2018年8月13日月曜日

乗り旅 シベリア鉄道

ウラジオストクへは、成田からプロペラ機で
 7月22日、成田空港。持参の茹でたとうもろこしと玉子を食べながら、慣れてるはずなのに、やや緊張。銀行で、ルーブル換金。搭乗ゲートからバスに乗る。国際空港だから飛行機は、数えきれないほど見えるが、これから乗る飛行機まで15分ほどバスに乗る。まだ工事中の滑走路(?)のまだ先、川崎方面が見えるあたりにポツンと停まっていたのが
これから乗るABPOPA(オーロラ)。【ロシア語では、PはR発音】。プロペラ機じゃあないですか。機内も狭いけれど、機内乗務員は、背の高い、あまり若くないロシア人女性ひとり。出発国の日本語、国際語の英語も使わず、ロシア語のみのアナウンス。2時間ほどの
搭乗中にオレンジジュースが出てきたが、期待していた昼食なし。搭乗時間が12時40分だったのに。
 成田からロシアへというので、当然、北海道上空を飛んで、北方領土の上も飛ぶんじゃ
ないかと、わざわざ窓際席をとったのに、それなのに、飛行機は、離陸すると東に向かわず、左旋回。じきに富士山が見えてきて、「あれっ、乗り間違えたかな」。と、中央アルプス、北アルプス、で次は、海に出て佐渡島。そうこうしているうちに着陸モードに入り
着いてしまった、ウラジオストク空港。神明町から成田空港への所要時間とおんなじ。

ウラジオストクは、シベリア鉄道始発駅
 空港手続きがめんどうだと聞いてきたが、あっという間に済み、乗客数も少なかったし
どうも、先のワールドサッカーを機に簡易化したらしい。白タクまがいのおっさんの運転する車で市内のホテルへ。白髪の、気の弱そうな、英語が下手な運転手さんで、なにを言っても、イエス、イエスを繰り返す、昼間だし、ルーブル現金もあることだし、ま、いいか、と。乗ったタクシー、メーターはついてはいたが、稼働していなかった。30をくり返していたので、ま、いいか。20分くらいでホテル着。
 チェックインして、さっそく市内探索。近くの中央駅に行ってみた。明日は、ここから列車に乗るのだ。駅舎は、見栄えのする建物で、日曜日なので、家族連れや、ヨーロッパ人らしき若者たちの旅行者が、着いたばかりの列車から降りてくる。駅構内は、広い待合室、ベンチが100人分ほどあるだけ。天井は高いけれど、冷房なし。よく見ると冬用の暖房施設はしっかりある。ヨーロッパの駅のように、駅構内に売店など、さまざまな施設があるのでは、期待していたが、ゼロ。切符の窓口は、待合室の隣りへの廊下の先に、トイレは、地下室に、という具合。もともと改札口がないことは知っていたが、ほんとうに駅舎としての機能がない駅だ。この建物の下にも線路があった。
 出入り自由なホームを通り、階段を上がっていくと、海が見え、大きな建物、こちらは
船舶乗車のターミナル。日本の新潟、韓国の東海(トンへ)との間に、定期客船がある。
実は、シベリア鉄道の旅を企画した当初、韓国の東海から船でウラジオストクへ、と考えていたのだが。このターミナル建物の中には、みやげモノ店、ドラッグストア、宝石店、モバイル店、電気製品の店など、店舗が10ほどある。船旅の人たちを目当ての店には、結構多くの客がいた。韓国語、中国語が聞こえていたが、日本人は、いなかった。
 建物から外へ出ると、海。港の向うには、ロシア軍艦も見える。対岸への長い、立派な
橋がかかっていて、完成式に参列したプーチン大統領の写真が、ターミナルビルに貼って
あった。プーチン大統領は、モスクワにいるので、時差7時間の極東ウラジオストクは、
ヨーロッパの国々へ行くよりは、はるかに時間がかかる、遠ーい地であるわけだ。この港は、日本海に続いている。満州事変、第二次大戦時、日本軍が軍の拠点にしていた地でもある。地理的には、モスクワよりも、日本からの方がよっぽど近いウラジオストク。

いよいよ乗る、シベリア鉄道
 出発は、夜なので、それまで、港を一望する公園で、すごした。海からの風が心地よい
地元の人たちの憩いの場であるらしい。飲み物持参で、買物帰りの主婦らも、一時談笑していた。とにかく、この公園が気にいった。なにしろ、公園の南の端に、巨大なレーニンの銅像が立っている。海を眺めて立つレーニンは、かっこいい。時々、鳩がレーニンさんの頭や、肩にとまっており、ロシア革命の指導者レーニンも、鳩と平和に過ごしている、なーんて、勝手にうれしがった。ナロード(人民)や、多くの同志たちをも虐殺したスターリンよりも、レーニンの方が、好きだ。
 夜の駅構内に入るには、セキュリティチェックがある。ちょっと外で買い物をしてくるのでも、チエックされる。駅のスタッフは、チェック係りのおっさんが3人だけで、他に見当たらない。列車の出入りのアナウンスもロシア語だけ。時刻表もあるけれど、駅名も全部ロシア語。その上、時刻表の発着時間が、なんとモスクワ時間なのだ。待合室の乗客た
ちの様子から、出発時間が遅れているようだ、あれっ、あわてて出ていったけれど、間に合ったかな、と。ここでも、日本人には、ひとりも会わなかった。70人ほどの韓国語の団体が入ってきて、30ほどで、出て行った。ハバロフスク行きの夜行寝台列車に乗ったようだ。
 地下のトイレの横に立っていたスタッフらしき男性に、ロシア語で書いてあるクーポン
(これが切符なのだ)を見せて、ウランウデイに行く列車のホーム番号を聴いてみた。6
番、と英語だった。6番のホームへ行ってみたら、うす暗いホームに、人影があった。列車がすでに着いていたが、デッキのドアは開いておらず、乗客はなんとなく並んでいた。
10分ほどたち、ドアが開いて、制服姿の女性が降りてきた。車輛が17の列車の12番
車輛専属さん。クーポンとパスポートを念入りにチェックして、いよいよ乗車。入口のデッキの階段が高く、大荷物だと大変だ。周りの男性たちが、助けてくれる。車内に入る
右手に細い通路があり、指定コンパートメント12は、この車輛の最後の方だった。4人
ベッドの下段に座った。「やれやれ、長い一日だった」。
 列車は、まだ止まったままだ。あの車掌さんが、シーツ、毛布カバー、枕カバー、それに日本風のタオルを持ってきてくれた。コンパートメント(室内)の中をあっちこっち眺めたり、触ったり。日本の寝台列車とそう変わらない内部構造だ。
 この列車は、Novosibirsk(ノボシビルスク)行きで、ウラジオストクからは、モスクワ行きは、何本も出ている。ノボシビルスクは、イルクーツクの先でウラジオストクからは
5956キロ。今回のシベリア鉄道は、途中下車のウランウデイまで、3650キロ、
3泊6日の旅だ。さらに、ウランウデイから、南下する北京行き列車で、モンゴルのウランバートルまでの600キロ、一泊二日の旅。
 予定の時間から20分遅れで、発車。シベリア鉄道の旅が始まった。外は、真っ暗。

発車は、しずーかに、しずーかに、 発車オーライ
 線路も、車輛自体も、日本の鉄道と比べるとはるかに大きく、17もの車輛という長い
列車、なのに発車があまりにも静かなのだ。ガッタンゴー、じゃないのだ。5分もたたないうちに、列車は、暗闇の中を走っていた。四人部屋だが、上段は客なし。揺れも少なく
心地よいシベリア鉄道、初日の夜、いつの間にか寝入っていた。

列車内の設備いろいろ
 2等寝台車12号には、四人用のコンパートメントが13あり、乗客は65人可。乗客が乗降するデッキに入ったところに、車掌室とサーモスタット(湯沸し器)があり、24時間熱いお湯が出る。トイレは、最後部で、男女共用で、昔の日本の国鉄列車のような大小とも、線路上にポットン式で、停車中は、施錠されてしまう。車掌さんが、こまめにトイレ掃除をしており、まあまあのトイレ。通路側は、大きな窓があり、窓は開かないけれど、やることないし、いつも、だれかが立って外を眺めている。ごみ箱が、トイレの前にあり、停車するたびに、車掌さんが、回収していた。エアコンは、冬がメインで、夏は、
冷房なし。二日めは、かなりの暑さだったが、なんの神明町の暑さとくらべれば、なんてことない。

食堂車、行かなかったワケ
 シベリア鉄道に乗ったら、食堂車でロシア料理、なーんて期待していた。7号車という食堂車まで、まづは、偵察にと、出かけてみた。12号と11号車の連結部分でのこと。こちら側とあちら側のドアが、両手で、全力で、よいっしょしないと開けることができない。その上、連結部分の鉄板が揺れるたびに、下の線路が見え、おっこちたらえらいこっちゃ、で「やーめた!」。結局、四日間、三食とも、メニューは、ウラジオストクで買ってきたロシアパン、チーズ、サラミソーセージ、ウオッカ、ビール、プラス、停車駅の露店で買った、茹でたトウモロコシ、ピロシキ、食堂車で焼いたばかりのパンの車内販売で過ごした。日本から持参のつまみ、日本茶、コーヒーは、なかなかだった。

心地よし 車にぬかれるこの速さ
 とにかく列車のスピードがよろしい。線路からの音もよし。ガタン、ガタン、の音がなんともやさしいのだ。外の風景は、ほとんど変わらない。白樺の原野が続く。線路わきの草が朝露で光っているのも見える。東(車窓右側)から太陽が出てくる頃、白樺がうす赤く染まる。と一面朝もやがかかり、今度は、景色は、真っ白に。そっか、冬は、一面風景は、雪の白一色になるのだ。
   音よし 揺れよし シベリア鉄道

停車駅 たばこ吸える それ急げ
 停車駅に着くとの車内アナウンス(ロシア語のみ)があると、あっちこっちから男、女乗客が出口デッキに並ぶ。露店でなにか買うのか、と見ていると、喫煙者たちだった。足元には、吸い殻がいっぱい。列車が着くたびに、乗客たちが捨てていくのだろう。
 反対側には、先も、後ろも見えないほど長ーい貨物車が停車している。停車駅だけでなく、走行中でも、頻繁に貨物列車とすれ違う。ロシア、特にシベリア地方では、物流の主
役は、どうも鉄道のようだ。木材、石炭、石油など満載らしき長ーい貨物列車。

停まる駅、通過する駅
 二日めの午前11時頃、ハバロフスク駅に停車した。駅舎は、さすが立派だ。ここで何人かの客が降りた。60分ほど停車していたが、下車の許可がなかった。ここは、ロシアの極東の拠点地区でもあり、軍の施設もあるようなので、下車が許されていないのではないか。敗戦日本の兵士たちが抑留されていたハバロフスク、たしか日本人墓地もある。ウラジオストクから12時間のハバロフスク駅を出ると、大きな川、鉄橋を渡る。アムール川だ。中国との国境も近い。空室だったお隣のコンパートメントに、ハバロフスク駅で乗車の家族三人。この家族は、ウランウデイ駅の先に行った。

夜がきて、朝になっても まだ車内
 白樺と草原がどこまでも、いつまでも続く。西に向かって列車は走る。白樺が、夕日に染まる。専属車掌さんが、ユニフォームを替えて、通路、各コンパートメント内の掃除に
やってきた。一日、2回、丁寧に掃除をしてくれる。ウオッカを飲みながら、夕日をぼんやり眺めている。山頭火の詩(うた)を思い出す。   
   走っても 走っても まだシベリア

朝のお茶タイムは、日本茶と羊羹
 三日めの朝。熱い日本茶、羊羹をいただいた。線路すぐの草っ原に、だいだい色の花の群生が続く。この花、たしかモンゴルのセレンゲ地方で見たことがある。その時に命名したのが、「モンゴルきすげ」。日光きすげによく似た色、花、だ。ロシアにもあったモンゴルきすげ。三日めになっても、シベリア鉄道の感動は続く。

あーあ あこがれーの シベリア鉄道
   晴ーれた空 こーの景色  続ーく 続ーく どこまで続ーく
   赤 白 黄色の 花先みだれ  白樺林も ま夏を謳歌
   あーあ あこがれーの シベリア鉄道     (替え歌してみました)

持ち込み食料が、底をついた最終日
 食料が底をついたが、午後には、目的地のウランウデイに着く。時々ロシアの田舎の風景。たまーに民家が現れる。敷地内には、白いじゃがいもの花が満開だ。11時すぎ、食堂のお姉さんが、あったかいパンを売りにきた。なんどか買ったので、愛想がいい。英語で、サンキュウ、なんて言う。日本の菓子パン、ピロシキはないと。食べていたら、車掌がやってきて、あと1時間でウランウデイと教えてくれた。14時40分、なんと時間通りに到着した。ここでは、モスクワとの時差は、一時間。
 ホームには、モンゴルから迎えにきてくれた友人たちが、待っていた。

ロシア最大の仏教センター ウランウデイ
 ロシアは、ロシア正教の国だが、ここウランウデイは、ブリヤード共和国の首都で、仏教センターがある。チベット宗教だ。スターリン時代、弾圧されたブリヤード人たちが隣国モンゴルに逃げ、その子孫がウランバートルに住む友人たち。彼らから、ブリヤード民族の歴史をなんども聞かされていたのでの、いつかは、ウランウデイへ、との念願を抱いていたのだ。その念願を達成するのが、今回の旅の目的。
 三日間のウランウデイ滞在中、チベット仏教総本山、市内のブリヤード民族博物館などを見学。友人の親戚・親類の家訪問。150キロ先のバイカル湖へも連れていってもらった。バイカル湖は、琵琶湖のなんと50倍の大きさとか。1時間ばかり遊覧船にも乗ったが、その広さ、大きさは、実感すらできないほどだった。

ロシア(ウランウデイ)からモンゴル(ウランバートル)へ
 車でウランバートルへ、という友人たちと別れて、ウランウデイ駅から寝台列車に乗った。モスクワから来た北京行きの列車だ。600キロを15時間かけて走る。実際には、ロシアとモンゴルの国境で、ま夜中の2時間ほど出入国検査のための停車だった。この列車には、韓国人ファミリー、メキシコ人団体が同乗していた。いずれもモンゴル観光とのこと。韓国人の大学教授という男性と、英語で会話。なんか、ほっとした。
 この列車(シベリア鉄道)は、近代的で、トイレもバキューム式で、男女別、各車輛の連結部分は、タッチ式自動だった。モンゴル内の走行が夜だったので、見慣れたモンゴルの景色を見ることはなかったが、早朝のウランバートルが見えてきた時、なんだか、とてもなつかしい気がした。

 8月2日、暑い、暑い神明町に帰着。長年の念願だったシベリア鉄道、ウランウデイ訪問、無事終了。白樺のシベリアの夏を思い出しながら、しばらくは、じっとしていよう。
 なお、今回の旅は、4年前のスペイン巡礼を共に歩いた友人とのふたり旅だった。旅は
道連れ、の良きパートナーだった。

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