2020年12月25日金曜日

水上市藤原のこと

ここ数日、水上の藤原が有名になった。記録的な豪雪で、その様子が、テレビのニュースに連日、放映された。 

 今から15年、いや20年ほど昔の藤原部落(部落といっていた)へ、通っていた。春、そう、公務員のボーナスの時季だった。山菜とりです。藤原部落は、山菜の宝庫だった。朝、上野を発って、水上駅からバスで、宝温泉まで乗り、そこから歩きで、藤原部落へ。左側の高台に小学校があった。そこから1時間ほどで、定宿にしていた民宿があり、挨拶をして、すぐに山に入る。うす暗くなる頃には、背負子いっぱいになるほどの山菜がとれた。うど、たらの芽、ぜんまい、わらびなど、とにかく山菜の宝庫だった。

 翌朝は、朝食前のうす暗いうちにでかけ、8時すぎに戻り、朝ご飯をいただき、ザックに詰めた山菜を背負って、宝川温泉まで下り、バスで水上駅へ、そして上野駅へ。上野駅では、採れ立て山菜を所望の友人たちが、待っていて、駅構内で、集配作業。こんなことを、6~7年間、やっていた。

 5万分の一地図に、宝庫の場所を記していたけれど、門外不出で、民宿のおばさんにも内緒。海外主張で行くことができない年は、だれも行かないので、山菜は、延びっぱなし状態。その場所を、「タグチ平」と命名していた。2年ぶりに行った時だった。その場所「タグチ平」は、ゴルフ場になっていた。西武系のゴルフ場。

 というわけで、藤原部落は、かつては、山菜の宝庫で、山菜採りの達人が活躍したところだった。豪雪で、有名になった藤原、「タグチ平」がなつかしい。なお、なんで、藤原部落かといえば、尾瀬に近い上州穂高山への登山の際に、山菜の宝庫であることを、発見したのです。

2020年12月15日火曜日

新刊本「小さな鉄道の記憶:

 乗り鉄の達人自称宛てに、新刊本が贈られてきた。

 「小さな鉄道」の記憶  旅の文化研究所 2700円

 内容は、軽便鉄道、森林鉄道、ケーブルカーなど、今はほぼ廃線となってしまった鉄道(もどき)のお話。ケーブルカーは、お馴染み三輪和彦先生が執筆しておられる。本文よりも面白かったのは、コラムとして書いていた「おわん電車といも電車」。これは傑作だった。汚わい、つまり糞尿、を、こともあろうか西武鉄道が運んでいたという史実。

 この先、詳細が気になる方は、本を買って下さい。

 といういことで、わが東京都足立区にある「小合溜」のお話。江戸時代に作られたという小合溜は、東京都と埼玉県の都県境になっている運河で、綾瀬川と中川をつないでおり、平時は、水門が閉まっている。毎朝の3POコース。春、夏、秋、冬、それぞれの景色で、歩く人も少なく、お気に入りです。この小合溜(垳川)が、昔は、江戸の糞尿を積んだ舟の航行川だった。大川(隅田川)から綾瀬川に入り、小合溜を経て、糞尿は、野菜畑に使われていた。江戸っ子の台所は、自分たちの出した糞尿で賄われていたってわけ。循環型環境政策とでもいうか。こうした取り組みは、埼玉県の見沼地区、千葉県の市川地区などでも、かっては、行われていた。

 千葉といえば、その野菜を、毎朝、電車で東京に運んでいたオンナたちがいた。京成電車には、毎朝、千葉のおばちゃん運び屋専用車が走っていた。大学生時代、常磐線で日暮里駅で乗り換えていたので、千葉方面からの京成線でやってくる千葉のおばちゃんたちによく会った。紺色の大きな風呂敷をかぶせた、細長いかご、幅は、背中いっぱいほどで、長さは、てっぺんが背負ったおばちゃんの頭を出るくい、背負ったら真っすぐに立ち上がれず、腰をかなり曲げた感じで、歩く。今のように、エレベーター、エスカレータなどなく、長い階段を、一歩一歩登る。ある日、「重たいですか」、と聞いてみた。「それほどでもないよ」、背負ってみるかい、というので、やってみた。ほとんど、立ち上がれず、荷を持ち上げてもらって、ようやく、立ち上がった。2,3歩歩いたけれど、give up。コツもあるんだろうけれど、生半可じゃないことが、わかった。

 ちなみに、おばちゃんたちの千葉の野菜の届け先は、、赤坂、四谷、神楽坂などの料亭とのこと。いつ頃からか、京成電車は、成田空港行きの路線となり、おばちゃん運び屋電車は、なくなっていた。

 

 



2020年12月10日木曜日

路線バス 東海道線平塚駅~小田急線本厚木駅まで路線バス乗り

前の番から、時刻表をめくったり、地図を眺めたりして、明日の水曜日、どこへ行こうか、と考えていた。おにぎりも2個準備して、行く気になっていたが、天気が、どうもよくないらしいというので、朝、起きたけれど、いつものような日課で始まった。バイクを漕いで、散歩に行って、新聞を読みながらの朝食。4時頃、ポツポツだった雨が、、7時すぎには、上がっていた。晴れてはいなかったが、「やっぱり、行ってみるか」となった次第。傘、持参で。  12月9日

 ラッシュは、過ぎていたので、通勤客は、まあまあ、でも座れなかった。10時、東京駅に。行く先は、沼津駅から御殿場線で、国府津駅までの、富士山一周の乗り鉄。もう一つは、平塚駅から路線バスで小田急線の伊勢原駅か、本厚木駅まで。どちらも、これまでに経験あるルートだが、富士山の雪の具合もちょいと気になるし。

 東海道線の熱海行き、前の2両がボックスシートなので、そちらに移動。川崎駅で座席ゲット。見慣れた景色だが、新幹線よりは、よく見える。遅いといっても、東海道線、スピードは出るし、よく揺れる。立ったままスマホ青年も片手で吊り輪をしっかり握っていた。

 藤沢を過ぎた頃、まだ空は雲っており、瞬間、沼津を中止して、平塚駅で下車した。駅前のバス停には、一台のバスが停まっており、「本厚木駅行き」とあった。迷わずこれに乗る。乗客5名。七夕も、それに街道歩き(東海道)でも、なんども来たことがあったが、知らなかった、平塚八幡宮。立派なお社だ、しかも駅からすぐの所。目の着く場所に、河野太郎のポスターが、貼ってあった。

 この先は、旧道を走る。対向車とのすれ違いのたびに、バスは停車する。道が狭いのだ。道路の両側は、旧家が多く、庭木なども立派で、手入れにも金をかけている感じだ。いちょうの木が多く、どれも、真っ盛り、見事な黄色だった。

 いつの間にか、空は晴れており、行く手に丹沢の山々が見えはじめると、町場に入った、本厚木駅。本厚木は、都民の多くが移住したくなる場所として、最近、注目されているとかで、賑やかな北側へ行ってみた。ビルがいくつも立っており、人も多く出ていた。昔は、こんなではなかった。ただただびっくり、だった。時計をみたら、12時をすぎており、きょろきょろしたら、ベンチがあった。駅前広場の交番の横のベンチで、持参のおにぎりを食べながら、よそ見をすることにした。と、交番から出てきたお巡りさんが「ここは日蔭で寒いから、こっちへどうぞ」、と中から折り畳みの椅子を持ってきてくれた。日蔭だなんて、気にしていなかったけれど、ま、人の親切は素直に受けるべきーいい年寄りの教訓。ゆっくり、二つ目のおにぎり、完食。広場では、国境なき医師団への支援活動を、東海大の学生さんたちがやっていた。礼儀正しいというか、大人しいというか、通行人たちには、あまりアッピールしていない様子。この後、小田急線で代々木上原経由で、千代田線綾瀬駅着。2時過ぎだった。















 

2020年12月4日金曜日

GO TO ちょい旅 乗り鉄身延線

 ここのところ、東京のコロナ感染者が急増、で、発表があった。「高齢者は、自粛せよ」とのお達しです。なんで、高齢者なんだ、高齢者だけが、自粛していれば、コロナ禍は、終息するってことか。

 百合ちゃんには、申し訳ないけれど、行ってきました。いつものように、週1回の外出です。

 朝いちのバスー5時50分神明町発で北千住駅へ。ここから電車を乗り継いで新宿駅へ。7時5分に着いたので、7時30分発のあずさ3号に乗車。これは、千葉からくるあずさで、今は、全座席指定。以前は、自由席が2両ついていたので、多少カネ持ちのサラリーマンたちが乗っていた。立川や八王子までは、彼らでほぼ満員で、新宿で並んでも、座れないことが多かった。この日、車内は、2割くらいの乗客だった。自主規制破りの高齢者もいた。後方三両は、大月駅で切り離して、富士急の川口湖まで。

 神明町は、雨だったが、大月を出たあたりから、雲がとれて晴れ間も見えてきた。紅葉は、すっかりなくなり、葉っぱのなくなった木々は、すでに冬木立になっていた。ああもう冬なんだ、そう、本日は12月3日。

 長いトンネルを抜けると、甲府盆地が一望できる。すっきりと晴れ上がってはいないけれど、降ってはいない。富士山もうっすら見える。いつも下車する山梨市駅、南側が開発中で、駅前の建物がなくなり、まっさらになっていた。

 甲府駅下車。あずさ乗務員の女性が、「身延線は、ホームのはずれです。時間があるので、ゆっくりで、大丈夫」、と教えてくれた。彼女は列車内で、乗り換え時間を聞いたので、覚えてくれていたらしい。その彼女、女性乗務員は、背がばかでかく、180センチはあり、他の乗務員を見下ろすほど。なぜか制服を着ておらず、半袖シャツ姿だった。びっくり、本当にびっくりだった。千葉の始発からの乗務で、だから、ここ甲府で勤務交代だったのだ。とにかく、久々に親切なJR乗務員に会った。高齢者の客だったので、気を使ってくれたのかも、と。

 身延線の始発、l甲府駅から乗車。全行程88キロ。普通列車に乗った。2両編成で、客は3人、ワンマン列車だ。右も左も田んぼと、山々。左側は、南アルプス、北の奥は、中央アルプス、すすきの白くなった穂が、風にゆれている景色がなんとも風情がある。この列車は、鰍沢口までで、終点の富士までは、半分のところ。

 次にやってきたのが、特急列車だった。到着の車内を見ると、ボックスシート。で、乗った。こちらは、3両編成。座席指定の一両には、客ゼロ。静岡行きだった。自由席には、子連れが一組、ひとり旅客が12人、寝ていたり、携帯をいじっていたりで、車窓を眺めている人なし。

 身延線は、富士川沿いに走っているが、線路は、川よりも高い所を往く。川と線路の間に、たまーに人家がある、という風景だ。日蓮さんの道ということで、静岡の清水から歩いたことがある。身延山にもお詣りし、日本海までの歩き旅だった。秋葉山から富士川に出て、甲府まで歩いたこともある。身延線駅から、南アルプスの「光岳」(てかり)に登ったこともあった。JR身延線は、今回で2回目だ。

 いろいろ思い出しながらの乗り鉄、今回も「密」なしの、高齢者向きのちょい旅だった。

 富士駅で、熱海行きの東海道線に、熱海から新幹線のこだまに、東京駅から常磐線で北千住駅へ、そして綾瀬駅経由で神明町には、4時着。新幹線のこだまが、なぜか指定席車には、ほぼいっぱいほどの高齢者たちだった。自粛中なのに、外出中の高齢者、結構いるんだと実感。なお、自由席は、一両に数名程度の乗車率だった。

2020年11月29日日曜日

あの頃の難民問題、まだ続くテイグライ難民

連日、コロナで占められている新聞で、気になる記事が大きく取り上げられている、「エチオピアからの難民が急増」の大見出し。

実 は、この問題は、1980年代から存在しており、今に始まったことではない。当時、UNDP(国連開発計画)の代表として、スーダンの首都ハルツームに赴任していた。直接の担当ではなかったが、スーダン国内の難民キャンプを何度か視察したことがあった。

スーダンとの国境に近いエチオピア北部のテイグライ州からの難民が、スーダン国内に逃げ込んだもので、UNHCR(国連難民高等弁務官)や、外国のNGOなどがキャンプを作って救済活動をしていた。当時も、今も、エチオピア政府とテイグライ人民解放戦線(TPLF)との戦いで、軍事衝突から逃れようとする人々がスーダン側に押し寄せている、という。その数、6000人。今後、20万人を超える難民が予想されているとも。

あの頃、今から40年ほど前、スーダンの難民キャンプで会った人たちは、その後、どうしたのか、どうしているのだろうか。

当時の取材で、難民キャンプが、TPLFの戦闘員たちにとって、戦闘につかれたり、傷ついたりした際の「逃げ場」の役割をはたしていた、ことがわかった。キャンプ内には、売春テントの存在もあった。長丁場の戦いだった。

そんなエチオピアの首相・アピー首相は昨年のノーベル平和賞の受賞者。なーんでか、です。こうしている瞬間にも、エチオピアでは、戦闘で死傷者、そして難民が出ている。


2020年11月26日木曜日

GO TO ちょい旅

乗り鉄・水戸線

 11月25日、行ってきました、水戸線乗り。

 これで、11月のすべての水曜日に「乗り鉄」を実施したことになる。実は、別のルートを考えていたのだが、第三波の感染が発表されたので、中止するつもりだった。東北方面を考えていたのだが、あちらもコロナ、大変みたいだし、東京からの客は、あまり歓迎されないようだし、ということで、切符も買ってなかった。でも、あきらめきれず、結局、近場に行くことにした。

 北千住駅から水戸行きの快速に乗車。あいにくの雨だった。通勤客を東京に運んだ快速の帰り列車、ほぼガラすき。1,2号車、9,10号車は、ボックスシートなので、もちろん、ボックスシート4人座席にひとりで占領。

 雨で外は、見えないが、だいたいここら辺で、なにが見えるかの想像はつく。見えないけれど、左に筑波山が見える頃、土浦駅。ここで、5両を切り離す。牛久、駅の駐車料金が一日200円、一か月5000円、の文字、土地が安いんだね。雨でも、飛行機は飛びあがるんだ、成田空港方面から飛行機の音が聞こえてくる。

 11時50分、友部駅着。7人しか降りなかった。駅チャイムが、友部駅では、「上を向いて歩こう」、岩間駅は「幸せなら手をたたこう」、石岡駅は「ばらが咲いた」、だった。水戸線が来るまで、駅待合室で待った。東京よりも寒いので、助かった。

 間もなく水戸発の小山行きが来た。下車客20名くらいでほぼ全員が上野往きに乗車。5両編成の小山行きは、ボックスシート列車が一両だったが、ゲット。この線は、何回か乗ったことがある。笠間神社に来た時、真岡線、関東鉄道に乗ったのも、水戸線からだ。

 筑波山の裏側を走る水戸線は、ほぼたんぼの中の線で、駅は「無人駅」。5~6人の客が乗り降りする程度で、会話の声も聞こえないし、静かだ。沿線の景色、稲刈りを終えたたんぼがずっと続く。竹藪が多い。刈り終えた田んぼが青々としており、えっ、田植え、なんて錯覚してしまう。音よし、スピードよし、乗客少なくて、よし、やっぱりローカル線は最高だ。雨がやんで、筑波山のシルエットが、うっすらと見えるのもいい。持参のおにぎりを食べた。

 小山駅には、13時20分に到着。停まっていた電車に飛び乗った。13時30分発の新宿周りの横須賀行きだった。赤羽で乗り換え、西日暮里、綾瀬経由で帰宅。4時だった。コロナ禍でも、いつも通りのいい旅だった。

2020年11月19日木曜日

 しなの鉄道65キロ

 毎週水曜日、乗り鉄ちょい旅を続けている。今週は、しなの鉄道。軽井沢から篠ノ井までの65キロ。

 上野駅をいつもの新幹線たにがわ号6時42分乗車、高崎駅に7時34分着。申しわけないほど、空いている。これじゃあJRは、赤字なはず。駅構内の店は、まだ開いていない。

 30分ほど待って、信越線横川行きに乗る。高崎駅には、湘南新宿ライン、小山行き、水上行き、下仁田行きなど、いくつもの線が出ており、乗客は多い。横川行きは、反対方向だから客は少ないとおもっていたら、高校生たちがどっと乗ってきた。安中駅、磯部駅などで、降りていく。ここら辺に高校があるのだろう。6両編成。松井田に着いたら、ほぼ全員がいなくなり、乗客は2名。

 左に妙義の山々、前方には、真っ白な浅間山。ところが、真っ白だったのは、このあたりから見えただけで、この後の浅間山は、雪なしだった。つまり山の南側からの浅間山だった。

 8時2分に横川着。昔は、ここからsuuicchibacの列車が走っていたのだ。軽井沢まで列車で行くことが出来た。バス停へ行ってみたら、10分前に出たばかりで、次は2時間後の10時10分発。どうしよう、2時間も。

 しかたなく、関所跡などのあるあたりをぶらぶら。そうです、ここは中山道。坂本宿。中山道は、5回も歩いたことがあり、なつかしい旧街道のひとつだ。今は、ここも安中市だが、中山道の安中宿は、ずーと東の方だ。

 2時間待ちで、ようやくバスがきた。路線バスで、碓氷峠を通って軽井沢に降りる。時間になると、どこからか人が集まってきて、乗客はほぼ20名ほど。520円.妙義山も、峠を下った軽井沢も、紅葉は、盛りをちょっと過ぎた感じだったが、、見事な紅葉風景だった。天気は上々。

 軽井沢駅で、20分待って、しなの鉄道長野行きに乗った。小諸を過ぎたあたりからの山々の紅葉は、最高だった。針葉樹がなく、全山真っ黄色、圧倒される紅葉だった。乗客はこちらも、ほとんどおらず、しなの鉄道の終点篠ノ井駅着。でもこのまま列車は、長野駅へ。12時245分、長野駅着。他に客のいない駅ホームの蕎麦屋で、新そばを食べた(500円)。13時20分発の金沢からの新幹線はくたかに乗車、14時45分上野駅着。長野も暑かったけれど、東京も暑い日だった。しなの鉄道、この路線もいつかは、廃線になるのだろう。

 

 

2020年11月12日木曜日

 米坂線で置賜を往くちょい旅

11月11日{ゴロがよろしい)、乗り鉄に。行く先は、山形県の置賜エアリア。米坂線。、           

 上野発7時14分の新幹線。やまびこ123(これもゴロがいい)。ところが、この列車は、仙台行きと新城行きが連結しており、事前チエックなしで、自由席に飛び乗ったら、なんと仙台行きだった。大宮駅に着く前に、新庄方面行きのやまびこに乗り換えなければと、走行中の列車内を歩く。大宮駅でホームへ出て乗り換えようとしたら、通勤客の長い列。結局、宇都宮まで座れず立ちんぼ。新城行きは、自由席が2両だけで、毎朝通勤客でいっぱい状態。現状を把握してなくて、反省。  

 やまびこは、福島駅で左折し、米沢についたのが、9時26分だった。やまびこは、福島から先は、普通の線路を走る。降車の指定席車輛には、団体さんが20名ほど福島駅で乗車。そうか、東北の紅葉見物ーgo toトラベルか。

 東京は、晴天だったのに、郡山あたりから雲が出てきて、米坂に着くころには、小雨になっていた。9時26分着。

 構内の売店で、おにぎり一個(130円)買って、食べて、10時29分発の米坂線乗車。ホームの先頭というか、はずれに米坂線乗車ホームがあった。その間にも、東京駅行きの新幹線が新庄方面から入ってきて、こちらは、10名ほどの乗客。かたや米坂線13時28分発の乗客は、3名だった。終点の坂町方面へは、国道113号線が走っており、地元の人たちも、米坂線をあまりアテにしていないのではないだろうか。

 沿線は、まさに紅葉まっさかり。雨にけぶる紅葉もいいもんだ。トンネルが多い。長いトンネルを出たら、雪だった。雪と紅葉、これもいい。単線だから、対向列車が来ると、すれちがいのための停車。駅は、ほとんど無人駅だ。そういえば、現在、JRの駅の48.2%、約4500駅が無人駅なんだそうだ。(昨日のラジオ)

 川の水のにごり具合、たんぼの中の水たまりからすると、相当な大雨だったらしい。途中の駅から、時々、地元の乗客らしき人たちが、乗ってくる。降りていく。降ったり、止んだりの中で、紅葉まっさかりの景色を堪能。

 この線は、過去2回ほど乗ったことが有る。長井でのクロスカントリースキー大会の時、飯豊の山に登山に来た時の2回だが、なんにも覚えていない。

 列車の右側には、朝日連峰、左側は、飯豊連峰という米坂線だが、あいにくの曇り日で、遠くは、見えない。

 ここら辺は、置賜地方で、米もうまいし、果物も豊富な地域だ。12時25分、坂町に到着。12時38分の新潟行きが出るというので、飛び乗る。こちらは、学生や、地元の人たちも乗っていて、満員には、ほど遠いけれど、結構、乗っていた。新潟は、曇り空だった。

 14時19分発の新潟駅発の新幹線に乗車。ひと眠りしたら16時22分、上野駅だった。

 乗り鉄・紅葉見物は、本日も大成功でした。今季は、これでおしまいか、な。


2020年11月5日木曜日

三国 街道宿場の猿ヶ京へ

 11月4日、いい天気でした。雲ひとつない上天気、久しぶりの秋晴れ。上野駅から上毛高原駅へ。神明町でいちばんのバスに乗ったのが5時50分。北千住駅経由で上野駅に着いたのが、6時40分、飛び乗ったが、6時47本分発の越後湯沢行きの新幹線だった。上毛高原駅に停まる新幹線は、一時間に一本ほどのダイヤで、ラッキー。高崎駅経由、ほぼトンネル内走行で、景色はだめ。上毛高原駅着7時57分。8時前に着いてしまった。

 ここから路線バスで、猿ヶ京へ。 バスには、通学の高校生が8名。全員、スマホに熱中していた。学校前で下車。乗客1名になった。急に景色が変化。紅葉がしっかりすすんでいた。

 左側に湖、赤谷湖だ。ということは、前方の集落は、猿ヶ京温泉。湖周辺が、特にきれいだ。「あと1週間くらいだね、紅葉は」、と運転手。

 ここ猿ヶ京は、三国街道の宿場で、街道の難所三国峠が控えており、温泉もあり、参勤交代の越後の大名たちが宿泊した宿場でもあった。街道歩きの旅で、ここに泊まって、三国峠を越えたこともある。もう一回は、残雪の頃、山梨のKさん、それにM先生の三人での歩き旅だった。峠の神社の鳥居の一番上の部分が雪の上にちょいと見えたほどの残雪だった。鳥居のてっぺんに座って写真を撮った。苗場に降りて、スキーをしたっけ。思い出の峠だ。

 路線バスの終点で、バスを乗り換え、法師温泉へ。山道なので、マイクロバスで、約3キロ。それでも25分かかった。乗客は、ひとり。まあ、貸し切りってとこ、です。こちらの山道は、最高だった。紅葉の中を行く、という感じで、落ち葉がハラハラと散る中を、落ち葉を踏み、踏み走る。すれちがう車もなく、山道なので、のろのろ走るバス。とにかく、秋まっさかりの山道だった。毎日見ているはずの運転手さんも「いいねえ」を、連発していた。

 法師温泉は、宿一軒、長寿館。与謝野晶子がきた、とあった。駐車場には、自家用車が7台。宿泊料金も高いらしい。

 ここから、街道を峠まで登り、苗場に下り、越後長岡、出雲崎へ。佐渡島へ送られる囚人たちも、通った道だ。今は、峠の下にトンネルができて、国道17号線で、新潟方面へ行くことが出来る。

 Go To路線バス乗りの旅は、旧街道の紅葉を愛でる旅でもありまし。



2020年10月28日水曜日

自粛やブリ、乗り鉄へ

 東武鉄道ー野岩鉄道ー会津鉄道ー磐越西線

 10月26日、本格的な「乗り鉄」へ。

 5時50分のバスで北千住駅へ。6時42分発の特急乗車。この特急は、半分(3両編成)が日光行、もう半分が会津田馬行き。乗ったのは、田島行き。すぐ前に、4人組のオトコ集団が座っており、そのすぐわきが指定の席だったので、空いている席に自主避難。オトコのお喋りってあるんですね。アルコールこそ飲んではいないけれど、ずーと喋りまくっていた。

 いつものように、右側に筑波山、でも、今朝はなんとなく曇っていて、はっきりは見えない。7時20分に利根川を渡る。車内アナウンスは、外国人なんか乗っていないのに、英語、中国語、韓国語、そして日本語で行われていた。そういえば、英語のアナウンサー、日本語のフレーズがとてもきれい。英語の出来る日本人だったのかな。

 お墓といえば、だいたいお寺の周辺っていうのが相場だが、ここら辺のお墓は、たんぼや畑の中、山の中、自宅の庭先、っていうのが多い。いつも気になるのだが、どうしてなんだろう、と走る列車から眺めながら、思った。

 間もなく今市駅に到着。ここで、日光行を切り離し、会津田馬行きは、各駅停車となる。車掌が女性になった。切り離して間もなく、新高徳駅に着くと、ほぼ全員が下車。4人組のお喋りおじいさんたちも、降りた。残ったのは、3人だけ。この先は、トンネルが13もあり、停車駅の半数がトンネル内だった。30.7キロを約30分かけての走行。温泉だらけー鬼怒川温泉、川治温泉、湯西川温泉、中三依温泉、三依塩原温泉、これみな駅名です。紅葉は、いまひとつ。

 会津高原尾瀬口駅までが、野岩鉄道、ここから福島県で、この先は、会津鉄道が西若松まで続く。高原駅の次が会津田島駅で、特急リバティは、ここまで。北千住駅で買った切符もここまで。ホーム反対側に止まっていた会津線会津若松駅行きに乗り換える。乗客4名だった。まだ9時41分。

 会津高原駅は、七ヶ岳に登った時、それから、ここから尾瀬に行ったことがある。

 列車は、稲刈りを終えた田んぼの中を走る。線路は、やや下り坂になっていて、快速だったこともあり、かなりのスピードだ。一両編成。小雨が降ってきた。10時49分、会津若松駅に到着。ここでの乗り換え時間が、9分で、磐越西線郡山行きに乗車。ちなみに、会津田島駅から会津若松駅までの乗車賃は、1470円、ちょっと高いんじゃない。

 列車は、快速で2両編成、立っている客がいない程度の乗車率。もちろん、単線で、快速とはいえ、郡山から来る列車を、なんどか待つために、停車。

 いつの間にか、雨は止んで、磐梯熱海駅通過、乗車、降車する客なし。猪苗代湖が、ちょいと見え、磐梯山も見えた。裏磐梯には、XC(クロスカントリースキー)をやっていた頃、10年間ほど、ちょくちょく通ったので、なつかしい。

 12時19分、郡山駅着。そばでも、たべるか、と思っていたのに、12時30分発の新幹線のホームに駆け上がっていた。客は、少なく、4人しか乗っていなかった。車内販売などなく、でも、神明町から持参の特性おにぎりがあります。塩昆布と梅干し入りの、でかめのおにぎり。時間をかけてゆっくり、ゆっくりいただきました。景色、面白くない。

 13時42分、上野駅到着。会津若松~郡山間が、64,6キロ、郡山~上野間が、223.1キロ。やっぱり早い、新幹線。でも、おにぎりを食べて、ひと眠りしただけ。


 


 

2020年10月27日火曜日

オリンピック村へ、新型バスで

 大江戸線の築地市場駅下車。前回、9月は、日比谷線の築地駅だった。雨だった。今回は、青空。13時30分集合時間、13時20分着。ここは、地下鉄改札から長ーい地下道を歩かなければならない。地上に出ると、ほぼ全員の顔があった。  

 道路向うの建物は、朝日新聞社ビル。昔は、有楽町の日劇の隣りにあった。知っている人は、あまりいないじゃないか。

 道路は、汐留、新橋方面に右折。一行は、左折。元築地市場の西の端を白い壁側をしばらく歩き、隅田川に架かる豊洲大橋を渡る。オリンピック選手村、築地新市場を結ぶ橋で、なぜか舛添知事の名前があった。舛添さん、橋を架けた人ってわけか。橋を渡り切ったところに、エレベーターがあり、「あれば乗る」の年金組6名。

 降りてちょいのところにバス停があり、バスがくるのを待った。都心から晴海につながっている路線。10月1日から始まったばかりの新型2台つなぎのバスに乗った。ヨーロッパでは、ウイーンなどで走っている。もちろん、シルバーバス、OK.他に客が5名、団体さんたちは、やや興奮気味ではしゃいでいました。勝どき、月島をまわり、バスターミナル着。

 下車して、晴海ふ頭まで、歩く。ビル群の中、ほとんど人っけのない大通り。前方左、海側との間に、オリンピック選手村。本来なら、全世界の選手たちで、大賑わいだったであろうエリアだ。

 道路が交通止めになっており、反対側に渡る。このビルは、東京都の中央清掃工場。顔近くで、ぶよが飛んでいる。でも、人影は、ほぼゼロ。

 晴海ふ頭に出た。巨大な建物、ここも人気(ひとけ)なし。ガランとしたバスターミナル。時計をみたら3時すぎだった。ちょうど来たバスに乗った。東京駅行きだった。銀座4丁目下車。木村屋でパンを買って、まっすぐ帰宅。

 コロナ自粛後、2回目のちょい歩き。狛犬にまったく会わない、東京狛犬楽会だった。


2020年10月19日月曜日

断捨離ーその②

 断捨離ーその②

 断捨離してないけれど、しなければならない、と思っているもの、モノ。

万年筆  いちばん持っていた頃は、499本。なんとか500本以内にとの配慮から、1本買うと、1本減らすということをしていた。今は、選んで、残っているのが、約80本くらい。モンブラン、ペリカンが多い。日常的に使っているのは、240円の使い捨てのパイロット。ガラスペン3セット。

鉛筆  三菱鉛筆10セット(H~B)

ノート  海外で買ったもの、日本製など100冊くらい。

時計  腕時計9個、 懐中時計4個

ハモニカ  8本。

ナイフ  肥後守7本、他2日本。

 文房具は、とにかく大好きで、丸善、伊東屋、東急ハンズは、月1~2回は、通っていた。新製品が出ると、どうしても手にとってみたくなる。コレクターを対象の本も、何冊か持っている。新製品が気になるのだ。日本の地方でも、外国の街でも、必ず行くところは、文房具店。随分、整理したけれど、断捨離? なんて、考えられない、今は。



2020年10月16日金曜日

コロナ・ステイホーム脱出

 コロナ脱出ーまずは、日光・足尾へ。

 10月14日、行ってきました。8か月ぶりでの遠出です。6時42分の北千住発に乗るつもりで、5時50分の神明町から北千住駅行きのいちばんバスに乗車。いちばんバスの状況が変わっていた、景色が変わっていました。

 バスには、すでに4人の乗客が乗っており、4人とも高齢者。次、次に停まる停留所で、乗ってくる客、すべて高齢者。すぐわかるんです、全員が、東京都のシルバーバスだった。終点に着くまでに、20人ほどの乗客、男女の高齢者で、みな朝いちバスのお知り合いらしく、「おはようございます」、のご挨拶。運転手さんにも、「おはようございます」。コロナの日々に入ってから、高齢者は、ステイホーム、しているとばっかり考えていたのに、なんと、働いていたことを知った。実は、あさいちバスは、ちょい旅に出る時には、かならず利用していたので、なみじ深いバスで、いつもなら、乗客は、終点まで5~6名で、スーツ姿の勤め人もおり、早番なんだな、なんて思っていた。いつの間にか高齢者通勤客が増えていた。

「今日の弁当は」、と女性客が尋ねると、「のり弁だよ、夕べののこりご飯でね」、と男性客が応えていた。弁当もちで、働きに行くんだ、どんなところで働いているんだろう。これから、遊びに行くのが、なんだか悪いみたいな感じだった。

 特急けごんは、1時間20分で、日光駅着。一両に15人ほどの乗客で、「密」は十分避けての列車旅。曇り空だけれど、降らなければいい。1時間ほど待って、足尾行きの市営のミニバスに乗った。市内から山間部に入ったけれど、紅葉は、まったく感じられず、去年もそうだったけれど、今年の紅葉は、だめそう。乗客は、途中から乗った女性客がひとり。1時間ほどで、間藤駅前着。わたらせ渓谷鉄道の終点駅だ。何回も来ている駅、無人駅だ。

 わたらせ渓谷鉄道が、コロナ禍で、名物のトロッコ列車の運行が困難となり、今はやりの「クラウドファンディング」とやらで、カンパ集めを始めたというので、乗り鉄に行ったというわけ。間藤からの乗客ひとりだけで、途中からも乗り降りほとんどなく、名所の足尾銅山のある駅でも、3人だけという乗客率だった。途中ですれちがったトロッコ列車にも、乗客が数名のみで、経営はたいへんだ、と。

 足尾銅山は、江戸、明治、昭和の400年間、日本の近代化に貢献してきたが、昭和48年に閉山。渡良瀬川の鉱毒事件で、国会議員だった田中正造が天皇に直訴したことで知られており、たしか学校の教科書にも載っていた。今の古河電工の前身。運転手さんに聞いたら、足尾銅山観光は、ほぼゼロの状態とのことだった。

 クラウドファンディングの様子も尋ねてみたら、「おかげさまで、目標の300万円は、集まったようです」、だそうです。途中下車せず、桐生までの44.1キロ、約90分の久々の乗り鉄、充分に楽しみました。

2020年10月9日金曜日

廃品回収の日

断捨離ーその➀

 あんなにも暑い、暑い夏だったのに、急に寒い日になった。10月9日なのに、暖房が欲しくなった朝の寒さ。せっかく咲いた金木犀が、今朝、落花、そこらじゅうが黄色になっていた。

 昨日は、終日雨だったけれど、大忙しい一日だった。朝いちばんで、大物廃棄物をいっせいに出す日。コロナ籠りで少しづつ整理した「お宝」が、遂に、我が家からなくなった。

スキー(XCクロスカントリー)  板8組、ストック3、靴3足、ローラースキー(夏のトレーニング用)1組、

登山  ザック4(小、中クラスは、すでに廃棄)、靴3足、アイゼン2組、ピッケル3本、ザイル3組、

チャリ(自転車)  本体そのものは、すでに廃棄3台、携行備品一組、靴1足、

剣道   面、小手用防具、上下衣(袴、上着)、竹刀3本

 XCスキーは、長続きしたスポーツ(薬10年)だったので、板も多く、なんとなく捨て難く、ベランダに置いてあった。いつか、また使うかも、やるかも、なんて思っていたが、6年前に日光へ行った時以来、使っていない。

 登山は、最近は、「軽」装が主流で、昔の厚くて重い皮の山靴は流行らない。運動靴で結構な山を歩ける。底にビブラムなんかを打つなんてことはしない。アイゼンは、冬山、春山で使用していたもの。こちらも、冬山をやらないので、不用。ピッケルは、なぜか3本もあったが、あまり使った記憶がない。

 チャリ(自転車)は、ツーリング用、レース用など3台あったが、75歳時に廃棄。だた、ツーリングに持っていく携行袋が、中味(タイヤはじめ、空気入れなど)が入ったままで、残っていた。オーストラリアを走ったチャリもある。

 いづれも、アウトドア用品ばかり、現役時代の遊びの多様さが、わかる。これら、しめて回収料金が、10,000円ほどだった。もう、二度とやらないんだな、と思いながら、廃品回収の車に積み込まれるのを、眺めていた。



 




 

2020年9月29日火曜日

   スウエーデンのストックホルムのホテルで、いつものように早めの朝食、ということで、エレベーターに乗った。上階から降りてきたエレベータには、ひとりの男性が乗っていた。「おはようございます」、と英語であいさつすると、相手も「おはよう」という。発音からして、英語ネイティブではないようだ。背が低く、しかし、眼光鋭い男性だった。

 レストランのある二階でエレベーターを降りると、「ひとりですか?」、というので、「はい」と返事をすると、椅子をひきながら、「一緒にどう?」と誘ってくれた。で着席。そのあとゆっくり、ゆっくりの英語での会話。実は、何を話していたか、まるで覚えていない。ただ、その男性が、あの有名な哲学者サルトル氏であることは、後で知った。

 迎えにきてくれたスウエーデンの友人が、「知り合いか」と尋ねるので、たまたま朝食をいっしょしただけ、と答えると「あの人、サルトルだよ」、と教えてくれた。

 このことを、中央大学の哲学のM教授(ヤスパース研究の第一人者)に話すと、いろいろ尋ねられたが、サルトル氏なんて意識がなかったし、そもそも、サルトルさんの実存主義なんてえのも、読んだこともなければ、まるで無知だった。

 ただ、ジャンポール・サルトル氏と、ストックホルムのホテルで、朝食を共にした、ということは、事実、史実というのかな。

 これも、記憶のコレクションのひとつである。


2020年9月28日月曜日

ルーマニアの大使館員

 「ヒヨーショージョウ」

相撲の千秋楽、なんとなくテレビで見ていた。知った名前の相撲取り、ひとりもいなく、足立区内に部屋のある〇〇部屋の力士たちが、コロナで出場していないということもあって、銭湯へ行っても話題にならない。

 熊本の正代とかが優勝し、表彰式を見ていたら、外国からの表彰状が在日の大使から手渡されており、それを見ていて、久しぶりに思い出した。

 現役時代、たまたまルーマニア大使館の書記官だった男性と知り合い、着任したばかりの彼に、日本語、日本事情を教えることになった。こちらも、東ヨーロッパ事情を聴きたかったこともあり、月1回くらいだった。場所は、麻布のフランス料理のレストラン。そこのオーナーが、なぜか、食器、皿とか、グラスとかをルーマニア産の陶器を使っており、ワインで乾杯する際に「これ、ルーマニアのグラス」、と得意げに話していた。その彼氏から、電話がかかってきた。

 「緊急にお会いしたい」、というので、何事かとレストランへ。実は、大使が帰国中で、大使の代わりということで大役を仰せつかった、と。その大役というのが、国技館で、千秋楽に優勝力士、ルーマニアのクリスタルを手渡す役だった。その際に、賞状を日本語で読まなければならない。日本語の正しい発音を教えて欲しい、というものだった。千秋楽まで一週間、なんどか会って、特訓した。そうそう、特訓会場が、飯倉のアメリカン・クラブだった。レストランの予約がとれなく、そちらにしたらしい。当時、まだ冷戦下の世界情勢で、東欧の大使館員が、アメリカン・クラブか、と多少は気になったのを覚えている。

 千秋楽当日、靴をぬいで、土俵に上がり、表彰状を無事朗読したのを、浅草橋の寿司屋のテレビで見た。イントネーションも悪くない、うまくいった。

 その後、「お礼です」、とルーマニア製の花瓶をもらった。今でも、わが家の玄関に置いてある。





2020年9月9日水曜日

ひらめいた、で、はじめた(その2)

こんなことも、やった 

楽器、ハモニカ、アコーデオン、フルートを、実際にそのものを買って、練習したが、歌ー声楽もやったことがある。始まりは、コーラスグループを作って、週一回、先生とピアニストを頼んで(有料)、10人ほどのコーラスグループ。名称は「キャリア・インターナショナル」。5年くらいは、続いた。東京都のコーラス大会に出場して、入賞したこともある。メンバーは、インターナショナルに活躍中の女性たちで、海外出張で時々欠席していたものの、結構まじめに参加していた。コーラスがなくなってから、安田祥子先生の個人レッスンを、3年間ほど受けていた。安田先生は、由紀さおりさんのお姉さん。歌曲ではなく、声楽の練習曲だけだっが。

3年前のことだが、北千住のカルチャーセンターで、ボイストレーニング教室というのに入った。引退後の音大の教授だったオトコ先生が、自らピアノをひきながらのご指導。受講生は、もう何年もやっているという中高年女性6名。みなさん、なかなかの美声で、それでも、おそるおそる仲間入りした。先生が好きだったのだろう、カンツォーネが多く、それもイタリア語での歌曲、実をいうと、うれしかった。先生の声は、テノールで、パパロッテみたいだった。5か月ほど通った頃、先生が欠席がちになり、遂に講座は、中止となってしまった。 カラオケは、やったことがない。

          


ひらめいた、で、始めたこと

まだステイホームしています。結構、やることが多いんです。

昨日は、押し入れから、ハモニカが出てきました。それも7本も。そういえば、ハモニカ、吹いていたこともあった。山岳会時代、山の上で「雪よ、岩よ、、」なんて吹いていました。5~6年くらいだったけれど。試しに吹いてみたら、まだ吹けた。 楽器では、アコーデオンも習ったことがある。イスラエル留学から帰ってきた頃、あちらが、フォークダンスの本場だったことから、アコーデオンが盛んだった。目白駅近くの楽器店で、週一アコーデオンを教えてくれるっていうので、一年半くらい通った。アコーデオンそのものは、かなりの高額だったと思う。止めてから、友人の娘さんに貰ってもらった。古道具屋で、買ってきたフルート、これは、勝手に吹いていたが、聖者の行進、だけが吹けるようになった。


2020年7月28日火曜日

山本寛斎さんのこと

寛斎さんのこと
 今朝の新聞に、「山本寛斎さん死去」の見出し。えっ、寛斎さんが、と思わず叫んでしまった。
 今から2、3〇年前だったか、伊豆で日本の中堅リーダーの会議が行われていた。二泊三日のこのセミナーに、5,6回参加していた際に、寛斎さんと会った。彼とは、たしか会ったのは、2回。作曲家の三枝さん、吉永のみっちゃん(みち子)、「ぴあ」の矢内社長などもいた。普段は、あまり関係ない人たちだったが、セミナー以外でも、結構、会ったりしていた。
 コトの次第は、はっきり覚えていないが、伊豆のセミナー会場で、寛斎さんが、毎日、着るものをとっかえ、ひっかえしてきたので、みんなで、さすが、ファッションデザイナーだ、と感心していたら、「わたしの着ているシャツを、よかったらプレゼントする」、といわれ、思わず手を挙げた。彼が、有名なファッションデザイナーだなんて、意識ゼロだったので、手を挙げたのだ。
 と、たしか、一週間後、宅急便が届いた。寛斎さんからだった。開けると、あのシャツが入っていた。シャツと言っても、女性のブラウス風のゆったりした仕立てのシャツだった。色は、たしかピンクと薄い緑色(竹色)の、どちらかというとド派手なものだった。
 少し派手だけれど、と礼状を出したら、新聞の半分ほどの大きな画用紙に、「たまには、派手にして、目立つことも大切だよ」、とパステルの大きな文字の返事がきた。
 それだけのことだったが、寛斎さんの人柄を感じた出来事だった。
 翌年のセミナーには、寛斎さんは、来なかった。
 「ぴあ」の矢内さんは、毎年、両国の初場所の招待席の切符を、6年間も贈ってくれた。埼玉の女性団体でボランティアをしていて、死ぬまでに、いちどでいいから、ほんものの相撲を見たいという人がいるので、というと、その年から
「ぴあ」の社長室から、切符が二枚送られてきた。毎年、選んで、ひとりづつ、両国国技館にご一緒した。席は、いわゆる砂っかぶりの席だった。死ぬ前といっていた人たちは、相撲見物の後、みなさん、長生きした。
 その矢内さんとは、数年前、なぜか、モンゴルのウランバートルで、偶然再会。国立劇場で、日本からご一緒の団体さんたちと観劇にきておられた。たまたま、モンゴルの友人と
来ていて、なんと、席が真ん前、そこに矢内さんがいたのだ。「いつも、相撲の切符、ありがとうございます」、とはじめて、当人に御礼を伝えた。いつもは、社長秘書の女性と
だったので。偶然とはいえ、そうゆうことって、あるのだ。

2020年7月15日水曜日

ひとり暮らしの極意

4時に起きる。
 夕べ寝たのが9時だから、起きていい時間。
 毛布やら、ふとんを、みてくれのいいように、整理し、着替える。今日着るモノは、夕べ脱いだモノ。夕べのモノは、ざるに入っている。このざるは、店仕舞いの銭湯から、譲ってもらった。100円だった。
 昨日、着ていたモノを、今日着る。stay homeなので、昨日も、今日も、同じモノですませている。洗濯は、3日にいちど、カレンダーにしるしをつけている。
 顔を洗って、15分ほど体操をする。準備体操。
 で、バイクに乗る。エアロバイク15分間。テレビの見える場所に設置しているので、本日の、いちばんのテレビニュースと天気予報をみながら、バイクを漕ぐ。
 バイクの次は、お茶の時間。お茶は、静岡の友人から、いただいたほんものです。プラス、仙台から毎年届く梅干し。
沖縄の黒砂糖をつけて、食べる。減塩してるとはいえ、梅干しは、梅干し、「すっぱい」。
 コロナ前は、毎朝、コーヒーを入れて、飲んでいたけれど
コーヒーの粉にお金をけけるより、日本人なのだから、朝は日本茶でしょう、になった。
 「お茶の時間」の後は、これまた、日本人なのだから、朝は、般若心経でしょう、読経します。まだ朝なので、少し音量をさげ、ま、アルトっぽく経をあげます。
 8年前から、寺のご詠歌の勉強会に行っていたので、般若心経は、そらで覚えているけれど、経典を見ながらの読経で
す。
 この間に、検温します。高齢者は、サンミツをさけ、手洗い、検温をというので、守っています。般若心経が読み終わる時間が、ちょうど検温の時間なのです。
 「本日も、モンダイなーい」。
テレビをつけると、語学講座をやっている。スペイン語、イタリア語、韓国語、中国語、英語が日替わりに出てくるので
毎朝、なにかしら、ちょい学びです。会話なので、わかりやすい。単語のひろい学びを楽しんでます。
 これがすむと、テレビ体操の時間。ラジオ体操の第一と第二、それにテレビ体操のうちふたつを組み合わせにしている。バランスのとれた体格のお姉さんたちが、テレビの画面でやってくれるのに合わせてやる、これがなかなかいい。 
 15分ほどで終了。
 「さあ、いくぞ!」
 3P0(ウオーキング)の時間。
 コースは、埼玉県と東京都の境にある運河沿いの遊歩道。
この運河の歴史は、旧く、明治時代からあったと、区史に書いてあった。だから樹木の多くは、古木だ。対岸の埼玉県側の遊歩道には、木がない。
 コロナになってから、歩く人が若干増えてが、緊急事態宣言が解除されてから、人数は減った。
 距離にして、約5キロ。
 その先に、農家のHさん宅、畑がある。今は、枝豆の最盛期だ。
 8時頃に帰宅。新聞を読みながら、1時間ほどかけて、朝ご飯。新聞を広げて読めるほどのスペースのあるテーブルだ。気に入っている。
 9時になり、さあ、ないをしようか、これが、毎日の繰り返し、です。隠居の、朝の、極意です。
 

2020年7月5日日曜日

いきつけ銭湯

 コロナ慣れ、になってしまい、ステイホームが、当たり前というか、快適になってしまったような昨今。
 それでも、銭湯通いは、続けている。ご近所銭湯が、5月5日で閉鎖され、しばらくは、自宅のウチ風呂で我慢していたが、やっぱり銭湯でしょう、というわけで、足立区内31の銭湯を、あっちこっち入り歩いてみた。
 自宅からバスで、15分ほどのところにある「若松湯」。ここは、高校生の頃、バスケット部の部活のあと、よっく入りにきた銭湯だ。60年も経っているのに、まだ現役で存在しているのは、うれしい。
 建物は、ビルになっていて、銭湯は、一階部分で、両側に
は、自転車屋さん、理髪店に貸していて、地下は、居酒屋さん。二階、三階は、アパートのようだ。多角経営で銭湯を続けているのだ。
 その銭湯の内部は、浴槽が3つ、いずれも、ひとりかふたりしか入れないサイズ、サウナは、「3人用」とあり、薬湯(3人くらい)、ミスト風呂、水風呂、という多種類湯だ。
カランは、20個。ちなみに下足入れは、40人分。
 シャワーが、2個あり、ここでまずからだを洗い、まっすぐ薬湯に直行。やや熱めの湯だが、ここに10分づつ2回入り、水風呂でさます。トータルで、25分。脱衣所で5分で
身支度を整え、銭湯をでる。3~5分で、バスがくる。これに乗って帰宅。とまあこんな具合で、週2、3回は、若松湯へ、通っている。
 コロナがひと段落したら、他の銭湯へ行ってみよう。
 


2020年5月23日土曜日

81歳と18歳

道路を暴走するのが 18歳
 逆走するのが 81歳

心がもろいのが 18歳
 骨がもろいのが 81歳

恋におぼれるのが 18歳
 風呂でおぼれるのが 81歳

ドキドキが止まらないのが 18歳
 動悸が止まらないのが 81歳

恋で胸を詰まらさせるのが 18歳
 餅で喉を詰まらせるのが 81歳

自分探しをしているのが 18歳
 みんなが自分を探しているのが 81歳

東京オリンピックに出たいと思うのが 18歳
 東京オリンピックまで生きたいと思うのが 81歳

社会に旅立つのが 18歳
 あの世に旅立つのが 81歳

早く「20歳」になりたいと思うのが 18歳
 できれば「20歳」に戻りたいと思うのが 81歳

「嵐」というと松本潤を思い出すのが 18歳
 「嵐」というと嵐寛寿郎を思い出すのが 81歳

昨日、5月22日、82歳になりました。こんな戯れ言を
みつけました。

2020年5月19日火曜日

ばらが咲いた、ばらが咲いた

今、ばらが見頃です。満開です。
 都電(さくらトラム)の王子駅から三ノ輪橋方向に乗車。
三河島水再生センター(荒川自然公園)駅あたりから、都電の線路両側、ばらが植えてある。終点の三ノ輪橋駅は、まるでばら園。本格的なカメラを持った人たちが、シャッターを押している。
 唯一生き残った荒川線、今は、ここ三ノ輪と早稲田の間を走っている。コロナ前は、外国人観光客が、ずいぶん乗っていたが、今は、ご近所さんたちの足。さくらトラムなんて、粋な名前になった。
 三ノ輪へは、日比谷線や都バスで行けるけれど、やっぱり都電がいい。三ノ輪商店街にある「大勝湯}に、週一回通っている。ここの商店街が好きだ、大勝湯も相性がいいので、ご贔屓にしているんです。もう、10年くらい通っている。
 春は、荒川自然公園の桜が最高。都電が、満開の桜の木の下をはしる。桜が緑の葉っぱになると、ばらが咲く。どちらも、無料、古川庭園みたいに、入場料をとらない。
 ばらは、今が見頃です。この時季に見ないと、ダメになってしまう。今が最高。だから不要不急でも、見るべき。
 黄色と、白のばらが、好きだ。
 プロみたいなチームが、毎日、手入れをしているので、最高の状態です。見に行って下さい。
 

2020年5月17日日曜日

安田・由紀姉妹コンサート

安田祥子・由紀さおり30周年コンサート
 ゆうべ、テレビのチャネルを回していたら、安田・由紀姉妹のコンサート。30周年記念とか。
 実は、ずいぶん前のこと。安田祥子先生に、歌の個人レッスンをしていただいたことがあった。
 基本から、しっかり学べば、うまくなる、という方がおられ、それじゃあ、と先生を探していたら、安田祥子さんに出会った。月2~3回で、2年間くらい、練習場のある四谷に通った。歌ではなく、「コンコーネ」という練習用の楽譜で
本格的なレッスンだった。一対一のレッスンは、90分。行く前には、結構予習というか、練習をした。褒め上手で、「ずいぶん、よくなったわね」、「だいぶ上達した」、などと褒められ、もしかしたら、音大に、なーんて思っていた。
 安田先生のご主人は、エリザベスサンダースホームの沢田みきさんの息子で、なんどかお会いしたことがあった。安田先生が、アメリカに留学していた娘さんの卒業式に渡米するというので、当時、慶応病院に入院中の沢田さんを、一日一回お見舞いし、その際に、フランス語の新聞を買ってきてくれとの難題に、往生した。英語だけでなく、フランス語も堪能な国際人だった。教会での、彼の葬式で、外国人参列者の受付を手伝ったことも。
 そうそう、いちど、いちどだけだったけれど、安田祥子先生のコンサートで、一曲歌うという体験をさせていただいた。由紀さんが、「子どもの学芸会みたいで、とっても心配だったわよ」、と言われた。
 テレビの画面の安田先生は、やっぱり由紀さんより、うまかった。

2020年5月14日木曜日

まだまだ、ですね

5月14日、緊急事態宣言の見直し日。でも、東京はだめみたいです。ということで、日本国内、国外の友人たちから、同情、見舞いの電話。
 夕べ、またモンゴルから、電話。
 「たべもの、ある?」、ウランバートルから、東京へ飛行機が飛んでいれば、羊の肉を送れるのに、と。モンゴル人の感染者は、ひとりもおらず、フランス人の旅行者が、ひとり
陽性になって入院、完治して帰国したとのこと。日本にいたモンゴル人たちは、ドイツの飛行機でフランクフルト経由で
帰国した。緊急事態がすぎたら、モンゴルへいらっしゃい、しばらく、日本に帰らずに、滞在するといい、と。
 仙台からは、お米が届いた。あの時、東北大震災時の教訓で、お米さえあれば、なんとかなる、と、コロナでも、お米さえあれば、と送ります。
 高知からは、野菜と魚の宅急便。冷凍のカツオと、ニンニク、ショウガ、オオバ、みょうがなど、薬味が入っていた。
 5月22日に82歳になるので、調べたら、加山雄三、伊東四朗が84歳、東海林さだおが85歳、宝田明さん、1934年生まれだって。
 コロナで、お上が、ああせい、こうしろ、というたびに、国民のひとりとして、その通りには、するけれど、この政府が、自分の生命、安全、健康、財産などを、本気で守ってくれると、国民は、考えているのだろうか。政府なんか、信用しない方がいいのかもしれない。
 持ち時間は、そう長くはない。自分の体力、知力の限界が
なんとなく、わかってきたので、その範囲での生き方、「今日も、ほどほどに、いい日なら」それで充分。日々の生活の
中での多くの事柄は、自分で解決するしかないのだ。
 そんなこと考えながら、日々を過ごしている。

2020年5月11日月曜日

{どうしてる?」、海外から電話[

シンガポールから電話、ゆうべ8時頃だった。もう、寝ようかな、と思っていた。国内の知り合いからは、夜の時間には
ほとんど電話は、ない。寝る時間、という噂が徹底しているので。
「東京、大丈夫?」、「自宅から出られないんでしょう?」
家族がひとり、ひとり替わりながらの、ご挨拶だ。
 メールを何回もしているのに、まったく返事がないので、という。実は、パソコンのメールの送信が、今年のはじめから、だめ、なのです。なんで、だめなのか、パソコン音痴の
後期高齢者、どうしていいのか、わからず、そのままになってい)。(だれか、直してくれるといいんだけれど)、
 シンガポールでも、今、たいへんらしい。自粛状態らしい。友人一家は、めったに家族全員で夕食をとることはなく、それでも、日本からの友人が来た時には、「久しぶりで
みんなの顔が揃った」、といわれるほどだ。
 コロナで、一家揃ったところで、東京に電話してみるか、となったらしい。病院の院長の友人は、連日、たいへんだったが、久々に休みがとれたとのこと。日本の厚労省と同じことを言っていた。「人混みへ行くな、マスクを、そして自宅を出るな」、だった。でも、ありがたいな、電話。
 モンゴルからも、電話。東京がたいへんだとくことを毎日テレビで、見ているよ。高齢者は、死ぬってあったけど、生きてるよね、死んじゃあだめだよ。ちゃんと食べているかい。マスクしてるかい。モンゴルの空港も、外国人は入れないけれど、コロナが終わったら、夏には、必ず、来てね、いい空気が待ってるよ。
 モンゴルは、コロナによる被害は、ほとんどなく、マスクはあるけれど、していない。ウランバートルは、いつものウランバートルだとか。冬がおわり、いい季節になった、と。
 ウイーンからの電話は、療養中の友人から。昨年、お見舞いに行った彼女からだった。「ウイーンも、ヨーロッパ全域
でも大流行。東京も、たいへんのようだけれど、大丈夫?」
病床にありながらの電話に、感動。

2020年5月8日金曜日

大型連休、終わってみて

大型連休、終わって。。。
 文字通りに、STAY HOMEの連休だった。といっても、翌日の7日から、生活が変わったわけではない。東京は
不要不急、おでかけは自粛、がまだ続いている。テレビも、新聞も、コロナだらけで、なんだか、コロナを中心に、すべてが、動いているみたい。自分も、コロナを気にしすぎで、
「不安」になり、「不信」になり、そして「不満」になっていたみたい。だれかのせいにしたくなっていた。
 今朝、ふと、気がついた。なーんだ、そっか、いつものような生活リズムで、いいのだ、と。コロナ、関係ない。
 朝起きたら、体操をして、エアロバイクをこいで、いつもの3POコースを歩く。帰ってきて、朝食を食べながら、ゆっくり新聞に目を通す。
 ひと休みしてから、簡単に掃除をしたり、洗濯をしたりの家事をして、本を読んだり、CDを聴いたりして、昼食。
 1時すぎ、もういちど、遊歩道を歩く。一日、一日、運河両側の緑が濃くなっていくのが、わかる。この季節が最高。
ほとんど、人に会わない。だから、マスクは不要。
 この後、いつもなら、ちょいとお出かけをするが、今は行かない。ご近所の銭湯が、5月5日で廃業になり、近くにないので、バスで、銭湯めぐりをするつもり。
 夕食は、6時と決めている。ほぼ毎日、自炊している。もう何年もやっているので、レパートリーも増え、ご近所さんに配って、よろこばれている。
 テレビで、7時のニュースをみて、夕刊を時間をかけて読み、日誌を書き、9時前後には、寝る。
 これの繰り返しの日々です。特にコロナが襲ってきても、
この日程は不変です。
 ところで、今朝の新聞に、岡本行夫さんの訃報が載っていた。コロナの犠牲。岡本さんとは、マニラの日本大使館でお会いした。旦那の死後、大統領選挙に立候補したアキノ夫人の選挙監視で行った時、政治、経済のブリーフィングをしてくれたのが、岡本さんだった。なかなかやる外交官、という
印象だった。その後、何年かたって、オーストラリア大使館
で、お会いした。パーティーを中途で退出した際、エレベーターの中で会ったのが、岡本さんだった。いちど会っただけなのに、名前を覚えていてくれた、「お元気?」、と声をかけてくれたのが、岡本さんだった。
 小泉内閣で、首相秘書官もした岡本さんを、テレビなどでおみかけするたびに、まだ頑張ってるな、と思っていた。

2020年5月4日月曜日

なつかしい駅弁


駅弁の本をみつけた。ほぼ全て古本屋にひきとってもらったのに、なぜか、残っていた。『駅勉掛紙の旅』というタイトルで、駅弁をくるんでいる、あの紙。集めている人がいるんですね。
 とにかくよく集めたもんだ。
 横浜のしゅうまい弁当、高崎のとり飯、横川駅の峠の釜めし、なつかしい。
 峠の釜めしは、あの瀬戸物の釜が、どうしても欲しいというご近所さんに頼まれて、何度も持ち帰ったことがあった。
碓氷峠を登る準備をするため(スイッチバック)に、停車する時間が15分くらいはあったので、その間にホームで、弁当を入れた箱を首にかけて、売りに来た。車窓から、からだを乗り出し、「ここだよ、買うよ」、と叫べながら、買ったもんだ。
 今は、電車が早くなり、駅での停車時間がなく、それに窓があかない。しばらくは、車内で販売していたが、それもなくなった。電車に乗って、駅弁をたべながら、車窓からの景色を楽しむなんていう客は、いない。寝ているか、スマホをいじっているか、列車は、単に移動の手段でしかない。ああ、つまんないご時世になったもんだ。
 今日は、連休の真っ只中、去年の今頃は、新幹線も、飛行機も混雑していた。コロナが終息し(?)たら、人々は、どんな旅をするんだろうか。
 駅弁たべながらの「旅」が、なつかしい。

2020年5月1日金曜日

5月1日、「起て 飢えたるモノよ」、メーデーです

 テレビも、ラジオも、新聞でも、本日が「メーデー」であることを伝えていなかった。
 メーデー(May Day)って、「五月という意味でしょう?」、「Golden Weekのはじまりってこと?」、
 こんな歌、知ってますか、歌ったこと、ありますか。
 起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
 醒めよ 我が同胞(はらから) 暁は来ぬ
 暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて
 海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
 いざ闘わんいざ 奮(ふるい)いたていざ
 ああインターナショナル 我等がもの
 ああインターナショナル 我等がもの

これは、国際労働者運動の歌で、マルクスが、万国の労働者よ、団結すせよ、と創立した際に、つくられた歌で、ソ連では、第二次大戦前まで国歌だった。中国では、ごく最近まで、北京放送のコールサインとして流れていた。、
 日本でも、代々木公園で、毎年5月1日に行われていたメーデーの祭典で歌われていた。だいたい、いつ頃だったか、メーデーがつまらなくなった。まず、参加者がおおはばに減少、組合から参加費用が支給されるので、という大企業の労働者(会社員)が増えてきた。祭典後のデモ行進も、距離が短縮され、いつの間にかインターナショナルなんて、歌わなくなった。もう、歌える人、いないんじゃないか。
 メーデーになっても、わくわく気分、しなくなった。
  メーデー・労働者の祭典、たまたまその日にいた各国で
参加したことがあった。
 ウイーンのメーデーは、退役した労働者・高齢者たちが先頭で、誇らしげに赤旗を掲げながら行進、感動した。ストックホルムでは、頬を赤く染めた若者たちが、赤旗の先導者だった。地中海のマルタでは、当時の首相ドミントフの名前を
合唱しながらの行進だった。
 労働者は、国を越えて、連帯、団結する、まったくその通りだと、信じていた。インターナショナルの組織で、長い間
仕事をしていたのは、本気で、信じていたからだ。
 今、世界は、グローバル時代といわれ、人も、仕事も、お金も、国を越える時代となったような感じ。コロナも、国を越えて、観戦が広まっている。他の国の人たちのことなんか、かまちゃあいられない。連帯なんか、ない。
 こういう時代に、いつの間にか、なってしまった。

2020年4月24日金曜日

4月24日の朝
 起きても、寝ても、「コロナ」、「コロナ」で明け暮れているが、一日の時間割、変更なしの生活。
 夕べの記者会見で都知事は、「stay home],[stay in Tokyo],[save life],と言い、「スーパーは、3日おきに」、とおしゃっておりました。その通りにしています。
 朝4時に起きて、明るくなった頃、いつもの通り3POに
出かけます。近くの遊歩道を焼一時間歩く。今、花がきれいです。さくらは、さすがに花が落ち、しかし、緑の葉っぱがきらきらしています。花みずきの花が、ちょうど満開です。
白、ピンク、チョコレート色、三色の花mにずき、運河の埼玉県側に咲いています。運河の長さ、街路樹になっている。
こちら側(東京都)には、黄色い山吹の小さな花が満開です。運河の水は、きれいではないけれど、かもの子どもたちが、群れを組んで泳いでいる。
 それにしも、木々の若葉は、日に日に緑が濃くなっており、五月の上高地に負けないくらいです。
 畑で、ほうれん草、小松菜、大根、それにふきなどをいただいてきました。ご近所さんにも差し上げます。
 帰宅して朝食。食べながら、ゆっくり新聞を読みます。四紙も、とっているので、支払いもたいへんだけれど、読み終わるまで時間もかかります。ま、それが、楽しみなのですが。
 三月に、雑文の集大成というか、本を出しました。自費出版です。隠居にとっては、かなりの出費でしたが、シンガポールの友人の支援もあり、とにかく大事業でした。そんなこともあり、それに、コロナ騒ぎで、「快語碌」どころではなかった。長生きすると、いろいろあるね、来る5月22日で、なんと82歳になりますj。







2020年3月14日土曜日

世界の万年筆展へ

日本橋の丸善へ行ってきた。世界の万年筆展、毎年、この時期にやっている。コロナのせいか、例年に比べると、入場者は少なめ。というこちらは、10年くらいは、通っている。なにせ、「開催するよ」、の連絡があるのだ。
 最近は、字を書く習慣がだんだんなくなり、コンピューターとか、スマホが当たり前の世界になってきた。丸善の文房具コーナーでも、筆記具のスペースが小さくなりつつあり
買う人も減り、なんだかさびしい。東急ハンズなんかでも、鉛筆は、特別扱いで、「新入生グッズ」で置いているくらいで、ほぼシャーペン。削るのがたいへん、ってことらしい。だから消しゴムも少ない。
 ましてや、大枚はたいて、万年筆なんて、。。。。変わりもん。
 
 さて、今年の万年筆のトレンドは、特に新製品なし。ペン先の工夫がみられない。しかし、アクセサリーパーツは、たしかに進化している。ボデイに漆をつけたり、キャップが
からーできれいぽっくなったり、っていう具合。
 
 この先は、自慢話。
 ウオーターマン:最高価格の世界で〇〇本限定はじめ、10本ほど。フランス製。
 パーカー:今は、市場には、ほとんど出回っていない。ペン先が、もぐっている独特の
      スタイル、これを見事に模倣したのが、
 英雄・ヒーロ:中国製で、流行っていた頃は、1000円くらいだった。中国や香港み
      やげで、よく買ってきたもんだ。
 ペリカン:ドイツ製、ペンのキャップがペリカンのあごになっている。これはとにかく
      書き心地がよろしい。20本くらいは、持っている。
 モン・ブラン:スイスと思っていたら、ハンブルグ(ドイツ)製。安くはないが、なん
      となく、エリートっぽく、やわらかい書き味で、国会議員なんかが、背広の
      胸にさしていた。10本くらいかな、持っている。
 オノト: 1906年に、日本に入ってきたという記録がある、いちばん古い万年筆 
      で、日本人がはじめて使った万年筆、イギリス製。
 ラミー:  あの社会党の委員長だった土井たかさんが、愛用していた。海外での行事
      で、なんどかお会いする機会があったが、万年筆自慢をすると、「やっぱり
      万年筆は、ラミーよ」、とおっしゃっていた。で、何本か購入してみたが、
      それほど感動しなかったが、6本持っている。
  異業種の参入で、万年筆も手がけたのが、
 カランダッシュ(鉛筆屋)、デユポン(ライター屋)、ダンヒル(ライター屋)などが金、銀をボデイにした豪華筆記具をつくっている。
 チュニジアのカダフィ大佐、お洒落な人で、ダンヒルのボールペンを、胸にさしていた。アフリカのセネガルで会ったが、パリ仕込みのスーツ、香水がプンプンだった。ボールペンといえば、アメリカのクロス、トランプ、それにオバマさんが、サインで使っている。万年筆ではないけれど、クレムリンでの会議で会ったブレジネフ書記長、日本のサインペン(フランクフルト工場製)、緑色のボヂィー、黒色を使っていた。最近では、韓国の現大統領お気に入りで任命され、すぐに家庭の事情で辞めさせられた〇〇元教授は、日本製不買運動中に、日本のボールペンを使っていたということで、糾弾された。
 日本のパイロット、セイラ―も、なかなかだが、収集箱には、あまりない。しかし、日本が戦争に負けた昭和二十年九月二日、ミズリー号上の降伏調印、用意されたパーカー
でなく、ご愛用のパイロットを内ポケットから取り出してサインをしたのが、重光葵全権大使だったと、「とっておきの話」(半藤一利著)にあった。

 

2020年3月11日水曜日

9年真のこと

今朝、新聞を見たら、「あれから9年、福島は、今」という記事が載っていた。そうか、あれから9年、経ったんだ、と思った。まだ原発は、解決していない。汚染水が毎日出ており、その処理方法も決まっていない。だから、帰還困難な人たちがおり、難儀な生活は、まだまだ続く。
 あの日、1945年3月11日、あの時間、京浜東北線の
電車の中にいた。浦和駅と蕨駅間だった。電車が突然止まり、なんだろうと思っていたら、余震で、電車が大きく揺れ、外を見たら、線路上の電線が大揺れに揺れていた。車掌のアナウンスが「地震です、地震のため、電車が停止しています」、そんなことわかってるよ、と。夕方のラッシュには、間がある時間帯だったので、車内は、がら空きで、10人くらいだった。
 こりゃあ長引くと直感。すぐにトイレへ。まだ水が出た。この行動「当たり」。その後、トイレは、水が出なくなり、ドアも自動なので、閉まらなくなり、女性客が入る時には、入口に人が立って「番」をしていた。
 携帯は、つながらず、どこが震源地なのかわからず、歩いて回ってきた車窓も、情報がないようで、「しばらくお待ち下さい」、を繰り返すばかりだった。余震がなんどもあり、車窓から外を見ると、家の外に人々が出て、心配そうにしていた。
 デイバックの中から取り出した携帯ラジオで、震源地が東北であることを知った。それから、周辺の乗客が集まってきた。ラジオの情報を実況中継。2時間くらい車内に閉じ込められていたが、最後部の列車から、下車。学校帰りの子どもの手をひいて、浦和駅まで線路を歩いた。駅構内は、倒壊のおそれがあるので、急いで外へ出るように促された。駅前の
広場は、いっぱいの人、人、人だった。
 先日、M先生の調神社の狛犬見学で、帰りがけに浦和駅広場を通った。そうか、あの時は、あそこにいたんだ、としばらく立ち止まった。
 あの時、携帯がだめで、いくつかあった公衆電話に長い列が出来た。その時、取り出しましたテレフォンカード、実は、携帯を持っておらず、カードは常備していたのです。みなさんのお役にたちました。
 結局、7時頃、広場を出て、歩きはじめた。調神社の前を通り、よく知った旧中山道を東京に向けて歩く。都心からは大行進が押し寄せ、都心に向けて歩く人はほとんどおらず、人にぶつかりながらの歩きだった。
 背中のバッグの中には、水、手袋、てぬぐいなどが入っており、懐中電灯も持っていて、歩き旅で困ることなし。その上、川越で買った、豆腐一丁も、持っていて、戸田橋のたもとで食べた。なにしろ、途中のコンビニには、食べるものはなーんにもなかった。普段の心がけが大切です。
 橋をわたり、都内に入り、環七に出て、鹿浜橋を渡り、車も走っていない、人もほとんど歩いていない環七を北綾瀬まで歩き、神明町のわが家に。深夜2時だった。

2020年2月24日月曜日

「心に残る贅沢な船旅を」[

今朝の新聞広告です。「心に残る世界一周クルーズを」、半ページを使った広告です。今や、新型クルーズ肺炎真っ盛りで、新聞でも、テレビでも、このニュースばっかり。こんな時に募集ですか。
 夕べの銭湯での話。
 「うちの隣りの○○さん、船に乗るつもりだったらしいんだよ」、
 「船って、あの大きな客船かい?」、
 「それがねえ、なにしろ、高いんだって。100万以上もするんだってさ」、
 という具合のご近所噂話。
 (続き)このご近所さん、奥さんが熱心で、死ぬまでに、一度乗ってみたいと、いい、船に乗る準備をしていたとのこと。英会話の勉強、ダンスの練習、何着か洋服も新調したらしい。ご主人はといえば、それほど、乗り気でなく、でも、奥さんの熱心な希望で、同行することになり、ま、楽しみにしていたらしい。
 ところが、です。エリザベス・クイーンズ号のニュースで、「やっぱり、やめよう」ということになった。そりゃあそうですよ!
 「でもねえ、奥さん、行くつもりで、いろいろ準備してきたんだから、やっぱり行くときかないんだって。目下、旦那と口をきかない状態だそうよ」。
 へえ、近くにクルーズ船乗り希望者がいたことを知った。
 今回のダイヤモンドに乗っていた多くは、70歳、80歳代の客が多かったよう。船旅3回めという人もいた。持病もちで、薬、飲み飲みの旅だった人も。足どめされた船室で、「おれは、来たくなかったんだ、云ったこっちゃない」、なんて夫婦喧嘩をしていた夫婦もいたんじゃないか。それにしても、船旅は、お金がかかる。にもかかわらず、日本人の多くの高齢者たちが、これに参加しているって、すごい。金持ちが多いんだね。
 昨日、綾瀬駅近くのヨーカ堂で、行列が出来ており、「マスクが入りました、ひとり一箱です」、と係りの人が叫んでいた。お隣りのマツモトキヨシの店頭には、「マスクは品切れです」、との張紙。

2020年2月15日土曜日

和歌山件湯浅町

和歌山県湯浅町、昨日テレビを見ていたら、「湯浅町」の町長が出ていた。町の病院の医師が、あの新型コロナウイルス肺炎の感染者になったという。ここ毎日のように、新型肺炎の感染者のニュースが伝えられている。
 湯浅町は、熊野古道の宿場であり、西国巡礼の宿場でもある。熊野古道の旅、西国巡礼の旅、双方で、なんどか行ったことがある。西国巡礼時には、いちばんの青岸渡寺から二番の三井寺までは、二日がかりの距離で、途中の湯浅町で泊まったことがあった。 
 街中には、二メートルもある大きな道標が立っており、『熊野古道ー西国巡礼路』の大きな文字が彫ってある。
 近くの海岸には、あの有名な「いなむらの火」のモニュメントがあった。浜口悟陵、が村長時、安政の大地震の際、大津波の来襲を村人に知らせるため、刈ったばかりの稲棚に火をつけた、村人は、おかげで、全員無事だった、こういう話で、防災の教訓として、小学校の教科書にも載っている。実際には、隣町の広川町だが、湯浅といえば、いなむらの火として記憶している。
 銭湯さがしで、町じゅうを歩いたが、銭湯はなく、醤油のニオイがした。ここは、周瑜発祥の地でもあった。そういえば、あの紀伊国屋文左衛門の出身地でもある。
 ところで、今回の新型肺炎騒動、この先、どうなるのか、オリンピック、大丈夫なのか、それよりも、81歳の老体、大丈夫なのか、いろいろ考えてしまう。でも、ま、考えたってしょうがない。それにしても、豪華客船なんかに、乗れなくて、本当によかった。

2020年2月8日土曜日

ご詠歌を習っています

浅草へ、月2~回、通っています。
 千葉は、銚子のお寺が、東京でご詠歌を教えており、これに、かれこれ10年間、参加しています。月2~3回、寺らしくないマンションの一室が会場です。
 ご詠歌をはじめて聞いたのは、四国遍路に行った時、山奥のお寺で、4~5人の遍路者たちが、合唱していたのを聞いた時です。静寂の山の奥から、詠うような、語るような声と、ときどき鳴らされる鉦(しょう)の音色、なんともいえない響きでした。
 感動して、すぐにはじめました。鐘は、ネットで800円でゲット。付属品の「ふさ」は、七五三の、女の子がふところに入れる、なんていうのか、お財布みないなのに、ついているふさふさの糸、ひもで、これは、千住のごみ捨て場でみつけたのを代用しています。
 ご詠歌は、ほぼ五七五七七で構成されており、仏教のいろんな行事で詠われます。
 たとえば、興教大師をたたえるご詠歌は、「ありがたや、高野の山の岩かげに、大師は
いまもおわしまします」という具合です。
 葬式の際には、追悼和讃ご詠歌、供養のご詠歌を、巡礼時にお接待をいただいた際には
お茶接待答礼和讃などがあります。四国遍路、西国巡礼の際には、各寺で、それぞれご詠歌があり、同じ調子で、巡拝時に詠います。こどもが亡くなった時には、児童追弔和讃があります。10年もやっていると、ほぼ暗記していますが、教本をみながら、声、鉦を確認します。
 参加者は、10名前後で、男性が3~4名、女性の方がやや多く4~5名。いずれも高齢者で、男性のひとりは、初日、ネクタイ、スーツ姿で現れたのには、驚きました。女性たちは、海外旅行もほぼ全て終了、そろそろご詠歌でも、という方、鎌倉から東京駅に着いて、ときどきタクシーでいらっしゃるセレブの方、元交通公社の添乗員だった方、こちらは、国内地図がからだにしみこんでいるらしく、地図がやたらと詳しい。声が小さい主婦業の77歳。先生は、銚子の寺の住職で、ご詠歌の声がすばらしい、ほれぼれするようないい声をしておられる。1回の参加費が、1000円、これがありがたい。
 ご詠歌の他に、写経会、巡礼講座などもやっていて、これには、住職の父上(名誉住職)が、銚子から通ってくる。
 珍しく長つづきしている「なりいごと」です。

2020年2月2日日曜日

ニュージーランドの友人の訃報

シンガポールの友人からのメールで、マイク・モアが亡くなったことを知った。
 マイクは、ニュージーランド労働党の国会議員から、WTO(国連貿易機構)の事務局長になった。ニュージーランド労働党内の権力闘争で、ヘレン・クラーク女史(後に首相)に敗れ、なぜか、いつも間にか、国連機関のボスになっていた。ニュージーランドが、小国なのに、英連邦の一員であることから、国連の重席がとれた、そんな噂話をしていた。
 こんなことがあった。東京で学生運動が激しかった頃、羽田空港(当時は、羽田しかなかった)から「今、羽田空港についたが、革命はどこか?」、と男性の声。どこの国の、だれか、”who are you?",  ニュージーランドからきた、労働党のマイク・モア、と名乗った。ともかく事務所にきて、というと1時間ほどで到着。学生運動のデモが、「革命だ」と勘違いしたらしい。
 翌日の夕方の便で、韓国へ行くというマイクのために、外務省や丸善で、日本に関するパンフレット、書籍類をかきあつめてやった。
 それから一年後ほど経った頃、マイクから電報が届いた、「選挙に出馬するので、ぜひ応援にきて欲しい」、というもので、たまたま会議出席のためにオーストラリアのメルボルンへ行くことになっており、ま、ついでなので、ウエリントンへ。
 空港に出迎えてくれ、そのまま、彼の車で、選挙運動へ連れていかれた。たしかクライスラー(アメリカの自動車会社)工場の門のところが演説会場。工場を退出する人たちが、通って行く。空港から直行の日本人が、選挙演説に立つと、「今、日本から、はるばる私の為の応援に来てくれた同士タグチです」、と紹介。その後、日本語で、挨拶すると、彼、マイクが、それを英語に翻訳する、で役30分のスピーチ。マイクは、日本語はまったくだめなのに、自分がいかに日本はじめ、東南アジアに精通しているかをひけらかす英語の見事なスピーチだった。
 このパターンで、三日間、選挙運動に加わった。日本語=英語、別々の内容だったが有権者者のみなさん、結構、納得していたみたいで、今から考えると、なんとも恥ずかしい次第です。彼は、日本からの応援もあり、見事当選。後に労働党政権で、貿易大臣になった。なお、マイクの政敵だったヘレン・クラークは、首相の後、UNDP・国連開発機構の
総裁になった。
 

2020年1月17日金曜日

あれから25年

1995年1月17日、今から25年前のこと、阪神・淡路大震災の日だ。あの時間、朝の5時46分、震度7の直後のテレビ映像をながめながら、朝食を食べていた。この頃、指圧の学校の生徒だった。朝ご飯を食べて、6時10分に家を出る暮らしをしていた。
 高速道路から車が落ちる、神戸の街のあっちこっちから火の手が上がる、倒壊した家の周りに、人々が集まっている様子など、などが映っていた。えらいこっちゃ、といいながら、自転車で綾瀬駅へ。電車の中では、まだ知らない人がおり、テレビやラジオを見た、聴いた人たちが、「神戸は、大変らしいよ」、と話していた。
 知り合いは、神戸市内在住のUさん。坂の上の木造住宅は、半壊。その後、市役所からいくらかの修理費が出たが、ほとんど足りないので、今だに冬になるとすき間風で寒いので、近くのホテルへ泊まりに行っているとか。夕方、5時すぎにホテルへ電話そすると、空き部屋がゲット出来るんだそうだ。
 もひとりは、自宅が全壊し、震災2年後に復興住宅に入れた友人Aさん。いい部屋の当たったと喜んでいたが、年金暮らしにはいり、孤独死にならないように、出歩いているとの近況だった。
 阪神大震災といわれているが、震源地は、淡路島。で、その震源地を見に行ってきた。淡路島の震源地は、震度7の地震の現場が、そのまま残されていた。見学者もちらほらで
ここもやっぱり風化しているのだと思った。
 その後、東北で大津波の大地震があり、阪神のことは、人々の脳裏から離れていったようだ(2011年)。どちらも、まだまだ課題を抱えており、特に福島の原発は、この先、なん十年も続く。
 電車でも、バスでも、大人も、子どもも、ひたすら下向きになり、スマホをみつめている。メル友との会話なのか、ゲームなのか、映画なのか、わからないけれど、この人たち、もし、今、この瞬間、地震がきたら、どうするんだろう。
 災害は、忘れないうちに、やってくるんです。

2020年1月11日土曜日

旧正月のモンゴル

元旦に電話。モンゴルからだった。
 「あけましておめでとう」(英語で)、
 「お正月、ウランバートルへ来る?」
 「いつ、お正月は?」
と尋ねると、1月25日とのこと。
 モンゴルへ、はじめて行ったのは、1991年9月だった。それ以来、多い年には3回、ほぼ毎年行っている。モンゴルの正月(旧正月)、つまり、ま冬のモンゴルへは、4回ほど行っている。
 首都ウランバートルで、寒い日は、マイナス25℃、だいたい15℃~20℃くらいの寒さだ。それでも、人々は、外を歩いている。街の中は、なんとなくスモッグでぼんやりしており、車も、のろのろ。しかし、セントラルヒーティングで、室内は、あったかだ。
 モンゴルの正月は、親類、友人宅を訪問する。その際、お年玉は、子どもではなく、高齢者・長老にあげる。どの家でも、出てくる料理は、ほぼ同じメニューで、塩で茹であげた羊の肉の大きなかたまり、これを、ホストのご主人が、ナイフでちぎって客をもてなす。水餃子、は、家によって、味も、サイズも異なり、たまねぎの多いもの、肉が多いものなどで、出されたら必ずいくつか食べなければならない。初めての時、行く先々のお宅で食べた餃子の数が、54個。しばらく、食べたくなかった。飲み物は、馬乳酒がメインで、他にウオッカ、ロシア製のウイスキーもあった。 
 お年玉には、はじめの頃は、靴下、ハンカチ、化粧品などモノだったが、今から10年ほど前からは、「現金」になった。親類が多いので、総額もばかにならない。正月にモンゴルへ行く際には、日本のお年玉袋に、5ドル、10ドル紙幣を入れて、持っていく。
 正月の新聞には、海外旅行の全面広告が、何ページにもわたって掲載されていたが、さすがにモンゴル行きはなかった。観光なんか出来ない冬のモンゴル、寒いです。

2020年1月7日火曜日

ニューイヤーコンサート in Vienna

1月2日夜、毎年NHKテレビを見る、聴く。ウイーンのニューイヤコンサート。
 ずいぶん昔のことになるけれど、ニューイヤーコンサートへ行った。コンサートを聴くためだけのウイーン行き。チケットは、友人のフリッツイが、手に入れてくれた。
 たしか、コンサート当日は、雪だった。会場の学友会へは、タクシーで行った。席はホールの一階の前方で、ここは、ウイーンフィルを支える会の人たちの優先席で、伯爵とか、いまだに残るオーストリアの名門家の家族で、ドレスアップ女性たち、タキシード紳士たちっていう上席。そういうこちらは、急遽、バンコックの衣装店であつらえたシルクの衣装。ウイーンに着いて、はじめ手を通した新品の衣装だった。
 席について、きょろきょろすると、二回の関には、きもの姿の団体さん。日本からのツアー客だった。男性は、みな蝶ネクタイ姿だった。
 指揮者のローリン・マゼールで、やっぱりいい音楽は、いいホールでないと、などと感動していた。一部が終わり、演奏者たちが舞台から退出し、二部に入り、拍手で指揮者が入場してきた、その時、舞台の下、ホール前方で、「きゃー」という叫び声。なんと、素っ裸なオトコが立っていた。「ホモセクシュアルに自由を」、と書いた布を両手で広げていた。裸なのに、首には、蝶ネクタイ。いやあ、びっくりしたけれど、面白かった。係りの男性数名に、抱きかかえられ退場。マゼールは、ニコニコしながら、第二部の演奏を開始。中止しなかったマゼールに、客席から拍手が送られた。
 第二部の定番「青きドナウ」、そして「ラデツキー行進曲」では、客席参加の手拍子でコンサートは、無事終了した。あのはだかオトコ、どうなったか。
 そういえば、小澤征爾さんが、ニューイヤーコンサートを指揮したのは、2002年。

 こんなこともあった。ウイーンのオペラハウスで、「ワーグナー週間」といって、毎日ワーグナーの曲を演奏するというのがあった。近くのヒルトンホテルに宿泊。といってもヒルトンで一番安い部屋。ロビーのコンシェルジェのおじさんに頼み込んで、毎日、キャンセル入場券をゲットして、ワーグナーに通った。もともとキャンセルなので、安価、それに、ボックス席が多かった。5~6名の方たち、友人同士とか、家族連れとかで、飛び入りの日本人をあたたかく、まぜてくれた。
 昨年4月にウイーンへ行った時は、オペレッタだった。

2020年1月5日日曜日

年賀状

1月1日、年賀状の束が届いた。一枚、一枚を読みながら、さあ、これから年賀状書き
が始まる。それにしても、賀状の切手代、63円、なんともはんぱな値段。
 毎年、年賀状にシールを張って出している。今年のシールの文章は、「この程度 知力
体力 楽隠居」。シールのシリーズは、2004年から続いている。

2004年 「頑固に隠居 たまーに少しボランティア」
       この年、銭湯66挑戦をしたので、結構忙しかった。
2005年 「頑固に隠居 過激に道楽これからも」
       ハワイ、モンゴル、シンガポール、それからガーナーへも行った。
2006年 「隠居今年で9年め 過激に道楽」
       奥の細道を歩きはじめた年。
2007年  隠居のベテラン 道楽の日々 これからも」
       西国巡礼へ。
2008年 「粋な生き方これからも 道楽の日々まだ続く」
       ヨーロッパ鉄道の旅、モンゴルの夏旅。
2009年 「隠居今年で12年 ゆっくり ゆったり これからも」
       それほどゆったりでなかった、山陽道歩きはじめた。
2010年 「隠居今年で13年 じきに来るはず 時間切れ」
       羽州街道、六十里街道など、街道歩き続く。
2011年 「今年も 日々是好日 楽隠居」
       出羽三山で修行、スーダンへ行った。
2012年 「ありがたや 隠居今年で15年」
       カザフスタン、ブータンへ。
2013年 「のこり世を 老足よろよろ旅の空 隠居今年で15年」
       習近平登場、あまり関係ない。オリンピック東京決定。
2014年 「とめてとまらぬ隠居の旅路 やまぬはずだよ 先がない」
       スペインサンチャゴ巡礼挙行、遂にやったあ。
2015年 「サンチャゴの巡礼終えて 道楽は これで打ち止め楽隠居」
       のつもりだった。
2016年 「好き勝手 それでも生きてる楽隠居」
       やることなくなり、大学入学。
2017年 「ありがたや 新年迎え もうちょっと」
       路線バス乗り十津川線・日本最長達成。
2018年 「お正月 生きてるだけで めでたいな」
       シベリア鉄道に乗った。
2019年 「めっけもん 八十すぎても 生きている」
       船旅、鉄旅で韓国へ。
2020年 「この程度 知力 体力 楽隠居」