2018年8月26日日曜日

猛暑、酷暑の夏は、映画館で避暑

シベリア帰りには、堪えるこの暑さ
 行く前も暑かったけれど、帰ってきた東京の暑さには、さすがにぐったりの毎日。お盆の期間中は、涼しい所は、どこも混んでいるので、神明町でじっとしていようと決心したのに、終日、じっとしているなんて、無理。
で、冷房ばっちりの映画館へ。

岩波ホール『祈り』ージョージア(グルジア)映画   8月7日
 旧ソ連時代、70年間モスクワの下にあったジョージアは、黒海に面した国。北海道よりも面積は小さく、人口も370万。レーニン、スターリン下の共産主義時代は、苦難なジョージアだったが、戦後独立国となった。
しかし、現ロシア政府による軍事介入が後を絶たず、南地域、北西地域には、ロシア軍が常駐している。ウクライナ介入と同じように、プーチンがジョージアもロシアに併合するのではないか。そんなこともあり、この映画は、見ておくべき、と決めていた。内容は、ロシア国境でもあるコーカサスの山地でのキリスト教{正教)とイスラム教徒間の抗争の場面に終始する。モノ黒映画で、グルジア語の訳文字が出てくるのだが、これが、まことにわかりにくい。訳文を訳してもらいたいほど。異教徒同士が殺し合うシーンが多く、全体のあらすじがほとんど理解出来ず、納得いかない気分で終った。「祈り』の文字と共に、イスラム教徒の女性の映像のあるパンフレット、これがまことにインパクトがあり、内容など気にせずに、映画館へ、という人たちが多かったようだ。
岩波なら、いい映画、見るべき映画、というイメージ、自分もそうだったのだろう。

愉快だった、笑った『スターリンの葬送狂騒曲』    8月17日
 ロシアで上映禁止、というキャッチコピーを見て、出かけた。前日、年表を見ていたら、スターリンが死んだのが、1953年とあり、なーんだ、まだ、それほど前のことではないんだ、ちょっと前のことじゃあないの。
スターリンの前のレーニンは、自分の後継者にトロッキーを選んだのに、なぜかスターリンが後継者になった。
党幹部の多くを粛清し、独裁政権が続く。そのスターリンの急死で、またまた後継者選びで、残された党幹部たちが画策する様子が、なんとも可笑しい。スターリンの国葬の責任者選び、新政権の大臣選び、党幹部の同志らを排斥、追放しようとする幹部が、袋叩きになり、彼も粛清される。政治の裏面、今もこんなのかな。
 結局、スターリンの後継者には、フルシチョフがなり、戦後続いてきた米ソ冷戦構造が終焉し、彼は、デタント時代の主役を務めた。続くブレジネフは、ワシントンを訪問するなど、対米関係を進め、平和路線を主導するゴルバチョフにバトンが渡された。そのブレジネフ、ゴルバチョフ、ふたりの書記長にクレムリンで会ったという自らの歴史へのコミットメントを、実感した映画だった。
 イギリス人が作った映画、ロシア語でなく、英語を喋るソ連共産党幹部たちだった。

2018年8月24日金曜日

ちょい旅  長野駅から路線バスで小谷村栂池へ

シベリア帰りで、日本の新幹線初乗り
 旧盆休日が終わった8月21日、6時58分、上野駅から新幹線乗車。この日からジパング割引が使える。長野行きの朝の新幹線は、通勤客でほぼ満席。神明町は小雨だったが安中あたりから、晴天。軽井沢では、うっすらと紅葉が始まっていた。暑い、暑いを繰り返しながら、今年も季節は、確実に「秋」に向かっているのだ。
 8時40分長野駅着。2時間足らずで長野へ行けるのです。シベリア鉄道乗り旅から戻って、初めての「乗り旅」。新幹線は、速い、快適だ、でも、早ければいいってもんではない。心地よい速さっていうのもある。新幹線は、早すぎる。車窓からの景色なんて、まるで見えない。目が回る。その点、シベリア鉄道は、窓近くの白樺林、野に咲く花々ひとつひとつが、しっかり視野に入る速さである。線路を往く車輪の音がいい。人間の心臓の鼓動に逆らわないのがいい。
 
長野駅発路線バス
 駅からの路線バスは、善光寺方面への西口より東口が多い。上高地行きバスも出ており、東京や関西からの長距離バスの客たちの長い行列が、上高地行きバスに乗り換えていた。栂池高原行バス停には、人影ゼロ。あと1時間後発だが、いちばんに並ぶ。路線バスなら、定座席に乗らねばならないから.発車10分前に、ようやく客がきた。大きな、立派なバス。冬の最盛期には、スキー客で満員になるのだろうが、この日の客は6名。運転手さん横の定席で、ご機嫌な路線バス旅。大糸線の白馬駅経由で、白馬村、八方尾根ターミナルなど経由で、栂池高原着。たしか3年前だったが、白馬駅から長野駅間は、このバスに乗ったことがある。

雪のない栂池高原の夏景色
 ホテルや民宿が集中しているこのあたり、まず人っけがまるでない。大きな駐車場には
数台の乗用車。ホテルも、売店も開いておらず、12時なのに食事すらできない。道路には夏草、雑草がはえており、夏のスキー場は、なんともわびしい。同じ長野県の乗鞍高原スキー場のある安曇村の夏、やっぱり同じ景色だった。

小谷村の千国街道、あった
 バスターミナルから、しばらく歩いたところに、あった、「千国街道」の標識をみつけた。今回の目的は塩尻から糸魚川までの千国街道歩き旅の際に、たしか白馬からここら辺栂池を通ったのではないか、を確認することだった。千国街道は、信州から日本海へ出る街道で、塩尻(塩の尻)へ塩を運んだ街道でもある。太平洋側からは、愛知の足助(あすけ)から伊那谷を通り、塩尻までの「三州街道」。10年くらい前だったか、こちらも完歩している。いずれも海側から信州に「塩」を運んだ塩の道だ。標識で、このあたりを千国街道が通っていたこと、自分が歩いたことを確認することが出来た。簡単に目的が済んでしまったのに、長野駅行きバスまで1時間もあり、やることなし。昼ご飯なし状態で、バス停の小屋のベンチですごす。それでも山の風は心地よい。なんたって、立山からの風
だ。台風といっても、九州。雲は多いけれど、山も見える。秋の虫も鳴いている。すすきも、茶色になっていて、高原は秋の気配。コスモスも満開だ。小さな白い花をつけたそば畑。信州そば、食べたいな。帰途のバスも、定席確保。白馬駅までの登山客が7名。あとは、貸し切り状態のバスで長野駅へ。往復共、定席、ご機嫌な路線バスだった。15時20分発の新幹線に飛び乗り。栂池高原バスターミナルのトイレで入れた貴重な水を飲み、飲み上野駅帰着。上野駅で買った焼肉弁当を、駅ホームのベンチで食べた。

2018年8月13日月曜日

乗り旅 シベリア鉄道

ウラジオストクへは、成田からプロペラ機で
 7月22日、成田空港。持参の茹でたとうもろこしと玉子を食べながら、慣れてるはずなのに、やや緊張。銀行で、ルーブル換金。搭乗ゲートからバスに乗る。国際空港だから飛行機は、数えきれないほど見えるが、これから乗る飛行機まで15分ほどバスに乗る。まだ工事中の滑走路(?)のまだ先、川崎方面が見えるあたりにポツンと停まっていたのが
これから乗るABPOPA(オーロラ)。【ロシア語では、PはR発音】。プロペラ機じゃあないですか。機内も狭いけれど、機内乗務員は、背の高い、あまり若くないロシア人女性ひとり。出発国の日本語、国際語の英語も使わず、ロシア語のみのアナウンス。2時間ほどの
搭乗中にオレンジジュースが出てきたが、期待していた昼食なし。搭乗時間が12時40分だったのに。
 成田からロシアへというので、当然、北海道上空を飛んで、北方領土の上も飛ぶんじゃ
ないかと、わざわざ窓際席をとったのに、それなのに、飛行機は、離陸すると東に向かわず、左旋回。じきに富士山が見えてきて、「あれっ、乗り間違えたかな」。と、中央アルプス、北アルプス、で次は、海に出て佐渡島。そうこうしているうちに着陸モードに入り
着いてしまった、ウラジオストク空港。神明町から成田空港への所要時間とおんなじ。

ウラジオストクは、シベリア鉄道始発駅
 空港手続きがめんどうだと聞いてきたが、あっという間に済み、乗客数も少なかったし
どうも、先のワールドサッカーを機に簡易化したらしい。白タクまがいのおっさんの運転する車で市内のホテルへ。白髪の、気の弱そうな、英語が下手な運転手さんで、なにを言っても、イエス、イエスを繰り返す、昼間だし、ルーブル現金もあることだし、ま、いいか、と。乗ったタクシー、メーターはついてはいたが、稼働していなかった。30をくり返していたので、ま、いいか。20分くらいでホテル着。
 チェックインして、さっそく市内探索。近くの中央駅に行ってみた。明日は、ここから列車に乗るのだ。駅舎は、見栄えのする建物で、日曜日なので、家族連れや、ヨーロッパ人らしき若者たちの旅行者が、着いたばかりの列車から降りてくる。駅構内は、広い待合室、ベンチが100人分ほどあるだけ。天井は高いけれど、冷房なし。よく見ると冬用の暖房施設はしっかりある。ヨーロッパの駅のように、駅構内に売店など、さまざまな施設があるのでは、期待していたが、ゼロ。切符の窓口は、待合室の隣りへの廊下の先に、トイレは、地下室に、という具合。もともと改札口がないことは知っていたが、ほんとうに駅舎としての機能がない駅だ。この建物の下にも線路があった。
 出入り自由なホームを通り、階段を上がっていくと、海が見え、大きな建物、こちらは
船舶乗車のターミナル。日本の新潟、韓国の東海(トンへ)との間に、定期客船がある。
実は、シベリア鉄道の旅を企画した当初、韓国の東海から船でウラジオストクへ、と考えていたのだが。このターミナル建物の中には、みやげモノ店、ドラッグストア、宝石店、モバイル店、電気製品の店など、店舗が10ほどある。船旅の人たちを目当ての店には、結構多くの客がいた。韓国語、中国語が聞こえていたが、日本人は、いなかった。
 建物から外へ出ると、海。港の向うには、ロシア軍艦も見える。対岸への長い、立派な
橋がかかっていて、完成式に参列したプーチン大統領の写真が、ターミナルビルに貼って
あった。プーチン大統領は、モスクワにいるので、時差7時間の極東ウラジオストクは、
ヨーロッパの国々へ行くよりは、はるかに時間がかかる、遠ーい地であるわけだ。この港は、日本海に続いている。満州事変、第二次大戦時、日本軍が軍の拠点にしていた地でもある。地理的には、モスクワよりも、日本からの方がよっぽど近いウラジオストク。

いよいよ乗る、シベリア鉄道
 出発は、夜なので、それまで、港を一望する公園で、すごした。海からの風が心地よい
地元の人たちの憩いの場であるらしい。飲み物持参で、買物帰りの主婦らも、一時談笑していた。とにかく、この公園が気にいった。なにしろ、公園の南の端に、巨大なレーニンの銅像が立っている。海を眺めて立つレーニンは、かっこいい。時々、鳩がレーニンさんの頭や、肩にとまっており、ロシア革命の指導者レーニンも、鳩と平和に過ごしている、なーんて、勝手にうれしがった。ナロード(人民)や、多くの同志たちをも虐殺したスターリンよりも、レーニンの方が、好きだ。
 夜の駅構内に入るには、セキュリティチェックがある。ちょっと外で買い物をしてくるのでも、チエックされる。駅のスタッフは、チェック係りのおっさんが3人だけで、他に見当たらない。列車の出入りのアナウンスもロシア語だけ。時刻表もあるけれど、駅名も全部ロシア語。その上、時刻表の発着時間が、なんとモスクワ時間なのだ。待合室の乗客た
ちの様子から、出発時間が遅れているようだ、あれっ、あわてて出ていったけれど、間に合ったかな、と。ここでも、日本人には、ひとりも会わなかった。70人ほどの韓国語の団体が入ってきて、30ほどで、出て行った。ハバロフスク行きの夜行寝台列車に乗ったようだ。
 地下のトイレの横に立っていたスタッフらしき男性に、ロシア語で書いてあるクーポン
(これが切符なのだ)を見せて、ウランウデイに行く列車のホーム番号を聴いてみた。6
番、と英語だった。6番のホームへ行ってみたら、うす暗いホームに、人影があった。列車がすでに着いていたが、デッキのドアは開いておらず、乗客はなんとなく並んでいた。
10分ほどたち、ドアが開いて、制服姿の女性が降りてきた。車輛が17の列車の12番
車輛専属さん。クーポンとパスポートを念入りにチェックして、いよいよ乗車。入口のデッキの階段が高く、大荷物だと大変だ。周りの男性たちが、助けてくれる。車内に入る
右手に細い通路があり、指定コンパートメント12は、この車輛の最後の方だった。4人
ベッドの下段に座った。「やれやれ、長い一日だった」。
 列車は、まだ止まったままだ。あの車掌さんが、シーツ、毛布カバー、枕カバー、それに日本風のタオルを持ってきてくれた。コンパートメント(室内)の中をあっちこっち眺めたり、触ったり。日本の寝台列車とそう変わらない内部構造だ。
 この列車は、Novosibirsk(ノボシビルスク)行きで、ウラジオストクからは、モスクワ行きは、何本も出ている。ノボシビルスクは、イルクーツクの先でウラジオストクからは
5956キロ。今回のシベリア鉄道は、途中下車のウランウデイまで、3650キロ、
3泊6日の旅だ。さらに、ウランウデイから、南下する北京行き列車で、モンゴルのウランバートルまでの600キロ、一泊二日の旅。
 予定の時間から20分遅れで、発車。シベリア鉄道の旅が始まった。外は、真っ暗。

発車は、しずーかに、しずーかに、 発車オーライ
 線路も、車輛自体も、日本の鉄道と比べるとはるかに大きく、17もの車輛という長い
列車、なのに発車があまりにも静かなのだ。ガッタンゴー、じゃないのだ。5分もたたないうちに、列車は、暗闇の中を走っていた。四人部屋だが、上段は客なし。揺れも少なく
心地よいシベリア鉄道、初日の夜、いつの間にか寝入っていた。

列車内の設備いろいろ
 2等寝台車12号には、四人用のコンパートメントが13あり、乗客は65人可。乗客が乗降するデッキに入ったところに、車掌室とサーモスタット(湯沸し器)があり、24時間熱いお湯が出る。トイレは、最後部で、男女共用で、昔の日本の国鉄列車のような大小とも、線路上にポットン式で、停車中は、施錠されてしまう。車掌さんが、こまめにトイレ掃除をしており、まあまあのトイレ。通路側は、大きな窓があり、窓は開かないけれど、やることないし、いつも、だれかが立って外を眺めている。ごみ箱が、トイレの前にあり、停車するたびに、車掌さんが、回収していた。エアコンは、冬がメインで、夏は、
冷房なし。二日めは、かなりの暑さだったが、なんの神明町の暑さとくらべれば、なんてことない。

食堂車、行かなかったワケ
 シベリア鉄道に乗ったら、食堂車でロシア料理、なーんて期待していた。7号車という食堂車まで、まづは、偵察にと、出かけてみた。12号と11号車の連結部分でのこと。こちら側とあちら側のドアが、両手で、全力で、よいっしょしないと開けることができない。その上、連結部分の鉄板が揺れるたびに、下の線路が見え、おっこちたらえらいこっちゃ、で「やーめた!」。結局、四日間、三食とも、メニューは、ウラジオストクで買ってきたロシアパン、チーズ、サラミソーセージ、ウオッカ、ビール、プラス、停車駅の露店で買った、茹でたトウモロコシ、ピロシキ、食堂車で焼いたばかりのパンの車内販売で過ごした。日本から持参のつまみ、日本茶、コーヒーは、なかなかだった。

心地よし 車にぬかれるこの速さ
 とにかく列車のスピードがよろしい。線路からの音もよし。ガタン、ガタン、の音がなんともやさしいのだ。外の風景は、ほとんど変わらない。白樺の原野が続く。線路わきの草が朝露で光っているのも見える。東(車窓右側)から太陽が出てくる頃、白樺がうす赤く染まる。と一面朝もやがかかり、今度は、景色は、真っ白に。そっか、冬は、一面風景は、雪の白一色になるのだ。
   音よし 揺れよし シベリア鉄道

停車駅 たばこ吸える それ急げ
 停車駅に着くとの車内アナウンス(ロシア語のみ)があると、あっちこっちから男、女乗客が出口デッキに並ぶ。露店でなにか買うのか、と見ていると、喫煙者たちだった。足元には、吸い殻がいっぱい。列車が着くたびに、乗客たちが捨てていくのだろう。
 反対側には、先も、後ろも見えないほど長ーい貨物車が停車している。停車駅だけでなく、走行中でも、頻繁に貨物列車とすれ違う。ロシア、特にシベリア地方では、物流の主
役は、どうも鉄道のようだ。木材、石炭、石油など満載らしき長ーい貨物列車。

停まる駅、通過する駅
 二日めの午前11時頃、ハバロフスク駅に停車した。駅舎は、さすが立派だ。ここで何人かの客が降りた。60分ほど停車していたが、下車の許可がなかった。ここは、ロシアの極東の拠点地区でもあり、軍の施設もあるようなので、下車が許されていないのではないか。敗戦日本の兵士たちが抑留されていたハバロフスク、たしか日本人墓地もある。ウラジオストクから12時間のハバロフスク駅を出ると、大きな川、鉄橋を渡る。アムール川だ。中国との国境も近い。空室だったお隣のコンパートメントに、ハバロフスク駅で乗車の家族三人。この家族は、ウランウデイ駅の先に行った。

夜がきて、朝になっても まだ車内
 白樺と草原がどこまでも、いつまでも続く。西に向かって列車は走る。白樺が、夕日に染まる。専属車掌さんが、ユニフォームを替えて、通路、各コンパートメント内の掃除に
やってきた。一日、2回、丁寧に掃除をしてくれる。ウオッカを飲みながら、夕日をぼんやり眺めている。山頭火の詩(うた)を思い出す。   
   走っても 走っても まだシベリア

朝のお茶タイムは、日本茶と羊羹
 三日めの朝。熱い日本茶、羊羹をいただいた。線路すぐの草っ原に、だいだい色の花の群生が続く。この花、たしかモンゴルのセレンゲ地方で見たことがある。その時に命名したのが、「モンゴルきすげ」。日光きすげによく似た色、花、だ。ロシアにもあったモンゴルきすげ。三日めになっても、シベリア鉄道の感動は続く。

あーあ あこがれーの シベリア鉄道
   晴ーれた空 こーの景色  続ーく 続ーく どこまで続ーく
   赤 白 黄色の 花先みだれ  白樺林も ま夏を謳歌
   あーあ あこがれーの シベリア鉄道     (替え歌してみました)

持ち込み食料が、底をついた最終日
 食料が底をついたが、午後には、目的地のウランウデイに着く。時々ロシアの田舎の風景。たまーに民家が現れる。敷地内には、白いじゃがいもの花が満開だ。11時すぎ、食堂のお姉さんが、あったかいパンを売りにきた。なんどか買ったので、愛想がいい。英語で、サンキュウ、なんて言う。日本の菓子パン、ピロシキはないと。食べていたら、車掌がやってきて、あと1時間でウランウデイと教えてくれた。14時40分、なんと時間通りに到着した。ここでは、モスクワとの時差は、一時間。
 ホームには、モンゴルから迎えにきてくれた友人たちが、待っていた。

ロシア最大の仏教センター ウランウデイ
 ロシアは、ロシア正教の国だが、ここウランウデイは、ブリヤード共和国の首都で、仏教センターがある。チベット宗教だ。スターリン時代、弾圧されたブリヤード人たちが隣国モンゴルに逃げ、その子孫がウランバートルに住む友人たち。彼らから、ブリヤード民族の歴史をなんども聞かされていたのでの、いつかは、ウランウデイへ、との念願を抱いていたのだ。その念願を達成するのが、今回の旅の目的。
 三日間のウランウデイ滞在中、チベット仏教総本山、市内のブリヤード民族博物館などを見学。友人の親戚・親類の家訪問。150キロ先のバイカル湖へも連れていってもらった。バイカル湖は、琵琶湖のなんと50倍の大きさとか。1時間ばかり遊覧船にも乗ったが、その広さ、大きさは、実感すらできないほどだった。

ロシア(ウランウデイ)からモンゴル(ウランバートル)へ
 車でウランバートルへ、という友人たちと別れて、ウランウデイ駅から寝台列車に乗った。モスクワから来た北京行きの列車だ。600キロを15時間かけて走る。実際には、ロシアとモンゴルの国境で、ま夜中の2時間ほど出入国検査のための停車だった。この列車には、韓国人ファミリー、メキシコ人団体が同乗していた。いずれもモンゴル観光とのこと。韓国人の大学教授という男性と、英語で会話。なんか、ほっとした。
 この列車(シベリア鉄道)は、近代的で、トイレもバキューム式で、男女別、各車輛の連結部分は、タッチ式自動だった。モンゴル内の走行が夜だったので、見慣れたモンゴルの景色を見ることはなかったが、早朝のウランバートルが見えてきた時、なんだか、とてもなつかしい気がした。

 8月2日、暑い、暑い神明町に帰着。長年の念願だったシベリア鉄道、ウランウデイ訪問、無事終了。白樺のシベリアの夏を思い出しながら、しばらくは、じっとしていよう。
 なお、今回の旅は、4年前のスペイン巡礼を共に歩いた友人とのふたり旅だった。旅は
道連れ、の良きパートナーだった。