベイビー 」、と叫ぶような電話。シンガポールからです。友人、Dr.Loo Choon Yongの娘Sara,結婚してから、どれくらい経ったんだろう。1985年だったか、彼女たちの結婚式に招待され、母とシンガポールへ。Sara は、生まれた時から、わが家になんどもきていた。日本のスキー場にも、連れて行き、スキーを教えたこともあった。結婚式には、両親で、ということで、航空券ふたり分が送られてきたが、どうしても、飛行機には乗らないという父の代わりに、妹が行くことになった。

はじめて、そして、生涯一回だけになった母にとっての外国行き。パスポート申請、ローマ字でのサイン、だれの助けもなく、ひとりでやり遂げたわが母、あっぱれ、でした。

というわけで、サラのその後は、彼女の実母と同じくら気がかりだった。六本木にマンションを買ったので、年に2,3回は、来ていたが、なかなか二世誕生、ないね、と。

友人、Dr.Loo Choon Yong は、病院の医院長で、国内、東南アジア、中国などにも支店というか、関連の病院を展開している、民間大病院の医院長。それだけではなく、ポーランド大使でもある。他にも、政府関係の役職にも、いくつか、ついている。

というわけで、これまでも、年1~2回は、シンガポールを訪問しており、邸宅内に、自分の部屋まで用意してくれていて、居心地よく、過ごしていた。コロナ禍で、この2年間は、行くことができなかったが。

サラの母、ジャッキーは、不動産会社の社長さんで、日本での商売もやっているビジネスウーマン。大坂に旦那のクリニックを設置したのは、彼女だ。

彼女に会うたびに、「まだかい、まだ生まれないの」、をこの20年、いや30年、繰り返してきた。ようやく、生まれた、との電話だった。

サラも、彼女の夫も、医師。ロンドンに留学していた時に知り合い、結婚。夫は、マレーシア人だ。ふたりが、父の病院を、おそらく引き継ぐことになるのだろうが、現在は、別の病院勤務。ま、そんなことは、どでもよろしい、赤ん坊の誕生、とにかくよかった。







 



2022年2月11日金曜日

雪が降りました

 東京で、雪。今冬2回目の雪です。前の日から、雪ですよ、降りますよ、準備をして下さい、などなど、前触れがマスコミを通して、繰り返さていたけれど、そのわりには降らなかっようです(神明町では)。日本海側では、まるで無雪、いい天気だったみたいです。それよりも、北京オリンピックで忙しかった。羽生がどうなるのか、日本勢のメダルは、何個か、なんてテレビにかじりついていた。オミクロンで、ワクチンまだの高齢者、要注意といわれており、ステイホームで、やることないし、テレビでオリンピックっていうわけです。といっても、昨日は、雪の中を、いつものように、都電に乗って、いつものように、三ノ輪商店街の銭湯へは、行ってきました。

雪といえば、いろいろ、本当にいろいろ思い出がある。

長野県の安曇村、今は、松本市になっているけれど、その安曇村へは、冬の季節、5~6年ほど通った。週末、金曜日の夜行で新宿から松本へ。松本から島々、島々からはバスで乗鞍高原へ。まだ、スタートしたばかりの村だったので、旅館は、いくつもなく、地域の区長が経営している旅館を定宿にしていた。いつ頃からか、そこの娘さんの家庭教師を頼まれ、毎日、二時間くらいの先生も。中学三年だったが、近くに塾もなく、毎週末、東京から来るお客さんが先生になったという次第です。

目的は、乗鞍高原で、クロスカントリースキーの練習をすることでした。ほとんど、人間はおらず、たまにウサギを見かけました。そうそう、歩いて白骨温泉へは、なんどか行った。山をひとつ超える、約1時間ほどだった。温泉に入って、帰りは、乗鞍岳を見ながら、ぶらぶらと、お気に入りの時間。

ある時、区長さんから話があって、安曇村がスイスのグリンデルワルドと姉妹都市を組みたい、という。で、東京のスイス大使館へ、出向いて、安曇村役場の職員だけれども、と、大胆にも、当時の大使閣下に面会し、二か月後、長野県の安曇村と、スイスはベルン市のグリンデルワルドの姉妹提携が実現しました。あれから、安曇村が松本市に編入し、現在は、松本市とグリンデルワルドの姉妹都市関係に引き継がれているようです。

そのグリンデルワルドは、アイガー、マッターホルン、ユングフラウヨッホなど、スイスの山のメッカ。松本とは、毎年、代表団の交流が行われているようです。マッターホルンが見えるホテルに滞在し、雲がとれるのを待ったけれど、滞在可能な4日いても見えず、断念。ユングフラウヨッホの登山列車は、2回乗ってことがある。





2022年2月9日水曜日

気がつけば がんばれニッポン 愛国者

 北京オリンピックのおかげで、テレビを観る時間が増えている。といっても、競技の内容、ルールがしっかりわかるのは、あ40ないが、フィギュアスケート、ジャンプは、わかりやすい。冬季オリンピックの競技で、自分でやっていたことがあるのはクロスカントリースキー距離競技だけ。といいながら、テレビをみている。

テレビでオリンピックは、なぜかモンゴルのウランバートルの友人宅で、夏季オリンピックのソルトレイク(米)と、北京オリンピック、2回とも、開会式からテレビ観戦をしていた。東京での1回めのオリンピックの時は、八甲田山でキャンプをしていた。北海道や長野の時の思い出は、なんにもない。隠居になってからも、オリンピックを自宅のテレビで観戦するなんてことは、あまりなかった。今回は、なにしろStay Homeなので、じっくり観戦している。そして、いつの間にか、日本選、同じ援している愛国者になっている。

東京の国立競技場、先のコロナオリンピックの会場だった、あの国立競技場の古い施設、10年間くらいあそこの会員だった。50歳代になってからのトレーニングは、国立競技場だった。併設のトレーニングセンターに、週3,4回、通っていた。いろいろマシーンがあったが、もっぱらランニングが中心だった。国立競技場から、東宮御所の裏を通り、赤坂、国会議事堂を通り、皇居にでて、あそこを一周(4キロ)して戻る、を繰り返していた。皇居周辺は、今もジョガーのランニングコースだ。

海外出張の際でも、訪問先、滞在先で、毎朝、走る習慣は、欠かしたことがなかった。ニューヨークでも、テルアビブ、カルツームでも、走っていた。ヨーロッパのほぼ全ての国の主な都市で、走った。毎朝、同じ時間に走っていると、同じ場所で、同じ人に会う、なんてことが、ときどきあった。スイスのベルンで、国際会議があった時、朝のランニングで、大きな犬を連れた女性の散歩に、3日、続けて会った。同じ時間に、同じ場所で、挨拶を交わした。2年後、たまたま、同じベルンに2日間滞在。まだ歩いているかな、と朝、同じ時間に走っていると、会いました。でも、連れている犬は、小さかった。尋ねると、おおきな犬は、亡くなり、今年、この犬が、家族入りした、とのことだった。こんなこともあるんですね。

台北でのこと。この時は、1週間ほどの滞在だった。いつものように、朝のジョギングに。ホテルの近くに、小高い丘(山)があり、頂上まで車道、人道が別々についており、走るコースは、人道。人道の途中のちょっとした平らな所で、10人ほどの人たちが太極拳をしていた。朝の挨拶をすると、2日めの朝、おいで、おいでをするので、太極拳に混ぜてもらった。毎朝、毎朝、太極拳クラブに通った。明日で、最後、日本に帰ります、というと、「明日の朝は、来れるか」と聞くので、「飛行機は、午後だから、朝はOKですよ」、と。翌朝、行ってみると、「皆勤賞だよ、これ、どうぞ」、と紙袋。中には、太極拳の衣装が入っていた。

いろいろありました。こんなこともあるんですね。






2022年2月8日火曜日

コロナ禍 都心へ お出かけ

本日は、都心へ。東京駅は丸の内側の「丸善」です。

丸善の本社は、日本橋、もちろん、今も健在ですが、後からできたこちらがわ、丸の内丸善の方が、売り場が広い、天井も高いし.1階から4階 、それがぜーんぶ「本」、すごい、うれしいかぎりです。といっても、たまには、日本橋へも行きます。地下階だけです、文房具売り場と、万年筆売り場。本ならば、やっぱり、丸の内です。たいていの新刊本は、手に入ります。最近は、絵本の売り場が、広くなった。洋書は、ジャンルによるけれど、政治関係は、少ない。自伝ものが増えている。オフィスのど真ん中にあるので、需要が多いらしく、受験モノが多いのも特徴だ。

月に1~2回、行きます。どんな本が、出ているのかな、の点検です。だいぶ前に、我が家の蔵書(?)を整理しました。それ以来、買わないように、持ち帰らないようにしています。いつも、1時間から2時間を費やし(要するに、立ち読み、たまに一冊買おうか)。その後は、路線バスでの帰宅です。

あるんですよ、東京駅から足立区方面行きの路線バスが。西新井近くの荒川土手行きです。1時間に1本なので、時刻表をしっかり調べておいて、乗車。

この日も、始発からの乗客は、6名。みーんなシルバーパス愛用者ばかり。デパートの袋を持った女性、東京駅の駅デパートでの買い物帰りらしい夫婦、スマホで地図を眺めていたサラリーマン風の初老男性など。若いのは、ひとりもいない。

大手町からお茶の水、本郷通りで、東大を見ながらしばらく走る。秋、紅葉の頃は、イチョウがきれい。止まる停留所で、乗ってくる客がいて、結構いっぱいになる。田端駅前では、並んで待つほどの客、みんな買い物バスツアーって感じで、座れない人もいた。この路線バスの存在を、みなさん、ご存じで、ご利用なすっている、シルバーパスで。というわけで、杖にすがって、立っている男性に席を譲り、途中下車。

ちょっと歩いて、都電の停留所へ。都電・さくらトラムは、いちばん好きな乗り物。三ノ輪と早稲田間、どの駅でも、熟知しており、この日は、尾久からです。車内は、それほど混んでおらず、チンチンと、いつものスピードで走ります。じきに町屋に着くも、このまま終点の三ノ輪橋まで行きます。ここからの線路両側のバラがいい。寒さで、しなっている花もあるけれど、けなげに咲いているバラもある。運転手さんの右うしろに、2席のシルバーシートがあり、これがお目当て。なのに、本日は、残念ながら、先客有。それでも、バラ見物は、バッチリ。せっかくきたんだから、と、三ノ輪商店街の銭湯へ。

という、いい一日でした。



2022年2月7日月曜日

コロナ時代で、こうなった日常

ちょい旅で、米原方面へ行ったのが、2月5日。本日は、2月7日。実は、昨日、今日、あちらは、大雪。関ケ原あたりは、1mも積もったとのこと。伊吹山などは、吹雪だそうです。乗り鉄とはいえ、大雪では、運転中止という事態になるかもしれないので、「いい日 旅立ち」でした。

コロナ 時代、三年目になる。中国の春節で、日本にも多くの中国人観光客がやってきて、もちろん、中国国内では、多くの都市部の人たちが、里帰りし、億単位での人口移動の時期だった。武漢から始まったコロナ、日本では、豪華船での感染発症が、事の始まりだった。学校閉鎖とか、緊急事態、総理大臣のバトンタッチ、ワクチン1日100万回、選挙があって、もいちど変わった総理大臣・・・・いろいろあった。

そして、懲りずに、またまた、コロナがやってきた、デルタから、オミクロンに名前を変えての登場。この先、まだまだ、続くのか。

Stay Home、日本語に訳すと、「自宅に居なさい」。とのおふれが出たり、入ったりで、特に高齢者は、ステイホームに徹せよとの、お達しです。今年の5月で84歳になるので、立派な高齢者。この間、どうしていたか。

ひとり暮らしなので、他に相手をしてくれる家族も居らず、ただ、ただ、家にこもっているだけでは、たまんない。はじめの頃は、音楽を聴いたり、本を読んだり,体操をしたり、テレビを見たりなどなど。それでも、そう毎日、こんなこと繰り返してはいられない。カルチャーセンターも、図書館も、スポーツクラブも、「蜜」になるというので、close。だいたい、ステイホームなんて、向いてないんです。

で、「本」を出すことに。紙屑を片付けながら、昔々のメモや、写真、適当にまとめていたら、「本」になった。三冊めです。これで、しばらく、退屈なステイホームが、解消されました。本の内容、出来栄えなどは、たいしたことはない、それを承知の上での出版(?)でした。

この状態、コロナ時代、まだ続きそうなので、次のターゲットを目下、考えているところ。今年は、寅年、その寅年だけれども、どうも、体力、知力、脳力が日々、落ちている実感。自分でも、この先、自分がどうなるのか、わからない。トシ相応の日々でいくか、と。


2022年2月6日日曜日

節分の 豆をまいたら さあ旅だ

 さあ旅だ、の報告です。

過日、乗り鉄ご同行の方から、電話。                          

「東海道本線に支線があるって、知っていた?」、という電話。うーん、あったかな、なかったかな、「知らない」、と返事。その方によると、あるんだそうです。どこって、それが、これから行く「ちょい旅 乗り鉄の旅」、です。

久々の朝いちのバスで綾瀬駅へ。千代田線で北千住駅経由、上野で乗り換えて東京駅へ。7時5分前に到着。掲示版で、新幹線「ひかり」を探すと、7時3分の岡山行き。実は、前日の時刻表では、7時33分発の大阪行きがあり、これに乗るつもりだったのだ。

実は、高齢者向けのジパング割引切符、「のぞみ」には、使えない。つまり、急がない高齢者は、「ひかり」、「こだま」に乗りなさいという、JRのご配慮です。でも、「のぞみ」は停車駅が少なく、小さな駅(新幹線の止まる)へ行く客は、利用出来ない。今回の目的地は米原なので、「ひかり」っていうわけです。

さて、東京駅で30分ほど、待っているなら、乗ってしまった方がいい、と乗りました、7時3分の「ひかり」に。「いい日、旅立ち」の音楽が流れてきて、スタート。右に新橋の第一ホテルを見ながら、見慣れたルートを走ります。じきに品川、ここで数名乗車。全部で20名ほどの乗客で、2人用席には、1人づつ、3人席は、ほぼ空席のまま、という車内乗車状況。皆さん、乗りなれている様子で、パソコン、スマホを取り出して、お仕事開始。家から持参のおにぎり朝弁などを食べているのは、旅人のみ。会話なんか、皆無。多摩川を渡り神奈川に入る。新横浜駅、ここでも客2,3名ほど。

熱海のトンネルを出ると、曇り空。いつもは、見える三島駅からの富士山、まったく見えない。あちこちの煙突から煙が立ち上っている富士市、煙がまっすぐなので、無風状態。富士川を渡る。この先、新幹線(東海道)は、いくつもの川を渡る。

富士川、安部川、大井川、天竜川、矢作川(やはぎ)、庄内川、木曽川、揖斐川、長良川などなどで、歩き旅東海道の際にも、いくつもの鉄橋を渡った。

茶畑が多い、菊川町、ここをすぎると掛川、右の車窓から掛川城が見える。この城は、都内在住の女性からの寄付金をもとに、再建できた、という話を、城のボランティアガイドさんから聞いたことがある。浜松では、多くの乗客が下車。浜松へ通勤している人たちかもしれない。ここら辺から、空が晴れてきた。まだ9時前。浜名湖あたりは、ソーラ(太陽光発電の仕掛け)が目につく。矢作川(やはぎ)を渡る。矢作川の上流の中山道で、八丁味噌の工場があったっけ。

名古屋駅で、下車。この新幹線は、ここからまっすぐ京都までいく、米原には止まらないので、おりる。20ほど待って、次の「ひかり」に乗る。岐阜羽島駅で10分ほど停車。「のぞみ」様のお通りを待つ。結局、名古屋駅から米原駅までは、15分間くらいだった。伊吹山は、上の方は雪だった。天候も変わり、米原では、雨。

米原駅で、東海道線に乗り換え、岐阜方向に戻る。四両編成の列車、運転手は、訓練中らしく、指導員の先輩がついており、ワンマンなので、アナウンスも、真面目。全文を読んでいるみたい。そういえば、この頃、東京の地下鉄などでも、社内アナウンスは、英語ネイティブの外国人女性ではなく、乗車の車掌が、日本語に続いて、英語でも、喋っている。ぎこちないのもあるが、結構、いける、英語アナウンス。この日の新人さんも、駅名と、「ご乗車ありがとうございます」は、立派な英語だった。

四両編成でも、客は、まばら。乗る人も、降りる人もあまりいない。

伊吹山は、こんどは、右側。醒ヶ井駅、ここは、中山道の宿場で、水がきれいなところ。そういえば、電車で通るのは、初めてだ。中山道は、往復5回歩いているので、醒ヶ井宿へも5回、来ているはずだ。柏原駅通過,柏原宿には、福ちゃん足袋の店があった。木曽川が近くを流れていた。そして、列車は、関ヶ原駅へ。関ケ原宿では、合戦の様子がわかる記念館みたいなところになんどか入った。合戦場のどこだったか、いちじくの木がたくさんあって、その時季にそこを通る時、必ず、とって、食べた。あんなこと、こんなことを、電車で通過しながら、思い出していた。垂井、ここも、中山道の垂井宿。結局、東海道線は、昔の街道筋を走っている、ことを実感。

本日の目的駅に到着。大垣駅、ここで、『東海道美濃赤坂線』に乗る、これが、本来の目的です。乗車ホームは、大垣駅のいちばん端っこで、二両編成。ワンマン列車で運転手さんが出発前の整備中でした。切符、持ってますか、というので、「はい、買ってきました」、と。実は、東京で切符を購入した際に、一括で買えたのだ。東海道本線ですからね。駅は、ふたつ、大垣駅の次が、荒尾駅ー美濃赤坂駅が終点。この間、5キロ、運賃190円。車内は、ボックスシートで2人用。乗客は、大垣から乗ったのは、7名。電車は、一時間に1本で、朝晩は、2,3本という運行。

大垣駅をスタートすると、車窓の景色は、つまんない、大垣近郊の、ただ、ただ、普通の住宅街。途中、たったひとつの駅ー荒尾駅、乗車客なし、下車客3名。駅の左側に神社、よく見ると『御首神社』の文字あり。帰ってから調べたら、平将門由来の神社とのこと。将門さんは、関東だけでなく、中部地方にもご縁があったのか。

すぐに終点の美濃赤坂駅に到着。東海道本線007美濃赤坂駅。木造の駅舎、中はがらんとしていて、自動販売機なし、自動通過機もなし。ここで乗客全員下車ー終点駅です。あと5分で、でますよ、と運転手さん。切符は、往復、持ってますよ。

駅周辺、きょろきょろ眺めまわすと、引き込み線跡がのこっていて、スレート屋根の長いホーム跡も残っている。たしかに、以前は、活躍していた駅。

ここら辺、かつては、石灰岩、大理石などがとれたそうで、その積み出しが赤坂駅だった。ここから、東海道の垂井駅へ運搬され、だから、東海道本線赤坂線、だったのだ。大垣駅の駅員に聞いてみたが、わからない、案内所で聞いてほしい、と。構内の案内書へ行ったらパンフレットをくれた。案内書には、「昼飯」という文字があった。中山道の歩き旅をしていた時、バス停の名前が、「昼飯」とあり、これを「ひるいい」と読むのを知った。昼飯町は、美濃赤坂の隣り町だったことが、判明。いろいろ、わかるものだ。だから旅は楽しい。

この他、大垣駅からは、養老鉄道、樽見鉄道、いずれも私鉄、が走っている。樽見鉄道の谷汲口駅には、西国霊場33番華厳寺がある。西国巡礼で廻った。樽見の淡墨桜、これは、たしか歩き旅で見物した。

こうみていると、中部地方も、結構、歩いていることがわかる。

大垣駅に戻り、東海道本線で、名古屋駅へ。360円の駅きしめんを食べ、「ひかり」で東京駅へ。戻ったら、まだ午後の3時だった。東京駅新幹線構内の駅弁屋で、いつもの品川づくし(1000円)をゲット。今夜の楽しみです。