2022年2月28日月曜日

青空だ どこへ行こうか 筑波山

洗濯ものも乾いたし、昼ご飯も食べたし、ウクライナが気になるけれど、出かけるか。昨日は、ほぼ一日、テレビ、ラジオに釘づけ。「わがロシアには、核もある」と 発言していたプーチン。戦闘服姿のルカシェンコ大統領「なにがなんでも、わが祖国ウクライナを守る」との悲痛発言。

どうなることやら、ベランダから空を眺めていたら、「どうなるわけでもない」、「行くっきゃあない」、といいながら、出かけることに。ペットボトルに水を入れて、この範囲でのお出かけです。

北千住駅は、日曜日だし、晴天なので、この人出。人流をさけて、改札に。電車に乗ります。都心じゃあなくて、郊外へ。すぐに来たのが、特別快速土浦行き。14時18分。もちろん、いつものように最後部のボックスシート車に乗車。トシの頃、同じくらいかな、高齢の女性が座っていた。手提げかばんから出した印刷物を読んでいる。盗み見すると、都内の福音協会とある。なるほど、今日は、日曜日、教会帰りなんです。こちらは、取手駅で下車されました。

雲ひとつない、すばらしい天気。いい日、旅立ちです。中川、江戸川、利根川、小貝川を鉄橋で渡り、荒川沖の次が土浦駅。終点です。さあ、どうするか。車窓からの景色に感動していて、土浦から先のことは、考えていなかった。北千住~土浦間は、990円。

改札を出ると、駅構内には、店舗が多い。松戸駅、取手駅などより多い。覗くと、水戸産のおみやげ、納豆、納豆菓子などもあった。

駅から外へ出る。と、右手向こうに山。筑波山だ。決めた、つくばへ行こう。バスがあるはずだ。バスターミナルで「つくば行き」のバスがとまっていたので、運転手さんに「エキスプレスのつくば駅に行きますか」、と尋ねると、OK.もちろん、都発行のシルバーパスは使えない。日曜日だからか、客は6名、少ない。前方右に筑波山をみながら走る。

と車内アナウンス「わたしたちの茨城県にようこそ。茨城には、いい所が沢山あります。しかし、よく知られていないのが、残念です。途中、いい所を、ご案内します」、と女性の声です。国際興業バスの土浦駅からつくばセンター行き、その間、それらしきご案内、ありませんでしたが。

しばらく走って、左折。筑波山の勇姿が、かなり近くなってきた。ひろーい田んぼの中の山、かっこいい。小貝川を渡ると、つくば学園都市に入る。20階以上もあるかな、高層アパート群が続く。こんなに大勢の人たちが、ここで働いているのか。つくば市へは、反対側ー北側ばかり通っていたので、南側から入るのは、はじめて。知らなかった。そういえば、何年だったか、つくば博覧会、来ているのに、なーんにも思い出さない、出せない。

間もなく、バスセンターに到着。運転手さんが「あそこの階段を下りると、駅だから」と教えてくれた。地下構内、人気(ひとけ)、ほとんどない。レストラン、コンビニ、それにつくば物産店が二軒あった。もう帰るだけなので、店を覗いてみる。さすが、ここでは、水戸産はなかった。野菜ーきゅうり、大根、ニンジンなど、ニンニクもある、さつま芋、やき芋もあった。売れ残りか、ふきのとうがひとつあった。サイズは、小さい。15個ほどで、230円。買ってしまった。手づくりパンもあり、値引きで1個100円のあんぱんを買った。改札の手前に、小さなお店。日本酒の立ち飲み店だった。一升瓶が並んでおり、縁台が3つ並んでいた。へえ、やるねえ、帰りがけに一杯、っていうわけですね。自家用車は、だめ、バスで帰る人、OK。

4時すぎ、秋葉原行きのどん行に乗車。下車の八潮駅は、快速、急行が止まらない。ここでも電車は、がら空きで、きれいな夕日を眺めながら、本日も、いい旅だった、と超満足の一日でした。5時30分、神明町帰着。




2022年2月26日土曜日

人生を変えたオデッサの「戦艦ポチョムキン」

 黒海の港町オデッサ、沖に停泊中の船、「戦艦ポチョムキン」、船上で乗組員兵士と、船長が衝突。食事はじめ、船上での生活改善を要求する兵士たちが、反乱を起こしたのだ。勝利を勝ち取った兵士たちが、船上に赤旗を立てる。集まってきた市民たち。と、突然、現れたコザック兵士たちの発砲で、船上の兵士、市民らが逃げ惑う。その時、乳母車を押していた母親が、その手を放してしまう。階段のいちばん上から母親の手を離れた乳母車、赤ん坊を乗せたまま、ガタン、ガタンと落ちていく。

オデッサの階段は、今は、観光名所として残されており、そのオデッサは、ウクライナの港町。ロシア革命の運動の拠点で、ロシア社会民主労働党bがここでされた(1900年)。

監督ポチョムキンの映画を見たのは、今から60年前のこと。大学の卒業論文のテーマが「ロシア革命における社会民主労働党とボルシェビキ派」。二月革命後、オデッサに臨時政府ができた。というわけで、革命思考の青春時代を送ることになった。日本だけでなく、独立したばかりの後進国を、なんとしても助けなければ、なんて、真剣に考えていました。

ミンスクには、モスクワから列車で往復したことがある。滞在期間が1日だったので、町の印象は、ほとんどない。当時は、ソヴィエト連邦のメンバー国家のひとつだった。日本に帰ってから、ウクライナで見た衣装が気に入り、撮ってきた写真をもとに、コサック風の上着を作って、着ていた。2~3年間、愛用していたが、写真が残っていないのは、残念。

その後、国連の仕事で、スーダンに赴任した際、ホテル住まいをしていたが、そのホテル、オーナーがギリシャ国籍のウクライナ人だった。ホテルの名が「アクアポール」。食事に、ときどきピロシキが出てきた。

留学していたイスラエルで、ウクライナに住んでいたというユダヤ人(イスラエル人)の友人がいた。オデッサには、ユダヤ人が多く住んでいて、スターリン時代に数千人が殺された、ということを、彼は、話してくれた。今も、オデッサには、ユダヤ人のコミュニティ(ゲット)がある。

ここのところ、毎日、ロシアのプーチン大統領の映像、侵略されているウクライナの様子を見ている。核兵器があるよ、とちらちらさせながら、西側陣営を牽制しているモスクワのドン、この先、ウクライナは、どうなることやら。

2022年2月25日金曜日

東京都発行のシルバーパス、越境使用可

 今年の二月は、カレンダーの赤丸がふたつ。そのふたつめの23日、上天気なので洗濯、ふとん干しを挙行。昼すぎに片付けをすませ、時計をみたら、いい時間じゃないの。西新井行きのコミュニティバスの時間、一日5本しか走っていないバス。うちの玄関から、300歩のところが神明停留所。13時8分発、お出かけしました。

バスのサイズが小さいので、細かいルートで西新井駅へ。客は、4名、25分で終点の西新井駅に到着。さあ、ここからどこへ行くか。

駅前のバスターミナル、2台のバスが止まっている。両方とも、赤羽行き。ひとつは、最近、荒川区の尾久から引っ越してきた東京医療センター経由の路線で、赤羽駅へ。もひとつは、足立区から埼玉県に入り、川口から荒川を渡って、都内に戻り、赤羽駅へ、というルート。いずれも乗車時間は、40~50分。さあ、どちらにするか、と考えるヒマもなく、医療センター行きが出発してしまった。乗客は数名。祝日の昼間だもんね。

で、本日の路線バス乗りは、越境バス。5分ほど待って13時55分、出発。足立区内は、東武バスが主流で、次が都バスだが、このバスは、国際興業バス。車内には全国に展開する国際興業グループのホテルの写真がぶら下がっている。

運転手さんに、終点の赤羽駅まで行きたいんだけれどと、シルバーパス(東京都発行)、使えるかどうかを尋ねると「埼玉県内の停留所でおりなければ、大丈夫です」との返事。

西新井駅から、環七に出る。祝日だからか、車が多く、お大師までの道、かなり混んでいた。大師前の東武バス車庫で5人乗車。そのあとは、ほとんど裏道の狭い道路を走る。右、左をなんどか曲がり、足立工業高校へ。停留所になんと、Adachi Technical High Schoolと外国語で書いてあった。すごい! スレスレの細い道が続く。尾久橋通りが見える。日暮里舎人ライナーが走っている。間もなく西新井大師西駅。鹿浜の産業道路をすぎると、土手が見え、新荒川橋を渡る。埼玉県に入りました。

新荒川のこちら側も、あちら側も、超大きな建物群で、倉庫なども多い。佐川急便の倉庫は、かなりの大きさ。そういえば、モンゴルの首都ウランバートルで、佐川急便の、あの車体の絵、そのまんまで走っているのを、なんどもみかけました。運転手の男性が、日本人顔なので、びっくり。

10ほど走ると、バスは、南方角に舵をきり、荒川を渡る。荒川大橋を渡ると東京都だ。橋の下は、ゴルフ場、左方向には、東京都の農業公園、手前には、岩淵水門が見える。あそこで、隅田川とわかれるんだ。バス乗客は、15,6名。埼玉県内での乗客だ。この人たちの運賃、埼玉県内から、都内に入るわけで、どうなっているのか。橋から赤羽駅までは、数分。14時35分、到着。

バスターミナルには、別のバスが客を乗せたまま、止まっていた。見ると、医療センター経由の西新井駅行き。考えもせず、飛び乗った。と、すぐに出発、14時40分発。こちらは、ほぼ満席の客。東京都民ー都発行のシルバーパス利用者がほとんど。ルートは、ルートは、大きな道路で、沿線の景色は、おもしろくない。一軒だけだったけれど、国旗を掲揚している家があった。国民祝日、天皇誕生日、どれくらいの人たちが、なんの祝日なのかを、意識しているのかな、と思った。

この日の路線バス乗りは、天気も良く、行きの路線、楽しかった。せまーい道をゆっくり走るバス、周辺の景色がよく見え、乗り降りする客もおり、田舎のバスの感覚だった。都内でも、こんなところを走っている路線バスが、まだまだあるんです。コロナ禍、近場での楽しみ、めっけ、の半日でした。






2022年2月23日水曜日

春です、ふきのとう、食べました

 朝の散歩コース、運河なので、水が動かず、ほぼ毎朝、水面は凍っています。春は、まだまだ、と思っていたら、見つけました、ふきのとう。まだ、採るには、ちょいと早い。すぐに思い出しました。ふきのとう、沢山出る場所、あそこへ行けば、必ずある、という場所、秘密の場所を知っています。

翌日、行ってみました。ありました。ほぼ両手にいっぱい、という収穫です。どこか、場所は言えません。持ち帰り、料理してみました、今季はじめての山菜です。レシピは、いろいろあるようですが、ふき、といえばこれです。「酢味噌あえ」。熱湯をさっとくぐらせて、丁寧にきざみ、味噌、酢でまぜる、それだけなんです。仙台から送ってもらった宮城産の「つや姫」でいただきました。お米が主役でなく、ふきのとう酢味噌、が主役の食事。

「あーうまい、うまいなあ、やっぱりうまい」。

これで、気分は、もう春です。ふきの、ちょっと苦い感じ、これがなんともいえない。からだいっぱい春を実感。幸せ、生きていてよかった、本当によかった、です。

足立区内だけでも、以前は、ふきのとうは、どこにもありました。毎年、毎年、採れる場所は減り、今は、あそこ、だけです。それでも、よかった、今年も出てくれて、ありがとう。

なせか、山菜採りが好きなんです。この時季になると、血が騒ぐというか、まだかな、出たかな、と気になります。日本中を歩き回っていた頃は、行き先々での山菜採り、本当に楽しみでした。奥の細道の旅、東北で、ちょうど、この季節だったので、ずいぶん、山菜採りをしました。歩きながらなので、わらび、うど、たらの芽などでした。宿泊の民宿周辺で早朝の山菜採りで、採ってきたばかりの山菜を味噌汁に入れて食べました。

そうそう外国での山菜採り、実行しました。ロンドンでは、郊外の公園で、わらび。スイスの山岳地帯で、ふきのとうをみつけ、ざる一杯をゲット。スイス人の友人宅で食べました、たしか、天ぷらにしたような気がします。オーストラリアでは、メルボルン郊外の友人の別荘の庭で、わらびを発見。塩ゆでにして、マヨネーズをつけて食べました。みなさん、感動してました。たいへんなことになったのは、フィンランドでのこと。あの国は、地面が岩盤でできており、土を採ることは禁じられている、法律で禁止されているのです。そのことを知らず、「めっけた」、とふきのとうを採ろうしたら、フィンランド人の友人から、「だめっ、だめ、です」と大声で叱られました。法律違反、知らずにいたら、逮捕されるところでした。

日本国内でも、ずいぶんあちこちでの山菜採りを、実行しました。山菜採りを目的の旅でいちばん通ったのは、水上の奥・藤原です。豪雪で、天気予報にどきどき登場している地域です。飛騨の穂高温泉、あそこの雪解け時のふきのとう、最高でした。クロカンの練習のために通った乗鞍高原の山菜も圧巻でした。北アルプスは、黒部川のたらの芽、小屋に持っていったら、ご主人に叱られたけれど、あげたら小さい声で、お礼をいわれました。

2022年2月17日木曜日

JR赤字路線、6割だって !

 困るんですよ、そう簡単に廃線されては、困る。

新聞に、国交省発表として、JR全路線の57%以上が、廃線になると。そもそもJRが民営化して、無人駅が増え、路線は廃止され、バスに変わるというプロセスが進んでいることは、よーく承知していました。でもねえー

無人駅では、ずいぶんとお世話になりました。

かれこれ15,6年ほど、通い続けた熊野古道の旅。東京から名古屋まで新幹線、その先は、紀伊半島をぐるっと走る紀勢線で熊野、新宮、田辺など、古道歩きの駅まで乗車。速玉神社、熊野大社などへの下車駅ー紀伊勝浦駅は、無人駅でした。出入りは、ガラス戸で、閉まるので駅舎内で寝泊まりするには、好都合でした。ベンチや、土間に段ボールを敷いて、寝ました。早い時間に列車の終電となるので、無人駅での宿泊は、最高。なにしろ、無料ですから。まさに、「Staition Hotel」。3,4回は、利用しました。

新宿駅から、中央線で、特急あずさに乗ると、「みなみ小谷(おたり)行き」が、終点です。松本駅をすぎて、大糸線に入り、車窓左側に北アルプスの山々をながめながらの、乗り鉄は、な最高。春、夏、秋、冬を通して、どの季節でも最高です。松本を出ると、乗客はほとんどおらず、いつ乗っても、貸し切り状態。で、終点の南小谷駅で下車すると、小さな駅構内売店がある。高齢の男性が店番。駅周辺に店屋がないので、菓子パンや、飲み物があるだけの店。白馬など、観光地は遠く、だから、みやげモノはない。店番じいさんに、新宿駅で買った手土産を持っていったことがある。と、その日は、なぜか、店は開いていなかった。しかたなく、その先の大糸線糸魚川までの車中で、東京みやげのお菓子を、食べたのを思い出した。どうなっているかな、小谷駅の今。

敦賀駅で、ねぎを拾った、そんなことがあった。西国巡礼を終えて、あそこら辺の鉄道乗りをしていた。小浜線で敦賀駅に着き、京都方面へ行くつもりで、乗り換えの階段を上ったところで、ねぎの束を発見。周辺を見たが、乗客は、おらず、まだ泥のついているねぎ束、どうするか、と迷っているうちに、北陸線の列車入線のアナウンス。どうするか、と一瞬迷ったけれど、そのままホームへ。下車したばかりの小浜線のホームを見たけれど、乗客なし。持ったまま乗車。車内は、空いていたけれど、強烈なねぎの匂い。これで新幹線に、とおもうと、なんとかしなくては。ザック内の荷物を出して、ねぎを入れ、出した荷物を手荷物にして、東京駅へ。ねぎの匂い、大丈夫かな、と気にしながらの新幹線だった。

千葉の五井駅。小湊線に乗るつもりで、出発駅の五井で下車。乗り換えのため、階段を上がった所で、高齢女性のお弁当屋さん。種類は、いくつもなく、いちばん安いのが、赤飯弁当。300円。買おうかと、「次の小湊線、何時?」、と尋ねると、「今出たばかりだから、あと1時間は、ないよ」とのこと。あまり気乗りがしなかったので、そのまま、戻って内房線に乗ることに。弁当は、買わなかった。その後、数か月後、五井駅へ。こんどは、時刻表で調べていったので、待たずに、すんなり乗車。お弁当屋さんに「やっぱり乗りたくてまた来ちゃった」というと、ゆでたまごを一個くれて「よく戻ってきてくれた」、と。もちろん300円の赤飯稲荷を一個、買いました。

コロナで、新幹線も赤字のようで、いつ乗っても、空いています。そんな中、地方の路線はますます赤字で、廃線やむなしの現状。北海道や、四国など、観光客で結構、持ちこたえていた路線も、廃線やむなしの現状のようです。地方でも、みなさん、自家用車利用があたりまえの昨今、輸入に頼っているわが日本、この先、どうなるのか。EV(電気自動車)化が叫ばれているけれど。乗り鉄愛好者、これから、どうするか。





2022年2月13日日曜日

朗報です、シンガポールから

「生まれたよ、ベイビー 」、と叫ぶような電話。シンガポールからです。友人、Dr.Loo Choon Yongの娘Sara,結婚してから、どれくらい経ったんだろう。1985年だったか、彼女たちの結婚式に招待され、母とシンガポールへ。Sara は、生まれた時から、わが家になんどもきていた。日本のスキー場にも、連れて行き、スキーを教えたこともあった。結婚式には、両親で、ということで、航空券ふたり分が送られてきたが、どうしても、飛行機には乗らないという父の代わりに、妹が行くことになった。

はじめて、そして、生涯一回だけになった母にとっての外国行き。パスポート申請、ローマ字でのサイン、だれの助けもなく、ひとりでやり遂げたわが母、あっぱれ、でした。

というわけで、サラのその後は、彼女の実母と同じくら気がかりだった。六本木にマンションを買ったので、年に2,3回は、来ていたが、なかなか二世誕生、ないね、と。

友人、Dr.Loo Choon Yong は、病院の医院長で、国内、東南アジア、中国などにも支店というか、関連の病院を展開している、民間大病院の医院長。それだけではなく、ポーランド大使でもある。他にも、政府関係の役職にも、いくつか、ついている。

というわけで、これまでも、年1~2回は、シンガポールを訪問しており、邸宅内に、自分の部屋まで用意してくれていて、居心地よく、過ごしていた。コロナ禍で、この2年間は、行くことができなかったが。

サラの母、ジャッキーは、不動産会社の社長さんで、日本での商売もやっているビジネスウーマン。大坂に旦那のクリニックを設置したのは、彼女だ。

彼女に会うたびに、「まだかい、まだ生まれないの」、をこの20年、いや30年、繰り返してきた。ようやく、生まれた、との電話だった。

サラも、彼女の夫も、医師。ロンドンに留学していた時に知り合い、結婚。夫は、マレーシア人だ。ふたりが、父の病院を、おそらく引き継ぐことになるのだろうが、現在は、別の病院勤務。ま、そんなことは、どでもよろしい、赤ん坊の誕生、とにかくよかった。







 



2022年2月11日金曜日

雪が降りました

 東京で、雪。今冬2回目の雪です。前の日から、雪ですよ、降りますよ、準備をして下さい、などなど、前触れがマスコミを通して、繰り返さていたけれど、そのわりには降らなかっようです(神明町では)。日本海側では、まるで無雪、いい天気だったみたいです。それよりも、北京オリンピックで忙しかった。羽生がどうなるのか、日本勢のメダルは、何個か、なんてテレビにかじりついていた。オミクロンで、ワクチンまだの高齢者、要注意といわれており、ステイホームで、やることないし、テレビでオリンピックっていうわけです。といっても、昨日は、雪の中を、いつものように、都電に乗って、いつものように、三ノ輪商店街の銭湯へは、行ってきました。

雪といえば、いろいろ、本当にいろいろ思い出がある。

長野県の安曇村、今は、松本市になっているけれど、その安曇村へは、冬の季節、5~6年ほど通った。週末、金曜日の夜行で新宿から松本へ。松本から島々、島々からはバスで乗鞍高原へ。まだ、スタートしたばかりの村だったので、旅館は、いくつもなく、地域の区長が経営している旅館を定宿にしていた。いつ頃からか、そこの娘さんの家庭教師を頼まれ、毎日、二時間くらいの先生も。中学三年だったが、近くに塾もなく、毎週末、東京から来るお客さんが先生になったという次第です。

目的は、乗鞍高原で、クロスカントリースキーの練習をすることでした。ほとんど、人間はおらず、たまにウサギを見かけました。そうそう、歩いて白骨温泉へは、なんどか行った。山をひとつ超える、約1時間ほどだった。温泉に入って、帰りは、乗鞍岳を見ながら、ぶらぶらと、お気に入りの時間。

ある時、区長さんから話があって、安曇村がスイスのグリンデルワルドと姉妹都市を組みたい、という。で、東京のスイス大使館へ、出向いて、安曇村役場の職員だけれども、と、大胆にも、当時の大使閣下に面会し、二か月後、長野県の安曇村と、スイスはベルン市のグリンデルワルドの姉妹提携が実現しました。あれから、安曇村が松本市に編入し、現在は、松本市とグリンデルワルドの姉妹都市関係に引き継がれているようです。

そのグリンデルワルドは、アイガー、マッターホルン、ユングフラウヨッホなど、スイスの山のメッカ。松本とは、毎年、代表団の交流が行われているようです。マッターホルンが見えるホテルに滞在し、雲がとれるのを待ったけれど、滞在可能な4日いても見えず、断念。ユングフラウヨッホの登山列車は、2回乗ってことがある。





2022年2月9日水曜日

気がつけば がんばれニッポン 愛国者

 北京オリンピックのおかげで、テレビを観る時間が増えている。といっても、競技の内容、ルールがしっかりわかるのは、あ40ないが、フィギュアスケート、ジャンプは、わかりやすい。冬季オリンピックの競技で、自分でやっていたことがあるのはクロスカントリースキー距離競技だけ。といいながら、テレビをみている。

テレビでオリンピックは、なぜかモンゴルのウランバートルの友人宅で、夏季オリンピックのソルトレイク(米)と、北京オリンピック、2回とも、開会式からテレビ観戦をしていた。東京での1回めのオリンピックの時は、八甲田山でキャンプをしていた。北海道や長野の時の思い出は、なんにもない。隠居になってからも、オリンピックを自宅のテレビで観戦するなんてことは、あまりなかった。今回は、なにしろStay Homeなので、じっくり観戦している。そして、いつの間にか、日本選、同じ援している愛国者になっている。

東京の国立競技場、先のコロナオリンピックの会場だった、あの国立競技場の古い施設、10年間くらいあそこの会員だった。50歳代になってからのトレーニングは、国立競技場だった。併設のトレーニングセンターに、週3,4回、通っていた。いろいろマシーンがあったが、もっぱらランニングが中心だった。国立競技場から、東宮御所の裏を通り、赤坂、国会議事堂を通り、皇居にでて、あそこを一周(4キロ)して戻る、を繰り返していた。皇居周辺は、今もジョガーのランニングコースだ。

海外出張の際でも、訪問先、滞在先で、毎朝、走る習慣は、欠かしたことがなかった。ニューヨークでも、テルアビブ、カルツームでも、走っていた。ヨーロッパのほぼ全ての国の主な都市で、走った。毎朝、同じ時間に走っていると、同じ場所で、同じ人に会う、なんてことが、ときどきあった。スイスのベルンで、国際会議があった時、朝のランニングで、大きな犬を連れた女性の散歩に、3日、続けて会った。同じ時間に、同じ場所で、挨拶を交わした。2年後、たまたま、同じベルンに2日間滞在。まだ歩いているかな、と朝、同じ時間に走っていると、会いました。でも、連れている犬は、小さかった。尋ねると、おおきな犬は、亡くなり、今年、この犬が、家族入りした、とのことだった。こんなこともあるんですね。

台北でのこと。この時は、1週間ほどの滞在だった。いつものように、朝のジョギングに。ホテルの近くに、小高い丘(山)があり、頂上まで車道、人道が別々についており、走るコースは、人道。人道の途中のちょっとした平らな所で、10人ほどの人たちが太極拳をしていた。朝の挨拶をすると、2日めの朝、おいで、おいでをするので、太極拳に混ぜてもらった。毎朝、毎朝、太極拳クラブに通った。明日で、最後、日本に帰ります、というと、「明日の朝は、来れるか」と聞くので、「飛行機は、午後だから、朝はOKですよ」、と。翌朝、行ってみると、「皆勤賞だよ、これ、どうぞ」、と紙袋。中には、太極拳の衣装が入っていた。

いろいろありました。こんなこともあるんですね。






2022年2月8日火曜日

コロナ禍 都心へ お出かけ

本日は、都心へ。東京駅は丸の内側の「丸善」です。

丸善の本社は、日本橋、もちろん、今も健在ですが、後からできたこちらがわ、丸の内丸善の方が、売り場が広い、天井も高いし.1階から4階 、それがぜーんぶ「本」、すごい、うれしいかぎりです。といっても、たまには、日本橋へも行きます。地下階だけです、文房具売り場と、万年筆売り場。本ならば、やっぱり、丸の内です。たいていの新刊本は、手に入ります。最近は、絵本の売り場が、広くなった。洋書は、ジャンルによるけれど、政治関係は、少ない。自伝ものが増えている。オフィスのど真ん中にあるので、需要が多いらしく、受験モノが多いのも特徴だ。

月に1~2回、行きます。どんな本が、出ているのかな、の点検です。だいぶ前に、我が家の蔵書(?)を整理しました。それ以来、買わないように、持ち帰らないようにしています。いつも、1時間から2時間を費やし(要するに、立ち読み、たまに一冊買おうか)。その後は、路線バスでの帰宅です。

あるんですよ、東京駅から足立区方面行きの路線バスが。西新井近くの荒川土手行きです。1時間に1本なので、時刻表をしっかり調べておいて、乗車。

この日も、始発からの乗客は、6名。みーんなシルバーパス愛用者ばかり。デパートの袋を持った女性、東京駅の駅デパートでの買い物帰りらしい夫婦、スマホで地図を眺めていたサラリーマン風の初老男性など。若いのは、ひとりもいない。

大手町からお茶の水、本郷通りで、東大を見ながらしばらく走る。秋、紅葉の頃は、イチョウがきれい。止まる停留所で、乗ってくる客がいて、結構いっぱいになる。田端駅前では、並んで待つほどの客、みんな買い物バスツアーって感じで、座れない人もいた。この路線バスの存在を、みなさん、ご存じで、ご利用なすっている、シルバーパスで。というわけで、杖にすがって、立っている男性に席を譲り、途中下車。

ちょっと歩いて、都電の停留所へ。都電・さくらトラムは、いちばん好きな乗り物。三ノ輪と早稲田間、どの駅でも、熟知しており、この日は、尾久からです。車内は、それほど混んでおらず、チンチンと、いつものスピードで走ります。じきに町屋に着くも、このまま終点の三ノ輪橋まで行きます。ここからの線路両側のバラがいい。寒さで、しなっている花もあるけれど、けなげに咲いているバラもある。運転手さんの右うしろに、2席のシルバーシートがあり、これがお目当て。なのに、本日は、残念ながら、先客有。それでも、バラ見物は、バッチリ。せっかくきたんだから、と、三ノ輪商店街の銭湯へ。

という、いい一日でした。



2022年2月7日月曜日

コロナ時代で、こうなった日常

ちょい旅で、米原方面へ行ったのが、2月5日。本日は、2月7日。実は、昨日、今日、あちらは、大雪。関ケ原あたりは、1mも積もったとのこと。伊吹山などは、吹雪だそうです。乗り鉄とはいえ、大雪では、運転中止という事態になるかもしれないので、「いい日 旅立ち」でした。

コロナ 時代、三年目になる。中国の春節で、日本にも多くの中国人観光客がやってきて、もちろん、中国国内では、多くの都市部の人たちが、里帰りし、億単位での人口移動の時期だった。武漢から始まったコロナ、日本では、豪華船での感染発症が、事の始まりだった。学校閉鎖とか、緊急事態、総理大臣のバトンタッチ、ワクチン1日100万回、選挙があって、もいちど変わった総理大臣・・・・いろいろあった。

そして、懲りずに、またまた、コロナがやってきた、デルタから、オミクロンに名前を変えての登場。この先、まだまだ、続くのか。

Stay Home、日本語に訳すと、「自宅に居なさい」。とのおふれが出たり、入ったりで、特に高齢者は、ステイホームに徹せよとの、お達しです。今年の5月で84歳になるので、立派な高齢者。この間、どうしていたか。

ひとり暮らしなので、他に相手をしてくれる家族も居らず、ただ、ただ、家にこもっているだけでは、たまんない。はじめの頃は、音楽を聴いたり、本を読んだり,体操をしたり、テレビを見たりなどなど。それでも、そう毎日、こんなこと繰り返してはいられない。カルチャーセンターも、図書館も、スポーツクラブも、「蜜」になるというので、close。だいたい、ステイホームなんて、向いてないんです。

で、「本」を出すことに。紙屑を片付けながら、昔々のメモや、写真、適当にまとめていたら、「本」になった。三冊めです。これで、しばらく、退屈なステイホームが、解消されました。本の内容、出来栄えなどは、たいしたことはない、それを承知の上での出版(?)でした。

この状態、コロナ時代、まだ続きそうなので、次のターゲットを目下、考えているところ。今年は、寅年、その寅年だけれども、どうも、体力、知力、脳力が日々、落ちている実感。自分でも、この先、自分がどうなるのか、わからない。トシ相応の日々でいくか、と。


2022年2月6日日曜日

節分の 豆をまいたら さあ旅だ

 さあ旅だ、の報告です。

過日、乗り鉄ご同行の方から、電話。                          

「東海道本線に支線があるって、知っていた?」、という電話。うーん、あったかな、なかったかな、「知らない」、と返事。その方によると、あるんだそうです。どこって、それが、これから行く「ちょい旅 乗り鉄の旅」、です。

久々の朝いちのバスで綾瀬駅へ。千代田線で北千住駅経由、上野で乗り換えて東京駅へ。7時5分前に到着。掲示版で、新幹線「ひかり」を探すと、7時3分の岡山行き。実は、前日の時刻表では、7時33分発の大阪行きがあり、これに乗るつもりだったのだ。

実は、高齢者向けのジパング割引切符、「のぞみ」には、使えない。つまり、急がない高齢者は、「ひかり」、「こだま」に乗りなさいという、JRのご配慮です。でも、「のぞみ」は停車駅が少なく、小さな駅(新幹線の止まる)へ行く客は、利用出来ない。今回の目的地は米原なので、「ひかり」っていうわけです。

さて、東京駅で30分ほど、待っているなら、乗ってしまった方がいい、と乗りました、7時3分の「ひかり」に。「いい日、旅立ち」の音楽が流れてきて、スタート。右に新橋の第一ホテルを見ながら、見慣れたルートを走ります。じきに品川、ここで数名乗車。全部で20名ほどの乗客で、2人用席には、1人づつ、3人席は、ほぼ空席のまま、という車内乗車状況。皆さん、乗りなれている様子で、パソコン、スマホを取り出して、お仕事開始。家から持参のおにぎり朝弁などを食べているのは、旅人のみ。会話なんか、皆無。多摩川を渡り神奈川に入る。新横浜駅、ここでも客2,3名ほど。

熱海のトンネルを出ると、曇り空。いつもは、見える三島駅からの富士山、まったく見えない。あちこちの煙突から煙が立ち上っている富士市、煙がまっすぐなので、無風状態。富士川を渡る。この先、新幹線(東海道)は、いくつもの川を渡る。

富士川、安部川、大井川、天竜川、矢作川(やはぎ)、庄内川、木曽川、揖斐川、長良川などなどで、歩き旅東海道の際にも、いくつもの鉄橋を渡った。

茶畑が多い、菊川町、ここをすぎると掛川、右の車窓から掛川城が見える。この城は、都内在住の女性からの寄付金をもとに、再建できた、という話を、城のボランティアガイドさんから聞いたことがある。浜松では、多くの乗客が下車。浜松へ通勤している人たちかもしれない。ここら辺から、空が晴れてきた。まだ9時前。浜名湖あたりは、ソーラ(太陽光発電の仕掛け)が目につく。矢作川(やはぎ)を渡る。矢作川の上流の中山道で、八丁味噌の工場があったっけ。

名古屋駅で、下車。この新幹線は、ここからまっすぐ京都までいく、米原には止まらないので、おりる。20ほど待って、次の「ひかり」に乗る。岐阜羽島駅で10分ほど停車。「のぞみ」様のお通りを待つ。結局、名古屋駅から米原駅までは、15分間くらいだった。伊吹山は、上の方は雪だった。天候も変わり、米原では、雨。

米原駅で、東海道線に乗り換え、岐阜方向に戻る。四両編成の列車、運転手は、訓練中らしく、指導員の先輩がついており、ワンマンなので、アナウンスも、真面目。全文を読んでいるみたい。そういえば、この頃、東京の地下鉄などでも、社内アナウンスは、英語ネイティブの外国人女性ではなく、乗車の車掌が、日本語に続いて、英語でも、喋っている。ぎこちないのもあるが、結構、いける、英語アナウンス。この日の新人さんも、駅名と、「ご乗車ありがとうございます」は、立派な英語だった。

四両編成でも、客は、まばら。乗る人も、降りる人もあまりいない。

伊吹山は、こんどは、右側。醒ヶ井駅、ここは、中山道の宿場で、水がきれいなところ。そういえば、電車で通るのは、初めてだ。中山道は、往復5回歩いているので、醒ヶ井宿へも5回、来ているはずだ。柏原駅通過,柏原宿には、福ちゃん足袋の店があった。木曽川が近くを流れていた。そして、列車は、関ヶ原駅へ。関ケ原宿では、合戦の様子がわかる記念館みたいなところになんどか入った。合戦場のどこだったか、いちじくの木がたくさんあって、その時季にそこを通る時、必ず、とって、食べた。あんなこと、こんなことを、電車で通過しながら、思い出していた。垂井、ここも、中山道の垂井宿。結局、東海道線は、昔の街道筋を走っている、ことを実感。

本日の目的駅に到着。大垣駅、ここで、『東海道美濃赤坂線』に乗る、これが、本来の目的です。乗車ホームは、大垣駅のいちばん端っこで、二両編成。ワンマン列車で運転手さんが出発前の整備中でした。切符、持ってますか、というので、「はい、買ってきました」、と。実は、東京で切符を購入した際に、一括で買えたのだ。東海道本線ですからね。駅は、ふたつ、大垣駅の次が、荒尾駅ー美濃赤坂駅が終点。この間、5キロ、運賃190円。車内は、ボックスシートで2人用。乗客は、大垣から乗ったのは、7名。電車は、一時間に1本で、朝晩は、2,3本という運行。

大垣駅をスタートすると、車窓の景色は、つまんない、大垣近郊の、ただ、ただ、普通の住宅街。途中、たったひとつの駅ー荒尾駅、乗車客なし、下車客3名。駅の左側に神社、よく見ると『御首神社』の文字あり。帰ってから調べたら、平将門由来の神社とのこと。将門さんは、関東だけでなく、中部地方にもご縁があったのか。

すぐに終点の美濃赤坂駅に到着。東海道本線007美濃赤坂駅。木造の駅舎、中はがらんとしていて、自動販売機なし、自動通過機もなし。ここで乗客全員下車ー終点駅です。あと5分で、でますよ、と運転手さん。切符は、往復、持ってますよ。

駅周辺、きょろきょろ眺めまわすと、引き込み線跡がのこっていて、スレート屋根の長いホーム跡も残っている。たしかに、以前は、活躍していた駅。

ここら辺、かつては、石灰岩、大理石などがとれたそうで、その積み出しが赤坂駅だった。ここから、東海道の垂井駅へ運搬され、だから、東海道本線赤坂線、だったのだ。大垣駅の駅員に聞いてみたが、わからない、案内所で聞いてほしい、と。構内の案内書へ行ったらパンフレットをくれた。案内書には、「昼飯」という文字があった。中山道の歩き旅をしていた時、バス停の名前が、「昼飯」とあり、これを「ひるいい」と読むのを知った。昼飯町は、美濃赤坂の隣り町だったことが、判明。いろいろ、わかるものだ。だから旅は楽しい。

この他、大垣駅からは、養老鉄道、樽見鉄道、いずれも私鉄、が走っている。樽見鉄道の谷汲口駅には、西国霊場33番華厳寺がある。西国巡礼で廻った。樽見の淡墨桜、これは、たしか歩き旅で見物した。

こうみていると、中部地方も、結構、歩いていることがわかる。

大垣駅に戻り、東海道本線で、名古屋駅へ。360円の駅きしめんを食べ、「ひかり」で東京駅へ。戻ったら、まだ午後の3時だった。東京駅新幹線構内の駅弁屋で、いつもの品川づくし(1000円)をゲット。今夜の楽しみです。




2022年2月5日土曜日

 北京オリンピック

だめかな、と思いつつ、気がつけば、結局、ゼーンブ見てしまった。北京オリンピックのテレビ、です。いつもなら、9時半、遅くても10時には寝てしまうのが、なぜか、夕べは、大丈夫だった。9時からの開会式。

プロローグというか、初っ端は、中国国旗の入場、掲揚儀式。聞きなれた国歌の合唱があり、写し出された習近平さんは、マスクの下で、たしかに歌っていました。その習近平さん黒の、外国の来賓は、お揃いのブルーの防寒着だったが、なぜかバッハさんは、ひとり背広姿だった。ドイツ人って、なぜか、融通が利かないのかな。開会式の前に、習近平さんと中仏会談を終えたプーチン大統領は、ひとり離れた観客席(貴賓席)でした。政府高官ボイコットとはいえ、30か国の首脳級のゲストが出席していた。

特段目立つようなパーフォンマンスもなく、すぐに選手たちが、国別に入場。選手たちを待つボランティアたちが、両サイドに並んで手を振ったり、足を上げたり、飛び上がったりの動きをしながら迎える、あれっ、これってどこかで見た。そうです、つい最近、東京で行われたオリンピックの盛り初めてと、そっくりじゃあないですか。中国のパフォーマンス監督が、東京オリンピックのシナリオを、ぱっくった、みたいです。

国別の選手入場で、その国がどこにあるかの説明をNHKさんが、してくれるので、わかりやすい。とにかく、世界には、160くらいの国があり、小さい国は、日本のどこかの県くらいのサイズで、独立したばかりの国なんて、どこにあるのか、わからない。アフリカや、南米の国なんか、そもそも冬の季節がない。凍らないし、雪も降らない。どうやって、練習するかというと、アメリカや、ヨーロッパへ、出稽古に行かねばならない。それまでして、オリンピックに出たいんだろうね。アジアだって、南太平洋だって、選手ひとりっていう国がいくつもあった。アフリカの国で、ボブスレーっていうのも、驚きだ。「平和の祭典」っていうのも大変ですね。

それにくらべると、運河の多いオランダのスケート、酷寒の北欧諸国のクロスカントリースキーなどは、わかりやすい。クロスカントリースキー(XC)、10年近く、はまりました。結構なトシになってから始めたスポーツだったが、フィンランド、スウェーデン、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、カナダなど、XC大会を遠征。どれも、速さよりも、耐久力、持久力を競う大会だった。も、ちょっと、遅れてやっていたら、冬季オリンピック大会の選手団に入っていたかもしれない、です。

ところで、今回に北京オリンピックには、日本は、かなりの人数を送ったはずなのに、開会式の入場行進には、20数名しか出ていなかった。なーんでだ! ちなみに、主催国の中国は174名の代表団だった。

そうそう、開会式最後、習近平さんが、「一起向未来」(未来に向かったかんばろう)と宣言した後、ジョン・レノンの「イマジン 」の音楽が流れてきた。これも、もしかしたら、東京オリンピックの、パクリ ?

                           北京オリンピック開会式観戦記