2021年6月16日水曜日

ほんとうにあった話ーその5

アフリカの国々、現役中、引退後含めて、ほぼ全てを訪問したと思う。西アフリカのセネガルは、記憶では、たしか3回行ったことがある。いちばん始めは、1978年だった。この回想は、1回めだったか、2回めだったかは、定かではないが、大統領だったサンゴールとサンゴール夫人に会った

国際会議の主催者のサンゴール大統領の公邸に招待された。大統領夫人は、フランス人で、宴会ホール内の椅子席で歓談。始めは、通訳付きだったが、そのうちに英語での会話となった。日本人が珍しいらしく、いろいろ聞かれた。人口とか、宗教のこととか、天皇のこととか、ともかく、次々に質問を浴びさせられたのを思い出す。彼女が、アフリカの男性と結婚したことで、ヨーロッパの人たちから、やや敬遠されていたのかもしれない。ご主人のサンゴール大統領は、パリ留学で、三つ組の背広姿のジェントルマン、もちろん、フランス語も素晴らしく、でも、なんとなく、ヨーロッパ人の人種差別みたいなものを感じた。

1989年、ベルリンの壁が崩壊したその日に、ベルリンにいた。壁の周辺には、急ごしらえの縁日のような店が、いくつもあって、ゴルバチョフの顔をプリントしたTシャツも売られていた。崩壊した壁のかけらと、Tシャツを買った。

そのゴルバチョフに会ったのは、4年前の1985年だった。場所は、モスクワのクレムリン宮殿。社会主義インターナショナルの軍縮委員会のメンバーとして、就任したばかりのゴルバチョフに会見。その前に会ったブレジネフが、会談中、ずっと印刷された文章を読んでいたのに、ゴルバチョフは、メモなしでの演説だったのが、なんとも目新しかった。ペレストロイカ(立て直し)とか、グラスノチス(情報公開)という単語が繰り返されていた。1989年には、それまで対立していたアメリカのブッシュと、マルタで会談、長きにわたる米ソ冷戦構造が終結。

クレムリンでの会談の席で、フィンランドでクロスカントリースキーの大会に出場した話が、フィンランドのソルサ首相から紹介された際に、「わが国でも、日本から近いウラジオストクは、雪が豊富、ぜひスキーに来て下さい」、といわれたのを思い出し、ベルリンで顔入りのTシャツを買った。

東南アジアの青年代表団の一員で、ヨーロッパ各地を訪問したことがあった。イギリスのマンチェスターで、旧植民地宗主国の搾取が独立後も続いていることに抗議するデモを行った際に会ったのが、アノア・イブラヒム。 グロサリーで紙とか、フエルトペンなどを買ってきて、ポスター、看板などを作成。学生運動での経験が活かされた。それが縁で、日本に帰る途中、マレーシアに立ち寄った。アノアの地元の村で、青年団の若者たちとの懇談を行った。当時から、政治家の資質があったアノアは、国会議員になり、マハティール政権下で、副首相に就任。しかし、政敵のレッテルを張られて、逮捕された。その後、マレイシアの政治が報じられると、アノア・イブラヒムの名前が出てはくるが、事情は定かでない。




 

2021年6月14日月曜日

ほんとうにあった話 -その4

外国の政治家の葬儀に、なぜか3回も参列したことがある。

スウエーデン首相オロフ・パルメは、現役の首相だった。ストックホルム市内で、暗殺された。1986年。現役だったこともあり、120か国からの参列者があった。会場は、ノーベル賞の授賞式で知られているストックホルムの市公会堂で行われ、遺体は、フレドリック教会に運ばれた。沿道では、松明を持った多くの人々が見送った。その光景が、ともかく印象的だった。

この葬儀には、日本国政府を代表して、福田赳夫元首相が、スウエーデン社民党の友党である民社党の佐々木良作委員長が列席していた。両人共、同じホテルに宿泊していた。

この頃も、朝の習慣だったジョギングから、ホテルに戻ってくると、日本大使の奥方が、館員の女性とロビーにいた。そこへ、福田さんの息子さん康夫氏がこられて、なにやら風呂敷つつみを、大使夫人から受け取って「ごくろうさま」、と挨拶。次の朝も、次の朝も、同じ光景に出くわし、大使夫人に尋ねると、「日本からお持ちになった、おそばを茹でて、お届けしている」とのことだった。その息子さん福田康夫氏も、首相になられた。

ウイリーブラントは、戦争中は、ロンドンに亡命していたが、帰国して、ベルリン市長になり、西ドイツ首相となった。長いこと、社会主義インターナショナルの議長もされ、国際的にも知られた政治家。社会主義インターナショナルの会議で、ヨーロッパや、アフリカなどでも会う機会が多かった。ブラントさんも、朝が早く、ひとりで散歩をしているのに、よく会った。朝食も、なんどかご一緒させていただいた。

そのブラントさんが、亡くなったのは、1992年。葬儀は、ベルリンで行われた。たしかシテイホールだったとおもう。日本政府代表は、海部俊樹氏だった。参列者のためのパーティーがあり、海部さんは、あまり知らていないので、紹介してあげて下さい、とお付きの日本大使館員にいわれて、主にヨーロッパの政治家たちに紹介したのを覚えている。あの時は、たしか韓国の金大中氏未亡人も、来ておられ、ソウルの自宅で、いちど会っただけなのに、覚えていて下さり、挨拶に来られた。アジア人の列席者は、少ない葬儀だった。

1983年、廖承志さんの葬儀に出るために、北京へ。廖承志氏は、日中友好の中国側の要人だったということもあり、日本からの参列者は、多かった。葬儀の会場は、どこだったか覚えていない。ただ、ご遺体に最後のお別れをする儀式の待ち時間が、やたら長かった。2時間くらい待ったか、その間、やることもなく、日本からの参列者のみなさんと、なんとなく雑談。杉村春子さんは、名前は聞いたことがあったが、本人に会ったのは、初めてで、15分ほど歓談したが、どこにもいそうな、やさしいおばさんっていうのが、印象だった。もひとり、有吉佐和子さん。白の喪服(和服)姿の彼女は、「いつまで待てばいいのよ」、とひとりごとのように繰り返し、いらいら、しているようだった。いざ、番がきて、行列をつくると、なんと私の前、そのがたいの大きさに驚いた。彼女の真っ白な和服に、黒い帯、わが身の貧弱さを痛感。振り返って、「いつ帰るの」、ときくので、明日帰ります、と答えると、「万里の長城へは、行った方がいいわよ」、となぜかすすめて下さった。それまでに行ったことは、なんどかあったが、ただ、「そうですか」、と返事をした。












 

2021年6月12日土曜日

ほんとうに会った話ーその3

イスラエルは、長い国際体験で、はじめての国だった。イスラエルへは、今は、アテネ、パリ、イスタンブール、ローマなどヨーロッパの都市経由で行くことが出来るが、日本からの直行便はない。なのに、1964年、はじめてのイスラエルは、エア・フランス の直行便だった。羽田空港出発時には、家族は来なかったが、友人たちが見送ってくれた。

その後、なんども、なんども、イスラエルを訪問した。ヨーロッパに出かけた折には、イスラエルへ、という具合に。だから、友人たちも沢山いた。

1回めの留学時、聖書にも出てくるタボール山を一周するマラソン大会があり、出場。ここで会ったのが、ナッション。お巡りさんで、テルアビブ郊外の町ホーロンに住んでいた。髭がかっこういいお巡りさんで、ブロークンだけれども、フランス語、イタリア語、アラブ語、もちろん英語もOKのお巡りさんだった。「タランテ」と呼ばれていたメイドイン ハンガリーの小さなポンコツ自家用車で、あっちこっちへ連れて行ってくれた。なんかトラブルがあると、「私は、こういう者だ」、と警官証明書をちらつかせた。それにしても、イスラエル中の聖書に出てくる史跡など、ほとんど、彼の案内で見て廻った。

お礼に、ナッション夫妻を日本に招待したこともある。奥さんは、ノープロブレムだったけれど、旦那のナッションは、日本食の刺身が、ダメだった。現役を引退して、指圧の学校へ行き、国家試験に合格したことを知らせると、なんと、英語の名刺を送ってくれた。引退したので、名刺がなくなっただろうから、と、名刺のプレゼント。でも、英語なので、日本では、使えないことに、気づかなかったのかも。

ホーロンのナッション家の隣りが、国立の高齢者施設で、「あの人は、ゴルダの旦那さんだよ」、とある日、木立の日蔭の椅子に座っている老人を指して、ナッションが言った。あの方は、有名なゴルダ・メイア首相のご主人、と言われるのが原因で、精神が異常になったんだよ、とも。

ゴルダ・メイアには、イスラエルで会ったことはなかったが、デンマークのコペンハーゲンで会った。場所は、スーパーマーケット。同じ国際会議に出席していたが、会ったのは、スーパで、彼女は、秘書(おそらくSP)らしき女性と一緒だった。顔は認識していたらしく、「シャローム」とヘブライ語で挨拶をすると、「シャローム」といい、「あなた、イスラエルに行ったことがある?」、と訊かれたので、留学していたことがある、というと、ちょっと、お茶しない、とコーヒショップに誘ってくれた。なにを話したか、どれくらい話したかは、覚えていないが、とにかく、コーヒーをご一緒したのは、覚えている。その後、外務大臣になったシモン・ペレスさんに、ゴルダさんとコーヒーを飲んだ話をしたら、「珍しいことだよ、彼女は、それほど外交的ではないんでね」、とのこと。その後、イスラエルの本(訳本)を出した際に、ゴルダ・メイアさんに巻頭のことばをお願いしたら、写真と一緒に送ってくれた。あちらは、覚えていてくれたらしい。









2021年6月10日木曜日

ほんとうに会った話ーその2

 ひょんなことから知り合いになった浪岡(青森県)のUさんが、「あんたに合わせたい人がいるんだが」、と車で連れて行ってくれたのが、嶽温泉。岩木山の麓の温泉で、ちょうど近くの神社の祭り中だった。それが三浦恵三さん。三浦雄一郎、冒険家、プロス2キーヤー、80歳でヒマラヤを滑り降りた、あの有名な雄一郎さんのお父さんだ。

食事をしながら、2時間近く歓談。ご本人も、101歳で、ヨーロッパのモンブランをスキーでの大滑降。山の話、スキーの話などが話題だったような記憶。体格はあまり大きくなく、ごく普通の村人って印象だった。その頃は、息子の雄一郎さんのことなどあまり知らなかったが、いまや「高齢者の星」ていう感じだ。

岩波新書の『発想法ーKJ法』の読者だったこともあり、著者の川喜多先生は、あこがれの人だった。『チベット鳥葬の国』とかヒマラヤ関連の本を多く書いておれれ、ネパール協会の会長もされていた。たまたまダライラマの来日の歓迎会があり、それに出席。そこでお会いしたのが、ほんものに川喜多先生だった。山岳会に所属し、登山に現(うつつ)を抜かせていた頃で、ヒマラヤは憧れだった。お会いした先生は、話す声も小さく、これがほんものかと思えるほど静かなお人柄のようだった。結局、何を話したか、まったく覚えていない。

UNDP(国連開発機構)の副所長としてスーダンに赴任していた当時、「カルツーム便り」というタイトルの手紙を、ときどき日本に送っていた。送り先は、秋山ちえ子さん。ご本人が民間ラジオ局で、番組を持っておられ、そのネタにして貰っていた。ときどき、「アフリカのスーダンでは、」なんて話が登場していた。その「便り」を、帰国して一冊の本にまとめたのが、『カルツーム便りー体験した南北問題』(サイマル出版会)だ。秋山さんとは、UNDPへ行く前に勤務していたJICAの広報誌の対談に出ていただいたのがきっかけで、親しくさせていただいていた。ニューヨークへ行く前には、赤坂の料亭で、送別会をしてくれた。「カルツーム便り」は、その時に出たアイディアだ。

本が出版され、印税入るなんて話が、出版社からあった。印税なんてたいした額ではないんだろ、というと、「団体とか、施設とかに寄付っていう方法もありますよ」、と教えてくれる人がいた。で、考えたのが、婦選会館。存命中、母親が、ずっと会員だったあそこにしよう、と電話をしたら、すぐに返事がきて、代表の縫田ようこがお会いします、という返事。そんなに偉い人でなくてもいいのに、と思いつつ、都内のホテルのロビーで面会。話が終わらず、ホテル内のレストランへ移動、昼食をご馳走になってしまった。

万年筆が縁で、お会いすると話がはずむ、日本社会党委員長の土井たか子さん。土井さんとは、日本国内では、お会いしたことはないけれど、国際会議出席の外国では、なんども会う機会があった。同じホテルに泊まっているので、朝食をご一緒したこともある。彼女の愛用は、ドイツ製(?)のラミーで、いつも2~3本、ハンドバッグに入れていた。個人的な感想をいうと、ラミーの書き心地は、それほど、ではない(万年筆収集家の意見)。







2021年6月9日水曜日

ほんとうに会った人たちーその1

ヨーロッパで、訪れた回数がいちばん多かったのは、ウイーンだ。ウイーンは、昔から国際会議都市として知られており、勿論、芸術の都でもある。

そのウイーンの副市長(3人制)になったのが、ピーター・シーダー。彼とは、20代からの付き合いで、ウイーンへ行く度に会った。ある夜、いつものようにレストランで宴会をして、フォルクスワーゲンの小さな乗用車に何人乗れるかの掛けをした。5人か6人でいっぱいになり、そのまま市内に。と、だれかが、ここ、ここ、という所で車から降りた。大きな噴水のある所。と、ひとりが、持参の洗剤を噴水にかけた。噴水は、みるみるうちに泡だらけ。ピーターがなにやら書いた紙を、噴水のある石に貼り付けた。

「歴史も たまには 洗いましょう」、と書いてあった。

この噴水、ウイーンの中心街のシュタットオッパ(国立オペラ劇場)近くにあり、今でもなつかしく、眺めに行くのが習慣に。

そのピーターが、ウイーンの副市長になったというから、可笑しいかぎり。副市長時代、彼に「副市長って、なにをしているの」、と訊くと、「高級コートに身をつつんだ上流社会のご婦人に、あなたの大事なわんちゃんに、どうか公道でうんちをさせないで」というのが仕事、とにこにこ顔で答えていたピーター、数年前に亡くなった。ビールの飲みすぎ、というのが、友人たちの話。

新宿の高野といえば、有名なフルーツパーラの店。高校時代の学生服なんかも、たしか、高野制だった。この高野のご主人が、インドの独立を支援していたことは、関連本もあるので、あとで知らったのだが。といっても、行ったことはなかったが。ところが、ある時、インド人の友人が来日。どこか行きたいところは、ないかと尋ねると、新宿のタカノと。そっかあそこは、たしかカレーライス、日本でいちばん始めにメニューにした店。高野へ行き、カレーを食べたら、手帳をみながら、「杉並の蓮光寺」へ行きたいという。彼の持っていた住所を頼りに、連光寺をさがした。蚕糸試験場近くに、その寺はあった。彼、ブラディープ・ボースのおじいさんが、この寺に安置されていたのだ。おじいさんの名前は、チャンドラー・ボース、銅像もあった。

あわてて、調べたら、高野のご主人がインド独立運動家のチャンドラー・ボースを物資両面で援助していたことが、わかった。その後、インドで、ボースの妹さんに会う機会があったが、サリーの似合う美人だったのを、覚えている。

アメリカ留学時代、ライシャワーさんが、駐日大使を終えて、ハーバード大学に戻ってきた頃。現地の美術館で働く女性と、ふたりが、ライシャワーさんのお宅に招待された。たしか、アパートのなん階かで、エレベーターに乗った。停まったところが、玄関で、夫人が出迎えてくれた。お手伝いさんはいないようだった。

応接間で、日本の干菓子とお茶をいただいた。美術館の行事などが話題の会話で、どうもついていけないので、「あのう先生の蔵書など、みせて貰ってもいいですか」、と許可をいただき、隣りの部屋の書斎へ。ほとんど日本語の本で、佐久間象山関連の本が20冊ほどあり、当時、佐久間象山なんて人物は知らないひと、あわてて、大学の図書館で調べた。英語の本にも出ている人物だった。ライシャワー夫人が、昔の富豪松方家出の方というのも、後でわかった。

その後、来日したライシャワーさんを歓迎するパーティーがあり、お会いした。その際に撮った写真を、サイン入りで贈ってくれた。

そのライシャワー教授とは、朝、大学構内で、本を入れた風呂敷包みを小脇にかかえて歩く姿を、よくお見掛けをした。















 

2021年6月7日月曜日

タイ留学生、我が家の居候

 いつのことだったか、まだ現役時代の話。だれかが、ひとりのタイの留学生(女性)を連れてきた。下宿がみつからず、困っているので、なんとか探してやって、と。たまたま海外出張で、一か月ほど留守にするので、とりあえず、自分の部屋に住んでいて、と彼女を自宅に連れ帰った。

タイでは、チュラロンコン大学出身とかで、タイで一番古い、伝統のある大学で、日本ならば、さしずめ東京大学ってところか。来日したばかりの彼女、当然ながら、日本語は、ほとんどダメで、それでも、ま、なんとかなるだろう、と両親に預けて、出かけた。

一か月ぶりで帰宅したら、パチャリさん(彼女の名前)はまだ我が家に居候していた。ところが、である、びっくり、本当にびっくりだった。日本語がかなりうまくなっていたのだ。ヒアリングも、会話もなかなかで、母親とは、普通にコミュニケイトしているではないか。

「おはようございます」、「いただきます」、「行ってきます」、「今日は、早く帰ります、夕食、いただきます」、なんともいえない、いい日本語なのだ。おかげで、家中が、いい日本語で話さねばならない状況になっていた。寝る前には「おやすみなさい」、なんて、めったに言ったことのない挨拶まで、していた。我が母親の特訓に、すっかりはめられた。

パチャリさんは、我が家に居候した期間、母親のアドバイスで奨学金を近くの郵便局に預けさせられ、夏休みには、北海道や広島などへの旅行を楽しんだ。たしか、上智大学で学んでいた。その後、貯めたお金を持って、アメリカに留学。

しばらく経って、再会。都内のホテルで開かれた国際会議に出席していた際に、タイの代表の席に、パチャリさんが座っているではないか。出席名簿を見ると、たしかにパチャリさんだった、チュラロンコン大学の教授とあった。休憩時間に再会。彼女もびっくりしたようだったが、わたしもびっくり。彼女の第一声「お母さん、お元気ですか」、だった。母は亡くなったというと、「お父さんは?」、と。きれいな日本語だった。父は、元気ですよ、と言うと、よかったです、と。奇遇というか、すばらしい再会だった。

その後、バンコックを訪れた際に、パチャリさん一家との再々会も実現。こんなことってあるんですね。