イスラエルは、長い国際体験で、はじめての国だった。イスラエルへは、今は、アテネ、パリ、イスタンブール、ローマなどヨーロッパの都市経由で行くことが出来るが、日本からの直行便はない。なのに、1964年、はじめてのイスラエルは、エア・フランス の直行便だった。羽田空港出発時には、家族は来なかったが、友人たちが見送ってくれた。
その後、なんども、なんども、イスラエルを訪問した。ヨーロッパに出かけた折には、イスラエルへ、という具合に。だから、友人たちも沢山いた。
1回めの留学時、聖書にも出てくるタボール山を一周するマラソン大会があり、出場。ここで会ったのが、ナッション。お巡りさんで、テルアビブ郊外の町ホーロンに住んでいた。髭がかっこういいお巡りさんで、ブロークンだけれども、フランス語、イタリア語、アラブ語、もちろん英語もOKのお巡りさんだった。「タランテ」と呼ばれていたメイドイン ハンガリーの小さなポンコツ自家用車で、あっちこっちへ連れて行ってくれた。なんかトラブルがあると、「私は、こういう者だ」、と警官証明書をちらつかせた。それにしても、イスラエル中の聖書に出てくる史跡など、ほとんど、彼の案内で見て廻った。
お礼に、ナッション夫妻を日本に招待したこともある。奥さんは、ノープロブレムだったけれど、旦那のナッションは、日本食の刺身が、ダメだった。現役を引退して、指圧の学校へ行き、国家試験に合格したことを知らせると、なんと、英語の名刺を送ってくれた。引退したので、名刺がなくなっただろうから、と、名刺のプレゼント。でも、英語なので、日本では、使えないことに、気づかなかったのかも。
ホーロンのナッション家の隣りが、国立の高齢者施設で、「あの人は、ゴルダの旦那さんだよ」、とある日、木立の日蔭の椅子に座っている老人を指して、ナッションが言った。あの方は、有名なゴルダ・メイア首相のご主人、と言われるのが原因で、精神が異常になったんだよ、とも。
ゴルダ・メイアには、イスラエルで会ったことはなかったが、デンマークのコペンハーゲンで会った。場所は、スーパーマーケット。同じ国際会議に出席していたが、会ったのは、スーパで、彼女は、秘書(おそらくSP)らしき女性と一緒だった。顔は認識していたらしく、「シャローム」とヘブライ語で挨拶をすると、「シャローム」といい、「あなた、イスラエルに行ったことがある?」、と訊かれたので、留学していたことがある、というと、ちょっと、お茶しない、とコーヒショップに誘ってくれた。なにを話したか、どれくらい話したかは、覚えていないが、とにかく、コーヒーをご一緒したのは、覚えている。その後、外務大臣になったシモン・ペレスさんに、ゴルダさんとコーヒーを飲んだ話をしたら、「珍しいことだよ、彼女は、それほど外交的ではないんでね」、とのこと。その後、イスラエルの本(訳本)を出した際に、ゴルダ・メイアさんに巻頭のことばをお願いしたら、写真と一緒に送ってくれた。あちらは、覚えていてくれたらしい。
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