2021年2月25日木曜日

j自粛破りー4  静岡県  天竜浜名湖線

2月22日、ちょっと遠いめの静岡県へ。目的は、天竜浜名湖線(略天浜線)。秋葉街道の旅をした時に、天浜線の途中駅二股駅から浜松まで乗ったことがあるが、全線乗りは、はじめて。

実は、『地形の思想史』 原武史著、という本を読んでいたら、天浜線の気賀駅近くの浜名湖畔に、皇室の御用邸(なぜか、西気賀保養所とよばれていた)があったという文章。とても気になり、1800円も出して、その本を買ってしまった。著者は、皇室が専門の大学の先生で、もっと有名なのは、熱心な「乗り鉄」で、知られている方だ。

浜名湖は、東海道新幹線で、通りすぎる時に眺める、海に入る景色が見慣れものだが、反対側、裏側というか北側は、もっと、湖畔が広がっている。そのへりを走るのが天浜線だ。みかんで有名な三ヶ日も、こちら側にある。東海道の脇街道が通っていて、姫街道ともいう。歩き旅では、過去二度来たことがある。

22日は、日曜日と祝日の間の月曜日というわけで、人出があるかな、と気にしながら、出かけた。東京駅新幹線のキヨスクで、品川づくしー駅弁を購入し、9時57分発の「こだま」に乗車。こだまは、全駅に停車する特急だ。10~15分おきに停車する。その上、先を急ぐ「のぞみ」が、ゴオーとけたたましい音をたてて、抜いていく、走り去っていく。それを停車駅で待つ。というわけで、豊橋駅に着いたのは、12時2分。途中の三島での富士山は、春霞でうっすらの富士山だった。新富士あたりでの工場の煙突の煙が、まっすぐだったので、無風状態、いい天気です。

豊橋駅から東海道線で、ふたつ目の駅新所原へ戻り、ここで天浜線に乗る。1時間に1本しか出ておらず、50分近く待つはめに。静岡、浜松、いやーな予感がしたんですよ。天浜線の改札口のすぐ横、名物うなぎ弁当、と張り紙。天浜線に乗りにきた、それらしい6名の方たちが、全員注文。狭い待合室に、店員が焼き立ての〇〇弁当を運んできた。6名のみなさんが、いっせいに弁当を食べる、こりゃたまんない、と待合室の外へ、退避。到着した電車の運転手さんが、どうぞ、中で待ってて下さい、と。

13時50分発。一両のみのデイ―ゼル車。もちろん、ワンマン。他に高校生5名。三ヶ日、気賀へ。進行方向の右側は、浜名湖。東海道側からでは見られない、いい風景だ。気賀あたりの浜名湖にちょっと突き出た半島があり、地元の人たちは、ここをプリンス岬と呼んでいたと、前述の本にあった。那須とか、日光とか、皇室の御用邸は、いくつかあるが、ここは保養所。現天皇が皇太子時代に、夏休みに滞在されていたとのこと。地元の子らと、野球なんかやっていたらしい。

天竜浜名湖線は、もともとJR線だったが、1987年に廃線となり、現在の3セクとして走っている。進行方向の右側は、天竜川に続くフルーツ路線だ。ときどき「〇〇料理」の看板がある。浜名湖名産だから、当たり前のことだが。線路と併走する道路を、車が電車を抜いtげいく。低速度の列車。新所原~掛川間は、67,7キロ、約2時間かかった。乗車賃は、1670円、乗りでがあった。天竜二股駅で、乗り鉄さん、撮り鉄さんたちは、下車。最後までの乗車は、ひとりだった。掛川駅には、15時40分着。16時10分のこだまに乗れた。静岡で、後続の「ひかり」に乗り換え、ようやく、車内で、朝、東京駅で買った「品川づくし」をじっくりいただきました。19時、神明町帰着。

2021年2月24日水曜日

自粛破りーその3   千葉県  久留里線

 房総半島には、短い路線(鉄道)が4本走っている。

 いすみ鉄道、小湊鉄道、銚子電気鉄道、久留里鉄道。 どれも、複数回乗車しているが、まだなのが久留里鉄道。で、コロナで非常事態中だけど、行ってくるか、自粛破りをしてきました。

 8時半に神明町発。綾瀬駅に出て、新小岩行きバス乗車。これがいちばん早い。綾瀬から西日暮里、秋葉原、総武線で新小岩まで、これだと、1時間はかかるが、バスならば25分。シルバーバスも使える。

 新小岩から千葉に、10時15分の外房線で木更津へ。強風のため、木更津から先は、間引き運転中とのこと。10時50分木更津駅着。久留里線は、1時間に1本で、11時15分乗った。この線でも、強風で、 久留里駅から先、上総亀山までは、不通とのこと。といっても、普段でも終点の上総亀山駅までは、3時間に一本しか走っていない。

 一両編成、ワンマン車、乗客12名で、明らかに乗り鉄、撮り鉄は、4名(含むたぐち)。電車は、たんぼの中を走る。竹藪の竹が、強風で大きくしなっている。集落があり、停留所があり、電車は、律儀にひとつづつ停まるものの、乗降者ゼロ。車掌兼運転手さんが、「風が強いため、徐行で走っています」、とアナウンス。車窓からの景色は、ほとんど変わることなく田んぼが続く。12時すぎに久留里駅着。改札口まで20mほどしかないのにこの強風、立っていられないほどだ。改札口には、制帽のひもをあごにかけたおじさんがおり、切符を回収していた。新小岩からのスイカを出すと「ちょっと待ってて下さい」と、駅舎の中に戻り、紙きれを持ってきた。駅員のいる駅で、清算してください、これを見せて下さい、とのことでした。久留里線は、JR線なのに、ほとんどの駅が無人駅で、木更津からこっち、スイカは使えなかったのです。

 降りて、次の列車(同じ電車)まで、1時間近くあるので、駅の外へ出てみたが、バス停らしきものもなくな、店らしいものも見当たらない。強風の真っ只中に立っていると、車が停まったので、ここら辺にたべもの屋、ありませんか、と聞くと、あの先を曲がったところにあるよ、と教えてくれた、信号が変わると、警笛を2回鳴らして走り去った。

 あの先までは、100mくらいしかないのに、なんじゃ、この風、とにかく、立っていられないほど。あった、店というより、持ち帰り専門店で、男の人が、外で片付けをしていた。あのう、入口は、どちらですか、と尋ねると、「いらっしゃい、お客さん」、といいながら、裏口方から中へ入り、出窓から、「なににしますか」。親子とか、カレーなどもあったが、鯖寿司に決定。10分ほど、その場で待って、ようやっとのおもいで、駅舎に戻った。よく見ると、駅舎というより、掘っ建て小屋。駅内には、6人分の椅子があり、座って食べようとしていたら、窓口から顔を出したさっきの駅員さんが、「お客さん、電車の方があったかいので、あちらでどうぞ」、というので、出しかけた鯖寿司を持って移動。だあれもいない電車の中で、ゆっくりランチ。500円だったけれど、ライスおおめ、鯖の一切れ一切れが、厚くて、酢の具合がよろしい、ひさしぶりに、うまい鯖寿司を堪能しました。

 13時55分、久留米駅発車。乗客3人。戻りも、風やまず、ノロノロ運転。ほとんど寝てしまった。目が覚めたら、木更津駅。どこから乗ったのか、乗客は、増えて15名ほどになっていた。木更津駅で15分待ち、快速久里浜行きにのり、15時10分、新小岩駅に帰着. 風が強かったこと、鯖寿司がうまかったこと、久留里線の感想です。


2021年2月16日火曜日

自粛破りーその2  大洗鹿島線ちょい旅

いつもは、コンビニで 買っている納豆、ねばねばは、まあまあなんだけれど、味がいまひとつで、やっぱり、納豆は水戸。天気よし、風なし、それほど寒くもなく、「いい日、旅立ち」というわけで、水戸へ行くことのした。

綾瀬に出て、千代田線で松戸まで。ここで常磐線に乗り換える。待つこと20分。水戸行きに乗車。ボックスシートを求めて最後部まで、走行中の電車の中を歩く。申し訳ないほど、客は少ない。2x2、ボックスシートもがらがら。左手に、春霞のうすぼんやりした向うに、筑波山が見える。牛久駅の近くにで、白梅がきれいに咲いていた。ほとんどたんぼの中を走る。

「偕楽園で、臨時停車します」、のアナウンスがあり、電車は止まったけれど、降りる人はいなかった。コロナで偕楽園は、梅まつりを中止していたが、入園はOKだったが、人影は、まばら。梅もまだ満開ではなかった。

水戸駅に到着。と、鹿島臨海鉄道の文字。そっか、これだ、これに乗ろう、と時刻表を見ると30分後に出る。鹿島線は、銚子で一度乗ったことがあるが、それもずいぶん昔のことで、なんにも覚えていない。でも、納豆を買わねばと、駅構内をキョロキョロ。洋菓子店はあったが、納豆店なし。水戸なのに、納豆なのに、なーんでだ、なんでないんだ。しかたなく、コンビニに入ったら、入口近くにあった、赤い紙でくるんだ、藁いりの納豆、ひとつ260円。1本ゲット。水戸へきた目的は、これで達成。

どうせ空いているだろう、と、発車すれすれにホームへ。と一両きりの電車で、なんとほぼ満員。空席はなかった。たんぼの中を、都電のような感じの鹿島線。駅は、ほぼ無人で、客は駅ホームまで、結構な階段を登り降りしなければならない。エレベーターもないので、車椅子はだめ。こんな路線が、いまだにあるのだ。

15分か20分ほどで、大洗駅到着。と、乗客のほとんどが下車。東南アジアからの若者たちらしき集団もいた。いまどきインバウンドではない。労働者風の若者たちの集団、大洗になにをしに、と思った。そういえば、大洗には、たしか原発があったっけ。

残った電車には、高校生5名を含む10名の乗客。学生服姿の彼ら、コートを着ていない。さすがは、温暖気候の当地。線路は、竹藪、雑木林の中を往く。飛行場ができる前の三里塚の景色だった。人家のない地域は、駅もなく、しかし、人が住んでいるあたりは、短い距離でちょくちょく停まる。鹿島臨海鉄道といいながら、海は、まったく見えなかった。鉾田あたりから、農業用ハウスが増え、いちごかな、それともメロンかな。鹿島サッカースタジアム駅を過ぎて、香取駅。鹿島鉄道は、ここまで。銚子からのJRに乗りかえて、成田まで。成田から安孫子、千代田線で綾瀬に。16時20分、綾瀬駅帰着。

納豆を買いに行ったはずなのに、思いがけなく、鹿島臨海鉄道に乗ることができた。

2021年2月14日日曜日

自粛破りーその1 ちょい旅「御殿場線」

新聞を読みながら、テレビの天気予報を見ていたら、「今朝は、富士山がくきり見えます」、と予報士さん。都心からでも、こんなにきれいな富士山が見える。「そうか、富士山を見に行こう」、ということで、さっそく、出発。

10時15分、新宿駅着。祝日なので、と思いきや、意外と空いていた。祝日なので、特急の本数も多い。10時40分発の特急富士山3号の切符を買った。ホーム、駅員の方が多い。6両編成の6両めで、同乗者は、6名。途中、新百合ヶ丘、本厚木など、いくつかの駅に停車するものの、乗降なし。車内案内のアナウンスメントは、英語の他、中国語、韓国語もあり、インバウンドの利用が多かったことがわかる。春霞の奥に、丹沢山々が見える。

間もなく松田駅着。ここで乗り換えると小田原、湯元などへ行ける。御殿場線は、沼津から御殿場、松田から、東海道線の国府津駅までの60.2キロ。

富士山が、進行方向右側に見えはじめる。さすが、雄姿、圧倒される。箱根の足柄峠へ登った時に、この駅(足柄)で乗ったことがあったのを思い出した。小山駅を通過、とまたまた思い出したこと。今から60年以上前のこと。高校生だった頃のこと、友人に誘われて、ここ小山へ来たことがあった、その友人は、社会問題に取り組んでいて、この本、読みなよ、と、野麦峠の本を貸してくれた。生まれて初めて、社会問題に触れた、体験だった。小山駅の近くの繊維工場の寄宿舎で、女性社員(労働者)たちに面会。いろいろ聞き取り面接をした。彼女たちの多くは、東北出身者で、どんな内容の聞き取りをしたかは、覚えていないが、読んだばかりの野麦峠に出てくる岡谷の女工のことを考えていた。あんなこともあったっけ、と思いながら、小山を通過。車窓からの風景には、そんな建物は、なかった。

御殿場駅で下車。沼津行きの御殿場線は、30分後。で、駅舎の外に出てみると、ありました、でっかい富士山。よーく見ると、富士山は、全体が真っ白っていうわけじゃなく、裾野半分には、雪がついていない。茶褐色の枯草の平原だ。しばらく眺める。それほど寒くはない。閑散とした駅構内のコンビニで、おにぎり一個買った。これが、本日のひる飯。ここから沼津までは、30分ほど。五両編成で、乗客は、まばら。祝日といっても、国旗を出している家は、一軒もない。でも、富士山は、いつまでも、どこからでも、ずっと見えた。

20年ほど前、東海道を京から江戸へ向けての歩き旅をした際に、箱根を通らず、脇街道のこの道、つまり、御殿場線沿いに沼津から御殿場を通って、松田から、海側の街道を国府津まで歩いたことがあった。松田から国府津までは、ほとんど下り坂の道だった。

熱海に戻り、こだまで東京駅へ。これも、がら空きで、4名しか乗っていなかった。東京駅で新幹線構内の駅弁屋へ。いつもは、出発時の朝、必ず買う駅弁ー品川づくしといって、貝づくしの駅弁(1000円)、「あった!」、いつもは、午後になると完売でないのに、あったのだ。で、なぜか2個買ってしまった。とっても、愉快、うれしかった。今回のちょい旅で、最高うれしかったこと、品川づくし、駅弁を買えてこと。


                   

2021年2月10日水曜日

回想ーご縁のあった方々

 令和三年、誕生日(5月22日)がくると83歳。よくもまあ、長く生きてきたもんだ。その人生、ご縁のあった方々が多くいた。

 某外資系の会社が主催するセミナーに、5年間、参加していた。伊豆会議というセミナーには、当時の日本を代表する中堅リーダーたちが招待されており、理由はわからないが、なぜかリストに入っていた。参加者の顔ぶれは、大学の先生、企業の役員、各界で活躍中の現役にのみなさん。山本寛斎さん、矢内廣さん、三枝成彰さん、竹田津実さんなどの名前を思い出した

 寛斎さんは、残念なことに昨年亡くなった。とっても明るい方で、セミナー中、午前、午後、夕食時、毎回着替えて登場、さすが服飾デザイナーだ。朝ご飯を食べながら、「今朝のシャツ、色がいいですね」、と感想を言うと、「プレゼントしましょうか」、と。そんな約束などすっかり忘れた頃、宅急便がきた。寛斎さんからだった。あのシャツが、入っていた。有名な、あの山本寛斎デザインのシャツ、一枚ゲット。

 矢内廣さんは、だれでも知っている『ぴあ』の社長。当時、埼玉の高齢者団体でボランテアをしていた。会員の高齢者たちが、「死ぬまでに、いちどホンモノの相撲を見てみたい」というので、矢内社長に相談。と、すぐに社長秘書から電話があり、両国国技館での初場所の切符を二枚送ってくれた。必ず、タグチが同行すること、というのが条件。優待券は、いわゆる砂っかぶりといわれている土俵真下で、テレビなどに映ってしまう「席」だった。ルールは、会場に入る前に、指定のお茶屋へ立ち寄ると、飯天を着た男性が席まで案内してくれる。休憩時間には、お茶を持ってきてくれる。終了して帰る前に、茶屋に立ち寄ると、大きな紙袋、相撲見物おみやげだ。中には、焼き鳥、番付本、てぬぐい、皿など、相撲関連のあれこれがいっぱい。お連れした高齢者さんは、大喜び。で、これを6回続けた。両国の初場所を6年もみたことになる。ところで、死ぬまでのはずが、みなさん長寿されている。

 三枝さんは、有名な作曲家。上野の文化ホールで上演のオペラ忠臣蔵に招待してくれたことがあった。高校時代の友人と行ったが、帰りの電車が故障で、タクシーで帰宅したのを、思い出した.竹田津実さんは、北海道の小清水町でキタキツネを相手に暮らしていた獣医さん。大分県生まれのくせに、キタキツネに魅せられて、北海道へ。絵本など、著書も多い。小清水町へ、尋ねたこともある。

2021年2月8日月曜日

Air Port

コロナで自粛中だけれど、羽田空港へ行ってみた。北千住駅で、バスを待っていたら、羽田行きのバスがやってきて、だれも乗らないので、乗ってみるか、と。本当は、緊急事態宣言は、今日までなんだけれど、ちょとだけ、宣言やぶりしてみるか。

 羽田空港行きのバスは、都内各駅、近県の駅などからも出ている。空港まで、どこにも止まらず、まっすぐに走る。便利になったもんだ。

 初めて羽田空港を利用したのは、イスラエルへ留学した時。1964年だった。その頃は、エアフランスの直行便が、東京からテルアビブに週3回飛んでいた。今は、イスラエル行きはヨーロッパのどこかの空港で乗り換えなければならい。羽田空港には、いわゆる、お見送りの人たちが、あっちにも、こっちにも来ていて、バンザイなんかを合唱しているグループもあったりして、まるで戦地出世するような,雰囲気だった。その後、団体旅行が盛んになり、搭乗前に飛行機の前で記念写真なんかをとっていた。

 訪問国が、最初の頃は、ヨーロッパが多く、いちばん近いルートは、羽田空港からアメリカのアンカッレジ経由だった。米ソが緊張関係にあった当時、ロシア上空が通れず、北極のアンカッレジだった。6~7時間でアンカレッジに着陸し、2時間くらい空港内の免税店で買い物をする、これが楽しみだった。帰国時には、ここで、キャビアなんかを買わされた。一番最初のヨーロッパは、コペンハーゲン空港、ここで乗り換え、ヨーロッパ各都市へ行った。フライトがなく、コペンハーゲンで一泊することもあり、だから、コペンハーゲンは馴染みの都市。チボリ公園など、何度も行った。公園前の中華料理店は、馴染みになるほど通った。

 成田空港は、三里塚闘争などもあり、開港まで、かなり時間がかかった。空港までの足は、箱崎(シテイターミナル)からの定期バスで、たしか、箱崎で手続きもやっていた。まだ、京成電車が空港内に入っていなかった。だから、成田空港から外国へ行く時には、見送り、出迎えは、少なく、代わりに、見送り、出迎えを担当する業者もいた。

 アメリカ留学時も、羽田だった。たしか、アフリカへ行った帰り、開港したばかりの成田空港に帰着したのを、覚えている。たばこを買ってきてくれ、スイスの時計、イギリスのウイスキーを、などなど、ずいぶんおみやげを頼まれた。

 今、日本全国、都道府県には、1~2のエアポートがある。東京から2~3時間で、どこへも行ける。成田空港も、羽田空港も、日本中、世界中をつないでいる。便利になったものだ。そんなことを考えていたら、北千住駅発の空港行きバスは、羽田に到着.人気(ひとけ)少ないターミナルを一周して、帰りのバスに乗車した。


2021年2月7日日曜日

Spring Has Come 春、来たか

 立春は、節分の翌日。今年は、二日が節分だったので、三日が立春。で、立春が過ぎて、いちばん始めに吹く南風が、「春いちばん」、となる。その春いちばんが、立春の翌日(四日)に吹いた。あたたかい南風どころか、寒い強風だった。東京でも、時速15。で 一句『この寒さ からっ風でも 春いちばん』。 神明町では、この日の朝も凍結、畑には霜がおりていた

 モンゴルに電話をした。Happy New Year !, あちらは、お正月。中国も旧正月。そういえば一年前の今頃、コロナの初っ端段階だった。大勢の中国人たちが、国内外大移動をし、その結果、コロナ騒ぎが始まった。一年経っても、世界中を巻き込んで、大騒ぎになっている。

 モンゴルの正月には、なんどか行ったことがある。マイナス10℃前後のウランバートルだが、この日は、親類や友人宅を訪問する。モンゴルでは、お年玉は、子どもへではなく、大人に上げる。結構なモノ入りで、日本のお年玉の袋が、人気だ。訪問宅では、ひつじの肉、まるごとの塩茹がテーブルの真ん中にどーんと置いてあり、主人が、ナイフで、切り取って、客人に振る舞ってくれる。もひとつ、定番は、ぎょうざ。モンゴルでは、ぎょうざは、普段でもよく食べる。水ぎょうざで、サイズも味も、家によって異なる。初めての旧正月体験では、食べたぎょうざが、なんと65個。飲み物は、ウオッカが主流で、日本のウイスキーも人気だ。市内のスーパーで売っている。酒が入ると、全員で歌う。物語入りの民謡が多く、みなさんなかなかの美声だ。  そんなモンゴルのお正月、コロナで今年は行くことが出来ない。

 

2021年2月3日水曜日

節分は、お大師さんへ

散歩 で会った常連さんが、「西新井へ行こうかと思ってるんだけれど」というので、節分は明日なのに、というと「コロナで、密になるので、前倒しでやっているらしいよ、とのこと。

 それじゃあ行ってみるか、と出かけた。コミュニテイバスで25分で、西新井駅に。ここから歩いて10分ほどで、西新井大師に到着。それでも、チラホラ参拝客が歩いていた。スピーカーからは、読経が流されている。さっそく本堂へ。50人ほどの僧たちが、ずらっと並んで読経中。靴をぬいで畳敷きの中に入り、いっしょにお経を挙げる。周辺には、お札を注文した人たちが、数名。手を合わせている人も。

 お四国巡礼は、5回も廻ったことがあり、それに、毎朝、般若心経をあげているので、お大師さんに手を合わせるのは、ごくあたりまえの行為だ。

 節分の行事として、一日三回の儀式にたまたま居合わせただけだったが、読経に参加しただけで、豆まきの「豆」をいただいた。

 西新井大師は、弘法大師(空海)が東国巡路中に立ち寄ったという名刹のひとつで、本堂前にお大師さんの像がある。この日(2月1日)は、広い境内に出店が6軒、だるまを売っていた。でも、客は、少ない。

 正門を出たところに、草団子屋が4軒。そのうちのひとつが、なぜか「田口屋」。いつもは、草だんごを買っていたが、端の方に、恵方巻をみつけた。560円、一本購入。

 明日は、節分。もっと多くの人がくるんだろうな、と思いながら、帰宅。夕焼けがきれいだった。

2021年2月1日月曜日

回想ー名犬はな子

 わが家は、昔から動物を飼う習慣はあまりなく、職人肌の父は、仕事一筋で、家に帰ってきても、特になにかをするでなく、夕飯、朝飯を食べて店を往復するだけ。母は家でじっとしているタイプでなく、いつもどこかへ出かけている、そんな家庭環境だった。

 その母が、安保闘争の頃、九官鳥をどこかで貰ってきた。玄関に鳥籠を置いて、外からだれかがドアを開けると、「アンポハンタイ」、「キシヤメロ」を繰り返す九官鳥だった。

 愛犬はな子の話に戻そう。1989年に母が亡くなった。ひとり残された父が、さびしくないように、と犬を飼うことにした。だれが、はな子と命名したのかは、定かでないが、飼い主の父が亡くなるまでの6年間、はな子は、24時間、父と同居した。洗濯機(商売用)から落ちて、右足が不自由だった父かいは手押し車を押しての歩行で、同行のはな子は、ご主人の歩行に合わせて歩いていた。同じベッドで一緒に寝て、膝に座って一緒にテレビを見て、三食一緒に食事もしていた。6年間。

 次の飼い主は、仕事を辞め、指圧の学校を卒業したばかりの「ご隠居さん」。こちらとのお付き合いの方が長い、8年間も。はな子の生活は、一変した。

 朝は早朝から、近くの遊歩道を走らされた。犬の朝の散歩は、大小便をするのが目的だが、はな子は、用をたしていると「はな子、しょんべんなんかしている場合か」、と叱責が飛ぶ。で、しかたなしに、たれションをしんがら、走っていた。他の犬連れのみなさんからは、気の毒なはな子と、同情の目で見られていた。

 隠居の飼い主は、遊びの達人、年がら年中、国内外を旅していた。留守の間は、託犬所(犬猫病院)に預けられた。行くよと、声をかけると、自転車の下まで走っていき、待つ、なかなか察しのよろしい犬だった。病院暮らしが長かった(?)おかげで、東京都愛犬協会から表彰されたこともある。6年間、ほとんどは知らず、身体障碍者とのろのろ歩きに付き合っていたのが、その後の8年間は、全速力で、10キロ、20キロを走る犬に変身した、見事な変身ぶりは、さすが名犬。14歳、老衰だった。

    寒い朝 子犬の糞から 湯気が立つ