2019年11月18日月曜日

秋がきた、あきがきた、どこにきた

今日も晴れ、昨日も晴れだった、明日もはれ、 そんな日が続いている。雲ひとつない晴れ、秋晴れです。
 朝の3PO道、埼玉県との県境垳川(がけがわ)の両岸の木々、ここ三日間で、めっきり紅葉。落ちた葉っぱが、まさに葉筏。遊歩道も落ち葉で歩くたびに、かさこそと音がする。農家のHさんちの柿は、もう終わり、残った3個、もう食べすぎなのか、鳥も寄らない。となりの柚子の実が、うっすらと黄色くなりつつある。
 半枯れ状態のなすの木に、のこりなすが3個。採っていっていいよ、といわれ、収穫。
 遊歩道の山茶花(さざんか)が、ふたつ咲いていた。尾羽をぴんとはった百舌鳥(もず)が、近づいても逃げずに枝にとまったまま、遠くをじっとみている。
 古今集とか万葉集には、「秋」があまり出てこないが、「源氏物語」には、よく出てくる。光源氏さんが、秋は「いとあはれなり」と詠っておられる。毎月3回、5年間かけて
源氏物語全巻を読む勉強会に参加したことがあり、ちょいと知識をひけらかし!です。ちなみに、イチョウは、源氏には出てこない。
 巷では、「○○と桜を見る会」が話題になっているが。さくらは、日本の古典には出てこない。さくらじゃなくて、梅が主流。うぐいすが梅の花で鳴くのは、春で、さくらの花ではない。梅の花は、長持ちするけれど、さくらは、あっという間に散ってしまう。
 というわけで、「桜を見る会」は、満開日を決めるのがたいへん。行ったことのある人に聞いた話だが、「花なんか、とっくに散っていたよ。まあ、有名人を見に行ったって感じ」。この御仁は、その会出席のために、夫婦揃って、洋服、着物を新調したとのこと。
 わが家は、野菜のほとんどを、農家のHさんちの畑から調達しているが、ときどきスーパーマーケットの売り場をのぞき、市場調査をしている。
 ねぎが高い。一本65円。きゅうり、季節はすぎているので、食べなければいいのだが、食べたければは、一本60円もする。ブロッコリーは、180円、大根は半分で150円、なんでも高い収穫の秋。
 ご近所の七五三お宮詣り、母子共貸衣装だったが、結構なモノ入りだったとのこと。
   母と子と 父も加わり 七五三

2019年11月11日月曜日

 あれから30年、ベルリンの壁崩壊

 11月9日で、「ベルリンの壁が崩壊」して30年という記事を見た。
 現役時代、ヨーロッパでいちばん足しげく訪問したのは、西ドイツだった。当時、仮首都だったボンのドイツ社会民主党の本部(バラックだった)の地下の資料室で、マルクス
エンゲルスの資本論の原本を見た時は、感動した。興奮したものだ。
 東西冷戦時代、その象徴だったのが西ベルリンだった。そのベルリンにも、何度か行ったことがあった。東ドイツ内に孤立するように存在していたベルリンへは、空路のみだったような気がする。当時は、西ベルリンの市民は、食料はじめ生活必需品を、西側からの空輸でしのいでいた。東ベルリンでは飲めないアメリカのコカ・コーラが貴重品だった。
東地区へ行くには、市電の停留所で、パスポートコントロールがあり、東地区内では、西側からきた人たちは、行動が制限されており、監視されているような気がした。
 そのベルリンが解放された。西、東間にあった「壁」が壊されたのだ。壊された翌日の朝(11月10日)、たまたま西ベルリンに滞在していたので、こわされた「壁」を見に行った。ブランデンブルグ門を通り、東ベルリンだった地区に行ってみた。多くの人たちが、写真を撮ったり、花束を道行く人たちにプレゼントしている人たちもいた。道端では、軍服姿の元兵士たちが、持ち物を並べて売っていた。その時に買った双眼鏡、今も持っている。そういえば、ゴルバチョフの顔絵のTシャツも買ったけれど、どうしたか。
 その2,3年前のこと。国際会議でモスクワへ行った。会議がおわり、昼すぎのフライトで、ウイーンへ行くことになっていた。と、ホテルにソ連(当時)側のスタッフがやってきた。この男性は、モスクワ滞在中、ずっとわたしに張り付いていた諜報部員だった。
「今日の午後、ウイーンへ行きますよね」、というので、そうだ、と答えると「たまたまウイーンへ行くフライトがあるので、乗りませんか」、という。ウィーン行きの切符は持っているので、と断ると、「まあそういわずに」、と熱心にすすめるので、乗ることにした。空港では、一般の乗客が手続きをするホールでない、別の場所へ案内された。男性の乗務員らしき人の案内で乗った飛行機は、ソ連製だということは、すぐにわかった。これ
本当にウイーンへ、と尋ねると、「ダー」(イエス)とのこと。周囲を見ると、他に乗客らしき人は皆無。ただ、前方の座席部分に、2~3人、人がいるらしい。乗務員は全て男性だった。じきにウイーンとのアナウンスでなく、乗務員が伝えにきた。
 ウイーン空港に到着。ここでも特別の通路を通り、空港内のロビーへ。二時間ほど早くに着いてしまったので、出迎えの友人を空港で待った。
 友人に、早くに着いてしまったいきさつを話したら、この日の午後、モスクワから空路
チャウセスクの息子がウイーンに着いたとの報道があった。乗せてもらったのは、彼と同じ飛行機、チャーター機だったのだ、と。ルーマニアの大統領チャウセスクの息子なら、ソ連はVIP待遇するはず。知らずにご一緒していたのだ。
 当時のルーマニアでは、チャウセスクの独裁政権全盛期で、ソ連共産党ともいい関係にあった。しかし、親分のソ連共産主義が崩壊しかかり、1989年の12月、チャウセスク夫妻は、処刑された。息子は、どうなったのだろうか。
 その後、民主化がすすむルーマニアの首都ブカレストを訪問した際、独裁者チャウセスクが作った宮殿を見学した。案内してくれた友人が、チャウセスクの奥さんエレナは、悪妻だったといっていたのを、思い出した。
 







































2019年11月7日木曜日

紅葉まだだったわたらせ渓谷鉄道

 去年の今頃行って、乗ったわたらせ渓谷鉄道、思い出して行ってみた。10月31日。
 いつものように、東武日光駅では、着いたばかりの電車から、人々が改札口めざして駆けだす。そこから、バス乗り場へ再びダッシュする。行列が長くなり、座席確保となると、30分、40分待たされる。「日光見ずして、日光語るなかれ」というわけで、最近は、外国人観光薬が増えている。
 乗らない人、並ばない人、ほとんどいない。が、たまーにいる。東照宮と反対方向に向けて歩く。下り坂、300mくらい先には、JR日光駅。駅側と反対側に、小さなバス停。こわれたベンチがあり、ここに座って待つ。9時35分発のコミュニテイバスが来る。
乗客ひとり乗せ、出発進行。
 東武日光駅前を通過、東照宮通過、旧古川電工の建物のある道を通過。バス停はあるものの、乗る人がいない。この道路122号線は、足尾を通り、榛名、沼田方面に行くことが出来る。長い、長いトンネル(日足トンネル)を越えると、春なら新緑、冬なら雪景色そして秋なら紅葉の景色が始まる。
 で、紅葉をアテにして行ったのだが、紅葉らしき景色がない。景色は、いつもの通りなのだが、木々は、夏のまんまだ。途中で、ひとり病院通いの女性乗車。「紅葉、まだですねえ」、と話かけると「今年は、遅いねえ、いつもの年なら、紅葉真っ盛りなんだけどねえ}、と。上の方(中禅寺湖方面)は、ようやく色がつきだした、とは、運転手さん。
 わたらせ渓谷鉄道の終点「間藤駅」で下車。ここでは、40分待ち。バスがやってきて
40人ほどの乗客が下車。駅にやってきた。「紅葉のわたらせ渓谷鉄道乗り」のJTBの団体さんたち。乗る前に、添乗員さんが「みなさん、実は、紅葉がいまひとつの状況で、本当にすみません。去年は、この時季最高の紅葉だったんですが。でも渓谷の流れは、きれいです」と説明。二両編成の列車が到着。沿線からの紅葉は、ほとんどな見かけられない。団体さんたちは、神戸(ごうど)駅で下車。駅前に、さっきのバスが待っていた。
 この団体さんたちもそうだが、足尾銅山観光はしないとのこと。そもそもあしお渓谷鉄道は、足尾銅山の鉱石を運搬するトロッコが走っていた路線。16世紀に始めた鉱山で、
明治になり古川電工が本格的に開発した鉱山で、当時の日本の近代産業化の担い手であったが、昭和63年に閉山。ここから出る鉱毒で、田中正造が天皇に直訴するということもあり、日本の公害運動の原点ともいわれていることは、知られている通りだ。
 実は、昨今、韓国の徴用工が問題になっているけれど、足尾銅山には、多くの中国人が徴用されていたことは、あまり語られていない。いまも、彼等、中国人たちが住んでいた
エリアが遺されているとのこと。
 足尾銅山が、田中正造のこと、中国人徴用工のことなど、を抜きに観光地化している、
わたらせ渓谷鉄道の沿線を楽しむためだけの観光列車乗り、なんだか、とても寂しい感じがした。もひとつ、渡良瀬川が、利根川になる途中で、渡瀬遊水地を形成し、首都圏の洪水防止に役立っていることも、もっと知ってほしい。




























 

2019年11月3日日曜日

悪夢続きだった10月が終わった

 台風、大雨災害で、千葉、宮城、長野などがひどい目に会った10月が、ようやく過ぎた。「秋」らしい秋がなかった。長野の千曲川近くで、りんご農園の経営をしている農家、阿武隈川が流れる福島伊達町の友人、千葉の長柄町の住人など、どうしているか、被害に会ったのでは、などなど、の心配を抱えたまま、10月が終わった。
 やれやれ、これでいい11月に、と思っていたら、11月1日の朝5時、「今、沖縄の首里城が燃えています」、とNHKのニュースが伝えた。えっ ほんとかい、と。沖縄へは、3回行ったことがある、最初の沖縄行きは、返還前で、たしかパスポートのようなものが必要だった。沖縄に電話をするのに、ハワイ経由でやったような気がする。いずれの際にも首里城へは行った。改築され、その都度立派になった。あの首里城が、焼失。
 1日、夕方のニュースを見ていたら、小池都知事が「オリンピックのマラソンと競歩競技の会場が、札幌になった。合意なき決定」、と話していた。なーんだ、東京でマラソンが見られないのか。これって、いいニュースか、悪いニュースか。
 まだある。日本航空の客室乗務員(スチュワーデス)のお姉さんが、「着きました、ボジョレーヌーボー」が、ただいま、日本に到着。いただきものだが、いちど、飲んだことがあった。特段、うまいもんじゃない、というのが感想です。騒ぎすぎ。
 で11月2日、本日は、午後1時半から、狛犬見物の日。10月12日が台風で延期になったもの。集合時間は、1時半。集合場所は、王子駅。時間を計算して出かけた。綾瀬駅から千代田線で町屋へ。地上に出てすぐの都電に乗り、王子とは反対方向の三ノ輪(終点)へ。始発を待って乗車。乗る場所は、運転手さんのすぐうしろ、2席あって、ここはシルバーシート。いちばん見晴らしがよろしい。再び町屋を経由して、王子駅へ。ここまでの沿線が、すばらしい。今、いろとりどりの薔薇が満開なのです。電車も薔薇で飾りたてている。薔薇、お目当てのカメラさんたちが乗車している。結構、毎員だったが、なにしろ、シルバーシート、ゆったり気分。最高、だった。
 王子駅に集結したのは12名。飛鳥山に登るモノレール、エスカルゴならぬ「アスカルゴ」に、並んで乗車。飛鳥商店街の会長さんのご挨拶とご案内が、マイクを通してありました。このアスカルゴ、開通したその日、何年くらい前だったか、乗りました。この日になんとしても、乗らねばとでかけ、結局、2時間待ちで乗った。車椅子やうば車が優先で
大人は、またされた、当たり前。その後、もう何回も乗っているモノレールだ。この日は
外人観光客もいた。なにしろ日本一短いモノレール、24メートルとか。
 下車したところで、M先生からこの辺りの地形、歴史などの説明があった。公園内を歩いて西ヶ原の一里塚へ。久しぶりだった。
 公園の反対側の石の橋ー音無橋をくだり、東屋で休憩。持ち寄りお菓子を頂きました。
王子神社の周辺には、七五三の旗がたっていた。そうか、11月は、七五三の月なんだ。
この先は、神社で狛犬の見学なので、本日の参加は、これまで。出口の店で、玉子焼きを
買った。つくりたてで、まだあたたかった。650円。
 この後、都電で町屋、千代田線で綾瀬、神明町に着いたら4時すぎだった。すぐに銭湯へ行き、約束の天ぷらを風呂友さんから、いただいた。今晩は、天丼と決めた。
 明日は、11月3日、文化の日。文化勲章の受章者たちのリストが、新聞に掲載される日だ。農家のHさんちへ、手伝いに行く日。
 



















2019年11月1日金曜日

大先輩ふたりとの思い出

八千草薫さん
 JICA(前国際事業団)に勤務していた頃。まだ南北問題への国民の理解度が低いということで、活動の内容啓発を目的とした映画を製作しようということになった。アフリカで活躍する日本の青年海外協力隊の話をもとに、映画がつくられた。その監督が、谷口千吉さん、八千草薫さんのご主人。仕事の打ち合わせで、谷口家を訪問。当時の谷口さんは、カバンの収集家で知られており、実は、わたしも収集とまではいかないけれど、カバン集め家だった。仕事の話は、そっちのけで、谷口監督のご自慢のカバンを、自慢話といっしょに見せてもらい、聞かせていただいた。途中で、外出中の八千草さんが帰宅。と、監督が、さっと立ち上がり(当時、かなり高齢になっていた)、「やあ、マリアさん、お帰り」、と玄関にお出迎え。監督が、八千草さんのことを、「マリアさん」、と呼んでいることを知った。
 その1~2年後、出張でネパールへ行った時のこと。直行便がなく、インドのニューデリー(旧名)で乗り換えることになっていた。ところが、いつものことだが、遅延で5時間くらい待たねばならないことに。日本人の乗客が大半だった。うす暗い待合室、ほぼ満席だった。と、すみっこに立っているふたり。谷口監督と八千草さん。で、「たぐちです、どうぞ、こちらに」、と席を譲った。「マリアさんが、座れてよかった」、と谷口監督はほっとされたようだった。おふたりは、ネパールへ山歩きに行くところだったとのこと。
緒方貞子さん
 まだ緒方さんが上智大学の教授だった頃の話。途上国問題をとりあげ、勉強会をしたり、国際会議を開催したりする南北問題日本委員会というのが設立され、その世話をするというか、事務局を担当したことがあった。4年間くらいだったろうか。委員会の長は、大来佐武郎さん、後に外務大臣にもなった学者。二か月毎に定期会議があり、だいたいは都内のホテルが会場だった。南北問題、開発問題、難民問題なとをテーマに、それぞれの委員が発表し、意見交換などを行い、時には、日本政府や国連なと国際機関への提言も行った。メンバーのひとりが緒方貞子さんだった。内容は、あまりよく覚えてはいないが、難民問題には、熱心だった。難民は、「食べ物が保証されるところ、医者のいるところ、電気のあるところ、そして、トイレのあるところ」をめざしてやってくる、難民キャンプ、というところの定義みたいなことをおしゃっていたのを思い出す。当時から、難民問題には、なみなみならない関心を持ってられた。UNHCR国連難民高等弁務官として、さまざまな功績を遺されたことが、報道されている。
 大来外務大臣の推薦を受け、緒方さんに励まされ、ニューヨークの国連本部へ行くことになったのは、その数年後のことだった。その後、アフリカのスーダンで、開発問題に関わったが、おふたりの影響、薫陶を受けてのことだった。

 八千草薫さん、88歳、緒方貞子さん、92歳。 そういう自分は、81歳。