2020年3月14日土曜日

世界の万年筆展へ

日本橋の丸善へ行ってきた。世界の万年筆展、毎年、この時期にやっている。コロナのせいか、例年に比べると、入場者は少なめ。というこちらは、10年くらいは、通っている。なにせ、「開催するよ」、の連絡があるのだ。
 最近は、字を書く習慣がだんだんなくなり、コンピューターとか、スマホが当たり前の世界になってきた。丸善の文房具コーナーでも、筆記具のスペースが小さくなりつつあり
買う人も減り、なんだかさびしい。東急ハンズなんかでも、鉛筆は、特別扱いで、「新入生グッズ」で置いているくらいで、ほぼシャーペン。削るのがたいへん、ってことらしい。だから消しゴムも少ない。
 ましてや、大枚はたいて、万年筆なんて、。。。。変わりもん。
 
 さて、今年の万年筆のトレンドは、特に新製品なし。ペン先の工夫がみられない。しかし、アクセサリーパーツは、たしかに進化している。ボデイに漆をつけたり、キャップが
からーできれいぽっくなったり、っていう具合。
 
 この先は、自慢話。
 ウオーターマン:最高価格の世界で〇〇本限定はじめ、10本ほど。フランス製。
 パーカー:今は、市場には、ほとんど出回っていない。ペン先が、もぐっている独特の
      スタイル、これを見事に模倣したのが、
 英雄・ヒーロ:中国製で、流行っていた頃は、1000円くらいだった。中国や香港み
      やげで、よく買ってきたもんだ。
 ペリカン:ドイツ製、ペンのキャップがペリカンのあごになっている。これはとにかく
      書き心地がよろしい。20本くらいは、持っている。
 モン・ブラン:スイスと思っていたら、ハンブルグ(ドイツ)製。安くはないが、なん
      となく、エリートっぽく、やわらかい書き味で、国会議員なんかが、背広の
      胸にさしていた。10本くらいかな、持っている。
 オノト: 1906年に、日本に入ってきたという記録がある、いちばん古い万年筆 
      で、日本人がはじめて使った万年筆、イギリス製。
 ラミー:  あの社会党の委員長だった土井たかさんが、愛用していた。海外での行事
      で、なんどかお会いする機会があったが、万年筆自慢をすると、「やっぱり
      万年筆は、ラミーよ」、とおっしゃっていた。で、何本か購入してみたが、
      それほど感動しなかったが、6本持っている。
  異業種の参入で、万年筆も手がけたのが、
 カランダッシュ(鉛筆屋)、デユポン(ライター屋)、ダンヒル(ライター屋)などが金、銀をボデイにした豪華筆記具をつくっている。
 チュニジアのカダフィ大佐、お洒落な人で、ダンヒルのボールペンを、胸にさしていた。アフリカのセネガルで会ったが、パリ仕込みのスーツ、香水がプンプンだった。ボールペンといえば、アメリカのクロス、トランプ、それにオバマさんが、サインで使っている。万年筆ではないけれど、クレムリンでの会議で会ったブレジネフ書記長、日本のサインペン(フランクフルト工場製)、緑色のボヂィー、黒色を使っていた。最近では、韓国の現大統領お気に入りで任命され、すぐに家庭の事情で辞めさせられた〇〇元教授は、日本製不買運動中に、日本のボールペンを使っていたということで、糾弾された。
 日本のパイロット、セイラ―も、なかなかだが、収集箱には、あまりない。しかし、日本が戦争に負けた昭和二十年九月二日、ミズリー号上の降伏調印、用意されたパーカー
でなく、ご愛用のパイロットを内ポケットから取り出してサインをしたのが、重光葵全権大使だったと、「とっておきの話」(半藤一利著)にあった。

 

2020年3月11日水曜日

9年真のこと

今朝、新聞を見たら、「あれから9年、福島は、今」という記事が載っていた。そうか、あれから9年、経ったんだ、と思った。まだ原発は、解決していない。汚染水が毎日出ており、その処理方法も決まっていない。だから、帰還困難な人たちがおり、難儀な生活は、まだまだ続く。
 あの日、1945年3月11日、あの時間、京浜東北線の
電車の中にいた。浦和駅と蕨駅間だった。電車が突然止まり、なんだろうと思っていたら、余震で、電車が大きく揺れ、外を見たら、線路上の電線が大揺れに揺れていた。車掌のアナウンスが「地震です、地震のため、電車が停止しています」、そんなことわかってるよ、と。夕方のラッシュには、間がある時間帯だったので、車内は、がら空きで、10人くらいだった。
 こりゃあ長引くと直感。すぐにトイレへ。まだ水が出た。この行動「当たり」。その後、トイレは、水が出なくなり、ドアも自動なので、閉まらなくなり、女性客が入る時には、入口に人が立って「番」をしていた。
 携帯は、つながらず、どこが震源地なのかわからず、歩いて回ってきた車窓も、情報がないようで、「しばらくお待ち下さい」、を繰り返すばかりだった。余震がなんどもあり、車窓から外を見ると、家の外に人々が出て、心配そうにしていた。
 デイバックの中から取り出した携帯ラジオで、震源地が東北であることを知った。それから、周辺の乗客が集まってきた。ラジオの情報を実況中継。2時間くらい車内に閉じ込められていたが、最後部の列車から、下車。学校帰りの子どもの手をひいて、浦和駅まで線路を歩いた。駅構内は、倒壊のおそれがあるので、急いで外へ出るように促された。駅前の
広場は、いっぱいの人、人、人だった。
 先日、M先生の調神社の狛犬見学で、帰りがけに浦和駅広場を通った。そうか、あの時は、あそこにいたんだ、としばらく立ち止まった。
 あの時、携帯がだめで、いくつかあった公衆電話に長い列が出来た。その時、取り出しましたテレフォンカード、実は、携帯を持っておらず、カードは常備していたのです。みなさんのお役にたちました。
 結局、7時頃、広場を出て、歩きはじめた。調神社の前を通り、よく知った旧中山道を東京に向けて歩く。都心からは大行進が押し寄せ、都心に向けて歩く人はほとんどおらず、人にぶつかりながらの歩きだった。
 背中のバッグの中には、水、手袋、てぬぐいなどが入っており、懐中電灯も持っていて、歩き旅で困ることなし。その上、川越で買った、豆腐一丁も、持っていて、戸田橋のたもとで食べた。なにしろ、途中のコンビニには、食べるものはなーんにもなかった。普段の心がけが大切です。
 橋をわたり、都内に入り、環七に出て、鹿浜橋を渡り、車も走っていない、人もほとんど歩いていない環七を北綾瀬まで歩き、神明町のわが家に。深夜2時だった。