2021年11月22日月曜日

ちょい乗り 秩父鉄道

 ちょい乗り旅に出るには、ちょっと遅い時間(10時すぎ)だったが、西新井駅へ。秩父あたりが、紅葉がきれいらしいというので、それじゃあ、と出かけた。東武線(スカイツリーライン)で、館林行きに乗車。羽生駅下車。秩父線の始発駅だ。もちろん、何度もきたことがある。

ここから熊谷駅を経由して、秩父影森まで。羽生からは、3両編成で、乗客は、3名。時間が時間なので、少ないのはしかたない。それにしても、客が少ない。スイカが使えないので、無人駅は少ない。途中、行田駅で高校生の一団が乗車。満員になるほどなのに、静かだ、ほぼ全員、スマホに集中している。これだけ大勢がスマホを操作しているってことは、全員が、スマホの会社に、毎月、お金を払っているってことになる。稼いでいない人たちなので、親の負担。スマホをやっても、なんの収入をも生まないので、ただただ浪費するだけなのに、変な社会になったもんだ。

熊谷駅で、ほぼ全員が下車。列車は、このまま秩父まで走るが、乗客は数名。この路線もじきに廃線になるのかも。12時すぎだが、このまま乗車。実は、熊谷駅で、名物のうどんをたべたかったが、下車すると、次の列車まで、30分ほど待たねばならないので、まっすぐ行くことにした。

熊谷市内を走り、しばらくして、荒川土手を左にみながら往く。沿線の家、家には、なぜかゆずの木が多い。黄色に熟したゆずが、鈴なりだ。寄居を過ぎた頃から、秩父の山々が見えてきた。枯れた茅の白い穂先が、風に揺れている。秋ですね。

長瀞を過ぎ、西武線の秩父駅を過ぎた頃から、秩父らしい景色になった。といっても、全山紅葉ってわけではなく、もうちょっと先かな、という感じ。このあたりは、秩父34霊場巡りで、歩いたことがある。4回も歩いた。だから、どこら辺になにがあるか、どの寺か、詳しいのだ。影森駅に着いた時、乗客は、全部で、6名。

折り返しの羽生行きの列車で、戻る。実は、西武線で、池袋経由で、帰宅するつもりでいたのだが、熊谷駅のうどんが気になり、そのまま戻った。今朝の東京は、晴れたいたのに、午後の秩父は、曇り空。

熊谷駅下車、まっすぐにうどん店へ。8人しか入れない店なので、食事時には、行列ができる。時間がづれていたので、座席は確保できた。先客5人。待つこと10分で、うどんがきた。もちもちのうどん、かつお節の汁、これがうまい。このうどんのために、熊谷駅で下車したことは、多い。ずいぶん、あちこちで、駅うどんを食べているけれど、熊谷駅のうどんは、絶品だ。昼抜きだったので、とにかく、うまかった。

帰りは、高崎線で、上野まで。ボックスシートつきの区間快速に乗車。さっき食べたうどんで、今回の旅は、「最高だった」。秩父鉄道・羽生~影森62.9k。




2021年11月21日日曜日

日本全国、モノレール巡り

昨年、千葉市のモノレールが、ギネスブックに載っているというので、見に行った。そのノリで、湘南モノレール、多摩都市モノレールへも行ってみた。今回は、日本全国、どこにモノレールがあるのか、走っているのかを、調べてみた。

モノレールは、懸垂式=ぶらさがる、と、跨座式=またがる、 の二種類がある。いずれもドイツ製。( )は、距離。

東京モノレール(17.8)跨座式   湘南モノレール(6.6)懸垂式         

多摩都市モノレール(16.0)跨座式 千葉モノレール(15.2)懸垂式

舞浜リゾートライン(5.0)跨座式  スカイレールサービス(1.3)懸垂式

大阪モノレール(28.0)跨座式    北九州モノレール(8.8)跨座式

沖縄都市モノレール(17.0)跨座式

東京モノレールは、浜松町から羽田まで、スカイレールサービスは、広島駅から、大阪モノレールは、大阪空港から、北九州モノレールは、小倉駅から、沖縄都市モノレールは空港から、唯一の沖縄の鉄道。

実は、現役ではないけれど、姫路駅からも、モノレールがあった。1966年に開業したのだが、1967年に廃線に。その跡地を、実際に見たことがある。山陽道を下関から京都まで、歩き旅をした時、姫路駅近くに宿泊。駅近くに、見慣れない建造物があるのに気づいた。コンクリートの細長い塀のようなものが続いていて、その一階部分には、人が住んでいて、飲み屋などもあった。二階から上はなくて、聞いてみたら、元モノレール跡とのことだった。建造物は、姫路モノレールの軌道跡だった。今もモノレール終点の手柄公園には、モノレール展示場があるそうだ。

これらの他に、豊島園、上野公園、名古屋のモンキーセンター、奈良ドリームセンターなどでもモノレールがあった。大阪万博でも、跨座式のモノレールがあった。

現役で活躍している公園モノレール、それは、東京、王子飛鳥山のモノレールだ。48mの距離を16名の乗客を乗せて稼働(跨座式)中だ。その試乗式の日、実は、乗りに行った。ところが、身障者、子ども優先ということで、なんと、2時間も列に並ばされた。無料。今は、渋沢栄一ブームで、記念館のある飛鳥山公園は、混んでいるにちがいない。













 

2021年11月8日月曜日

『タテ社会の人間関係』中根千枝先生のこと

 JICA(国際事業団)時代、月刊誌の編集委員だった中根先生とは、親しくしていただいた。団地のような集合住宅にひとりで住んでおられ、なんどか伺ったことがある。こんな会話をしたのを覚えている。

「先生と、私って、似ていると思います?」、と聞くと、「そうね、似ているかな、似ていないかな」、と笑われた。

 実は、中根千枝先生と、間違われたことがあった。

 インドで、どこだったか、「あなた、ナカネ教授ですよね」、とたしか州政府の官僚だったか、役人にいわれたのだ。その頃、先生の著書・タテ社会は、有名になっていて、ベストセラーでもあった。とりあえず、買ったけれど、読んではいなかった。

 インド社会で、フィールドワークをされた先生は、あの広いインドのあっちこっちを歩いており、開発問題を理解していないまま、インド各地を歩き廻っていた日本人女性ということで、間違われたのだった。『タテ社会の人間関係』は、帰国して、すぐに読みました。

 日本の社会が、タテである、つまり、ヨコよりもタテの原理で成り立っているー会社などでも、先輩、後輩の序列が濃厚であるのに、インドでは、ヨコのつながりが強い、そういった内容の本だった。もちろん、日本国内でのフィールドワークもしっかりされたいる。

 東大教授で、文化勲章受章など、女性の研究者として、活躍された。『タテ社会、』はイスラエルのテルアビブ大学の図書館にもあった(英訳)。

 10月12日、中根千枝先生、94歳で亡くなられた。



 

2021年10月16日土曜日

人出の日光、ちょい旅

テレビで、北海道や東北の紅葉が伝えられ、それを見ていたら、こうしている場合じゃない、行くしかない、といつものように勝手に決意。10月15日朝、天気もよさそうだし、と6時半に神明町を出た。

朝7時。北千住駅の自動券売機の前で、一瞬、考え込んだ。どうするか、バスで湯元往復するか、それとも、わたらせ渓谷鉄道 にするか。金曜日だし、曇り空なので、そう人出は、ないはずだ。と、「大丈夫ですか」、と声がかかった。後ろをみると、駅員さんが立っていた。「ええ、まあ・・・」というと、「どこまで行きますか」、「日光まで・・・」というと、手に持っていたスイカをとって、券売機に挿入し、プツン、プツンと数字を押した。直通の特急は、1時間ほど待つけれど、下今市駅で乗り換えれば、7時42分のスペーシア「きぬ」に乗れる、という。切符を受け取りながら、よく見ると、駅員さんの制帽に赤い線があった。えっこの人って、駅長さんだったんです。恐縮して、最敬礼で「ありがとうございました」。

7時42分発の「きぬ」特急に乗車。到着した電車は、がらがらだったが、北千住駅でかなりの乗客。山歩き、観光客が8割ほど、なかには、7,8名の団体さんもいた。

車窓は、いつもながら楽しい。本なんか読んでらんない、スマホなんかいじってらんない。コスモスが満開だ、すすきの白い穂が風に揺れている、色づいた柿の実・・・

8時10分、東武動物公園駅通過、100人くらいの行列、通学のバス待ちの行列だ。ソーシャルデイスタンスをとっているので、列が長くなる。利根川を渡る。茨城県だ。1ダースほどの白鷺が、稲刈り終えたばかりの田んぼで、餌をさがしている。左に大平山、ぶどうの産地だ。梨も栽培している。しばらく、葉っぱが黄色になった豆畑が続く。ここら辺の蔵は大谷石が多い。

そうこうしているうちに下今市駅着。ホーム反対側の日光行に乗り換え、10分ほどで東武日光駅に着いた。途中、JR日光駅を通過、こちらは、立派な駅舎で、皇族ご使用の駅だった。

まっすぐバス停へ。日光のバスは、観光バスではなく、定期バスで、スイカ使用なのだ。待つこと20分。行列は、120人ほど。えっ、こんなに。結局、臨時バスが出たっぱいの乗客を乗せ、いろは坂へ。華厳の滝で20名ほど降りたけれど、同じくらい乗ってきた。乗ったり、降りたりを繰り返しながら、バスは、中禅寺湖畔を往く。空は、しっかり晴れてきた。男体山もよく見える。三本松、戦場ヶ原、光徳牧場などを経由、終点の湯本温泉の手前で、ほぼ全員下車。ここで湯滝見物へ。金精峠への道でもあるので、交通渋滞で20分ほど待たされる。

湯の湖の周辺のベンチは、ほぼ人でいっぱい。夏の上高地のようだ。11時10分、湯元に到着。10分後のバスで戻る。始発時は、3人だったが、途中は、団体さんや、ゴロ引きのトランクを持った観光客も乗り降りし、道路も混雑しているし、コロナ禍になってから、初めて、こんなに多い人間に会った。

宇都宮から来たという男性(70歳くらい)が、隣りに座った。中禅寺湖の遊覧船に乗るつもりで来たのだが、学生たちでいっぱいなので、やめた、と話していた。

ようやく振り出しに戻った。駅のホームのベンチで、持参のおにぎりを食べ、北千住へ。






2021年10月4日月曜日

お台場で屋形船

緊急事態宣言が解除され、だめだったことが、出来るようになった。その中に、屋形船の解禁も含まれており、女船主が、和服姿で、「感染予防をしっかりやっての営業、安心して、是非お越し下さい」、と言っていた。屋形船といえば、昨年、新型コロナ騒ぎの初っ端だった、お台場の屋形船から始まったのを思い出した。ずいぶんと昔のことだったよう思うけれど、まだ去年のこと。

で、屋形船の思い出。

いつの頃だったが、まだ現役時代。屋形船を借り切って、お台場の遊覧をしたことがある。ことの始まりは、友人のひとりKと、ある日、お台場が見える飲み屋での話。屋形船が通りすぎるのが見えた。

「屋形船、なかなか粋だね」、

「お酒なんか、いただきながら、海から東京を眺める、いいんじゃん」、

という会話から、屋形船を借り切る話になった。

Kは、深川の住民、こちらはといえば、銀座生まれ、話は、すぐにまとまった。どちらかといえば、Kは、遊び人。大学時代は、ダンス同好会で、女性にかなりもてたとのこと。当時、まだ始まったばかりのカラオケで、フランク永井の歌を得意としていた。車を所有していて、都内の移動は、自家用車、っていう人間。屋形船の段取りは、Kがやってくれた。

だれをよぶか、共通の友人たち数名に声をかけた。「招待」することにした。その後で、船主に交渉。結構な費用がかかるが、ま、「招待」すると言ってしまったので、もう後にはひけないな、と。

で、当日になった。たしか、品川あたりの船乗り場、友人たちが、やってきた。うちの奥さんも連れたきたよ、外国人の友人が、是非というので、などなどで、10名くらいのつもりでいたのに、なんと、40名ほどになっていた。船が出る前に、船主さんから、人数分の保険をかけて欲しいといわれ、書類にサイン。

さらに、人数が超過したので、2名、減らさなければ、というのだ。全員、乗船した状態で「降りて下さい」というわけにもいかず、船主側のスタッフが2名、下船することになった。2名は、船の中で料理した皿運び。屋形船は、予定通り出航し、主催者のふたりが、食事の皿を運ぶというはめになったのだ。屋形船の名物「東京湾のはぜの天ぷら」、揚げたてのはぜ天は、乗客のみなさん、とっても喜んで下さいました。

屋形船は、予定通り3時間ほどかけて、お台場あたりを運行した。乗船のみなさん、下船時、「ほんとうに、ありがとう」、「料理もおいしかったし、海からの東京ナイト、最高でしたよ」、なんて感謝されましたが、こちとら、はぜ天も口にせず、にこにこしながらの皿運び、なんとなく複雑な気持ちだった。

結局、屋形船の貸し切り代、保険料金、ひとりで、払うことになり、お金を貸してくれた友人に、3,4か月かけて返済したのだった。


2021年10月2日土曜日

10月になりました。

 緊急事態宣言が解除されたけれど、「あーよかった」って感じにならない。朝4時半、まだ、あたりは真っ暗なのに、3POへ。習慣で、マスクをつけてしまう。昨日と、今日で何が変わったのだろう。テレビのニュースは、まちにまった営業開始、と飲み屋さんが、グラスを洗ったり、動物園の動物たちが、緊張気に檻の中を歩いていたり、羽田空港や、東京駅、新宿駅などの客足の映像を映している。

新聞は、見開きページで、観光案内。北海道から沖縄まで、観光地がずらり。添乗員つき、特典つき、特別料金で、お客さまを歓迎、とある。紹介されている観光地、これまでに、ほぼ全て行ったことがあり、あまり行きたい気がおきない。十和田湖の紅葉、なんていうのもあったが、今は、行きたくない。日本中、ずいぶん、あっちこっちへ行ったもんだ。

そうそう、新幹線の2階建て車両が、廃止とがるとか。なんどもお世話になった。最近は、コロナで乗客が減った新幹線、とれたての魚や、野菜などを産地から直送しているとのこと。コロナで、新しい使い道がでてきたようだ。

白鵬が引退。そういえば、白鵬のお父さんに、ウランバートルで会ったことがある。10年ほど前だったか。青年海外協力隊の隊員だった男性が、日本式のケーキ屋さんを開店したとかで、見に行った時のこと、そこで会ったのが、白鵬のお父さんだった。お父さんもモンゴル相撲の力士で、オリンピックの銀メダリスト。相撲の力士、印象として、大男ではなかった。「息子が、日本で力士なんだよ、知ってるかい」、というので、「知ってるよ、有名だよ」、というと、「よろしくね」と握手をしながら、なんども、なんども言っていた。モンゴルの力士、今では、多いが、当初、旭鷲山がいた。日本で稼いだお金で、両親がスーパーを経営していた。朝青龍は、ホテル経営者として、財界では、有名人だった。いっとき選挙に出るらしい、という噂があり、実際に、ウランバートル市長の選挙集会に行った時、朝青龍の姿があった。そんな中、場所の中継を見ることが出来るテレビに、白鵬が出るのを、多くの国民は、楽しみにしていた。空港から市内へ向かう道路には、白鵬の大きなポスターが立っており、母国モンゴルでは、朝青龍よりも、白鵬人気が上だ。

台風一過で、本日は、快晴。秋、真っ盛り。






2021年9月23日木曜日

2021年9月2日

2021年9月2日

ここのところ、毎朝の楽しみが、NHKテレビの『プロアドベンチャートラバース』という番組。日本全国の山を全て歩きで登りまくる、という番組だ。100名山、200名山などがあるけれど、今、やっているのは、300名山。プロのいわゆる山屋(やまや)さんが、西からひとつづつ頂上をクリアしてゆく。飛行機、電車、バスなどいっさい使用せず、ただ、ただ歩く、海はカヤックを漕ぐ。昔、昔、自分もやっていたことなので、やたら楽しい時間。

わたしのアドベンチャーは、南アルプスから北アルプス。南アルプスでは、静岡の清水から車道を歩いて、光岳(てかり)に登り、南アルプスの山々をピークハント。南アルプスは、小屋が少ない(当時)。だから、明るいうちに小屋に着くような行程だったので、ほとんど駆け足登山だった。

今の山登りのように、スマホGPSなどなく、紙の地図が頼りだった。里に下りると、食料をゲット、水たまりの「水」まで飲むこともあった。

南アルプスから北アルプスへは、焼岳から入った。焼岳を降り、上高地に一泊。北アルプスは、3~4時間歩くと小屋があった。穂高、槍ヶ岳、常念から餓鬼岳に。たまたま小屋に電話があったので、東京に電話をすると、勤務先から至急職場へ、との連絡があったとかで、この旅は、終了。わたしのアドベンチャートラバースは、終わった。頑張って立山を越えて、日本海に出るという夢は、実現しなかった。

そうそう、南アルプスの北岳直下の小屋に泊まった時のこと。ヘリコプターが小屋にピストンで、なにかを運んでいるのを目撃。遭難救助ではないようで、小屋のバイトさんに聞くと、「皇太子が今夜泊まるんで、それでいろいろ運んでいる」との情報。お付きの人、警護のおまわりさん、マスコミなど、多くの人たちが泊まるので、と。ワインの箱もあった。バイトさん曰く、「あのね、様式トイレもあるんだよ」、と。そういえば、皇太子さん(今、天皇陛下)は、日本山岳会の名誉会員でした。 

2021年9月22日水曜日

敬老の日 9月20日 久々の乗り鉄、乗りバス

9月20日、祝日。自分が主役の「敬老の日」。83歳だから、文句なしの主役だ。昨日、神明町の町会から、のど飴、コンビニ券(500円)、賞味期間2年の飲み水、の3点が贈られた。飲み水は、災害用として備蓄してあったものらしい。高齢になると、のど飴か、これって偏見? というわけで、敬老されました。

20日朝、いつものように4時起床、3POに行ったり、般若心経読んだり、エアロバイクを、漕いだりして、朝食。朝刊に目を通しながら、お天気もいいことだし、どこかへ行くか、と、JRの時刻表をだす。連休なので、人流で混んでいない所がいい。東京でも、東の端の足立区から、新宿や、東京へは行きたくない。緊急事態なのだ、行くべきでない。越境はするけれど、東へ行こう。

ということで、神明町発八潮駅行きのバスに乗車。8時10分だった。休日なので、乗客2人。神明町の先は、埼玉県なので、シルバーバスは使えない。20分で駅に到着。すぐ来た電車に乗った。TX(つくばエクスプレス)に乗るのは、久しぶり。こちらも、乗客は少ない。守谷駅で下車。筑波山が左前方に見える。常総線に乗り換える。こちらは、1時間に3本、しばらく待つ。待つ人は、5人。やってきた電車は、一両編成。途中駅での乗り降りは、少ない。田んぼの稲は、刈り入れ時で、もみがらを舞い上げながら、コンバインが走っていた。農家の柿の実は、うっすら色づいており、秋の風景。のろのろ走る一両の電車から、外の景色を見るのが、なんともたまらない。スマホなんか、見ていられない。(といっても実は、スマホ、持ってません)。

取手駅に着く。この先は、下館まで関東鉄道、その先の茂木駅までは、真岡鉄道で、なんどか乗ったことがある。取手駅は、常磐線で、綾瀬駅までは、千代田線も通っており、ここから帰るか、と独り言をいいながら、駅ビルを出てみた。と、目の前に停まっていたバス、行く先が守谷駅、とあった。乗ってみよう、と。さっき常総線で乗った守谷駅、バスで行ってみよう、と発車間際に飛び乗った。なあんだ、客は、2人っきり。も一人さんは、途中で下車されました。

路線は、ほとんどたんぼ、畑の中の狭い道路。秋景色の中を、貸し切りバス並みの客ひとりっきりの路線バス。関東鉄道バスの中には、「私は、安全運転に努めます、〇〇〇男」と書いた証書が、写真つきで貼ってあり、ずいぶんとあちこちの路線バスに乗ってはいるが、こんなの見たのは、初めて。それにしても、客、ひとりでは、経営も楽じゃあない。

途中、小早川の橋を渡る。ここら辺には、戸建ての家が多い。洪水の被害があった所だ。竹藪の中の道わきに、今、テレビ出演で忙しい、自民党の次期総裁選挙の候補者K氏、地元候補者とのツーショットポスターがあった。そっか、もう総裁に、首相になるとの見通しか。終点の守谷駅に近づいた頃、男性ひとり乗車。守谷駅周辺は、新築の戸建て住宅が多い。TXをアテにした都心への通勤者なのだろう。約50分の乗車で、760円だった.

朝、乗った八潮駅経由で、神明町に戻ったのは、12時半だった。半日の敬老の日のちょい旅、結構、楽しかった。







 

2021年9月18日土曜日

実りの秋(その2)

 夕べの雨で、金木犀の花が、地面を真っ黄色に。

本日は、モノレールの日なんだそうです。1964年、オリンピックの年、日本ではがめて、モノレールが開通、浜松と羽田間。モノレールは、今は、国内にいくつかある。そのひとつ、千葉の市営モノレール、これが、一本のレールで、ぶら下がった形で走っているというので、見に行ったことがある。ふつうは、上ではなくて、レールは、下。実物を見て、確かめて、感動した。

実りの秋、といえば、絶景の秋を見に行ったことがある。5,6年前だったが、新潟から日本海がわを走る羽越本線に乗って、山形へ。鶴岡から、酒田を通って秋田までの「乗り鉄」。お目当ては、鳥海山とたわわに実った稲田。刈り取り前のたんぼと、鳥海山、額縁に入れたような、いい景色を堪能。今でも、はっきり覚えている。

田んぼ作業、田植えから、刈り取りまでを、体験。群馬県の碓氷峠近くの村に親戚があり、父方のお姉さん(叔母)の家。臨済宗の寺で、江戸時代から続く古刹で、地域では、知られた寺。土地持ちで、寺の前は、一面のたんぼ、裏には、竹藪と山があった。その田んぼで、田植え、夏の草取り、秋の収穫を手伝った。東京の銀座の実家から、ちょくちょく出かけた。採れたての新米で作った「味噌むすび」の味は、今でも忘れられない。寺の庭からは、まん前に」妙義山の山並みが、西には、浅間山がどっかり見えた。妙義山に登った時、寺の赤い屋根がよく見えた。

今、毎年、仙台から送られてくる「新米」を、食べている。四国遍路でお会いしたwさんが、梅干と新米を送ってくれでいるのだ。もう10年ほどになる、とにかく「生きているうちは送るね」、と。

「柿」は、法隆寺産。サンチャゴ・コンポステーラ、シベリア鉄道の旅、国内でも熊野古道の旅などで、いつもご一緒の旅友Mさん、奈良の斑鳩町に住んでいる。まさに「法隆寺の柿」だ。神明町のご近所さんたちも、「今年は、まだかい」、と声がかかるほど。秋の味覚、法隆寺の柿。



実りの秋(その1)

台風が、対馬沖あたりで、とどまったままとか。その影響で、関東も大雨との予報が出ている。テレビの天気予報、それとニュースが好きなんです。必ず、見る。各地の秋の収穫が伝えられている。もう、あの暑い夏は、過ぎたのだろうか。金木犀(きんもくせい)の香りが、朝の3POコースで、匂っている。

スーパーの店頭では、野菜、果物が高値でならんでいる。ぶどうなんかは、1000円もする。柿だって、3個で500円。梨、400円。

ぶどう、桃は、ずいぶん食べた。自分たちで、お手伝いした農園のぶどう、桃。山梨の勝沼のぶどう、桃の生産者Sさんの農園で、どちらかというと、押しかけボランティアで、7,8年通った。冬の枝切り、草とり、摘果、袋掛け、収穫と、年間通じての作業、山梨へ通った。朝、7時15分の新宿発あずさで、山梨市へ。午後、4時頃のあずさで帰途につく、の日帰りボランティアだった。大菩薩峠、秩父連山、富士山もときどき見えた。脚立に乗って、深呼吸すると、ああ、いい空気、といつも感じた。桃、ぶどうは、神明町のご近所さんに販売したこともある。だから、スーパーの桃、ぶどう、食べたがらないのだ。

「りんご」は、青森。長野でもとれるけれど、やっぱり青森だ。たまたま知り合った青森は、浪岡町のUさん、りんごの生産者だった。りんごの収穫までのほぼ全ての作業をやった。冬は、木に積もった雪おろし、春は、白い花の咲く頃、りんごの木の下で、「りんご追分」を歌ったこともある。収穫時、一本の木になっているりんご、あまりの多さに、うんざりすることもあった。上野発の寝台車で、寝て、起きると青森。3,4年、続いた。ねぶた祭では、りんご作りのご近所さんたちと、はねたこともあった。


2021年9月13日月曜日

パラリンピック

 

2021年9月5日

パラリンピック、今夕閉会式、いよいよ終わる。が、パンデミックは、いまだに終息の気配は見えない。オリンピックの開会式は、見たが(勿論、テレビで)、閉会式は見なかった。本日、午前中のマラソンは、見た。走る選手たちを見ながら、すごい、と実感。

あれは、今から50年ほど前のことだった。いつものように、ヨーロッパの出張先から、イスラエルへ。初めての留学先だったイスラエルへは、毎年のように出かけていた。唯一の空港であるテルアビブに到着すると、黒装束の大勢の人たちが空港内におり、出迎えてくれた友人も、黒のネクタイをしている。いつも開襟シャツなのに、ネクタイ、それも黒い。どうしたの、と聞くと、オリンピックに参加のイスラエルの選手たちがテロに殺害された、という。いわゆる、ミュンヘンオリンピックのテロ事件で、11名のイスラエル選手たちが殺され、その遺体が空港に帰ってきたのだ。出迎えの国民たちの前を、国旗でくるんだ棺が、次々に運ばれていくのを目撃した。そういえば、今回の東京オリンピック開会式で、ミュンヘン事件で亡くなったイスラエルの選手たちへの黙祷が行われた。その後、テルアビブ空港は、イスラエル初代大統領の名前、Ben-Gurion空港となった。

テロ事件といえば、中東などで活動していた赤軍派に間違えられたことがあった。乗り換えのために、フランクフルト空港に降りた時のことだった。ゲートを出ようとしたら、引き止められ、別の部屋へ連れていかれた。手荷物検査はじめ、服を脱がされ、靴も脱がされ、髪の毛の中まで指を入れてのチェック、それほど長い時間ではなかったが、丹念な取り調べだった。係官は、女性だったが、調べ終えたあと、男性の係官から、日本赤軍派の重信房子を探しているので、との説明だった。このことを、ボンで会った社民党の幹部のひとりウィリイ・アイヒラーさんに話すと、後になって、「あの時は、たいへん失礼なことをした、すまなかった」、と時計をいただいた。スイス製のオメガだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月12日日曜日

2021年9月12日

 

2021年9月12日

紫色の朝顔の花、今季最後の花が、散った。暑い日が続いたわりには、長持ちした。大きな木の陰だったからかもしれない。

この朝顔は、数年前、木曽路の南木曽駅(なぎそ)でわけてもらったもの。高齢者グループを連れての中山道の歩き旅の南木曽駅のホームで咲いていたもの。旅から帰って、写真を見ていたら、駅の朝顔がとってもきれいだったので、駅長宛てに手紙で、わけて欲しい、と所望。さっそく送ってくださった。毎年、毎年、きれいに咲いている。

近年、鉄道の駅が、無人駅化しており、しかし、だれかが管理しているらしく、駅ホームには、花壇があり、花が咲いている。

最近、乗車した北陸本線は、ほとんどが無人駅だった。一年前の数字だが、全国の無人駅は、9465のうち半数以上の4564駅だという。昔は、いわゆるローカル線では、無人駅が多かった。運転手だけのワンマン車も多い。ICカードが復旧したことも原因だが、鉄道を利用する人が、激減したからだ。地方で、列車・電車に乗ると、朝、午後、の乗客は、通学の学生さん、それ以外の時間帯では、ひとケタで、これじゃあ、無人駅、無理もない。

飯田線の善光寺駅へ行った時のこと。善光寺へ行くために下車。駅に戻ったら電車が出たばかりで、昼の時間帯だったことから、次の電車がなかなか、こない。靴下を駅トイレで洗って、干したら、乾いた。停車しない急行列車の運転手さんが、スピードを落として、ホームにいた私たちに、手を振っていたっけ。ところで、善光寺というのは、山梨県の甲府市、長野市の善光寺さんの3寺だが、全国には、100くらいの善光寺がある。

九州の松浦鉄道に乗った時、平戸駅で下車。無人駅だったが、駅舎の掃除に来ていた女性が、お茶を入れてくれた。ボランティアとのこと。

無人駅でも、図書館になっていたり、喫茶店コーナー、床屋さんもあった。いろいろ利用されているのは、いいけれど、なんだかさびしい。切符を売らない駅、通過列車に旗を振る人がいない駅、が増えている。それよりも、乗る人、降りる人のいない駅が増えたいるというのが、現状だ。

 

2021年9月11日土曜日

2021年9月11日

2021年9月11日

マスコミというのは、ほんとうに変わり身が早い。まだ何日もたっていないのに、オリンピック・パラリンピックの話題は、皆無だ。自民党の総裁選挙の話で持ちっきりだ。

オリパラについては、どちらかというと、パラリンピックの方が感動が多かった。もちろん、うちテレでの観戦だが。その事で思い出すことがある。

原稿を頼まれて、初めて九州へ。大分の外科医の中村英次郎先生が、障害者スポーツ大会を主催していているので、取材することになったのだ。中村先生が

イギリスに留学され、そこで会ったのが、ルードヴィヒ・グッドマン博士、博士は、パラリンピックの提唱者で、整形外科の先生だった。その教えを受け、帰国後、日本でも障害者のスポーツを、と始められた。日本の「パラリンピックの父」といわれている。地元大分では、すでに障害者スポーツ大会を開催していた。いろいろ話を伺い、帰り際に「こんど東京で、国際大会が開催されるので、是非、ボランティアをして下さい」、と中村先生に言われた。

東京オリンピックが行われた1964年の11月、パラリンピックが行われた。

中村先生が、日本団の団長さんだった。大分で、言われたことが、気になり、あちこち電話をして、パラリンピックのボランティアを仕切っているのが、青少年赤十字という団体であることがわかった。代々木公園にあった事務局へ行き、赤十字語学ボランティアチームに入れていただいた。橋本裕子先生という方が、チームのボスで、もちろん、英語ペラペラで、先生の周辺には、語学達者な若者たちが、たくさんいた。手伝ったのは、3日間だったが、車椅子を自由自在に操る選手たちを身近に見た、はじめての体験だった。その後、目の不自由な人、視覚障害の人を、後ろに乗せて走るタンデム乗りのボランティアを月1回、2年間だったが、体験したことがある。タンデム、二人乗りの自転車。

1964年に会った語学ボランティアのひとりに、20年ぶりだったか、会った。彼は、その後、外務省に入り、海外の日本大使館に赴任、最後は、ネパール大使をされた。パラリンピックの語学奉仕で活躍、その体験を生かし、後には、日本の外交での活躍をされた。

もひとつ、あの1964年のパラリンピック大会の際、皇太子妃の美智子さん(現上皇后様)が、手作りのクッキーを、ボランティアのたまり場に差し入れて下さり、みんなすぐに食べずに、紙につつんで、持ち帰ったのを思いだした。

1964年のパラリンピック、21か国、378名、今回は、161か国、4403名、の参加者だった。 

2021年9月9日木曜日

2021年9月9日

 

2021年9月9日

毎朝恒例の3POの時間帯には、霧雨程度だったが、6時すぎから、大雨になり、午後2時頃まで、降り続いた。それでも、午前中は、雨の中を出かけた。

帰ってきて、テレビをつけたら、今どき珍しい光景。帽子を被った麻生太郎さん、自民党の副総裁。前後の護衛さんに囲まれて、国会内を歩いていた。男性が、帽子を被る、最近、ほとんど目にしない光景だ。アメリカの西部劇など見ていると、ガンマンが、帽子を格好良く被っている。いつから、被らなくなったのか。

万年筆の続き。

横浜の神奈川近代文学館で、たしか2012年だった、「作家と万年筆展」というのがあった。向田邦子、吉川英治など15,6名の作家の生原稿の展示があった。作家というのは、原稿用紙に一字、一字、こうやって書いているんだと、いたく感動した。あれから、10年くらいしか経っていないが、今、万年筆で原稿用紙に書いている作家さん、どれくらい、いるんだろうか。

万年筆が、はじめて日本にきたのは、明治28年(1895年)で、輸入先は、日本橋丸善。日本最初の万年筆は、ウオーターマンだった。だから、いまだに、「万年筆フェア」をやっている。その万年筆を愛用していたのは、夏目漱石。漱石さんは、万年筆を「まんねんふで」と呼んでいた、と。そういえば、永井荷風は、原稿を筆(毛筆)で、書いていた、とある(文房具の歴史)。

万年筆は、今も、条約などの現場で、使われており、ちょいと調べてみた。

   ポーツマス条約の調印、パーカー・アメリカ製 1905年

   第一次世界大戦終了のベルサイユ講和条約調印、

ウオーターマン  1919年

   ロンドンでの海軍軍縮条約 日本製パイロット 1930年

   ドイツが負けた第二次世界大戦終結の調印

                パーカー     1945年

   東西ドイツ統一条約の調印 モンブラン    1990年

   戦艦ミズリー号の日本帝国降伏調印式では、用意されていたのは、アメリカ製のパーカーだったが、日本全権大使重光葵は、自分の上衣の

     ポケットから取り出した愛用のパイロット万年筆でサイン。

これも、「文房具の歴史」(文研社)にあった。そういえば、トランプ全大統は

万年筆ではなく、ボールペンで、大きな文字でのサイン、だった。

2021年9月8日水曜日

2021年9月8日

 

2021年9月8日

太陽の出る日が少ない。本日も曇り。

日本橋の丸善から、「秋の万年筆フェア」のお知らせがきた。9月15日から一週間開催。毎年、この時季に行っている。今年は、仙台の万年筆づくりの方の実演があるとのこと。名の知れた万年筆づくりの職人さんだが、とにかく値段が高い。限定3本というこだわりの万年筆、その値段は、110、000円とある。ボデイが竹をイメージした、緋、碧、翠色の三色のエボナイト製で、漆を載せているという技法。毎年、行っているが、眺めるだけだ。少しづつ処分してはいるが、在庫100本くらいかな。万年筆歴は、長い。小学校5年の時に、買ってもらった。その時、日記帳と一緒に親から与えられ、それ以降、万年筆で日記を書いてきた。日記は、適当な時季に処分してはいるが、10年間くらいは、とってある。

アメリカに留学した時は、大学周辺の文房具店でパーカーを、フランスでは、カルチェラタンのユダヤ人経営の文房具店でモンブランを、フランクフルトでは、ペリカンを、という具合に買いためた。そうそう、中国では、あの頃、流行っていたヒーロー(英雄)を、あまりの安価だったので、10本、20本も購入し、友だちたちに配りまくったこともある。中国製のヒーローは、キャップがステンレスで、ボデイ、ペン先は、アメリカのパーカーのイミテーションだった。書き味は、固くて、長い時間の使用は、くたびれた。

モスクワのクレムリンで会ったブレジネフ書記長は、ペンテルのあの緑色のサインペンを使っていた。日本製ではなく、フランクフルト製だった。ワシントンのホワイトハウスでは、なぜか、「ホワイトハウス」名入りの、消しゴムつきの鉛筆で、こちらも名入りのメモ用紙と一緒に、おみやげに頂いてきた。

引退してから行ったカザフスタンのアルマトイで、本屋兼文房具店で聞いた話「学校で使う子どもたちの筆記具はじめ、筆記具は、一切、輸入品」だそうだ。

そういえば、パーカー、ロンソン、オメガは、紳士の三種の神器だった時代も。

その後は、モンブラン、ダンヒル、ロレックスという時代もあった。海外出張の際に、是非、買ってきてほしい、と依頼されたこともあった。随分、前のことのようだが、そんな時代もあった。

 

2021年9月7日火曜日

2021年9月7日

2021年9月7日

9月はじめなのに、暑くない。残暑お見舞いをせずまま、秋になるのか。

今夜は、なにを食べようか。毎日、なにを食べるか、午前中に考える、決める。とにかく、外で食事をしない、を守っているのだ。去年は、1年間で2回、今年は、いま9月だけれども、まだ一度も外食はしていない。

朝は、7時に朝食、といっても、バナナにヨーグルト、干しぶどうを20粒くらいまぶす。小ぶりのりんご一個。たべながら、時間をかけて新聞を読む。四紙(朝日、日経、産経、東京、ときどき英紙)、だいたい一時間。

昼は、ごく簡単に、ラーメンとか、パンとか、プラス豆腐など。また前夜のご飯で作ったおにぎり。つまみ喰い程度。

そして、夜は、しっかり料理をする。『失敗なしの、はじめての料理』、『じゃがいも、にんじん、玉ねぎのおかず』の二冊の本が、まあ、アンチョコ。

主食は、そば、うどん、焼きそば、もちろん、ご飯、茶粥、パスタ、すいとん、

炒飯、おじや、カレー、しちゅう、などなど。いちばん、食べるのは、四季を通じて、そば、うどん。これが好きなのです。

そばも、うどんも、旅先で買ったものが多い。最近は、奈良のそばが旨かった。 

茶粥は、三重県で買ってきた茶粥用のお茶を使う。土鍋で米から時間をかけて炊く。梅干、漬物、焼き魚でいただく。これが絶妙にうまい。おかずは、じゃがいも、にんじん、玉ねぎを使ったものが多い。玉ねぎは、特に好きだ。なまのまま、醤油をかけただけで、食べるのもいい。

他に野菜は、といっても、それほど意識はしていないが、食べるように努力している。魚は、干物がいい。肉は、ステーキがいい。週1、2回、それほど食べたいとは、思わないが。人生の前半で、ほぼ毎日外食だったので、これでいいのだ、と思っている。世界各国のホテル食、ずいぶん、いろいろ食べた。だから、最後は、質素な和食、ってことになったのだろう。

自分でいうのも、だけれども、料理の腕は、かなり上がったと、思う。自画自賛。本日は、これから、シチュウを作るつもり。バケットで、たべると最高。

  

2021年9月6日月曜日

2021年9月6日

 2021年9月6日

夕方になると、虫の声が賑やかだ。もう秋。いやいやまだまだ暑さが戻ってくると、長期予報はいっているが。オリンピックも、パラリンピックも終わり、あとは、パンデミック

だけになった。そのパンデミック、新しい首相で、どれほど好転するのか。

この夏の猛暑続きは、半端じゃなかった。どうせ緊急事態宣言下で、ステイホームなので、冷房つけて、うちにいることが多かった。ところが、である。我が家の一大事件発生。

冷蔵庫が壊れた、続いて洗濯機が壊れた、のだ。

普段は、それほど気づかなかったのだが、冷蔵庫って、必要な家具だった。さっそく、昔から我が家のご用達店があり、連絡した。綾瀬駅近くの電気屋だ。なんでも、かんでも大型店舗になっている昨今、個人店の電気屋さんは、ほとんど淘汰され、老夫婦がやっているこの店は、貴重な存在。なにしろ、高校生時代の綾瀬付近の昔話が、共通の話題になる人たちなのだ。

朝、冷蔵庫を開けたら、アイスクリームが、すっかり溶けており、冷凍室の氷が、水になっていた。猛暑続きの日々だったので、とにかく、すぐに新品を持って来て欲しい、と電話した。それでも、三日間、冷蔵庫なしの生活を強いられた。常温でだめになった食料などは、捨てた。いつ持ち込まれるのか、はっきりせず、三日間は、ご飯は炊けたが、コンビニおかずで、しのいだ。新しい冷蔵庫が到着。ところが、新品の冷蔵庫は、半分が冷凍室で、さっそく入れた野菜、バナナ、りんごなどが、朝になって見ると、凍り付いて、真っ黒く変色していた。野菜入れがないことがわかった。しかたなく、野菜入れのあるもうひとつの冷蔵庫を買うはめになった。最近の冷蔵庫は、冷凍ものを入れる人が多いので、大きい冷凍室になっているとのことだった。冷凍ものなんて、ほとんど買ったことがなく、理解に苦しむ。無駄な支出、と怒ったり、反省したりしていた矢先、こんどは、洗濯機が壊れた。

洗濯機は、父親が使っていたもので、かれこれ30年は経っている古道具。元洗濯屋だった父は、自分のもの、家族のものも、当たり前のように洗濯していた。現役時代は、シルクのYシャツなどを常用していたが、洗濯して、アイロンをかけるのは、プロの父親だった。その父が亡くなり、隠居生活に入り、ひとりになって23年間、ずっとこの洗濯機だった。電気屋のご主人は、「よく働いた、充分、モトはとったね」、と新しい洗濯機を持ってきた。

古い洗濯機は、二層式だったが、新品は、全自動式で、洗剤の量、水の量、洗濯物の種類、洗う速度などなど、やたらとボタンがあり、とにかく、複雑なのだ。まだ、いちども、作動していない。明日は、天気になり、太陽も出るらしいので、やってみるか。

2021年9月3日金曜日

2021年9月3日

2021年9月3日

昨日は、南アルプスだったので、今日は、北アルプスのこと。

山歩きをはじめて4,5年経った頃、上高地の河童橋を渡ったところに建物があり、入口に、日本山岳会の文字。聴いてみると、日本山岳会の会員向けの宿泊施設とのことだった。で、日本山岳会に入会しよう、と決心。入会するには、すでに会員になっている人の推薦が必要という。それで、たまたま山で会ったことのある男性が、会員で、頼んでみた。これまで、どんな山に登ったか、どんな季節の山行だったかなどのメモをつけて、お願いし、半年くらいかけて、ようやく日本山岳会会員の資格がとれた。推薦してくれたその男性は、あとでわかったのだが、ヨーロッパの山々、特に岸壁登りの体験もある、ほんもののクライマーだった。

上高地の山岳会の建物は、改築したばかりだった。名誉会員の皇太子さんの結婚式が決まっていて、山好きの皇太子が、新婚旅行で泊まる、という話があり、おふたりの部屋、様式トイレなどが準備されたのだ。結果は、残念ながら、おふたりは、上高地の帝国ホテルに泊まった。

そういう事情で、新装なった日本山岳会の上高地小屋(通称)を、3年間ほど利用させていただいた。たしか、一泊2000円くらいだった。

北アルプスの穂高、槍が岳など、ここをベースになんども往復した。土日は、利用者が多いけれど、それ以外は、ほとんど空いていた。島々の高齢者夫妻が、小屋番をしていて、結構仲良かった。小屋は、上高地と同じ時期、5月の連休からたしか秋の季節まで開いていた。朝は、明神池まで往復の散歩、夕方は、近くの上高地温泉へ、といういい時間を過ごした。贅沢な日々だった。

その頃から、梓川の反対側の霞沢岳が気になっていた。地図には、出ているものの、あまり注目されていない山。頂上から一気に下っている八右衛門沢をおりてみたい、という欲望。その後、いろいろと調べることになった。何人かの先人が、達成していることもわかった。遭難者もいた。

四年後、徳本峠から、六百山、霞沢岳から、八右衛門沢を、二人の男性登山家と共に下ることに成功。落石の多い、怖い沢くだり、だった。この日の夜の宿泊は、上高地帝国ホテル。幸せな夜だった。

 

  

2021年7月2日金曜日

酒育大学卒業作品

何年くらい前だったか、こんな大学へ入学した。酒育大学。某有名なお酒の会社が主催する大学で、その大学の学長が、吉永みちこさん。そう、あの有名な吉永さんです。テレビなんかに出ている、もの書きで、知り合いでした。彼女が学長をやるんで、生徒が集まらないとまずいので、ということで、友人何人 かで、入学することになった。

酒育大学は、月1~2回の開催で、夕方の2時間ほどの授業、その後、場所を替えて、ほんもののお酒をいただく、というもの。30人ほどの生徒中、10名くらいが女性でした。講師陣には、結構有名人が多かったような気がします。たしか、最近まで学長だった田中優子先生、いとうこうせいさんなどもいました。もちろん、吉永学長は、毎回の出席でした。

酒の作り方、酒の歴史、酒と食べ物、世界のお酒、酒と芸術などなど、結構、毎回楽しかった。もちろん、全授業皆勤。卒業論文ならぬ卒業文集を提出、その全文が最近、出てきました。その作品からの抜粋です。

学生証 貰って今日から 酒学生   学割なしの学生証、久しぶりの学生証、それも大好きな酒大学のピカピカの新入生。 

昔より よき酒飲みは 文化人    ご自身銘柄酒で登壇の先生曰く「飲酒は文化なり」と。だったらわたしは、文化人。文化の日の意義が見えてきた。

酒文化 深くてひろい その歴史    お酒の歴史は、人類の歴史。日本だけでなく、アジアでも、アフリカでも、勿論、欧米でも、アルコールなしの民族は、存在しない。

酒なくば 懐石料理 成り立たず   千利休からときおこし、お酒なしの懐石料理、ありえない。納得です。

放課後が なぜか楽しみ 酒育大学  「本日の授業は、ここまで」のアナウンス。待ってたよ、です。

現世(いまどき)の おんなは 酒を友として  街道宿場の遊女は別格。おんなは、お酒を注ぐ係りだったが、いいご時世になりました。

音楽に お酒があれば ああ 極楽   いい音楽にいい友と、お酒があれば、ああ極楽。 

今日卒業 留年したいよ 酒育大学   卒業式、うれしくないです。もっといたいよ。

        楽隠居 お酒と共に 大往生

2021年7月1日木曜日

ちょい旅ー飯山線

 感染予防続きで、なかなか「旅」っていうわけにもいかず、それでも高齢者対象のワクチン2回がすんだので、そろそろ行くか、と考えていた。北千住の駅ビルの本屋で、なにげなく山頭火の本を手にした。ぱらぱらっと10分ほど。で、「やっぱり旅だよね、旅ですよ」、なんてひとりごとをいいながら、駅の切符売り場へ。次に行くべき旅の企画書を書いたジパング俱楽部の手帳(高齢者割引)を持ち歩いていたのだ。そのうちのひとつ「飯山線」に決めた。「明日、行くぞ」。そういえば、6月最後の「旅」だ。連休からどこへも行っていない。

翌朝、6月29日、東京は大降りの雨。それでも、行くきゃない。傘をさしても濡れるほどの降り。5時30分、いちばんバスに。4名の乗客。高齢者ばかり。こんな天気でも、お勤めなんだ。電車にの乗っても、スマホを手にした、見慣れた若者たちの姿はない。高齢労働者たちが、ほぼ全員、眠りこけている。7時、上野駅到着。すぐにきた新幹線に乗った。長野行きだった。ホーム向かい側の仙台行きも、空いている。途中の大宮駅で、かなりの人数の人たちが、乗ってきた。熊谷で、そして、高崎駅で、ほとんど下車。地方から東京へ通っている人も多いけれど、東京から地方へ通う人も多いのだ。新幹線通勤者たち。

8時5分の軽井沢駅では、乗る人も、降りる人もいない。外は、雨。浅間山は見えない。

8時37分、終点の長野駅に着いてしまった。さあ、どうするか。時刻表をみたら、飯山線の次の列車は、11時15分。2時間待ち。で、飯山駅に停まる新幹線に乗ることに。といっても、1時間待ちの9時26分。待合室はあるものの、人はいない。飲食店もすべて閉まっている。改札の外へ出て、コンビニで、あんぱん一個ゲット。

金沢行きの新幹線に乗ったら、長野駅から、飯山駅まで、たったの10分間だった。なんだかむなしいって感じ。

飯山駅は、もちろん飯山線の駅だが、新幹線が1時間、2時間に1本程度停車駅なので、駅そのものは、閑散としていて、電車のこない時間帯には、人がまるでいない。電車がこないから人は、いないし、店はあるけれど、開いていない。

11時15分、ようやく越後川口行きの列車がきた。二両編成で、女性の車掌もいる。なかなかのレトロな車両で、ボックスシートとソファーシートで、全体的にゆったりしている。野沢温泉駅、乗る人も、降りる人もいない。野沢温泉には、クロスカントリースキーの大会で、2回来たことがある。その時は、たしかバスだった。

列車は、そう早くなく、いい感じのスピードで走っている。車窓からは、わらびのほけたのや、うどの白い花、民家の近くの畑のジャガイモの紫色の花も見える。なんだかシベリア鉄道に乗っているみたい。

桑名駅、つぎに上桑名駅と続くので、線路右側を流れる川が、桑名川かと思っていたら、おおまちがい。千曲川だった。あの千曲川が山梨の甲府の方から、長野へ出て、飯山線沿いに流れて、信濃川に入り、日本海に注いでいるのだ。

野沢温泉駅、雨がやんだ。ここで、2両あった車両のひとつが、切り離された。女車掌もここまでで、この先、終点の越後川口まで、ワンマン列車に。乗客は、まったく変わらず、摂り鉄さん4名(全員おとこ)、乗り鉄(おとこ1名、おんな2名)。乗り鉄の男性は、革靴の高齢者、もひとりの女性は、茶髪の、ちょっと派手めの30代、40代で、ソファーシートでみかんを食べたり、だんごを食べたり、ときどき景色をしっかり眺めており、終点までご一緒だった。

この列車は、観光列車だった。名称「おいこっと」号。なに語かと思ったら、日本語のo逆さ読みだった。TokyoをoykoT「おいこっと」、なんだそうです。考えすぎ、冗談でしょう、飯山線の目玉観光列車だったんです。よく見ると、内装に金をかけているって感じで、座席は、田舎風の格子縞、窓枠の内側の日除けは、障子柄、という具合で、なかなかの感じでした。

豪雪地帯を走る列車の車窓からは、山と、田んぼと、民家は、三階建てで、一階部分は、コンクリートで、二階、三階が居住部分、冬は、二階から出入りするのだ。屋根は、トタン張りで、雪下ろししやすいようにできている。

森宮原駅で20分ほど停車、対向列車待ちだ。ここは、「日本最高積雪地点・森宮原駅」の大きな看板が、立っている。そういえば、苗場スキー場、法師温泉、猿ヶ京、三国峠は、山の向こうだ。

津南町駅で、客がひとり乗った。13時すぎに十日町駅、そのまま終点の越後川口駅へ。ここで上越線に乗ろうかと思ったが、これが、またまた、来ない電車。折り返し列車でもういちど十日町へ。十日町は、やはりクロスカントリースキーの大会で来たことがあった。越後湯沢からのバスだったような気がする。40分待ちで、北越急行で、越後湯沢駅へ。十日町では、雷、夕立のがちゃ降りだったが、越後湯沢は、降っていなかった。

この先は、順調で、15時9分の新潟からの新幹線(2階建て)で上野まで。こちらの新幹線は、結構混んでいて、それも高齢者夫妻、高齢者仲間連れが多く乗っていた。ワクチン終了効果なのか。16時22分、上野帰着。

それにしても、待ち時間の多い旅だった。








2021年6月16日水曜日

ほんとうにあった話ーその5

アフリカの国々、現役中、引退後含めて、ほぼ全てを訪問したと思う。西アフリカのセネガルは、記憶では、たしか3回行ったことがある。いちばん始めは、1978年だった。この回想は、1回めだったか、2回めだったかは、定かではないが、大統領だったサンゴールとサンゴール夫人に会った

国際会議の主催者のサンゴール大統領の公邸に招待された。大統領夫人は、フランス人で、宴会ホール内の椅子席で歓談。始めは、通訳付きだったが、そのうちに英語での会話となった。日本人が珍しいらしく、いろいろ聞かれた。人口とか、宗教のこととか、天皇のこととか、ともかく、次々に質問を浴びさせられたのを思い出す。彼女が、アフリカの男性と結婚したことで、ヨーロッパの人たちから、やや敬遠されていたのかもしれない。ご主人のサンゴール大統領は、パリ留学で、三つ組の背広姿のジェントルマン、もちろん、フランス語も素晴らしく、でも、なんとなく、ヨーロッパ人の人種差別みたいなものを感じた。

1989年、ベルリンの壁が崩壊したその日に、ベルリンにいた。壁の周辺には、急ごしらえの縁日のような店が、いくつもあって、ゴルバチョフの顔をプリントしたTシャツも売られていた。崩壊した壁のかけらと、Tシャツを買った。

そのゴルバチョフに会ったのは、4年前の1985年だった。場所は、モスクワのクレムリン宮殿。社会主義インターナショナルの軍縮委員会のメンバーとして、就任したばかりのゴルバチョフに会見。その前に会ったブレジネフが、会談中、ずっと印刷された文章を読んでいたのに、ゴルバチョフは、メモなしでの演説だったのが、なんとも目新しかった。ペレストロイカ(立て直し)とか、グラスノチス(情報公開)という単語が繰り返されていた。1989年には、それまで対立していたアメリカのブッシュと、マルタで会談、長きにわたる米ソ冷戦構造が終結。

クレムリンでの会談の席で、フィンランドでクロスカントリースキーの大会に出場した話が、フィンランドのソルサ首相から紹介された際に、「わが国でも、日本から近いウラジオストクは、雪が豊富、ぜひスキーに来て下さい」、といわれたのを思い出し、ベルリンで顔入りのTシャツを買った。

東南アジアの青年代表団の一員で、ヨーロッパ各地を訪問したことがあった。イギリスのマンチェスターで、旧植民地宗主国の搾取が独立後も続いていることに抗議するデモを行った際に会ったのが、アノア・イブラヒム。 グロサリーで紙とか、フエルトペンなどを買ってきて、ポスター、看板などを作成。学生運動での経験が活かされた。それが縁で、日本に帰る途中、マレーシアに立ち寄った。アノアの地元の村で、青年団の若者たちとの懇談を行った。当時から、政治家の資質があったアノアは、国会議員になり、マハティール政権下で、副首相に就任。しかし、政敵のレッテルを張られて、逮捕された。その後、マレイシアの政治が報じられると、アノア・イブラヒムの名前が出てはくるが、事情は定かでない。




 

2021年6月14日月曜日

ほんとうにあった話 -その4

外国の政治家の葬儀に、なぜか3回も参列したことがある。

スウエーデン首相オロフ・パルメは、現役の首相だった。ストックホルム市内で、暗殺された。1986年。現役だったこともあり、120か国からの参列者があった。会場は、ノーベル賞の授賞式で知られているストックホルムの市公会堂で行われ、遺体は、フレドリック教会に運ばれた。沿道では、松明を持った多くの人々が見送った。その光景が、ともかく印象的だった。

この葬儀には、日本国政府を代表して、福田赳夫元首相が、スウエーデン社民党の友党である民社党の佐々木良作委員長が列席していた。両人共、同じホテルに宿泊していた。

この頃も、朝の習慣だったジョギングから、ホテルに戻ってくると、日本大使の奥方が、館員の女性とロビーにいた。そこへ、福田さんの息子さん康夫氏がこられて、なにやら風呂敷つつみを、大使夫人から受け取って「ごくろうさま」、と挨拶。次の朝も、次の朝も、同じ光景に出くわし、大使夫人に尋ねると、「日本からお持ちになった、おそばを茹でて、お届けしている」とのことだった。その息子さん福田康夫氏も、首相になられた。

ウイリーブラントは、戦争中は、ロンドンに亡命していたが、帰国して、ベルリン市長になり、西ドイツ首相となった。長いこと、社会主義インターナショナルの議長もされ、国際的にも知られた政治家。社会主義インターナショナルの会議で、ヨーロッパや、アフリカなどでも会う機会が多かった。ブラントさんも、朝が早く、ひとりで散歩をしているのに、よく会った。朝食も、なんどかご一緒させていただいた。

そのブラントさんが、亡くなったのは、1992年。葬儀は、ベルリンで行われた。たしかシテイホールだったとおもう。日本政府代表は、海部俊樹氏だった。参列者のためのパーティーがあり、海部さんは、あまり知らていないので、紹介してあげて下さい、とお付きの日本大使館員にいわれて、主にヨーロッパの政治家たちに紹介したのを覚えている。あの時は、たしか韓国の金大中氏未亡人も、来ておられ、ソウルの自宅で、いちど会っただけなのに、覚えていて下さり、挨拶に来られた。アジア人の列席者は、少ない葬儀だった。

1983年、廖承志さんの葬儀に出るために、北京へ。廖承志氏は、日中友好の中国側の要人だったということもあり、日本からの参列者は、多かった。葬儀の会場は、どこだったか覚えていない。ただ、ご遺体に最後のお別れをする儀式の待ち時間が、やたら長かった。2時間くらい待ったか、その間、やることもなく、日本からの参列者のみなさんと、なんとなく雑談。杉村春子さんは、名前は聞いたことがあったが、本人に会ったのは、初めてで、15分ほど歓談したが、どこにもいそうな、やさしいおばさんっていうのが、印象だった。もひとり、有吉佐和子さん。白の喪服(和服)姿の彼女は、「いつまで待てばいいのよ」、とひとりごとのように繰り返し、いらいら、しているようだった。いざ、番がきて、行列をつくると、なんと私の前、そのがたいの大きさに驚いた。彼女の真っ白な和服に、黒い帯、わが身の貧弱さを痛感。振り返って、「いつ帰るの」、ときくので、明日帰ります、と答えると、「万里の長城へは、行った方がいいわよ」、となぜかすすめて下さった。それまでに行ったことは、なんどかあったが、ただ、「そうですか」、と返事をした。












 

2021年6月12日土曜日

ほんとうに会った話ーその3

イスラエルは、長い国際体験で、はじめての国だった。イスラエルへは、今は、アテネ、パリ、イスタンブール、ローマなどヨーロッパの都市経由で行くことが出来るが、日本からの直行便はない。なのに、1964年、はじめてのイスラエルは、エア・フランス の直行便だった。羽田空港出発時には、家族は来なかったが、友人たちが見送ってくれた。

その後、なんども、なんども、イスラエルを訪問した。ヨーロッパに出かけた折には、イスラエルへ、という具合に。だから、友人たちも沢山いた。

1回めの留学時、聖書にも出てくるタボール山を一周するマラソン大会があり、出場。ここで会ったのが、ナッション。お巡りさんで、テルアビブ郊外の町ホーロンに住んでいた。髭がかっこういいお巡りさんで、ブロークンだけれども、フランス語、イタリア語、アラブ語、もちろん英語もOKのお巡りさんだった。「タランテ」と呼ばれていたメイドイン ハンガリーの小さなポンコツ自家用車で、あっちこっちへ連れて行ってくれた。なんかトラブルがあると、「私は、こういう者だ」、と警官証明書をちらつかせた。それにしても、イスラエル中の聖書に出てくる史跡など、ほとんど、彼の案内で見て廻った。

お礼に、ナッション夫妻を日本に招待したこともある。奥さんは、ノープロブレムだったけれど、旦那のナッションは、日本食の刺身が、ダメだった。現役を引退して、指圧の学校へ行き、国家試験に合格したことを知らせると、なんと、英語の名刺を送ってくれた。引退したので、名刺がなくなっただろうから、と、名刺のプレゼント。でも、英語なので、日本では、使えないことに、気づかなかったのかも。

ホーロンのナッション家の隣りが、国立の高齢者施設で、「あの人は、ゴルダの旦那さんだよ」、とある日、木立の日蔭の椅子に座っている老人を指して、ナッションが言った。あの方は、有名なゴルダ・メイア首相のご主人、と言われるのが原因で、精神が異常になったんだよ、とも。

ゴルダ・メイアには、イスラエルで会ったことはなかったが、デンマークのコペンハーゲンで会った。場所は、スーパーマーケット。同じ国際会議に出席していたが、会ったのは、スーパで、彼女は、秘書(おそらくSP)らしき女性と一緒だった。顔は認識していたらしく、「シャローム」とヘブライ語で挨拶をすると、「シャローム」といい、「あなた、イスラエルに行ったことがある?」、と訊かれたので、留学していたことがある、というと、ちょっと、お茶しない、とコーヒショップに誘ってくれた。なにを話したか、どれくらい話したかは、覚えていないが、とにかく、コーヒーをご一緒したのは、覚えている。その後、外務大臣になったシモン・ペレスさんに、ゴルダさんとコーヒーを飲んだ話をしたら、「珍しいことだよ、彼女は、それほど外交的ではないんでね」、とのこと。その後、イスラエルの本(訳本)を出した際に、ゴルダ・メイアさんに巻頭のことばをお願いしたら、写真と一緒に送ってくれた。あちらは、覚えていてくれたらしい。









2021年6月10日木曜日

ほんとうに会った話ーその2

 ひょんなことから知り合いになった浪岡(青森県)のUさんが、「あんたに合わせたい人がいるんだが」、と車で連れて行ってくれたのが、嶽温泉。岩木山の麓の温泉で、ちょうど近くの神社の祭り中だった。それが三浦恵三さん。三浦雄一郎、冒険家、プロス2キーヤー、80歳でヒマラヤを滑り降りた、あの有名な雄一郎さんのお父さんだ。

食事をしながら、2時間近く歓談。ご本人も、101歳で、ヨーロッパのモンブランをスキーでの大滑降。山の話、スキーの話などが話題だったような記憶。体格はあまり大きくなく、ごく普通の村人って印象だった。その頃は、息子の雄一郎さんのことなどあまり知らなかったが、いまや「高齢者の星」ていう感じだ。

岩波新書の『発想法ーKJ法』の読者だったこともあり、著者の川喜多先生は、あこがれの人だった。『チベット鳥葬の国』とかヒマラヤ関連の本を多く書いておれれ、ネパール協会の会長もされていた。たまたまダライラマの来日の歓迎会があり、それに出席。そこでお会いしたのが、ほんものに川喜多先生だった。山岳会に所属し、登山に現(うつつ)を抜かせていた頃で、ヒマラヤは憧れだった。お会いした先生は、話す声も小さく、これがほんものかと思えるほど静かなお人柄のようだった。結局、何を話したか、まったく覚えていない。

UNDP(国連開発機構)の副所長としてスーダンに赴任していた当時、「カルツーム便り」というタイトルの手紙を、ときどき日本に送っていた。送り先は、秋山ちえ子さん。ご本人が民間ラジオ局で、番組を持っておられ、そのネタにして貰っていた。ときどき、「アフリカのスーダンでは、」なんて話が登場していた。その「便り」を、帰国して一冊の本にまとめたのが、『カルツーム便りー体験した南北問題』(サイマル出版会)だ。秋山さんとは、UNDPへ行く前に勤務していたJICAの広報誌の対談に出ていただいたのがきっかけで、親しくさせていただいていた。ニューヨークへ行く前には、赤坂の料亭で、送別会をしてくれた。「カルツーム便り」は、その時に出たアイディアだ。

本が出版され、印税入るなんて話が、出版社からあった。印税なんてたいした額ではないんだろ、というと、「団体とか、施設とかに寄付っていう方法もありますよ」、と教えてくれる人がいた。で、考えたのが、婦選会館。存命中、母親が、ずっと会員だったあそこにしよう、と電話をしたら、すぐに返事がきて、代表の縫田ようこがお会いします、という返事。そんなに偉い人でなくてもいいのに、と思いつつ、都内のホテルのロビーで面会。話が終わらず、ホテル内のレストランへ移動、昼食をご馳走になってしまった。

万年筆が縁で、お会いすると話がはずむ、日本社会党委員長の土井たか子さん。土井さんとは、日本国内では、お会いしたことはないけれど、国際会議出席の外国では、なんども会う機会があった。同じホテルに泊まっているので、朝食をご一緒したこともある。彼女の愛用は、ドイツ製(?)のラミーで、いつも2~3本、ハンドバッグに入れていた。個人的な感想をいうと、ラミーの書き心地は、それほど、ではない(万年筆収集家の意見)。







2021年6月9日水曜日

ほんとうに会った人たちーその1

ヨーロッパで、訪れた回数がいちばん多かったのは、ウイーンだ。ウイーンは、昔から国際会議都市として知られており、勿論、芸術の都でもある。

そのウイーンの副市長(3人制)になったのが、ピーター・シーダー。彼とは、20代からの付き合いで、ウイーンへ行く度に会った。ある夜、いつものようにレストランで宴会をして、フォルクスワーゲンの小さな乗用車に何人乗れるかの掛けをした。5人か6人でいっぱいになり、そのまま市内に。と、だれかが、ここ、ここ、という所で車から降りた。大きな噴水のある所。と、ひとりが、持参の洗剤を噴水にかけた。噴水は、みるみるうちに泡だらけ。ピーターがなにやら書いた紙を、噴水のある石に貼り付けた。

「歴史も たまには 洗いましょう」、と書いてあった。

この噴水、ウイーンの中心街のシュタットオッパ(国立オペラ劇場)近くにあり、今でもなつかしく、眺めに行くのが習慣に。

そのピーターが、ウイーンの副市長になったというから、可笑しいかぎり。副市長時代、彼に「副市長って、なにをしているの」、と訊くと、「高級コートに身をつつんだ上流社会のご婦人に、あなたの大事なわんちゃんに、どうか公道でうんちをさせないで」というのが仕事、とにこにこ顔で答えていたピーター、数年前に亡くなった。ビールの飲みすぎ、というのが、友人たちの話。

新宿の高野といえば、有名なフルーツパーラの店。高校時代の学生服なんかも、たしか、高野制だった。この高野のご主人が、インドの独立を支援していたことは、関連本もあるので、あとで知らったのだが。といっても、行ったことはなかったが。ところが、ある時、インド人の友人が来日。どこか行きたいところは、ないかと尋ねると、新宿のタカノと。そっかあそこは、たしかカレーライス、日本でいちばん始めにメニューにした店。高野へ行き、カレーを食べたら、手帳をみながら、「杉並の蓮光寺」へ行きたいという。彼の持っていた住所を頼りに、連光寺をさがした。蚕糸試験場近くに、その寺はあった。彼、ブラディープ・ボースのおじいさんが、この寺に安置されていたのだ。おじいさんの名前は、チャンドラー・ボース、銅像もあった。

あわてて、調べたら、高野のご主人がインド独立運動家のチャンドラー・ボースを物資両面で援助していたことが、わかった。その後、インドで、ボースの妹さんに会う機会があったが、サリーの似合う美人だったのを、覚えている。

アメリカ留学時代、ライシャワーさんが、駐日大使を終えて、ハーバード大学に戻ってきた頃。現地の美術館で働く女性と、ふたりが、ライシャワーさんのお宅に招待された。たしか、アパートのなん階かで、エレベーターに乗った。停まったところが、玄関で、夫人が出迎えてくれた。お手伝いさんはいないようだった。

応接間で、日本の干菓子とお茶をいただいた。美術館の行事などが話題の会話で、どうもついていけないので、「あのう先生の蔵書など、みせて貰ってもいいですか」、と許可をいただき、隣りの部屋の書斎へ。ほとんど日本語の本で、佐久間象山関連の本が20冊ほどあり、当時、佐久間象山なんて人物は知らないひと、あわてて、大学の図書館で調べた。英語の本にも出ている人物だった。ライシャワー夫人が、昔の富豪松方家出の方というのも、後でわかった。

その後、来日したライシャワーさんを歓迎するパーティーがあり、お会いした。その際に撮った写真を、サイン入りで贈ってくれた。

そのライシャワー教授とは、朝、大学構内で、本を入れた風呂敷包みを小脇にかかえて歩く姿を、よくお見掛けをした。















 

2021年6月7日月曜日

タイ留学生、我が家の居候

 いつのことだったか、まだ現役時代の話。だれかが、ひとりのタイの留学生(女性)を連れてきた。下宿がみつからず、困っているので、なんとか探してやって、と。たまたま海外出張で、一か月ほど留守にするので、とりあえず、自分の部屋に住んでいて、と彼女を自宅に連れ帰った。

タイでは、チュラロンコン大学出身とかで、タイで一番古い、伝統のある大学で、日本ならば、さしずめ東京大学ってところか。来日したばかりの彼女、当然ながら、日本語は、ほとんどダメで、それでも、ま、なんとかなるだろう、と両親に預けて、出かけた。

一か月ぶりで帰宅したら、パチャリさん(彼女の名前)はまだ我が家に居候していた。ところが、である、びっくり、本当にびっくりだった。日本語がかなりうまくなっていたのだ。ヒアリングも、会話もなかなかで、母親とは、普通にコミュニケイトしているではないか。

「おはようございます」、「いただきます」、「行ってきます」、「今日は、早く帰ります、夕食、いただきます」、なんともいえない、いい日本語なのだ。おかげで、家中が、いい日本語で話さねばならない状況になっていた。寝る前には「おやすみなさい」、なんて、めったに言ったことのない挨拶まで、していた。我が母親の特訓に、すっかりはめられた。

パチャリさんは、我が家に居候した期間、母親のアドバイスで奨学金を近くの郵便局に預けさせられ、夏休みには、北海道や広島などへの旅行を楽しんだ。たしか、上智大学で学んでいた。その後、貯めたお金を持って、アメリカに留学。

しばらく経って、再会。都内のホテルで開かれた国際会議に出席していた際に、タイの代表の席に、パチャリさんが座っているではないか。出席名簿を見ると、たしかにパチャリさんだった、チュラロンコン大学の教授とあった。休憩時間に再会。彼女もびっくりしたようだったが、わたしもびっくり。彼女の第一声「お母さん、お元気ですか」、だった。母は亡くなったというと、「お父さんは?」、と。きれいな日本語だった。父は、元気ですよ、と言うと、よかったです、と。奇遇というか、すばらしい再会だった。

その後、バンコックを訪れた際に、パチャリさん一家との再々会も実現。こんなことってあるんですね。




2021年5月27日木曜日

日本売り込みキャラバンに参加

1981年、日本の自動車の対米輸出が問題になっていた。なんとかしなければと、民間レベルでの相互理解をという趣旨で各界の代表が、アメリカに派遣された。経済界、学界、ジャーナリズムなどから選ばれた中に、入ってしまった。たしか15名ほどで、慶応大の岩男寿美子教授、阿川尚之さん(当時、たしか20代で、弁護士)などがいた。

わがチームは、自動車会社の海外部長のGさん、会社社長で、アメリカの大学卒のIさんの3人。3月から4月にかけての2週間で、ミネアポリス、デトロイト、クリーブランド、バルチモア、ワシントンDC、ニューヨークをキャラバン。

なにをしたかというと、朝食会、昼食会、夕食会、とほとんど3食、訪問先の経済界、文化人、ジャパンソサエティの人たちとの会食・懇談会だった。日本に対するさまざまな話題が中心で、アメリカの人たちが、日本にどんなイメージを抱いているかが、わかって、とても面白かった。

それ以前、留学も含めて、なんどかアメリカを体験したことがあったが、この2週間ほど、凝縮した日々はなかった。そういえば、アメリカで、テレビ出演したのも、初めての体験だった。


2021年5月26日水曜日

多摩都市モノレール

 4月末、つまり大型連休前から、連休中、そして連休後の5月中旬まで、ステイホームだった。緊急事態宣言下で、文字通り神明町で過ごした。うーん、もう限界、とでかけたのが、モノレール乗り。東京を横断して、西のはずれ立川へ。

本日は、「多摩都市モノレール」。(立川駅まで2時間)

立川駅でのモノレール駅への連絡は、ふたつ。立川北駅と立川南駅。立川駅が真ん中にあり、モノレールは、北方向と南方向に走っている。まずは、北駅へ。

ここは、スイカでOKです。ホームのいちばん前で待つ。並ぶほどではないけれど、10人くらいの乗客が待つ。だいたい15分おきに走っている。列車到着。4輌編成で、運転手のみーワンマン車。最前列の入り口から乗車。と、すぐ前に並んでいた高齢者の女性、なんとなく品のある方。大きなお花をかかえて、さっと座席に。実は、多摩モノレールでは、運転手のすぐ後に、前向きの二人用の座席が、ふたつあり、そのひとつにさっと座った。この席をめざしていたことは、たしか。彼女は、いつもここに座っているのだ。もうひとつのシートに座ったわたしには、よくわかる。いいな、多摩モノレール、この席がたいへん気にいった。

立川北駅を出て、モノレールは、のろのろ走る。下は、車の走る道路だ。駅周辺は、ビル、マンションというか、アパートが多い。遠くに奥多摩の山々が、霞がかって見える。玉川上水の手前、駅の左側、広大な土地一面がお墓。お隣りの座席の女性が、花束をかかえて下車。そっか、お墓参りだったのだ。家に帰って地図を調べたら、某宗教団体の共同墓地だった。玉川上水駅、下を見ると川が流れている。前方には、多摩湖村山貯水池、ここは、埼玉県だ。野火止用水もたしかここら辺。以前、来たことがある。終点の上北台駅では、乗客は、2人だった。この間、運賃は、316円。下車して、駅周辺をひと周り。大型店があるのみ、コミュニテイバスを待つ高齢者が並んでいた。

南行き(多摩センター駅}に乗車。こんどは、段取りよく最前列シートをしっかりゲット。立川北駅に戻り、そのまま南駅へ。ここで、どっと乗客が乗っていた。へえー、このモノレールって、繁盛しているんだと。学生も多い。座れない人も。北方面とは、ちょっと景色が変わった。山というか、緑が多い。ビル建てよりも、戸建てが多い。多摩動物公園、柴崎体育館駅なんていうのもあった。多摩川を渡ると、甲州街道駅。高幡不動駅、ここへは、なんかいか来たことがある。境内の山内八十八巡拝路を廻った。比較的空いていた車内に突然、わっと客が乗ってきた。駅名が、中央大学、帝京大学駅。終点の多摩センター駅までの車内は、「密」状態だった。

山を削って造成した多摩センター、広大な団地だ。ここへは、Kさん主催のイベントで、なんどか来たことがあった。ここからは、小田急線で代々木に出て、千代田線に乗り換えて、まっすぐ綾瀬まで、いい案配でした。

多摩都市モノレールは、これまでのモノレールよりも、利用者が多く、いくつかの駅では、私鉄との連絡もあり、乗客kいいは、便利な乗り物であることがわかった。レールが下についている(モノ)機種で、速度は、かなりのろのろだった。




 







2021年5月23日日曜日

植村直己さんから貰った「石」

植村直己さんが、グリーンランド行きのVISAがとれずに困っているという話があり、たまたま来日中のデンマーク首相に直接会って、お願いしたい、とのこと。実は、首相ではなく、首相の息子と知り合いだったということで、仲介の役が回ってきたのだ。首相が公式訪問をした某国会議員の執務室で、上村さんを首相に紹介し、VISAの問題は、即解決した。

しばらくして、植村さんからのおみやげ、とグリーンランドの「石」といっしょに、直筆の色紙をいただいた。あの有名な植村直己さんから、ということで、友人たちに見せびらかしていたが、いつの間にか、忘れていた。ある日、自宅の机の上においてあった「石」がなくなっていることに、気づいた。大騒ぎして探したが、みつからない。と、職場から帰宅した父が、「あれかい、あの石なら、俺が捨てたよ」、というではないか。どこへ捨てたのか訊くと、前の道路の方に堀投げた、と。もちろん、道路に「石」はなく、せっかくの植村さんの「石」は、こうして、なくなった。

なお、色紙は、植村直己記念館(たしか兵庫県豊岡)へ行った際に、寄贈してきた。







へ 

あの頃から、途上国問題に関心が・・・

 国際協力事業団(JICA)、国連開発計画(UNDP)で働くきっかけは、イスラエルに留学した際に、多くのアフリカの国々からの人たちとの出会いによる。ガーナやタンザニアからの友人たちが、目を輝かせて、自らの国づくりの夢を語っていたのを思い出す。

帰国して、日本国内にも、すでに活動をしていたNGO(非政府団体)があるのを知った。

アジア学院は、那須にあり、アジア・アフリカの農村指導者養成センターで、「共に生きる」をモットーに運営されていた。創始者の高見敏弘先生にお会いし、その日から3日間、センターでの研修に参加。畑仕事、家畜の世話などの作業、地域の開発のための講義などを、海外からの参加者たちと寝起きを共にしながら体験した。その後、ヨーロッパでの会議出席などの機会を利用して、インド、ネパール、バングラデシュなどの田舎を訪問、アジア学院の卒業生たちの活動現場を見せて貰った。帰国して、高見先生に報告したこともある。

難民を助ける会は、同会代表の相馬雪華さんが、尾崎行雄先生の娘さんというのを知り、祖父が尾崎行雄の選挙を手伝ったという話を思い出し、事務所へ行ってみた。現在ほど難民問題が深刻化していない頃だったが、アジア、中東などで、さまざまな活動をしていた。

オイスカ・インターナショナル、農村開発などアジアでの協力活動を展開していた。アジアの訪問先で、オイスカの名前をよく見かけた。一度、都内のホテルでのオイスカ主催のパーティに出席、宗教団体であることを知った。

これらの団体で、もしかしたら働ければ、なんて本気で思っていたようだ。






2021年5月13日木曜日

パラグアイの首相の家で一泊

現役だった頃の話。ブラジルで国際会議があり、そこで知り合ったパラグアイ人、パッサ・モーラさん。ギリシャ系のパラグアイ人で、野党の党首。パラグアイに行ったことがあるか、と訊かれたので、まだ、というと、帰りに寄らないか、というので、行くことになった。

会議が終わり、空路首都のアスンシオンへ。出迎えの車で、まず行ったのは、国会議事堂。車の中で待たされること30分ほどで、「じゃあ、これから私の家に」、と自分で車を運転。20分くらいで、「着いたよ、ここが我が家」、と。細長い平屋建ての家で、門もなく、庭もない。玄関は、道路からすぐで、駐車場は、道路の端。ベルを鳴らすと、女性が出てきた。「奥さんですか」、「いや、姉です」、とのこと。

部屋は、いくつもなく、案内されたのは、彼の仕事部屋で、ソファー兼ベッドで寝ることになった。トイレは、共用で、廊下を歩いて突き当り。

お姉さん手作りのスープがなぜかおいしかったのを、思い出す。なにを話したか、よく覚えていないが、その夜、3,4時間は、話していたような気がする。

翌朝、三人で朝食。車で国会議事堂へ行き、秘書みたいな青年の案内で内部の見学、彼の運転で、市内見物。午後空港から飛行機に乗った。それだけの話。

数年たったある日、日本の外務省から電話。パラグアイの首相パッサ・モーラ氏が来日、パーティーにぜひご出席を、との打診だった。あのパッサ・モーラさんが首相になったのだということを知った。自宅に一宿一飯させていただいたのを覚えいてくれたんだ、と。日本に知り合いがあまりいなかったからなのかも、などと思った。

なお、このご招待は、たまたま出張が定されていたので、残念ながら、パッサ・モーラ首相には、日本での再会は実現出来なかった。













2021年4月23日金曜日

自粛の旅ー7  上毛電気鉄道 群馬県

ここのところ好天続きで、なぜか週末になると悪くなる。で、平日のおでかけ、というわけ。本日は、4月22日、大阪でコロナ感染が深刻化、東京もじきに悪くなるにちがいない、と非常事態を政府と話し合っているとのこと、都知事は「東京へ来ないで」、と言っている。そういえば、昨年は、神奈川の知事さんが、「神奈川ー箱根、湘南、へ来ないで」、なんて言っていたっけ。東京から、ちょいと出かけるくらいは、いいんじゃない、と ちょい旅に。

北千住駅からスカイツリーライン、つまり東武線に乗車。行く先は、伊勢崎。特急りょうもう、というのに乗ったら、東武動物公園までノンストップ。乗客は、7名、サラリーマンらしき男性が6名。途中の足利、太田で全員下車。伊勢崎・終点まで乗ったのは、全車両で5名。

ここで、いったん改札口へ。上毛電気鉄道では、スイカ、だめなので、切符を買わなければならない。15分後に電車が入るというので、ホームへ。客ひとりひとり、切符に丸い判のようなモノを押す。新人らしい駅員が、先輩の指導で押してくれた。客は、ひとりだった。

電車が時間通り着き、乗車。二両編成で、ワンマン。右手に赤城山が見える。途中で、手押し車のおばあさんが2人、男性3人、が乗り降りしただけで、申し訳ないほど、の貸し切り状態。終点の前橋まで通勤する人もいるはずで、朝晩は、それなりに乗客はいるはず、電車の時刻表を見ると、1時間に2回は走っている。土日は、二両目は、自転車OKで、サイクルトレインになる。

赤城山は、ずーと右側に見える。沿線は、時々人家があり、たんぼが続いている。菜の花の黄色が春景色。前橋中央駅まで約1時間。ひとつ手前の駅城東駅からは、どーんと客が乗ってきた。学生たちだった。駅から、前橋駅までは、シャトルバスがあり、100円。

実は、両毛線(小山~高崎)ばかり気になっていて、上毛線(上毛電気鉄道)に気づかなかった。先日のちょい旅で、伊勢崎線に乗った時に、上毛線というのがあることを知ったのだ。ともかく、赤城山がずーと見える路線で、乗客があまりないので、経営は、楽じゃあないようだ。自転車に乗れるイベントを、いくつかやっているようだが、それもコロナで今は中止。ワンマン列車の運転手は、いまどき珍しい長髪の青年だった。

前橋から、両毛線で高崎に出て、とり飯駅弁を買って、上野駅へ。まだ、いい天気だった。


2021年4月18日日曜日

水戸の天狗党ーNHK大河ドラマに出てこなかった史実

日曜の大河ドラマ、渋沢栄一の 自伝。渋沢さんが、明治維新後の日本の発展に貢献したことが、そのあらすじだが、今は、まだ彼の青年時代で、尊王攘夷のもと、新政権には、反対するグループで、道場で剣術の稽古に励んでいる。万延元年、開港を迫る外国との交渉をすすめる大老井伊直弼が桜田門外で襲われる、「桜田門外の変」だ。

この頃、薩長による新政権に反対する尊王攘夷のグループが、水戸で旗揚げをする。西上へ、京へとなんと800人の大移動だった。

その足跡を辿る歴史街道を歩く旅を、10年前くらいだったが、実行した。旅程は、ざっと次の通り。

 水戸~大子~大田原~今市~日光~鹿沼~宇都宮~栃木~太田~倉賀野~下仁田~内山峠 ~望月~下諏訪~伊那~飯田~馬込~中津川~太田~天王~大河原~秋生~木の本~今庄~新保~敦賀

この行程を、三泊四日、四泊五日という日程で、歩く旅だった。

天狗党の一行は、11月に常陸国久慈太子村を出発、京へ向かうはずが、明治新政府軍による待ち伏せで、京へは行けず、北國街道を北上せざるをえず、12月17日に加賀藩で降伏力尽きたのだった。

日光例幣使街道、中山道、北國街道は、すでに何回か歩いていたので、街道歩き旅としてはそれほど目新しいものではなかったが、鍋、釜の日用品、鉄砲、大砲などを持っての大人数での「旅」が、どれほど難事であったかを察するにあまりある。途中の村々では、寺などに泊まり、村人たちが、同情して、いろいろ差し入れなども、したらしい。800人の大集団が、一糸乱れず、長旅を続けたことは、小説『天狗騒乱』(吉村昭著)にしっかり描がかれている。

敦賀で拘禁されたリーダーの武田耕雲斎以下24名の幹部は、慶応元年(1865年)、2月に死罪、次々に352名も死罪、100余名も遠島の罪に。彼らが、押し込められていた「鰊小屋」が、敦賀の海岸、松林の中にあり、鎮痛な面持ちで、手を合わせた。日本が明治維新という新しい国になる過程で、こんな事件があったこと、あまり知られていないのが、残念だ。

先日、水戸へ行った時に、駅の観光案内で、「水戸天狗党のこと、知りたい」、と尋ねたが、資料はゼロだった。たしか、市内には、天狗党の墓があったはず。行ったことがあるが、今はどうなっていることか。渋沢栄一など、表舞台で活躍した御仁だけを、取り上げるだけではなく、天狗党のような存在を歴史に残すことだって大切だと思う。そういえば、奈良県の十津川で、最長距離路線バスに乗った時、「天誅組」の碑があった。大和で旗揚げした尊王攘夷派で、結果は、失敗したが、歴史の裏舞台で活躍した人たちだ。その後、彼らの多くが北海道に移住、たしか、今でも、北海道十津川という地名がある。






   


 


  




2021年4月14日水曜日

回想ー4  久保田真苗さんと

久保田真苗さん、労働省の婦人局長だったとか、ニューヨークの国連本部におられたとか、ということを、知ったのは、後になってのこと。

トルコのイスタンブールで国際会議があり、会議場で久保田さんと初めてお会いした。会議の中日(なかび)、たまたま午後の日程が空いた。「ねえ、トルコ風呂って、関心ない?」、と久保田さんが訊くので、「銭湯が趣味なんで、いちど行ってみたいと」、と返事をすると、「行ってみない?」、「ええ、行ってみましょう」、と決定。

ホテル前に駐車のタクシーに乗った。「トルコ風呂へ、連れてって」、久保田さんは、英語が達者で、運転手にいう。男性用は、多いけれど、女性用は、少ないんだ、と運転手。15分ほどで、旧いビルの前で停まった。ここが入口だよ、というので、ドアをあけた。なんとなく、暗い。しばらく歩くと、受付らしいデスクがあり、人がおらず、大声で、日本語で「今日は、お客さんですよ」、と叫ぶと、カーテンの中から、おばあさんが顔を出す。「トルコ風呂に入りたいの」、と久保田さん、英語で。身振りで理解したらしく、こっちへおいで、と、電話ボックスのような箱のところへ連れていかれ、ここで、服をぬいで、カギを閉めて、あっちの入り口へ行くように、とこれまた身振りでの指示。「パスポート、大丈夫ですかねえ」、と久保田さんに訊くと、「まあ、なんとかなるでしょう」と。

おばあさんが、貸してくれた布団のカバーみたいな布きれを、体にまいて、ふたりは、大きな風呂場へ。天井が高ーく、いちめんの総タイル、ブルーとホワイト。待っていたふたりの女性が、あんたは、こっち、あんたは、あっち、という具合に、ふたりを別々の方向に。タイルで出来たベッドの上に、寝かされた。布をはがされ、まっ裸になった体にプラスチック製のバケツで汲んだお湯を、ぶっかける。なんどか、繰り返し、次は、大きな固形石鹸で、からだを、隅から隅までをこする。その石鹸たるや、15センチx7センチもある巨大な石鹸。そのうちに、仰向きだったからだを、ひっくり返し、うつむきにして、巨大石鹸でごしごし。「久保田先生、すごいですね」、というと「ずいぶん、おっきな石鹸ねえ」、とふたりとも大笑い。トルコ風呂のおばさんも、なんだか、大笑いしている。このふたりのおばさん、年の頃40歳くらいかな、がっちりで、でっかいトルコ女性。日本の女性が、なんとも貧弱にん見えたことか。約20分、「もう、いいわよ」、と久保田さん、日本語で。というトルコ風呂体験だった。

この後、トルコのご縁で、タイとカンボジアで、お会いした。タイでは、アユタヤへご一緒した・有名な観光地、「行ってみない?」とのお誘いで、ご一緒した。その日は、なぜか切符売り場も、正面のゲートも閉まっており、どうしようか、と話していたら、ひとりの男の子がやってきて、こっち、こっち、と手招きするので、ついて行った。と、フェンスが壊れている所で、ここから入るといいよ、とまず自分が中に入り、続いて、久保田さんが入った。フェンスの向こう側で、「無賃入場しちゃった!」と、久保田さん。続いてフェンスをくぐった。だれもいないアユタヤを、しっかり見学することが出来た。当時、たしか、国会議員だった久保田さん、とにかく、国際的っていうか、おかしな人だった。

もう一度、お会いしたのが、カンボジアのプノンペン。ポルポト後の選挙が行われた1993年だった。国際選挙監視団としての訪問だった。なぜか、取材ということで、作家の上坂冬子さんもきていた。国連の代表ということで、現地では、明石さんが、仕切っており、たまたま顔を合わせた。上坂さんが、はでな花柄の黒地Tシャツ姿で現れたのを見て「上坂さん、まるでカンボジのご婦人みたい」、とひとこと。「あら、これ、東京で買ってきたのよ」と上坂さん。なんか、へーんな雰囲気だった.

国連にもおられたという久保田さん。日本語での会話に、時々、英語が出てくるなど、なんとも国際的、茶目っ気いっぱいの先輩だった。




.



 



 

2021年4月12日月曜日

回想ー3  気がついたら、有名人

松坂慶子さん  何年前だったか、赤坂の知人のマンションを訪ねた時、フロアーを間違えて、それらしき部屋のドア―をノック。すぐにドアーが開いて、女性が顔を出した。「あらあ」、と言ってから、「どなた?」というので、間違えに気づいたので、「すみません、間違えました」、と。知人に聞くと、その女性は、松坂慶子さんだった。同じマンションなので、時々、挨拶する程度だけれど、と。松坂さん、どなたかの  訪問を待ってたのかも、とも。ほんの一瞬だったけれど、たしかに松坂慶子さんにお会いした。その後、NHKのテレビで、古本屋のおばさん役や、大河ドラマ篤姫にも出ておられ、あゝ、あの人だ、と。あの時には、本当言うと、松坂慶子さんっていう女優、まったく知らなかった。

若尾文子さん  ところは、フィンランドの首都ヘルシンキ。なんで、あの時にヘルシンキにいたのか、定かではないが、ヘルシンキへは、10回以上、行っているので、ところは、日本大使公邸。事前に会った大使館員から、「いいなあ、若尾文子に会えるなんて」、いわれていたので、名前は知っていたが、ちょっと好奇心。夕食のテーブルは、大使と黒川紀章さん、大使夫人とタグチの間に若尾文子さん、総勢五名の晩餐会。若尾文子さんは、食事中は、ほとんどお喋りなどせず、色眼鏡の旦那黒川さんは、テーマなどない、とりとめのない会話を大使との間でしており、なんか退屈な食事だった。時々、若尾文子さんが、日本酒を注いで下さった。ご自分は、乾杯以外、ほとんど飲まなかった。食後、大使公邸内のサウナやプールを見学をした時、彼女が、びっくりするほど、背が低かったこと。椅子に座っていた時は、それほどでもなかったので、まあ、短足だった。その夜の衣装は、黒のブーツ、洋装だった。

丹下健三夫人  この時も、大使公邸。パリの日本大使公邸。10人ほどの夕食会だった。なぜか、真ん前が、健三夫人。食事も終わり頃、味噌汁とご飯が出てきた。じっと、味噌汁と白いご飯を眺めていたら、「みそ汁、かけご飯、おいしそう」、というなり、健三夫人は、ご飯にみそ汁をぶっかけた。大使夫人は、びっくりしたはずなのに、そこは社交辞令、「どうぞ、どうぞ、ご遠慮なく」、とニコニコ。で、失礼して、みそ汁かけご飯をいただきました。健三夫人と、食後、お喋りを楽しんだあげく、翌日、夫人のご案内で、パリで有名なジーンズの店に連れていってもらった。彼女は、マックスファクターの元社長夫人だったのを、丹下さんが、強引に口説いたとの話を聞いた。





2021年4月5日月曜日

宇都宮駅から 烏山線往復

「今朝は、からすがよく鳴くなあ」、ベランダの前の木にとまったからすが、うるさくないている。烏っていう字は、鳥という漢字とよく似ているけれど、違うんだ、などと考えながら、新聞を読む。読んでいるうちに、烏、烏といいながら、時刻表をひろげる。ありました、烏山線、宇都宮駅から出ている。

 4月3日、西新井駅から東武線(スカイツリーライン)の久喜行に乗車。目的は、宇都宮駅から出ている烏山線。久喜駅(各駅停 車Jで20分待ち、南栗橋行きに乗車。栗橋まで行きたいのだが、ここで30分待ち。こんなに乗り換えるんだったら、最初から上野駅へ行けばよかった。やってきた電車は、日光行の各停だった。幸手駅あたりから、利根川土手の桜が見られた。土手の菜の花とのコントラスト、最高。なんども花見にきたことがある。

 栗橋で、JR東北線に乗り換える。利根川鉄橋を渡る。こうして、ようやく宇都宮駅に着いた。12時。烏山線は、ホームのはずれにある。行ってみたら12時34分発。まだ、時間があるので、改札を出る。宇都宮に来たんだから、とぎょうざを買う。一人前6個で360円。ホームで食べるつもりだったが、他に人がいたので、遠慮した。結局、神明町まで持ち帰って、うちで食べることに。マスク生活です。

 時間通りに列車が入線。2両で.ワンマン。かなり昔、いちど乗った記憶があるが、あまり覚えていない。土曜日のわりには、乗客は、少ない。20名程度。さすがは大都市宇都宮、郊外まで、マンション、戸建ての家々、人口は、どれくらいなのか。車窓両サイドからの景色は、たいしたことはない。鬼怒川の鉄橋を渡る。JR東北線と連絡する宝積寺駅、ここをすぎると、たんぼが広がる。田植えの準備中だ。

 烏山線の線路は、平地に川のように彫った堀の中を走っており、線路近くの家々は、電車の上の方に見える。駅は、ほとんど無人。低い山々が続き、全線中、唯一のトンネルも。最後まで乗っていたのは、7人だった。13時20分、終点の烏山駅に到着。JR線なのに、スイカだめ。20.4キロ、590円を、烏山駅の駅員(ひとり)に支払った。駅前には、なーんもなく、駐車場のみ。で、駅員さんに聞くと、「次は、39分発です」とのこと、これに乗ることに。一緒に宇都宮から乗ってきた客のうち、4人が、どうも、同好者らしく、烏山駅から折り返しの客だった。

 途中の農村風景は、目下、百花繚乱、さくらもいろんな色のさくら、チューリップ、もちろん、主役は、真っ黄色な菜の花、たんぼの畔にも、民家の庭にも、遠くの山々でも、満開だった。行きには、気づかなかったが、長屋門の家が三軒、あった。古い地域なのだと思った。14時25分に宇都宮着。

 駅のアナウンスメントで、京浜東北線逗子行きが出るというので、走って、飛び乗った。ボックスシートで、4人がけを独占したまま、大宮から赤羽へ。ここで、各停の東北線に乗り換え、王子駅下車。都電荒川線に乗る。本日の行程を辿りながら、いい旅だった、と。ところがです、気がついたら、烏山線の烏山から宇都宮間、「無賃乗車」していたのです。烏山線に乗る前に、改札を出て、餃子を買って、再び改札を通過。もちろんスイカで。そのまま烏山駅へ。ここで、590円の片道を支払い、烏山駅から再び乗車。宇都宮駅で清算すべきところ、逗子行きに飛び乗り、王子駅の改札をスイカで通過、ここでは、宇都宮駅からのj乗車賃だったのだ。申し訳ない、いや、得をした、が交差する気分での帰宅だった。







 

2021年3月29日月曜日

回想  青森で地主になった!

毎週末、土曜日の夕方、上野駅、コップ酒、駅弁を買う。乗るのは、寝台車、当時は、青森駅行きの夜行列車は、上野駅から2本でていた。そのどちらかに乗れた。いつ発ったか、目がさめると八戸あたりで、青森駅には、7時頃到着。そうそう思い出した。上野駅でいつものように、ぐっすり眠って、いつものように目がさましたら駅員が、この列車は、上野駅から発車しておらず、寝ておられたお客さんに弁当を配っているとのこと。事故だったのか、台風だったのか、原因については、覚えていないが、弁当を二個もらって、帰宅したことがあった。

さて、青森駅で出迎えてくれた人、浪岡のUさん。60歳すぎの、東北弁のきついおじさん、Uさんとお会いしたのは東京で、「おれ、百姓だ」というのが、やたら気に入り、何回か会っているうちに、「頼みごとがあるんだが、」と。

彼の頼みごとというのは、りんご畑の小作人騒動のリーダーだったUさんに、地元東奥日報から原稿依頼があった。連載もので、「書いてもらえんだろうか」、という頼みごとだった。小作人騒動、ということに関心があり、即答OK。聞き取りのための青森行きがはじまった。勤務中だったので、週末しか行けず、それでも三か月くらいかけての聞き取りで、原稿はなんとか終了。

そのお礼に「なんか欲しいもん、ないか」、というので「土地が欲しい」、と言ってみた。この頃、山登りに熱中していたので、山小屋を、なんて思っていたので、ついつい土地なんて言っていまったのだ。東京に戻り一週間ほど経った頃、書留速達が届いた、Uさんからだった。中には、土地の贈与・登記書が入っていた。びっくりして、すぐに青森へ。登記書はホンモノで、この日から地主になった。現場へ行くと、山の中の一区画で、近くに沢が流れており、沢水をためて、田螺を飼ったり、りんごの木(紅玉)を植えたりした。地主が東京なので、そういろいろ活用は出来なかったが、それでも、月1~2回の青森通いが続いた。東京の友人たちに「わたし、青森の地主でーす」なんて、いいふらし、いい気分でした。

3~4年ほど、春、夏、秋、冬の青森を、Uさんの車でまわった。りんごの花の咲く頃、収穫時の手伝い、秋の十和田湖などへも連れていってもらった。考古学会のメンバーだったUさんと、県内の亀ヶ岡石器時代遺跡の「穴堀り」も体験した。三内丸山遺跡は、まだの頃だった。そのUさんは、生存中、贈与した土地の税金も払ってくれていた。Uさんが亡くなり、土地は、ご遺族にお返ししたが、気分のいい思いをさせていただいた。地主だったあの土地は、その後に開港した青森空港近くだった。





、 

2021年3月28日日曜日

三輪先生が神明町にきた

3月28日、三輪先生が来宅。コンピューターの始動にきた。これからは、いくらかましな文章、配列になると思います。画像挿入練習中!



たぐち

2021年3月26日金曜日

モノレールその二  大船~江の島

 3月22日、曇り空。乗り鉄なので、天候はどうでもよろしい。北千住駅から常磐線ライナーに乗る。上野から東京駅まで停まらない電車だ。東京駅からは、東海道線熱海行きに乗車。これも品川、川崎駅しか停まらない。ということで、ここまでは、とんとん拍子。

 横浜駅で下車。根岸線ホームへ。実は、京浜東北線は、大宮から横浜駅までなのに、なぜか大船が終点になっている。横浜からは、根岸線が大船駅だということが判明。これまで何度も途中駅の石川駅(中華街)までは、行ったことがあるのに、この線が根岸線だとは知らなかったのだ。京浜東北線が、そのまま磯子から、大船駅まで走っており、ともかく、この日は、根岸線を意識しながら、洋光台、港南台、本郷台駅を通り、大船駅へ。こう見ると、横浜には、丘や小山が多い。駅周辺は、立派なマンションが立ち並び、さすが。

 大船駅に到着したのは、11時45分。目指すモノレールの出発が11時50分。JR駅からの連絡路を走る。ベルが鳴っていたが、飛び乗る。客は6名、2両編成。進行方向右側に立って外を見ると、柱が右側に並んでいた。千葉のあの風景と同じではないか。最前列の運転手横(中央)の窓から前方を見ると、なんと、モノ(ひとつ)、レールが頭上にある。「なーんだ、千葉市のモノレールと同じではないか」と独り言。そうなんです、そうだったのです、上部のレールに電車がぶら下がっているタイプ、千葉市モノレールとまったく同じでした。

 この線は、ほとんど住宅の上を通っており、しばらくすると海が見える。途中の駅でちょと降りてみようと、ホームに降りたら、後ろの車内にいた車掌が、降りるんですか、と聞くので、ちょっとホームだけで、というと、すぐに乗って下さい、と。モノレール駅の改札口が、降りてすぐのホームにあったんです。コロナ対策とのこと。この地帯の特徴で、小高い丘、竹藪などが多いため、トンネルをいくつも通過。20分ほどで終点の江の島駅着。ここは、ビルの5階。目の前に江の島が見える。

 地上にエレベーターで降り、信号を渡ると江ノ電の江の島駅。中学生らしき40名くらいの集団が、電車から降りてきた。お揃いのマスク姿で、修学旅行かな。「密」をさけて、再びモノレール駅に戻り、大船駅へ。

 大船のモノレール駅で、赤線入り制帽の駅長さんに「あのう、モノレールの資料、ありますか」、と尋ねると、「今年の7月で50周年になります。記念本を今、作っているところなので」、とのこと。「千葉市にも、モノレールがありますね」、と言ってみたら「うちの方が、先だったんですが、距離で負けてしまいました」、と残念そうだった。

 大船駅構内で、鯖寿司を買って、途中で食べるわけにいかず、神明町に持ち帰り、いただきました。


2021年3月16日火曜日

ちょい旅  越後線 新潟県

奥の細道を歩いたのは、2005年。江戸深川を出たのは、1月、日光から東北へ、まだ東北大地震が起こる前だった。最上川を日本海側へ下り、秋田から新潟へ。4月に、新潟から直江津までを歩いた。旅は、4~5日歩いては、東京に戻るを繰り返しながら、歩を進めるというやり方。トータルで、60日間かかった。450里176キロ。

今回 の「乗り鉄」は、越後線。新潟から柏崎までの83.8キロ。新潟までの新幹線は、簡単だが、その先の連絡が難儀だった。新潟から柏崎まで、もう一つ信越本線があり、こちらは、利用者も多く、本数も多い。柏崎、直江津方面へ、というと信越本線の切符が出てくる。越後線です、といっても、こっちの方が早いですよ、とJR駅員はいう。おかげで、切符を二回も買いなおした。

10時22分、新潟から越後線に乗車。客は、少ないけれど4両編成。ボックスシートあり。新潟は、雨だったが、じきに雨は、あがり、しかし曇り空。雪は、まったくない。そういえば、新幹線の浦佐あたりの田んぼには、残雪があった。

しばらくは、新潟市街地を走る。芭蕉道は、もっと海よりだったような気がするが、車窓からは、海らしき景色はない。

1時間ほどで、吉田駅着。列車は、ここまでで、次の列車柏崎行きは、1時間後。ここは、弥彦神社への弥彦線が通っている。南は、越後三条で新幹線と連絡している。

奥細歩きの際には、弥彦神社入口の日本旅館に泊まった。他にチョイスがなく、結構な泊まり賃だった。朝の散歩で、歩いていたら競輪場が近くにあったのを思い出した。

吉田駅では、9時、10,11,13,14,17,20時には、電車がこない。暖房のはいった待合室があるけれど、乗客は2名。駅周辺も店は皆無。タクシー会社あるのみ。これじゃあ、越後線はすたれるばかり、と実感。

12時32分、柏崎行きに乗車。大雨があったらしく、道路に水たまりが出来ていた。出雲崎。ここ出雲崎、寺泊は、芭蕉の頃は、佐渡島へ船が出る港町だった。宿泊施設や、女郎もいたらしい。芭蕉は、ここで、一句読んだ。

     荒海や 佐渡によこたふ天河

歩き旅では、日本海側右の奥に、佐渡島がたしかに見えた。そういえば、歩いた車道は、何十キロも、信号がまったくなかったのを思い出した。

13時40分、柏崎駅着。ここまでが越後線。40分待って上越妙高行きの特急に乗車。これは、新潟発。日曜だからか結構な乗客数。直江津は通過、上越市に入ると残雪あり。あの時は、上越市で盛大な花見見物をしたっけ。車窓の風景も様変わりして、雪山が見える。

上越妙高駅に着いて、30分待ち。金沢からきた新幹線に乗る、15;54発。ようやく空席をみつけた。それほどの混みようだ。この先、上田、軽井沢、高崎で乗ってきた客、座れず、次の各駅停車の「あさま」に乗り換える人もいた。こんなに混んだ新幹線、久しぶりだった。卒業旅行の学生のグループや、ちょい旅軽井沢の女の子グループなどが目立っていた。自粛の緊急事態宣言下なんだよね、今も。

行きも、帰りも、西の空に、富士山が、しっかり見えた。夕日の富士山のシルエット、格好よかった。


2021年3月12日金曜日

ギネスブック認証のモノレール  千葉市

ここのところ、ちょくちょく千葉駅を訪れていたが、駅構内に「モノレール」の文字があり、気になっていたので、 3月11日、行ってみた。千葉駅までのルートは、いつも通り、綾瀬駅から京成バスで、新小岩駅経由、総武線で千葉駅へ。総武線の車内放送では、乗り換えアナウンスでは、モノレールが出てこないが。広ーい駅構内、端から端まで歩いて、ようやく発見。かなり隅っこにあった。スイカOK。

エスカレーターは、JR千葉駅から、県庁方面へ行くのが一号線、郊外の千城台駅へ行くのが二号線。ホームは、どこも同じ構造で、上り、下りのエスカレーター、エレベーターがある。10分おきくらいの頻度でくるので、便利。といっても、乗った電車は、どれも空いたいたが。

モノレールは、羽田、藤沢などいくつか乗ったことがあるけれど、レールの上をモノ、レール(一本の線路)が走るもので千葉のは、レールの下に車両がぶら下がる(懸垂型というんだそうだ)タイプだ。

二両編成で、運転手がいるワンマンカー。運転手横の前面車両から、真下がまる見えになっており、最前列で見学。速度は、ノロノロ、都電並みで、しかし、急カーブでは、かなり揺れる。路線といっても、上にあるのだが、ほぼ、下は、道路で、走る車がよく見える。時々、駐車場の上とか、人家の屋根の上とかが見える。電車の下に線路がないので、なんか、変。じっと見ていると、目が回りそう。

終点の千城台駅~千葉駅間を往復(片道560円)したが、その間には、千葉公園、動物園、スポーツセンターなど、市や県の公共施設がある。というわけで、このモノレールは、千葉市が経営者。二両の列車には、なぜか保育園のラッピングがついており、「キートス・チャイルドケア」のカタカナ文字。キートスは、フィンランド語で「ありがとう」。なつかしい単語。

一号線は、3キロ、二号線は、12キロ。車両そのものは、ドイツ製。実は、このタイプで、乗客を乗せて走るモノレールとしては、最長記録ということで、ギネスの認証を得ている(2001年)。ところで、駅構内は、ホームから下を覗くと、線路がなく、平なコンクリートが1メートルほどのところにあり、「ホームから下に降りないでください」との警告アナウンス。

約2時間、見学を終え、千葉駅構内で売り出し中のバンを買い、しかし、気がついたら、マスクなので、食べることが出来ず、西船橋駅に出て、そこから武蔵野線で新松戸~綾瀬駅へ。バス待ちの時間に、パンを食べた。16時の昼食。




2021年3月9日火曜日

自粛破りー7  綾瀬駅―新小岩駅―金町駅ー八潮駅―神明町

綾瀬駅 のバスターミナルで、停まっているバスに乗ろう、ときめて出かけた。新小岩駅行きが停まっていた。一時間に4本の路線バス。京成バスだけれど、シルバーバスOKだ。

発車して2,3分で足立区を出る。バス停は小菅、葛飾区だ。じきに京成堀切菖蒲園駅。菖蒲園は、ここから5,6分。駅の裏通りに古本屋があったが、つぶれた。平和橋通りに出る。ここから、新小岩までは、一直線。平和橋通りは、足立区の西の端、扇橋あたりから、荒川沿いに続いている。新中川で平和橋を渡ると、総武線新小岩駅は、すぐだ。駅前で下車すると、目の前に停まっていたのが、金町行きだった。ここからは、亀有行きも出ており、なんどか乗車したことがある。亀有行きは、新小岩から奥戸街道にでて、環七を亀有まで走る。

金町行きは、一時間に2本。昼間の時間なので、乗客は5名のみ。全員がシルバーバス。途中、スーパー銭湯古代の湯新小岩をすぎ、環七を横切って東へ。京成小岩駅前から、愛国学園、鎌倉八幡前、鎌倉学園を経て、北方向へ。柴又街道だ。「矢切の渡し」印の和菓子屋があった。帝釈天への参道のある信号では、多くの参詣者たちの姿が見えた。自粛していないんですね。

ここからは、柴又から金町まで走る京成線と、金町浄水場の間を、柴又街道は、走っている。午後15時、金町駅前のターミナルに到着。金町からは、千代田線綾瀬駅までは、ほんの数分。でもせっかく路線バスを乗り継いてきたので、最後まで路線バスで、と時刻表を見ると、八潮行きが15時15分に出る。埼玉県だけれど、これに乗った。乗客は、12名。埼玉県内なので、シルバーパスは、だめ。

しばらく水戸街道を走り、左折。水元公園のわきを往く。縛られ地蔵のいる南蔵院を右にみて、中川の潮止橋を渡ると、八潮駅は、すぐだ。毎朝の散歩コース。限りなく足立区に近い。駅でバスを降り、コミュニテイバス綾瀬行きに乗る。10分ほどで、神明町帰着。17時10分だった。

2021年3月6日土曜日

東山魁夷と都倉家のこと

19 64年、50年以上も前の話。

初めての外国、イスラエルに留学した時のこと。テルアビブにあった日本大使公邸を訪問。お茶に招待されたのだ。玄関でベルを鳴らすと、日本人の女性が出てきた。大使館員かしらと思ったら、なんと大使の奥様だった。エントランスホールの壁に一枚の絵があり「どなたの絵ですか」、と尋ねた。風景画で、薄い緑色いっぱいの絵だった。すると、「これねえ、いいでしょう、とっても気に入ってるのよ、まだ、売れてない画家さんだけれども」、とおっしゃる。その絵が、東山魁夷画伯による絵だったことを教えてくれた。

その後、たぶん5~6年後、スウエーデン社民党の教育施設ボンメルスウイックで3か月ほど滞在したことがあった。スウエーデンらしい、森の中の施設で、湖もあり、とても気にいっていた。友人たちと、散策をしていた時、ひとりの日本人に会った。絵描きだった。その絵を一目見た時、色彩、構図などが、あの絵、都倉大使公邸のエントランスホールにあった、あの絵だった。その時は、名前を思い出せなかったが、確かにあの絵だった。

帰国して、何年も後、東山魁夷画伯の存在を知った。展覧会にも行ったし、著書も何冊か読んだ。そっか、あの時の都倉大使のご子息が、都倉俊一氏。お母さまの顔、まったく記憶にないけれど、東山魁夷画伯の話は、本当だった。

今朝の新聞に、「文化庁長官に都倉俊一氏」の見出しをみつけ、昔々の話を、思い出した。


自粛破りー6 茨城県 水戸線

 3月4日、朝10時14分、松戸駅から常磐線に乗車、水戸行きの快速。10両編成の最後部、ボックスシートのある車両。ラッキー、進行方向左側の席、ゲット。そうなんです、2月13日と同じ席。電車も、時間も、前回の水戸行きとまったく同じ。これで、本日の乗り鉄の満足度50%。土浦駅で、前の車両5台が切り離された。身軽になっても速度は、変わらない。

前回よりも天気はいい。春霞、それほどでもなく、前方には、筑波山が、くっきり見える。水をはった田んぼ、そろそろ田植えの準備か。偕楽園での臨時停車はなく、水戸駅へ。偕楽園の梅は、満開、駐車場は、車が満杯だった。

水戸駅では、今回は、改札を出た。駅そのものが、巨大なショッピングセンターになっている。数年前、関東八十八か寺の巡礼の際に、駅ビル外れのホテルに泊まったことがあり、この駅ビル内は、見学済みだ。2月13日は、鹿島臨海鉄道に乗るのが目的だったので、改札を出なかった。駅前にある水戸納豆の碑を見て、納豆専門店で、納豆を買った。

今回の目的は、水戸線。水戸というのに、始発は、友部駅だ。水戸から3つめの駅友部で、30分ほど、待って、折り返しの小山行きの各停に乗車。途中の笠間神社には、来たことがある。左側前方には、ずっと筑波山が見える。乗客は、7名。カメラと録音機を持った青年も。ここら辺は、麦畑が多い、

下館駅、ここからは、真岡鉄道、関東鉄道常総線が出ている。どちらも、乗り鉄済。14時9分、小山駅着。友部から小山までは、約50キロ。乗り換えのため、階段を降りて行くとホームの列車のベル。飛び乗ったら、なんと反対方向、黒磯行きだった。瞬間、あっ間違えたと、叫んだら、閉まったドアが開いた。みたら、車掌さんが、手招きで、降りなさい、と叫んでいた。車内にいたお客さんが、手を振っていた。よかった、助かった。

じきにきた電車は、逗子行きで、これに乗車。赤羽で乗り換えて、京浜線で王子駅下車、都電で町屋駅へ。千代田線で綾瀬へ、17時、神明町着。さっそく、水戸納豆の夕食。

2021年3月1日月曜日

自粛破りー5  栃木県 群馬県 東武伊勢崎線、両毛線

22月28日、2月最後の日。明日から3月、もう春だ。 

一年前の25日、安倍PMが、緊急事態宣言の記者会見をした。あれから一年経ち、しかし、事態はまったく改善していない。一年前の28日、国会(予算委員会)では、マスク不足が議論のテーマだった。マスクは、簡単に手に入るようになったが、コロナ状況は、まったく改善していない。

今年の2月28日は、日曜日。そういえば、2月と3月、まったく同じカレンダー。毎日曜日9時から、NHKのテレビで政治討論会を見るのが習慣になっており、しかし、琵琶湖マラソンの実況とかで、1時間繰り上げて、8時からに変更。テーマは、女性の議員の各党代表が徹底議論、男女格差をどう改善? 女性の政治参加に関心があったので、1時間、テレビを。内容は、たいしたことはない、との印象。で、なんとなく、9時14分の西新井行きバスに乗った。

日曜日なので、バスは、がらがら。西新井駅で、上りにするか、下りにするか、東武線(スカイツリーライン)のホームで待った。日曜日なので、上りホームは、かなりの人.来た、下り線。東武動物公園行きの区間快速。車内は、4人しか乗っていない、がらがらだ。空は、晴れてはいるが、遠くは、春霞でぼーとしている。それでも、律儀に富士山のシルエットが見えた。

30分ほどで、東武動物公園駅着。ここで下車。反対側のホーム、伊勢崎線方面、に加須行きが到着。乗る。そうだ、伊勢崎に行こう。羽生駅を通る、ここで秩父鉄道に乗ったことがある。加須で降りる。待つこと20分、次は、館林行き。こちらも、15分ほどで着いてしまった。乗り換え、もう一回。今度は、太田行き。太田駅、20分くらいで着いてしまった。明らかにアジア人らしき団体さんが、ホームで待っている。ここら辺には、アジアからの出稼ぎさんが、多い。ホームでキョロキョロしていたら、今まで知らなかった路線のあることを発見。小泉線(6.4キロ)、多々羅線(12キロ)、いずれも、東武系だ。多々良線の方は、JR両毛線とつながっている。ここでは、30分ほど待つ。最後の電車は、伊勢崎行きだ。途中、足利駅にも停まる。山火事の様子が報道されていたが、ヘリコプターが、3機、進行方向右の山あたりを飛んでいた。たしか、本日8日目、なかなか鎮火しない。アジア人たちの集団は、世良田駅で下車。駅の案内板に「世良田東照宮」という文字。気になるので後で調べてみよう。

12時45分、伊勢崎駅着。ここまでで、電車を乗り換えたのが、東武動物公園駅、加須駅、館林駅、太田駅、そして、ようやく目的地の伊勢崎駅着。考えてみれば、浅草から特急伊勢崎行きが出ているのだが、まあ、各停で、テマヒマかけて乗るのもいいもんだ。ここから、JR両毛線に乗って高崎へ。30分ほど。左前方に雪の浅間山、上越国境の山々も真っ白。

高崎駅で、たるま弁当を買って、がらすきの新幹線の中で食べながら上野駅へ。乗り換えが多かったが、本日もいい旅だった。神明町には、4時帰着。



2021年2月25日木曜日

j自粛破りー4  静岡県  天竜浜名湖線

2月22日、ちょっと遠いめの静岡県へ。目的は、天竜浜名湖線(略天浜線)。秋葉街道の旅をした時に、天浜線の途中駅二股駅から浜松まで乗ったことがあるが、全線乗りは、はじめて。

実は、『地形の思想史』 原武史著、という本を読んでいたら、天浜線の気賀駅近くの浜名湖畔に、皇室の御用邸(なぜか、西気賀保養所とよばれていた)があったという文章。とても気になり、1800円も出して、その本を買ってしまった。著者は、皇室が専門の大学の先生で、もっと有名なのは、熱心な「乗り鉄」で、知られている方だ。

浜名湖は、東海道新幹線で、通りすぎる時に眺める、海に入る景色が見慣れものだが、反対側、裏側というか北側は、もっと、湖畔が広がっている。そのへりを走るのが天浜線だ。みかんで有名な三ヶ日も、こちら側にある。東海道の脇街道が通っていて、姫街道ともいう。歩き旅では、過去二度来たことがある。

22日は、日曜日と祝日の間の月曜日というわけで、人出があるかな、と気にしながら、出かけた。東京駅新幹線のキヨスクで、品川づくしー駅弁を購入し、9時57分発の「こだま」に乗車。こだまは、全駅に停車する特急だ。10~15分おきに停車する。その上、先を急ぐ「のぞみ」が、ゴオーとけたたましい音をたてて、抜いていく、走り去っていく。それを停車駅で待つ。というわけで、豊橋駅に着いたのは、12時2分。途中の三島での富士山は、春霞でうっすらの富士山だった。新富士あたりでの工場の煙突の煙が、まっすぐだったので、無風状態、いい天気です。

豊橋駅から東海道線で、ふたつ目の駅新所原へ戻り、ここで天浜線に乗る。1時間に1本しか出ておらず、50分近く待つはめに。静岡、浜松、いやーな予感がしたんですよ。天浜線の改札口のすぐ横、名物うなぎ弁当、と張り紙。天浜線に乗りにきた、それらしい6名の方たちが、全員注文。狭い待合室に、店員が焼き立ての〇〇弁当を運んできた。6名のみなさんが、いっせいに弁当を食べる、こりゃたまんない、と待合室の外へ、退避。到着した電車の運転手さんが、どうぞ、中で待ってて下さい、と。

13時50分発。一両のみのデイ―ゼル車。もちろん、ワンマン。他に高校生5名。三ヶ日、気賀へ。進行方向の右側は、浜名湖。東海道側からでは見られない、いい風景だ。気賀あたりの浜名湖にちょっと突き出た半島があり、地元の人たちは、ここをプリンス岬と呼んでいたと、前述の本にあった。那須とか、日光とか、皇室の御用邸は、いくつかあるが、ここは保養所。現天皇が皇太子時代に、夏休みに滞在されていたとのこと。地元の子らと、野球なんかやっていたらしい。

天竜浜名湖線は、もともとJR線だったが、1987年に廃線となり、現在の3セクとして走っている。進行方向の右側は、天竜川に続くフルーツ路線だ。ときどき「〇〇料理」の看板がある。浜名湖名産だから、当たり前のことだが。線路と併走する道路を、車が電車を抜いtげいく。低速度の列車。新所原~掛川間は、67,7キロ、約2時間かかった。乗車賃は、1670円、乗りでがあった。天竜二股駅で、乗り鉄さん、撮り鉄さんたちは、下車。最後までの乗車は、ひとりだった。掛川駅には、15時40分着。16時10分のこだまに乗れた。静岡で、後続の「ひかり」に乗り換え、ようやく、車内で、朝、東京駅で買った「品川づくし」をじっくりいただきました。19時、神明町帰着。

2021年2月24日水曜日

自粛破りーその3   千葉県  久留里線

 房総半島には、短い路線(鉄道)が4本走っている。

 いすみ鉄道、小湊鉄道、銚子電気鉄道、久留里鉄道。 どれも、複数回乗車しているが、まだなのが久留里鉄道。で、コロナで非常事態中だけど、行ってくるか、自粛破りをしてきました。

 8時半に神明町発。綾瀬駅に出て、新小岩行きバス乗車。これがいちばん早い。綾瀬から西日暮里、秋葉原、総武線で新小岩まで、これだと、1時間はかかるが、バスならば25分。シルバーバスも使える。

 新小岩から千葉に、10時15分の外房線で木更津へ。強風のため、木更津から先は、間引き運転中とのこと。10時50分木更津駅着。久留里線は、1時間に1本で、11時15分乗った。この線でも、強風で、 久留里駅から先、上総亀山までは、不通とのこと。といっても、普段でも終点の上総亀山駅までは、3時間に一本しか走っていない。

 一両編成、ワンマン車、乗客12名で、明らかに乗り鉄、撮り鉄は、4名(含むたぐち)。電車は、たんぼの中を走る。竹藪の竹が、強風で大きくしなっている。集落があり、停留所があり、電車は、律儀にひとつづつ停まるものの、乗降者ゼロ。車掌兼運転手さんが、「風が強いため、徐行で走っています」、とアナウンス。車窓からの景色は、ほとんど変わることなく田んぼが続く。12時すぎに久留里駅着。改札口まで20mほどしかないのにこの強風、立っていられないほどだ。改札口には、制帽のひもをあごにかけたおじさんがおり、切符を回収していた。新小岩からのスイカを出すと「ちょっと待ってて下さい」と、駅舎の中に戻り、紙きれを持ってきた。駅員のいる駅で、清算してください、これを見せて下さい、とのことでした。久留里線は、JR線なのに、ほとんどの駅が無人駅で、木更津からこっち、スイカは使えなかったのです。

 降りて、次の列車(同じ電車)まで、1時間近くあるので、駅の外へ出てみたが、バス停らしきものもなくな、店らしいものも見当たらない。強風の真っ只中に立っていると、車が停まったので、ここら辺にたべもの屋、ありませんか、と聞くと、あの先を曲がったところにあるよ、と教えてくれた、信号が変わると、警笛を2回鳴らして走り去った。

 あの先までは、100mくらいしかないのに、なんじゃ、この風、とにかく、立っていられないほど。あった、店というより、持ち帰り専門店で、男の人が、外で片付けをしていた。あのう、入口は、どちらですか、と尋ねると、「いらっしゃい、お客さん」、といいながら、裏口方から中へ入り、出窓から、「なににしますか」。親子とか、カレーなどもあったが、鯖寿司に決定。10分ほど、その場で待って、ようやっとのおもいで、駅舎に戻った。よく見ると、駅舎というより、掘っ建て小屋。駅内には、6人分の椅子があり、座って食べようとしていたら、窓口から顔を出したさっきの駅員さんが、「お客さん、電車の方があったかいので、あちらでどうぞ」、というので、出しかけた鯖寿司を持って移動。だあれもいない電車の中で、ゆっくりランチ。500円だったけれど、ライスおおめ、鯖の一切れ一切れが、厚くて、酢の具合がよろしい、ひさしぶりに、うまい鯖寿司を堪能しました。

 13時55分、久留米駅発車。乗客3人。戻りも、風やまず、ノロノロ運転。ほとんど寝てしまった。目が覚めたら、木更津駅。どこから乗ったのか、乗客は、増えて15名ほどになっていた。木更津駅で15分待ち、快速久里浜行きにのり、15時10分、新小岩駅に帰着. 風が強かったこと、鯖寿司がうまかったこと、久留里線の感想です。


2021年2月16日火曜日

自粛破りーその2  大洗鹿島線ちょい旅

いつもは、コンビニで 買っている納豆、ねばねばは、まあまあなんだけれど、味がいまひとつで、やっぱり、納豆は水戸。天気よし、風なし、それほど寒くもなく、「いい日、旅立ち」というわけで、水戸へ行くことのした。

綾瀬に出て、千代田線で松戸まで。ここで常磐線に乗り換える。待つこと20分。水戸行きに乗車。ボックスシートを求めて最後部まで、走行中の電車の中を歩く。申し訳ないほど、客は少ない。2x2、ボックスシートもがらがら。左手に、春霞のうすぼんやりした向うに、筑波山が見える。牛久駅の近くにで、白梅がきれいに咲いていた。ほとんどたんぼの中を走る。

「偕楽園で、臨時停車します」、のアナウンスがあり、電車は止まったけれど、降りる人はいなかった。コロナで偕楽園は、梅まつりを中止していたが、入園はOKだったが、人影は、まばら。梅もまだ満開ではなかった。

水戸駅に到着。と、鹿島臨海鉄道の文字。そっか、これだ、これに乗ろう、と時刻表を見ると30分後に出る。鹿島線は、銚子で一度乗ったことがあるが、それもずいぶん昔のことで、なんにも覚えていない。でも、納豆を買わねばと、駅構内をキョロキョロ。洋菓子店はあったが、納豆店なし。水戸なのに、納豆なのに、なーんでだ、なんでないんだ。しかたなく、コンビニに入ったら、入口近くにあった、赤い紙でくるんだ、藁いりの納豆、ひとつ260円。1本ゲット。水戸へきた目的は、これで達成。

どうせ空いているだろう、と、発車すれすれにホームへ。と一両きりの電車で、なんとほぼ満員。空席はなかった。たんぼの中を、都電のような感じの鹿島線。駅は、ほぼ無人で、客は駅ホームまで、結構な階段を登り降りしなければならない。エレベーターもないので、車椅子はだめ。こんな路線が、いまだにあるのだ。

15分か20分ほどで、大洗駅到着。と、乗客のほとんどが下車。東南アジアからの若者たちらしき集団もいた。いまどきインバウンドではない。労働者風の若者たちの集団、大洗になにをしに、と思った。そういえば、大洗には、たしか原発があったっけ。

残った電車には、高校生5名を含む10名の乗客。学生服姿の彼ら、コートを着ていない。さすがは、温暖気候の当地。線路は、竹藪、雑木林の中を往く。飛行場ができる前の三里塚の景色だった。人家のない地域は、駅もなく、しかし、人が住んでいるあたりは、短い距離でちょくちょく停まる。鹿島臨海鉄道といいながら、海は、まったく見えなかった。鉾田あたりから、農業用ハウスが増え、いちごかな、それともメロンかな。鹿島サッカースタジアム駅を過ぎて、香取駅。鹿島鉄道は、ここまで。銚子からのJRに乗りかえて、成田まで。成田から安孫子、千代田線で綾瀬に。16時20分、綾瀬駅帰着。

納豆を買いに行ったはずなのに、思いがけなく、鹿島臨海鉄道に乗ることができた。

2021年2月14日日曜日

自粛破りーその1 ちょい旅「御殿場線」

新聞を読みながら、テレビの天気予報を見ていたら、「今朝は、富士山がくきり見えます」、と予報士さん。都心からでも、こんなにきれいな富士山が見える。「そうか、富士山を見に行こう」、ということで、さっそく、出発。

10時15分、新宿駅着。祝日なので、と思いきや、意外と空いていた。祝日なので、特急の本数も多い。10時40分発の特急富士山3号の切符を買った。ホーム、駅員の方が多い。6両編成の6両めで、同乗者は、6名。途中、新百合ヶ丘、本厚木など、いくつかの駅に停車するものの、乗降なし。車内案内のアナウンスメントは、英語の他、中国語、韓国語もあり、インバウンドの利用が多かったことがわかる。春霞の奥に、丹沢山々が見える。

間もなく松田駅着。ここで乗り換えると小田原、湯元などへ行ける。御殿場線は、沼津から御殿場、松田から、東海道線の国府津駅までの60.2キロ。

富士山が、進行方向右側に見えはじめる。さすが、雄姿、圧倒される。箱根の足柄峠へ登った時に、この駅(足柄)で乗ったことがあったのを思い出した。小山駅を通過、とまたまた思い出したこと。今から60年以上前のこと。高校生だった頃のこと、友人に誘われて、ここ小山へ来たことがあった、その友人は、社会問題に取り組んでいて、この本、読みなよ、と、野麦峠の本を貸してくれた。生まれて初めて、社会問題に触れた、体験だった。小山駅の近くの繊維工場の寄宿舎で、女性社員(労働者)たちに面会。いろいろ聞き取り面接をした。彼女たちの多くは、東北出身者で、どんな内容の聞き取りをしたかは、覚えていないが、読んだばかりの野麦峠に出てくる岡谷の女工のことを考えていた。あんなこともあったっけ、と思いながら、小山を通過。車窓からの風景には、そんな建物は、なかった。

御殿場駅で下車。沼津行きの御殿場線は、30分後。で、駅舎の外に出てみると、ありました、でっかい富士山。よーく見ると、富士山は、全体が真っ白っていうわけじゃなく、裾野半分には、雪がついていない。茶褐色の枯草の平原だ。しばらく眺める。それほど寒くはない。閑散とした駅構内のコンビニで、おにぎり一個買った。これが、本日のひる飯。ここから沼津までは、30分ほど。五両編成で、乗客は、まばら。祝日といっても、国旗を出している家は、一軒もない。でも、富士山は、いつまでも、どこからでも、ずっと見えた。

20年ほど前、東海道を京から江戸へ向けての歩き旅をした際に、箱根を通らず、脇街道のこの道、つまり、御殿場線沿いに沼津から御殿場を通って、松田から、海側の街道を国府津まで歩いたことがあった。松田から国府津までは、ほとんど下り坂の道だった。

熱海に戻り、こだまで東京駅へ。これも、がら空きで、4名しか乗っていなかった。東京駅で新幹線構内の駅弁屋へ。いつもは、出発時の朝、必ず買う駅弁ー品川づくしといって、貝づくしの駅弁(1000円)、「あった!」、いつもは、午後になると完売でないのに、あったのだ。で、なぜか2個買ってしまった。とっても、愉快、うれしかった。今回のちょい旅で、最高うれしかったこと、品川づくし、駅弁を買えてこと。


                   

2021年2月10日水曜日

回想ーご縁のあった方々

 令和三年、誕生日(5月22日)がくると83歳。よくもまあ、長く生きてきたもんだ。その人生、ご縁のあった方々が多くいた。

 某外資系の会社が主催するセミナーに、5年間、参加していた。伊豆会議というセミナーには、当時の日本を代表する中堅リーダーたちが招待されており、理由はわからないが、なぜかリストに入っていた。参加者の顔ぶれは、大学の先生、企業の役員、各界で活躍中の現役にのみなさん。山本寛斎さん、矢内廣さん、三枝成彰さん、竹田津実さんなどの名前を思い出した

 寛斎さんは、残念なことに昨年亡くなった。とっても明るい方で、セミナー中、午前、午後、夕食時、毎回着替えて登場、さすが服飾デザイナーだ。朝ご飯を食べながら、「今朝のシャツ、色がいいですね」、と感想を言うと、「プレゼントしましょうか」、と。そんな約束などすっかり忘れた頃、宅急便がきた。寛斎さんからだった。あのシャツが、入っていた。有名な、あの山本寛斎デザインのシャツ、一枚ゲット。

 矢内廣さんは、だれでも知っている『ぴあ』の社長。当時、埼玉の高齢者団体でボランテアをしていた。会員の高齢者たちが、「死ぬまでに、いちどホンモノの相撲を見てみたい」というので、矢内社長に相談。と、すぐに社長秘書から電話があり、両国国技館での初場所の切符を二枚送ってくれた。必ず、タグチが同行すること、というのが条件。優待券は、いわゆる砂っかぶりといわれている土俵真下で、テレビなどに映ってしまう「席」だった。ルールは、会場に入る前に、指定のお茶屋へ立ち寄ると、飯天を着た男性が席まで案内してくれる。休憩時間には、お茶を持ってきてくれる。終了して帰る前に、茶屋に立ち寄ると、大きな紙袋、相撲見物おみやげだ。中には、焼き鳥、番付本、てぬぐい、皿など、相撲関連のあれこれがいっぱい。お連れした高齢者さんは、大喜び。で、これを6回続けた。両国の初場所を6年もみたことになる。ところで、死ぬまでのはずが、みなさん長寿されている。

 三枝さんは、有名な作曲家。上野の文化ホールで上演のオペラ忠臣蔵に招待してくれたことがあった。高校時代の友人と行ったが、帰りの電車が故障で、タクシーで帰宅したのを、思い出した.竹田津実さんは、北海道の小清水町でキタキツネを相手に暮らしていた獣医さん。大分県生まれのくせに、キタキツネに魅せられて、北海道へ。絵本など、著書も多い。小清水町へ、尋ねたこともある。

2021年2月8日月曜日

Air Port

コロナで自粛中だけれど、羽田空港へ行ってみた。北千住駅で、バスを待っていたら、羽田行きのバスがやってきて、だれも乗らないので、乗ってみるか、と。本当は、緊急事態宣言は、今日までなんだけれど、ちょとだけ、宣言やぶりしてみるか。

 羽田空港行きのバスは、都内各駅、近県の駅などからも出ている。空港まで、どこにも止まらず、まっすぐに走る。便利になったもんだ。

 初めて羽田空港を利用したのは、イスラエルへ留学した時。1964年だった。その頃は、エアフランスの直行便が、東京からテルアビブに週3回飛んでいた。今は、イスラエル行きはヨーロッパのどこかの空港で乗り換えなければならい。羽田空港には、いわゆる、お見送りの人たちが、あっちにも、こっちにも来ていて、バンザイなんかを合唱しているグループもあったりして、まるで戦地出世するような,雰囲気だった。その後、団体旅行が盛んになり、搭乗前に飛行機の前で記念写真なんかをとっていた。

 訪問国が、最初の頃は、ヨーロッパが多く、いちばん近いルートは、羽田空港からアメリカのアンカッレジ経由だった。米ソが緊張関係にあった当時、ロシア上空が通れず、北極のアンカッレジだった。6~7時間でアンカレッジに着陸し、2時間くらい空港内の免税店で買い物をする、これが楽しみだった。帰国時には、ここで、キャビアなんかを買わされた。一番最初のヨーロッパは、コペンハーゲン空港、ここで乗り換え、ヨーロッパ各都市へ行った。フライトがなく、コペンハーゲンで一泊することもあり、だから、コペンハーゲンは馴染みの都市。チボリ公園など、何度も行った。公園前の中華料理店は、馴染みになるほど通った。

 成田空港は、三里塚闘争などもあり、開港まで、かなり時間がかかった。空港までの足は、箱崎(シテイターミナル)からの定期バスで、たしか、箱崎で手続きもやっていた。まだ、京成電車が空港内に入っていなかった。だから、成田空港から外国へ行く時には、見送り、出迎えは、少なく、代わりに、見送り、出迎えを担当する業者もいた。

 アメリカ留学時も、羽田だった。たしか、アフリカへ行った帰り、開港したばかりの成田空港に帰着したのを、覚えている。たばこを買ってきてくれ、スイスの時計、イギリスのウイスキーを、などなど、ずいぶんおみやげを頼まれた。

 今、日本全国、都道府県には、1~2のエアポートがある。東京から2~3時間で、どこへも行ける。成田空港も、羽田空港も、日本中、世界中をつないでいる。便利になったものだ。そんなことを考えていたら、北千住駅発の空港行きバスは、羽田に到着.人気(ひとけ)少ないターミナルを一周して、帰りのバスに乗車した。