2021年9月23日木曜日

2021年9月2日

2021年9月2日

ここのところ、毎朝の楽しみが、NHKテレビの『プロアドベンチャートラバース』という番組。日本全国の山を全て歩きで登りまくる、という番組だ。100名山、200名山などがあるけれど、今、やっているのは、300名山。プロのいわゆる山屋(やまや)さんが、西からひとつづつ頂上をクリアしてゆく。飛行機、電車、バスなどいっさい使用せず、ただ、ただ歩く、海はカヤックを漕ぐ。昔、昔、自分もやっていたことなので、やたら楽しい時間。

わたしのアドベンチャーは、南アルプスから北アルプス。南アルプスでは、静岡の清水から車道を歩いて、光岳(てかり)に登り、南アルプスの山々をピークハント。南アルプスは、小屋が少ない(当時)。だから、明るいうちに小屋に着くような行程だったので、ほとんど駆け足登山だった。

今の山登りのように、スマホGPSなどなく、紙の地図が頼りだった。里に下りると、食料をゲット、水たまりの「水」まで飲むこともあった。

南アルプスから北アルプスへは、焼岳から入った。焼岳を降り、上高地に一泊。北アルプスは、3~4時間歩くと小屋があった。穂高、槍ヶ岳、常念から餓鬼岳に。たまたま小屋に電話があったので、東京に電話をすると、勤務先から至急職場へ、との連絡があったとかで、この旅は、終了。わたしのアドベンチャートラバースは、終わった。頑張って立山を越えて、日本海に出るという夢は、実現しなかった。

そうそう、南アルプスの北岳直下の小屋に泊まった時のこと。ヘリコプターが小屋にピストンで、なにかを運んでいるのを目撃。遭難救助ではないようで、小屋のバイトさんに聞くと、「皇太子が今夜泊まるんで、それでいろいろ運んでいる」との情報。お付きの人、警護のおまわりさん、マスコミなど、多くの人たちが泊まるので、と。ワインの箱もあった。バイトさん曰く、「あのね、様式トイレもあるんだよ」、と。そういえば、皇太子さん(今、天皇陛下)は、日本山岳会の名誉会員でした。 

2021年9月22日水曜日

敬老の日 9月20日 久々の乗り鉄、乗りバス

9月20日、祝日。自分が主役の「敬老の日」。83歳だから、文句なしの主役だ。昨日、神明町の町会から、のど飴、コンビニ券(500円)、賞味期間2年の飲み水、の3点が贈られた。飲み水は、災害用として備蓄してあったものらしい。高齢になると、のど飴か、これって偏見? というわけで、敬老されました。

20日朝、いつものように4時起床、3POに行ったり、般若心経読んだり、エアロバイクを、漕いだりして、朝食。朝刊に目を通しながら、お天気もいいことだし、どこかへ行くか、と、JRの時刻表をだす。連休なので、人流で混んでいない所がいい。東京でも、東の端の足立区から、新宿や、東京へは行きたくない。緊急事態なのだ、行くべきでない。越境はするけれど、東へ行こう。

ということで、神明町発八潮駅行きのバスに乗車。8時10分だった。休日なので、乗客2人。神明町の先は、埼玉県なので、シルバーバスは使えない。20分で駅に到着。すぐ来た電車に乗った。TX(つくばエクスプレス)に乗るのは、久しぶり。こちらも、乗客は少ない。守谷駅で下車。筑波山が左前方に見える。常総線に乗り換える。こちらは、1時間に3本、しばらく待つ。待つ人は、5人。やってきた電車は、一両編成。途中駅での乗り降りは、少ない。田んぼの稲は、刈り入れ時で、もみがらを舞い上げながら、コンバインが走っていた。農家の柿の実は、うっすら色づいており、秋の風景。のろのろ走る一両の電車から、外の景色を見るのが、なんともたまらない。スマホなんか、見ていられない。(といっても実は、スマホ、持ってません)。

取手駅に着く。この先は、下館まで関東鉄道、その先の茂木駅までは、真岡鉄道で、なんどか乗ったことがある。取手駅は、常磐線で、綾瀬駅までは、千代田線も通っており、ここから帰るか、と独り言をいいながら、駅ビルを出てみた。と、目の前に停まっていたバス、行く先が守谷駅、とあった。乗ってみよう、と。さっき常総線で乗った守谷駅、バスで行ってみよう、と発車間際に飛び乗った。なあんだ、客は、2人っきり。も一人さんは、途中で下車されました。

路線は、ほとんどたんぼ、畑の中の狭い道路。秋景色の中を、貸し切りバス並みの客ひとりっきりの路線バス。関東鉄道バスの中には、「私は、安全運転に努めます、〇〇〇男」と書いた証書が、写真つきで貼ってあり、ずいぶんとあちこちの路線バスに乗ってはいるが、こんなの見たのは、初めて。それにしても、客、ひとりでは、経営も楽じゃあない。

途中、小早川の橋を渡る。ここら辺には、戸建ての家が多い。洪水の被害があった所だ。竹藪の中の道わきに、今、テレビ出演で忙しい、自民党の次期総裁選挙の候補者K氏、地元候補者とのツーショットポスターがあった。そっか、もう総裁に、首相になるとの見通しか。終点の守谷駅に近づいた頃、男性ひとり乗車。守谷駅周辺は、新築の戸建て住宅が多い。TXをアテにした都心への通勤者なのだろう。約50分の乗車で、760円だった.

朝、乗った八潮駅経由で、神明町に戻ったのは、12時半だった。半日の敬老の日のちょい旅、結構、楽しかった。







 

2021年9月18日土曜日

実りの秋(その2)

 夕べの雨で、金木犀の花が、地面を真っ黄色に。

本日は、モノレールの日なんだそうです。1964年、オリンピックの年、日本ではがめて、モノレールが開通、浜松と羽田間。モノレールは、今は、国内にいくつかある。そのひとつ、千葉の市営モノレール、これが、一本のレールで、ぶら下がった形で走っているというので、見に行ったことがある。ふつうは、上ではなくて、レールは、下。実物を見て、確かめて、感動した。

実りの秋、といえば、絶景の秋を見に行ったことがある。5,6年前だったが、新潟から日本海がわを走る羽越本線に乗って、山形へ。鶴岡から、酒田を通って秋田までの「乗り鉄」。お目当ては、鳥海山とたわわに実った稲田。刈り取り前のたんぼと、鳥海山、額縁に入れたような、いい景色を堪能。今でも、はっきり覚えている。

田んぼ作業、田植えから、刈り取りまでを、体験。群馬県の碓氷峠近くの村に親戚があり、父方のお姉さん(叔母)の家。臨済宗の寺で、江戸時代から続く古刹で、地域では、知られた寺。土地持ちで、寺の前は、一面のたんぼ、裏には、竹藪と山があった。その田んぼで、田植え、夏の草取り、秋の収穫を手伝った。東京の銀座の実家から、ちょくちょく出かけた。採れたての新米で作った「味噌むすび」の味は、今でも忘れられない。寺の庭からは、まん前に」妙義山の山並みが、西には、浅間山がどっかり見えた。妙義山に登った時、寺の赤い屋根がよく見えた。

今、毎年、仙台から送られてくる「新米」を、食べている。四国遍路でお会いしたwさんが、梅干と新米を送ってくれでいるのだ。もう10年ほどになる、とにかく「生きているうちは送るね」、と。

「柿」は、法隆寺産。サンチャゴ・コンポステーラ、シベリア鉄道の旅、国内でも熊野古道の旅などで、いつもご一緒の旅友Mさん、奈良の斑鳩町に住んでいる。まさに「法隆寺の柿」だ。神明町のご近所さんたちも、「今年は、まだかい」、と声がかかるほど。秋の味覚、法隆寺の柿。



実りの秋(その1)

台風が、対馬沖あたりで、とどまったままとか。その影響で、関東も大雨との予報が出ている。テレビの天気予報、それとニュースが好きなんです。必ず、見る。各地の秋の収穫が伝えられている。もう、あの暑い夏は、過ぎたのだろうか。金木犀(きんもくせい)の香りが、朝の3POコースで、匂っている。

スーパーの店頭では、野菜、果物が高値でならんでいる。ぶどうなんかは、1000円もする。柿だって、3個で500円。梨、400円。

ぶどう、桃は、ずいぶん食べた。自分たちで、お手伝いした農園のぶどう、桃。山梨の勝沼のぶどう、桃の生産者Sさんの農園で、どちらかというと、押しかけボランティアで、7,8年通った。冬の枝切り、草とり、摘果、袋掛け、収穫と、年間通じての作業、山梨へ通った。朝、7時15分の新宿発あずさで、山梨市へ。午後、4時頃のあずさで帰途につく、の日帰りボランティアだった。大菩薩峠、秩父連山、富士山もときどき見えた。脚立に乗って、深呼吸すると、ああ、いい空気、といつも感じた。桃、ぶどうは、神明町のご近所さんに販売したこともある。だから、スーパーの桃、ぶどう、食べたがらないのだ。

「りんご」は、青森。長野でもとれるけれど、やっぱり青森だ。たまたま知り合った青森は、浪岡町のUさん、りんごの生産者だった。りんごの収穫までのほぼ全ての作業をやった。冬は、木に積もった雪おろし、春は、白い花の咲く頃、りんごの木の下で、「りんご追分」を歌ったこともある。収穫時、一本の木になっているりんご、あまりの多さに、うんざりすることもあった。上野発の寝台車で、寝て、起きると青森。3,4年、続いた。ねぶた祭では、りんご作りのご近所さんたちと、はねたこともあった。


2021年9月13日月曜日

パラリンピック

 

2021年9月5日

パラリンピック、今夕閉会式、いよいよ終わる。が、パンデミックは、いまだに終息の気配は見えない。オリンピックの開会式は、見たが(勿論、テレビで)、閉会式は見なかった。本日、午前中のマラソンは、見た。走る選手たちを見ながら、すごい、と実感。

あれは、今から50年ほど前のことだった。いつものように、ヨーロッパの出張先から、イスラエルへ。初めての留学先だったイスラエルへは、毎年のように出かけていた。唯一の空港であるテルアビブに到着すると、黒装束の大勢の人たちが空港内におり、出迎えてくれた友人も、黒のネクタイをしている。いつも開襟シャツなのに、ネクタイ、それも黒い。どうしたの、と聞くと、オリンピックに参加のイスラエルの選手たちがテロに殺害された、という。いわゆる、ミュンヘンオリンピックのテロ事件で、11名のイスラエル選手たちが殺され、その遺体が空港に帰ってきたのだ。出迎えの国民たちの前を、国旗でくるんだ棺が、次々に運ばれていくのを目撃した。そういえば、今回の東京オリンピック開会式で、ミュンヘン事件で亡くなったイスラエルの選手たちへの黙祷が行われた。その後、テルアビブ空港は、イスラエル初代大統領の名前、Ben-Gurion空港となった。

テロ事件といえば、中東などで活動していた赤軍派に間違えられたことがあった。乗り換えのために、フランクフルト空港に降りた時のことだった。ゲートを出ようとしたら、引き止められ、別の部屋へ連れていかれた。手荷物検査はじめ、服を脱がされ、靴も脱がされ、髪の毛の中まで指を入れてのチェック、それほど長い時間ではなかったが、丹念な取り調べだった。係官は、女性だったが、調べ終えたあと、男性の係官から、日本赤軍派の重信房子を探しているので、との説明だった。このことを、ボンで会った社民党の幹部のひとりウィリイ・アイヒラーさんに話すと、後になって、「あの時は、たいへん失礼なことをした、すまなかった」、と時計をいただいた。スイス製のオメガだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

2021年9月12日日曜日

2021年9月12日

 

2021年9月12日

紫色の朝顔の花、今季最後の花が、散った。暑い日が続いたわりには、長持ちした。大きな木の陰だったからかもしれない。

この朝顔は、数年前、木曽路の南木曽駅(なぎそ)でわけてもらったもの。高齢者グループを連れての中山道の歩き旅の南木曽駅のホームで咲いていたもの。旅から帰って、写真を見ていたら、駅の朝顔がとってもきれいだったので、駅長宛てに手紙で、わけて欲しい、と所望。さっそく送ってくださった。毎年、毎年、きれいに咲いている。

近年、鉄道の駅が、無人駅化しており、しかし、だれかが管理しているらしく、駅ホームには、花壇があり、花が咲いている。

最近、乗車した北陸本線は、ほとんどが無人駅だった。一年前の数字だが、全国の無人駅は、9465のうち半数以上の4564駅だという。昔は、いわゆるローカル線では、無人駅が多かった。運転手だけのワンマン車も多い。ICカードが復旧したことも原因だが、鉄道を利用する人が、激減したからだ。地方で、列車・電車に乗ると、朝、午後、の乗客は、通学の学生さん、それ以外の時間帯では、ひとケタで、これじゃあ、無人駅、無理もない。

飯田線の善光寺駅へ行った時のこと。善光寺へ行くために下車。駅に戻ったら電車が出たばかりで、昼の時間帯だったことから、次の電車がなかなか、こない。靴下を駅トイレで洗って、干したら、乾いた。停車しない急行列車の運転手さんが、スピードを落として、ホームにいた私たちに、手を振っていたっけ。ところで、善光寺というのは、山梨県の甲府市、長野市の善光寺さんの3寺だが、全国には、100くらいの善光寺がある。

九州の松浦鉄道に乗った時、平戸駅で下車。無人駅だったが、駅舎の掃除に来ていた女性が、お茶を入れてくれた。ボランティアとのこと。

無人駅でも、図書館になっていたり、喫茶店コーナー、床屋さんもあった。いろいろ利用されているのは、いいけれど、なんだかさびしい。切符を売らない駅、通過列車に旗を振る人がいない駅、が増えている。それよりも、乗る人、降りる人のいない駅が増えたいるというのが、現状だ。

 

2021年9月11日土曜日

2021年9月11日

2021年9月11日

マスコミというのは、ほんとうに変わり身が早い。まだ何日もたっていないのに、オリンピック・パラリンピックの話題は、皆無だ。自民党の総裁選挙の話で持ちっきりだ。

オリパラについては、どちらかというと、パラリンピックの方が感動が多かった。もちろん、うちテレでの観戦だが。その事で思い出すことがある。

原稿を頼まれて、初めて九州へ。大分の外科医の中村英次郎先生が、障害者スポーツ大会を主催していているので、取材することになったのだ。中村先生が

イギリスに留学され、そこで会ったのが、ルードヴィヒ・グッドマン博士、博士は、パラリンピックの提唱者で、整形外科の先生だった。その教えを受け、帰国後、日本でも障害者のスポーツを、と始められた。日本の「パラリンピックの父」といわれている。地元大分では、すでに障害者スポーツ大会を開催していた。いろいろ話を伺い、帰り際に「こんど東京で、国際大会が開催されるので、是非、ボランティアをして下さい」、と中村先生に言われた。

東京オリンピックが行われた1964年の11月、パラリンピックが行われた。

中村先生が、日本団の団長さんだった。大分で、言われたことが、気になり、あちこち電話をして、パラリンピックのボランティアを仕切っているのが、青少年赤十字という団体であることがわかった。代々木公園にあった事務局へ行き、赤十字語学ボランティアチームに入れていただいた。橋本裕子先生という方が、チームのボスで、もちろん、英語ペラペラで、先生の周辺には、語学達者な若者たちが、たくさんいた。手伝ったのは、3日間だったが、車椅子を自由自在に操る選手たちを身近に見た、はじめての体験だった。その後、目の不自由な人、視覚障害の人を、後ろに乗せて走るタンデム乗りのボランティアを月1回、2年間だったが、体験したことがある。タンデム、二人乗りの自転車。

1964年に会った語学ボランティアのひとりに、20年ぶりだったか、会った。彼は、その後、外務省に入り、海外の日本大使館に赴任、最後は、ネパール大使をされた。パラリンピックの語学奉仕で活躍、その体験を生かし、後には、日本の外交での活躍をされた。

もひとつ、あの1964年のパラリンピック大会の際、皇太子妃の美智子さん(現上皇后様)が、手作りのクッキーを、ボランティアのたまり場に差し入れて下さり、みんなすぐに食べずに、紙につつんで、持ち帰ったのを思いだした。

1964年のパラリンピック、21か国、378名、今回は、161か国、4403名、の参加者だった。 

2021年9月9日木曜日

2021年9月9日

 

2021年9月9日

毎朝恒例の3POの時間帯には、霧雨程度だったが、6時すぎから、大雨になり、午後2時頃まで、降り続いた。それでも、午前中は、雨の中を出かけた。

帰ってきて、テレビをつけたら、今どき珍しい光景。帽子を被った麻生太郎さん、自民党の副総裁。前後の護衛さんに囲まれて、国会内を歩いていた。男性が、帽子を被る、最近、ほとんど目にしない光景だ。アメリカの西部劇など見ていると、ガンマンが、帽子を格好良く被っている。いつから、被らなくなったのか。

万年筆の続き。

横浜の神奈川近代文学館で、たしか2012年だった、「作家と万年筆展」というのがあった。向田邦子、吉川英治など15,6名の作家の生原稿の展示があった。作家というのは、原稿用紙に一字、一字、こうやって書いているんだと、いたく感動した。あれから、10年くらいしか経っていないが、今、万年筆で原稿用紙に書いている作家さん、どれくらい、いるんだろうか。

万年筆が、はじめて日本にきたのは、明治28年(1895年)で、輸入先は、日本橋丸善。日本最初の万年筆は、ウオーターマンだった。だから、いまだに、「万年筆フェア」をやっている。その万年筆を愛用していたのは、夏目漱石。漱石さんは、万年筆を「まんねんふで」と呼んでいた、と。そういえば、永井荷風は、原稿を筆(毛筆)で、書いていた、とある(文房具の歴史)。

万年筆は、今も、条約などの現場で、使われており、ちょいと調べてみた。

   ポーツマス条約の調印、パーカー・アメリカ製 1905年

   第一次世界大戦終了のベルサイユ講和条約調印、

ウオーターマン  1919年

   ロンドンでの海軍軍縮条約 日本製パイロット 1930年

   ドイツが負けた第二次世界大戦終結の調印

                パーカー     1945年

   東西ドイツ統一条約の調印 モンブラン    1990年

   戦艦ミズリー号の日本帝国降伏調印式では、用意されていたのは、アメリカ製のパーカーだったが、日本全権大使重光葵は、自分の上衣の

     ポケットから取り出した愛用のパイロット万年筆でサイン。

これも、「文房具の歴史」(文研社)にあった。そういえば、トランプ全大統は

万年筆ではなく、ボールペンで、大きな文字でのサイン、だった。

2021年9月8日水曜日

2021年9月8日

 

2021年9月8日

太陽の出る日が少ない。本日も曇り。

日本橋の丸善から、「秋の万年筆フェア」のお知らせがきた。9月15日から一週間開催。毎年、この時季に行っている。今年は、仙台の万年筆づくりの方の実演があるとのこと。名の知れた万年筆づくりの職人さんだが、とにかく値段が高い。限定3本というこだわりの万年筆、その値段は、110、000円とある。ボデイが竹をイメージした、緋、碧、翠色の三色のエボナイト製で、漆を載せているという技法。毎年、行っているが、眺めるだけだ。少しづつ処分してはいるが、在庫100本くらいかな。万年筆歴は、長い。小学校5年の時に、買ってもらった。その時、日記帳と一緒に親から与えられ、それ以降、万年筆で日記を書いてきた。日記は、適当な時季に処分してはいるが、10年間くらいは、とってある。

アメリカに留学した時は、大学周辺の文房具店でパーカーを、フランスでは、カルチェラタンのユダヤ人経営の文房具店でモンブランを、フランクフルトでは、ペリカンを、という具合に買いためた。そうそう、中国では、あの頃、流行っていたヒーロー(英雄)を、あまりの安価だったので、10本、20本も購入し、友だちたちに配りまくったこともある。中国製のヒーローは、キャップがステンレスで、ボデイ、ペン先は、アメリカのパーカーのイミテーションだった。書き味は、固くて、長い時間の使用は、くたびれた。

モスクワのクレムリンで会ったブレジネフ書記長は、ペンテルのあの緑色のサインペンを使っていた。日本製ではなく、フランクフルト製だった。ワシントンのホワイトハウスでは、なぜか、「ホワイトハウス」名入りの、消しゴムつきの鉛筆で、こちらも名入りのメモ用紙と一緒に、おみやげに頂いてきた。

引退してから行ったカザフスタンのアルマトイで、本屋兼文房具店で聞いた話「学校で使う子どもたちの筆記具はじめ、筆記具は、一切、輸入品」だそうだ。

そういえば、パーカー、ロンソン、オメガは、紳士の三種の神器だった時代も。

その後は、モンブラン、ダンヒル、ロレックスという時代もあった。海外出張の際に、是非、買ってきてほしい、と依頼されたこともあった。随分、前のことのようだが、そんな時代もあった。

 

2021年9月7日火曜日

2021年9月7日

2021年9月7日

9月はじめなのに、暑くない。残暑お見舞いをせずまま、秋になるのか。

今夜は、なにを食べようか。毎日、なにを食べるか、午前中に考える、決める。とにかく、外で食事をしない、を守っているのだ。去年は、1年間で2回、今年は、いま9月だけれども、まだ一度も外食はしていない。

朝は、7時に朝食、といっても、バナナにヨーグルト、干しぶどうを20粒くらいまぶす。小ぶりのりんご一個。たべながら、時間をかけて新聞を読む。四紙(朝日、日経、産経、東京、ときどき英紙)、だいたい一時間。

昼は、ごく簡単に、ラーメンとか、パンとか、プラス豆腐など。また前夜のご飯で作ったおにぎり。つまみ喰い程度。

そして、夜は、しっかり料理をする。『失敗なしの、はじめての料理』、『じゃがいも、にんじん、玉ねぎのおかず』の二冊の本が、まあ、アンチョコ。

主食は、そば、うどん、焼きそば、もちろん、ご飯、茶粥、パスタ、すいとん、

炒飯、おじや、カレー、しちゅう、などなど。いちばん、食べるのは、四季を通じて、そば、うどん。これが好きなのです。

そばも、うどんも、旅先で買ったものが多い。最近は、奈良のそばが旨かった。 

茶粥は、三重県で買ってきた茶粥用のお茶を使う。土鍋で米から時間をかけて炊く。梅干、漬物、焼き魚でいただく。これが絶妙にうまい。おかずは、じゃがいも、にんじん、玉ねぎを使ったものが多い。玉ねぎは、特に好きだ。なまのまま、醤油をかけただけで、食べるのもいい。

他に野菜は、といっても、それほど意識はしていないが、食べるように努力している。魚は、干物がいい。肉は、ステーキがいい。週1、2回、それほど食べたいとは、思わないが。人生の前半で、ほぼ毎日外食だったので、これでいいのだ、と思っている。世界各国のホテル食、ずいぶん、いろいろ食べた。だから、最後は、質素な和食、ってことになったのだろう。

自分でいうのも、だけれども、料理の腕は、かなり上がったと、思う。自画自賛。本日は、これから、シチュウを作るつもり。バケットで、たべると最高。

  

2021年9月6日月曜日

2021年9月6日

 2021年9月6日

夕方になると、虫の声が賑やかだ。もう秋。いやいやまだまだ暑さが戻ってくると、長期予報はいっているが。オリンピックも、パラリンピックも終わり、あとは、パンデミック

だけになった。そのパンデミック、新しい首相で、どれほど好転するのか。

この夏の猛暑続きは、半端じゃなかった。どうせ緊急事態宣言下で、ステイホームなので、冷房つけて、うちにいることが多かった。ところが、である。我が家の一大事件発生。

冷蔵庫が壊れた、続いて洗濯機が壊れた、のだ。

普段は、それほど気づかなかったのだが、冷蔵庫って、必要な家具だった。さっそく、昔から我が家のご用達店があり、連絡した。綾瀬駅近くの電気屋だ。なんでも、かんでも大型店舗になっている昨今、個人店の電気屋さんは、ほとんど淘汰され、老夫婦がやっているこの店は、貴重な存在。なにしろ、高校生時代の綾瀬付近の昔話が、共通の話題になる人たちなのだ。

朝、冷蔵庫を開けたら、アイスクリームが、すっかり溶けており、冷凍室の氷が、水になっていた。猛暑続きの日々だったので、とにかく、すぐに新品を持って来て欲しい、と電話した。それでも、三日間、冷蔵庫なしの生活を強いられた。常温でだめになった食料などは、捨てた。いつ持ち込まれるのか、はっきりせず、三日間は、ご飯は炊けたが、コンビニおかずで、しのいだ。新しい冷蔵庫が到着。ところが、新品の冷蔵庫は、半分が冷凍室で、さっそく入れた野菜、バナナ、りんごなどが、朝になって見ると、凍り付いて、真っ黒く変色していた。野菜入れがないことがわかった。しかたなく、野菜入れのあるもうひとつの冷蔵庫を買うはめになった。最近の冷蔵庫は、冷凍ものを入れる人が多いので、大きい冷凍室になっているとのことだった。冷凍ものなんて、ほとんど買ったことがなく、理解に苦しむ。無駄な支出、と怒ったり、反省したりしていた矢先、こんどは、洗濯機が壊れた。

洗濯機は、父親が使っていたもので、かれこれ30年は経っている古道具。元洗濯屋だった父は、自分のもの、家族のものも、当たり前のように洗濯していた。現役時代は、シルクのYシャツなどを常用していたが、洗濯して、アイロンをかけるのは、プロの父親だった。その父が亡くなり、隠居生活に入り、ひとりになって23年間、ずっとこの洗濯機だった。電気屋のご主人は、「よく働いた、充分、モトはとったね」、と新しい洗濯機を持ってきた。

古い洗濯機は、二層式だったが、新品は、全自動式で、洗剤の量、水の量、洗濯物の種類、洗う速度などなど、やたらとボタンがあり、とにかく、複雑なのだ。まだ、いちども、作動していない。明日は、天気になり、太陽も出るらしいので、やってみるか。

2021年9月3日金曜日

2021年9月3日

2021年9月3日

昨日は、南アルプスだったので、今日は、北アルプスのこと。

山歩きをはじめて4,5年経った頃、上高地の河童橋を渡ったところに建物があり、入口に、日本山岳会の文字。聴いてみると、日本山岳会の会員向けの宿泊施設とのことだった。で、日本山岳会に入会しよう、と決心。入会するには、すでに会員になっている人の推薦が必要という。それで、たまたま山で会ったことのある男性が、会員で、頼んでみた。これまで、どんな山に登ったか、どんな季節の山行だったかなどのメモをつけて、お願いし、半年くらいかけて、ようやく日本山岳会会員の資格がとれた。推薦してくれたその男性は、あとでわかったのだが、ヨーロッパの山々、特に岸壁登りの体験もある、ほんもののクライマーだった。

上高地の山岳会の建物は、改築したばかりだった。名誉会員の皇太子さんの結婚式が決まっていて、山好きの皇太子が、新婚旅行で泊まる、という話があり、おふたりの部屋、様式トイレなどが準備されたのだ。結果は、残念ながら、おふたりは、上高地の帝国ホテルに泊まった。

そういう事情で、新装なった日本山岳会の上高地小屋(通称)を、3年間ほど利用させていただいた。たしか、一泊2000円くらいだった。

北アルプスの穂高、槍が岳など、ここをベースになんども往復した。土日は、利用者が多いけれど、それ以外は、ほとんど空いていた。島々の高齢者夫妻が、小屋番をしていて、結構仲良かった。小屋は、上高地と同じ時期、5月の連休からたしか秋の季節まで開いていた。朝は、明神池まで往復の散歩、夕方は、近くの上高地温泉へ、といういい時間を過ごした。贅沢な日々だった。

その頃から、梓川の反対側の霞沢岳が気になっていた。地図には、出ているものの、あまり注目されていない山。頂上から一気に下っている八右衛門沢をおりてみたい、という欲望。その後、いろいろと調べることになった。何人かの先人が、達成していることもわかった。遭難者もいた。

四年後、徳本峠から、六百山、霞沢岳から、八右衛門沢を、二人の男性登山家と共に下ることに成功。落石の多い、怖い沢くだり、だった。この日の夜の宿泊は、上高地帝国ホテル。幸せな夜だった。