2021年4月18日日曜日

水戸の天狗党ーNHK大河ドラマに出てこなかった史実

日曜の大河ドラマ、渋沢栄一の 自伝。渋沢さんが、明治維新後の日本の発展に貢献したことが、そのあらすじだが、今は、まだ彼の青年時代で、尊王攘夷のもと、新政権には、反対するグループで、道場で剣術の稽古に励んでいる。万延元年、開港を迫る外国との交渉をすすめる大老井伊直弼が桜田門外で襲われる、「桜田門外の変」だ。

この頃、薩長による新政権に反対する尊王攘夷のグループが、水戸で旗揚げをする。西上へ、京へとなんと800人の大移動だった。

その足跡を辿る歴史街道を歩く旅を、10年前くらいだったが、実行した。旅程は、ざっと次の通り。

 水戸~大子~大田原~今市~日光~鹿沼~宇都宮~栃木~太田~倉賀野~下仁田~内山峠 ~望月~下諏訪~伊那~飯田~馬込~中津川~太田~天王~大河原~秋生~木の本~今庄~新保~敦賀

この行程を、三泊四日、四泊五日という日程で、歩く旅だった。

天狗党の一行は、11月に常陸国久慈太子村を出発、京へ向かうはずが、明治新政府軍による待ち伏せで、京へは行けず、北國街道を北上せざるをえず、12月17日に加賀藩で降伏力尽きたのだった。

日光例幣使街道、中山道、北國街道は、すでに何回か歩いていたので、街道歩き旅としてはそれほど目新しいものではなかったが、鍋、釜の日用品、鉄砲、大砲などを持っての大人数での「旅」が、どれほど難事であったかを察するにあまりある。途中の村々では、寺などに泊まり、村人たちが、同情して、いろいろ差し入れなども、したらしい。800人の大集団が、一糸乱れず、長旅を続けたことは、小説『天狗騒乱』(吉村昭著)にしっかり描がかれている。

敦賀で拘禁されたリーダーの武田耕雲斎以下24名の幹部は、慶応元年(1865年)、2月に死罪、次々に352名も死罪、100余名も遠島の罪に。彼らが、押し込められていた「鰊小屋」が、敦賀の海岸、松林の中にあり、鎮痛な面持ちで、手を合わせた。日本が明治維新という新しい国になる過程で、こんな事件があったこと、あまり知られていないのが、残念だ。

先日、水戸へ行った時に、駅の観光案内で、「水戸天狗党のこと、知りたい」、と尋ねたが、資料はゼロだった。たしか、市内には、天狗党の墓があったはず。行ったことがあるが、今はどうなっていることか。渋沢栄一など、表舞台で活躍した御仁だけを、取り上げるだけではなく、天狗党のような存在を歴史に残すことだって大切だと思う。そういえば、奈良県の十津川で、最長距離路線バスに乗った時、「天誅組」の碑があった。大和で旗揚げした尊王攘夷派で、結果は、失敗したが、歴史の裏舞台で活躍した人たちだ。その後、彼らの多くが北海道に移住、たしか、今でも、北海道十津川という地名がある。






   


 


  




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