2021年9月11日
マスコミというのは、ほんとうに変わり身が早い。まだ何日もたっていないのに、オリンピック・パラリンピックの話題は、皆無だ。自民党の総裁選挙の話で持ちっきりだ。
オリパラについては、どちらかというと、パラリンピックの方が感動が多かった。もちろん、うちテレでの観戦だが。その事で思い出すことがある。
原稿を頼まれて、初めて九州へ。大分の外科医の中村英次郎先生が、障害者スポーツ大会を主催していているので、取材することになったのだ。中村先生が
イギリスに留学され、そこで会ったのが、ルードヴィヒ・グッドマン博士、博士は、パラリンピックの提唱者で、整形外科の先生だった。その教えを受け、帰国後、日本でも障害者のスポーツを、と始められた。日本の「パラリンピックの父」といわれている。地元大分では、すでに障害者スポーツ大会を開催していた。いろいろ話を伺い、帰り際に「こんど東京で、国際大会が開催されるので、是非、ボランティアをして下さい」、と中村先生に言われた。
東京オリンピックが行われた1964年の11月、パラリンピックが行われた。
中村先生が、日本団の団長さんだった。大分で、言われたことが、気になり、あちこち電話をして、パラリンピックのボランティアを仕切っているのが、青少年赤十字という団体であることがわかった。代々木公園にあった事務局へ行き、赤十字語学ボランティアチームに入れていただいた。橋本裕子先生という方が、チームのボスで、もちろん、英語ペラペラで、先生の周辺には、語学達者な若者たちが、たくさんいた。手伝ったのは、3日間だったが、車椅子を自由自在に操る選手たちを身近に見た、はじめての体験だった。その後、目の不自由な人、視覚障害の人を、後ろに乗せて走るタンデム乗りのボランティアを月1回、2年間だったが、体験したことがある。タンデム、二人乗りの自転車。
1964年に会った語学ボランティアのひとりに、20年ぶりだったか、会った。彼は、その後、外務省に入り、海外の日本大使館に赴任、最後は、ネパール大使をされた。パラリンピックの語学奉仕で活躍、その体験を生かし、後には、日本の外交での活躍をされた。
もひとつ、あの1964年のパラリンピック大会の際、皇太子妃の美智子さん(現上皇后様)が、手作りのクッキーを、ボランティアのたまり場に差し入れて下さり、みんなすぐに食べずに、紙につつんで、持ち帰ったのを思いだした。
1964年のパラリンピック、21か国、378名、今回は、161か国、4403名、の参加者だった。
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