今朝、新聞を見たら、「あれから9年、福島は、今」という記事が載っていた。そうか、あれから9年、経ったんだ、と思った。まだ原発は、解決していない。汚染水が毎日出ており、その処理方法も決まっていない。だから、帰還困難な人たちがおり、難儀な生活は、まだまだ続く。
あの日、1945年3月11日、あの時間、京浜東北線の
電車の中にいた。浦和駅と蕨駅間だった。電車が突然止まり、なんだろうと思っていたら、余震で、電車が大きく揺れ、外を見たら、線路上の電線が大揺れに揺れていた。車掌のアナウンスが「地震です、地震のため、電車が停止しています」、そんなことわかってるよ、と。夕方のラッシュには、間がある時間帯だったので、車内は、がら空きで、10人くらいだった。
こりゃあ長引くと直感。すぐにトイレへ。まだ水が出た。この行動「当たり」。その後、トイレは、水が出なくなり、ドアも自動なので、閉まらなくなり、女性客が入る時には、入口に人が立って「番」をしていた。
携帯は、つながらず、どこが震源地なのかわからず、歩いて回ってきた車窓も、情報がないようで、「しばらくお待ち下さい」、を繰り返すばかりだった。余震がなんどもあり、車窓から外を見ると、家の外に人々が出て、心配そうにしていた。
デイバックの中から取り出した携帯ラジオで、震源地が東北であることを知った。それから、周辺の乗客が集まってきた。ラジオの情報を実況中継。2時間くらい車内に閉じ込められていたが、最後部の列車から、下車。学校帰りの子どもの手をひいて、浦和駅まで線路を歩いた。駅構内は、倒壊のおそれがあるので、急いで外へ出るように促された。駅前の
広場は、いっぱいの人、人、人だった。
先日、M先生の調神社の狛犬見学で、帰りがけに浦和駅広場を通った。そうか、あの時は、あそこにいたんだ、としばらく立ち止まった。
あの時、携帯がだめで、いくつかあった公衆電話に長い列が出来た。その時、取り出しましたテレフォンカード、実は、携帯を持っておらず、カードは常備していたのです。みなさんのお役にたちました。
結局、7時頃、広場を出て、歩きはじめた。調神社の前を通り、よく知った旧中山道を東京に向けて歩く。都心からは大行進が押し寄せ、都心に向けて歩く人はほとんどおらず、人にぶつかりながらの歩きだった。
背中のバッグの中には、水、手袋、てぬぐいなどが入っており、懐中電灯も持っていて、歩き旅で困ることなし。その上、川越で買った、豆腐一丁も、持っていて、戸田橋のたもとで食べた。なにしろ、途中のコンビニには、食べるものはなーんにもなかった。普段の心がけが大切です。
橋をわたり、都内に入り、環七に出て、鹿浜橋を渡り、車も走っていない、人もほとんど歩いていない環七を北綾瀬まで歩き、神明町のわが家に。深夜2時だった。
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