有楽町の日比谷公園よりの出口を出てすぐのビル「電気ビル」、玄関を入ってすぐのエレベーホールで、それほど大柄でない男性が、待っていた。「沢田です、どうも、どうも」とまず握手。日本人なのにやるね、というのが第一印象だった。この日が初めてだったが、その後、2,3年くらい、沢田さんとは、ちょくちょくお会いした。場所は、いつもここ、電気ビルに外国人記者クラブ。
沢田久雄さんが、大磯のエリザベスサンダースホームの沢田美喜さんの息子(次男)であることを知った。終戦直後、アメリカ兵とのあいだに生まれた子どもたち、ひきとり手のない子等を引き取って育てたホームとして、NHKなんかで、なんども放送されていた。彼がどんな仕事をしていたのか、定かでなかったが、なぜかいつも私たちは、外国人記者クラブを常用していた。
お母さんの沢田美喜さんは、岩崎財団の孫で、ご主人は、沢田康三氏(外交官)。神奈川の大磯にあった岩崎財団の土地に作ったのが、サンダースホーム。世話をした子どもたちがなんと2000人といわれている大プロジェクト。久雄さんによると、金策で大変だったよ、とのこと。久雄さんと、毎回どんな話をしていたのか、あまり覚えていないけれど、「大磯のホームをなんとか残しておきたい」、と話していたのを思い出した。
その間、歌手の安田祥子さんに、歌の個人レッスンを受けていたが、彼女が、沢田久雄さんの奥方であることは、しばらくの間、まったく知らなかった。月1~2回の練習は、四谷三丁目の由紀さおりさんの自宅兼事務所だった。ある時、安田先生の娘さんの留学のことで、相談があり、本名が沢田姓であり、久雄さんがご主人であることがわかった。ほんとうにびっくりだった。
しばらくして、久雄さんが、信濃町の慶応病院に入院。安田先生が、母上とご一緒にアメリカに出かけることになった。たしか娘さんの卒業式だった。留守の間、一日一回、病院に顔を出して欲しいとの依頼。お引き受けした。一週間くらいだったか、毎日、病院に久雄さんを見舞った。彼の希望で、毎日、新聞を届けたが、その新聞、フランス語の新聞で、日本橋の丸善でしか手に入らず、丸善経由でのお見舞いだった。彼のお父さんが、フランス留学だったのを、後で知った。
久雄さんとのご縁は、最後まで続いた。退院され、しばらく経った頃、安田先生からの電話で、ご主人が亡くなられたので、葬儀を手伝ってほしい、との依頼だった。東京タワー近くの教会での葬儀で、外国人参列者向けの受付のお手伝いをさせていただいた。そういえばお母さんの沢田美喜さんも、経験なクリスチャンだった。
そんなことを思い出しながらの半日のちょい旅、東武線(スカイライナー)で春日部へ、ここで、アーバンパークラインに乗り換え、おおたかの森で下車、TXつくばエキスプレでつくば駅へ。駅構内の産地直売店をのぞく。2軒のうち1軒がお休みだった。ここで、泥つきねぎを購入。夏休み中だからか、人影の少ない学園都市。近くのバス停から、土浦駅行きのバスに乗車。乗客5人。道路もそう混んでおらず、20分で到着。土浦駅からは品川行きの常磐線で松戸駅、ここで千代田線に乗り換えて綾瀬着。4時だった。電車は、どれもこれも乗客は、わずか。これじゃあ、やっていけない。本日も、心配しながらのちょい旅でした。
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