寛斎さんのこと
今朝の新聞に、「山本寛斎さん死去」の見出し。えっ、寛斎さんが、と思わず叫んでしまった。
今から2、3〇年前だったか、伊豆で日本の中堅リーダーの会議が行われていた。二泊三日のこのセミナーに、5,6回参加していた際に、寛斎さんと会った。彼とは、たしか会ったのは、2回。作曲家の三枝さん、吉永のみっちゃん(みち子)、「ぴあ」の矢内社長などもいた。普段は、あまり関係ない人たちだったが、セミナー以外でも、結構、会ったりしていた。
コトの次第は、はっきり覚えていないが、伊豆のセミナー会場で、寛斎さんが、毎日、着るものをとっかえ、ひっかえしてきたので、みんなで、さすが、ファッションデザイナーだ、と感心していたら、「わたしの着ているシャツを、よかったらプレゼントする」、といわれ、思わず手を挙げた。彼が、有名なファッションデザイナーだなんて、意識ゼロだったので、手を挙げたのだ。
と、たしか、一週間後、宅急便が届いた。寛斎さんからだった。開けると、あのシャツが入っていた。シャツと言っても、女性のブラウス風のゆったりした仕立てのシャツだった。色は、たしかピンクと薄い緑色(竹色)の、どちらかというとド派手なものだった。
少し派手だけれど、と礼状を出したら、新聞の半分ほどの大きな画用紙に、「たまには、派手にして、目立つことも大切だよ」、とパステルの大きな文字の返事がきた。
それだけのことだったが、寛斎さんの人柄を感じた出来事だった。
翌年のセミナーには、寛斎さんは、来なかった。
「ぴあ」の矢内さんは、毎年、両国の初場所の招待席の切符を、6年間も贈ってくれた。埼玉の女性団体でボランティアをしていて、死ぬまでに、いちどでいいから、ほんものの相撲を見たいという人がいるので、というと、その年から
「ぴあ」の社長室から、切符が二枚送られてきた。毎年、選んで、ひとりづつ、両国国技館にご一緒した。席は、いわゆる砂っかぶりの席だった。死ぬ前といっていた人たちは、相撲見物の後、みなさん、長生きした。
その矢内さんとは、数年前、なぜか、モンゴルのウランバートルで、偶然再会。国立劇場で、日本からご一緒の団体さんたちと観劇にきておられた。たまたま、モンゴルの友人と
来ていて、なんと、席が真ん前、そこに矢内さんがいたのだ。「いつも、相撲の切符、ありがとうございます」、とはじめて、当人に御礼を伝えた。いつもは、社長秘書の女性と
だったので。偶然とはいえ、そうゆうことって、あるのだ。
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