2022年5月30日月曜日

誕生日 84歳 めでたくもあり めでたくもなし

 2022年5月22日、84歳になりました。

海外の友人たちからの「おめでとう」電話、メールがあった。いつも長ーい、長ーい電話のお祝いお喋り、オーストリアのフリッツイ、今年は来ない。彼女は、長年の闘病生活だったけれど、一昨年、ウィーンに会いに行った。元気だった時のように、本当に明るかった。滞在中、4日間、毎日、彼女のお見舞いに行き、いろいろ、なんとなく、他愛ないお喋りを楽しんだ。そうそう、毎年の誕生日の電話で、彼女が「娘さん、よく聞けよ、山男に惚れるなよ」の歌を冒頭に歌ってくれたっけ。ちょうどHappy Birthday to youのように。日本でいちばんポピュラーな歌と称して、日本語で彼女に教えこんだ歌。なぜか、憶えていてくれた唯一の日本語の歌だった。今年の誕生日には、フリッツイの歌を聴くことが出来なかった。さびしい限り。

イスラエルのヌザット、なぜか、今年は、電話の代わりにCARDが届いた。最愛に連れ合いだったルーベンさんが亡くなったとのこと。二人とも、イスラエルのヒスタドルート(労働総同盟)の役員だった。彼女ヌザットは、イスラエル国内に住むアラブ系女性の部門の責任者で、イスラエル労働党のクネセット(国会)議員でもあった。ルーベンさんは、10年ほど前から難病で、自宅療養だった。ヨーロッパへ行った時、イスラエルに立ち寄って、お見舞いをしたが、フィリピン人の在宅看護人を雇って、世話をしていた。ヒスタドルート,クネセットは辞任していたが、ガザに住むアラブ女性たちのためのNGOを立ちあげ、自宅を事務所にして、活動を続けていた。

シンガポールの病院院長ローチョン・ヨン、いつも誕生日には、チーズとワインを送ってくれる。今年は、奥さんのジャッキーとイタリアのミラノからの電話だった。彼は、院長だが多くの公職についており、そのひとつが、シンガポールのイタリア大使。年2~3回、イタリアのシンガポール大使館に出かける。ミラノに別荘があり、そこに滞在する。というわけで、今年の誕生日には、ミラノにいた、というわけ。こどもが二人いて、ふたり共、医師。長女のサラは、マレー人の医師と結婚、この2月、男の子が誕生、メールで写真を送ってきた。長男のデヴィット、彼の結婚は、どうなっているのか。

トン・ウオンは、ビルマ人(ミャンマー人)。インドネシア人女性と結婚、ウイーンとジャカルタ、双方に家があり、行ったり、来たりの生活。フリッツイのお見舞いウイーン滞在では、彼の家に泊めてもらった。ドイツ銀行に長く勤務していて、アジア局長でもあったが、今は、ご隠居さん。奥さんのソフィーは、父親は、インドネシアの元外交官で、海外生活が長く、自身もウイーンの国連本部のスタッフだった。子どもはいない。トン・ウオンは、昔の友人たち、世界各地の友人たちの動静を、ときどき知らせてくれる。今回も、写真つきのメールだったが、「メール、見てくれた」の念押し電話もあった。

「Happy Birthday to You」を歌いながらの電話は、モンゴルのナランゲール。彼女は、昔から、そそっかしくて、5月22日誕生日びったしというのではなく、早すぎ、遅い、の誕生日電話だ。「ウランバートルも、春ですよ、待ってるよ」、とのお誘い。

今年も、こんなお祝い電話があった。84歳って、めでたいのかな、めでたくないのかな。毎日、毎日をなんとか過ごしては、いるけれど、体力も、脳力も、日々減退しており、あと、どれくらいもつのか、そんなことも考えるポスト誕生日です。このトシになれば、だれもが考えることなのかも。日本人の女性の平均年齢は、87.74歳。だとすれば、あと3~4年。まあ、一日一日を、大事に生きるってことかも。



2022年5月29日日曜日

梅雨前の 田んぼの景色 車窓から ー秩父鉄道

お出かけついでの ちょい旅です。

東武線の谷塚駅(草加の手前)へ行く用事があり、ちょっとその先まで行ってみよう、と。111時すぎに谷塚駅から乗車、各停だったので、草加駅で急行に。この先、いろいろオプションはあるけれど、日光みたいな人込み駅は、さける、となると、空いている路線、左折することにした。急行は、加須駅行き。そこから館林行きに乗ろう。加須は、上野駅から宇都宮方面へのJRの停車駅でもある。前回は、ここでかなり待たされたが、今回は、ほとんどすぐに乗り換えられた。羽生駅には、11時20分に到着。約30分待ち。1時間に一本なので、これくらいは、許せる。

羽生駅周辺は、水をはった田んぼが多い。まだ植えてはいないが、田植のためのウ準備は、すっかり整っている。遠くに日光連山が見える。突然、車が現れ、「よろしくお願いしまーす」、選挙カーだ。ホームで待つ人20名くらい。学生さんがほとんど。土曜日なのに、休みじゃないんだ。11時58分なのに、10分前に到着。30名くらいの乗客が降りてきた。列車は3両 ワンマン。

えっ、こりゃなんだ、と叫んでしまった。電車の外側、車内天井部分いっぱいのラッピング。「World Cup 2019 Kumagaya」の文字。あれからずっと、この状態で走っているのか。乗客(といっても6名)のみなさん気にならないらしい。無視。他に吊るし広告なし。

発車、時間通り。進行前方を見るため、いちばん前の車両に座る。またまたびっくり。線路が、まっすぐなのだ。線路両サイドの電柱が見事、先々までまっすぐ、次の駅も見える。乗り降り客は、1~2名、あるいは、ゼロ、なのに、駅前には、どこでも大きな駐輪所があり多くの利用者がいるはず。土曜日でも、30~40台のチャリが見えた。という状態のまま熊谷駅に到着。ほぼ全乗客は、ここで降りた。乗ってきたのは、5名。

12時22分、発車。前方の秩父の山々がかすんで見える。ほぼすべての駅は、無人、ホームに屋根のない駅もあった。が、ひとつ、立派な、大きな屋根つきのホームと駅舎で、改札口には、女性の駅員がいた。ふかや花園駅。NHKの大河ドラマに出てくる畠山重忠の墓もここには、あるとのこと。

線路は、相変わらず、曲がらず、ひたすらまっすぐです。秩父鉄道が出来た当時、ここら辺は、土地問題などなく、とにかく最短距離で、走りやすい、まっすぐ線路が可能だったのだろう。12時50分、寄居駅到着。ここで八高線に乗り換える。先日、相模線で八王子駅まで乗ったので、なんとなく、その先の八高線と思っていたのだ。ここも1時間1本走行で、約1時間待ち。外に出て、うどんでも食べるか、と改札口へ。人がいない、無人改札だった。駅の表にも、裏にも、店は、一軒もなく、客待ちのタクシーが2台あった。

しかたなく、駅に戻り、屋根なしホームnベンチですごす。と、高校生集団がどーんと入ってきた。200人、いや300人ほど。先生らしい男性が、大きな声で列車ホームに彼らを誘導している。聞くと、寄居郊外の山を会場に、20キロ歩き大会があったとのこと。みんな汗びっしょりで、ペットボトルの水を飲んでいる。秩父鉄道で熊谷方面へ。同じ方向でなくてよかった。

八高線ホームに列車が入ってきた。13時58分発の高麗川行き。時間通り発車。対向の八高線高崎行きは、なんと1両きり。こちらは、3両だった。乗ってびっくり、八高線の高麗川駅行きは、3両で、いちばん前の車両、ボックスシートタイプ。4人がけが4つ、2人がけが、3つ、ついている車両。にこにこ顔で、2人用ボックスシート、ゲット(get).

進行方向を向いた姿勢での「旅」は、最高。寄居を出てすぐに荒川を渡り、八高線は、山間部をゆっくり、ゆっくり走ります。空は、青空、いい日、旅立ちのメロデーがなんとなく出てくる。最高、いいね、ちょい旅。小川駅、越生駅など、なぜか、栗の木が多い、白い花が咲いている。畑の端に雉が一羽。

14時25分、高麗川駅着。待ってい川越行きに乗り換える。ここから先は、もう山はなく田んぼと畑、それに戸建て住宅群。麦畑も多い。川越駅で大宮行きに乗り換え、大宮で京浜東北に、あとは、いつもの通りで、神明町には、17時45分帰着。

この日の 乗り鉄は、 東武伊勢崎線、秩父鉄道、JR八高線、JR川越線、JR京浜東北線、地下鉄千代田線、でした。



 

2022年5月23日月曜日

八高線 その先 海老名 茅ヶ崎へー相模線

関東の私鉄を調べていたら、神奈川県内を走っている相模鉄道というのがあり、本線が横浜ー海老名間24.6km、18駅と、支線のいずみ野線二俣川と湘南台間11.3km、というのがあった。ところが、もうひとつの相模線、茅ヶ崎から橋本駅までの路線を発見(ちょっと大げさかな)。やっぱり気になり、確かめることにした。

東京駅から東海道線の熱海駅行きに乗車。前回(南武線乗り)と同じプロセスです。この列車には、最前と最後部にボックスシート(4人掛けシート)がついていることは、確認済み。勿論、ボックスシートに。8時55分、東京駅発。まだ、9時前。雨は降ってはいないけれど、ビルがもやっている。右側に座ったので、今日は、大森の貝塚の碑をしっかり見ることが出来た。乗車率は、まあまあで、ほぼ全員座っている。それでも、横浜駅、9時20分、さすがに人の乗り降りは、多い。並走するように濃いブルーの電車が走っている。ブルーは珍しい。東京にはない。相模鉄道の湘南台行きだった。戸塚あたりから雨が降ってきた。歩いている人たち、みんな傘をさしている。大船では、右手の観音像が、雨にけぶってみえる。9時50分、茅ヶ崎駅着。

10時5分の橋本行きの電車が、ホームで待っていた。20分おきくらいで走っている。4両編成。いちばん前の車両に乗車。10名ほどの客。英語のアナウンス「only one driver,please push bottan when you get off」、つまり、ワンマンカーなので、乗り降りは、ボタンを押してください、と。客は、慣れたもんで、この先、どの駅でも、客はボタンで出入りしていた。

茅ヶ崎駅を出てすぐ、両サイドには、畑が見える。もちろん、戸建ても多い。まだまだ開発の余地ありかと。気になるのは、駅に着いても、すぐに発車しない、3分とか5分停車して、対向の茅ヶ崎行きを待つ。茅ヶ崎行きが優先されているのか。どうも、単線のようです。寒川駅、ここでも5分待ち。歩き旅で寒川神社には、二度来たことがある。相模の一の宮だ。東海道藤沢宿から、丹沢まで歩いた時にも、立ち寄ったことがあった。電車から右の方に大きな鳥居が見えた。

倉見駅でも待ち時間、駅前に大きな横断幕「新幹線新駅を倉見に、東海道新幹線促進期成同盟」とある。実現するのかな。雨は、本降りとなり、乗ってくる人の傘がびしょびしょだ。ようやく発車、門沢橋駅、ここは、海老名市。社家(しゃか)駅、ここでも停まる、ホームは屋根なし。10時45分、厚木駅着。ここまで、茅ヶ崎駅からなんと50分もかかった。小田急線の茅ヶ崎駅、厚木駅は、なんどか来たことがある。高層ビル、工場、マンションなど、地方の大都市です。客の多くがここで下車、と、どっと学生さんたちが乗ってきた。厚木に高校があるのだろう。駅を出ると、昔のまんまの畑風景、低い山々も見える。結局、終点橋本駅に着いたのは、11時15分だった。33.3キロ、18駅を70分かかった。

橋本駅下車。11時24分の八王子行きに乗った。この路線は、八王子から高崎行きの八高線に連絡している。八高線は、好きな路線だ。高崎駅で、だるま弁当を買って、食べながらの八高線、なんども乗っている。だがこの路線横浜線は、初めて。橋本駅を出てすぐに、結構長いトンネル。出たら、八王子郊外の戸建て住宅がびっしりの地区だった。11時35分、八王子駅着。

駅の立ちそばを食べる。12時55分の中央線特快に乗り、お茶の水駅下車。前回とほとんど同じプロセスの乗り鉄だ。さあ、改札口へ。スイカを乗せる。あゝ、今回も、やった、やってしまった・・・・・126円。すみません、でもありがとう。

相模線は、JRだったんです。今朝乗り換えた西日暮里駅からの運賃だった。




2022年5月19日木曜日

武蔵野を 南へ走る 南武線

時刻表本で、首都圏の鉄道路線を眺めていると、東京を中心に、西と東の様子の違いがよくわかる。西、主に神奈川だが、かなりの数の私鉄が走っている。小田急、京王、西武、東横、京浜などなど。それに比べると、東方面ー千葉、埼玉、茨城、栃木など東地域は、JRは多いが、東武が中心で、私鉄は、それほど頑張っていないのがわかる。足立区が東端に位置しているため、なんとなく、東方面への乗り鉄が多かった。同じ路線を、なんども乗りに行ったりしていたが、もう少し、西へも、ということで行ってのが、南武線。

東京駅から東海道線茅ヶ崎行きに乗車。10時すぎだったので、通勤時間は過ぎており、しかし、乗客は多い。新橋、品川駅では、乗り降り客が多かった。

川崎駅で下車。階段を上り、南武線ホームへ。立川行きは、頻繁に出ており、10時40分発に乗車。六両で、全員座れる状態で発車。出発前からお喋りの女性3人組、学生さんも目立つ。高齢者もいる。すぐの尻手(シリテ)駅では、南武線の支線浜川崎方面へ乗り換えられる。海の方向だ。電車は、川崎市内を走る。見えないけれど、南武線は、右手に流れる多摩川にほぼ沿って、立川まで走っている。

線路の両サイドには、10階以上もあるアパート群が続く。ここに住んでいる人たちが、朝晩、この南武線を利用して通勤・通学しているのだ。どこの駅でも、客が乗ったり、降りたり。聞き覚えのない駅名が続く。矢向(ヤコウ)、鹿嶋田(カシマダ)、平間(ヒラマ)、などなど。それに、当たり前かも知れないけれど、「武蔵野」がつく駅名がいくつかある。武蔵小杉、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝の口。

武蔵溝の口では、どーんと降りて、どーんと乗ってきた。ここは、私鉄との乗り換え駅。学生が多い。今日日の学生さんは、男性も、女性もお洒落。へえー こんな格好で大学へ行くのか。隣りに座った若者、オーデコロンの匂いがプンプン。登戸駅で、またどーんと降りて、どーんと乗ってきた。手押し車の子連れお母さんが3人。ガチャ引きの高齢者も多い。ガチャ引きという単語は、名古屋で元気なおばさんたちが話していた単語です。つまり、高齢者たちが、手押ししている車のこと。足立区でもよく見かける光景です。

稲田堤駅前には、駅すぐのところに、大きな駐輪所があった。ここら辺は、ビルではなくて、戸建ての住宅が多い。丘陵地帯には、びっしり住宅が建っている。みなさん、毎朝晩、駅まで自転車で通っておられるのです。

春霞の向こうに奥多摩の山並みが見えると、終点の立川駅。川崎駅から35.5キロ。南武線は文字通り、武蔵野を南に走る電車でした。

余談:11時50分発の立川から東京駅行きの特快(特別快速)に乗りました。40分ほど でお茶の水駅着。駅改札で、スイカを通すと、「168円」の文字。えっ、あっ、そっか、西日暮里駅でスイカを通したのが、9時半頃、その後、全てJRだったので、いちどもスイカを通さなかったのだ。駅前の丸善で、本を2冊買った、買えた。いい旅でした、大当たりの旅だった。     

2022年5月16日月曜日

50年 沖縄今も 基地だらけ

 沖縄が日本復帰して50年、復帰を記念しての行事が沖縄那覇と東京で行われたとのニュース。沖縄知事と、日本国政府首相の挨拶が報道されている。米軍基地をすぐなくせ、という知事への答えは首相の演説にはない。どんな解決方法があるのか。

その沖縄、実は、復帰前の1969年に行ったことがある。なぜか、これまでの全てのパスポートが残っている。「身分証明書」の文字がある粗末な厚紙の表紙で、発行は、日本政府総理府とある。実際にその証明書で沖縄入りしたんは、1969年1月25日で、5日間滞在している。目的は、現地の国際大学の取材だったが、復帰前の那覇市や地方へも行ったと思うが、あまり覚えていない。その後、復帰後の沖縄へは、3度ほど行っている。仕事が1回、あとの2度は、観光目的。それでもかつての激戦地区、ひめゆり、平和祈念公園、サミット開催地、米軍基地などを廻った。いろんな思いがある。

保存のパスポートの束(全部で47冊)の中に、日本政府発行でない、こんなのがあった。発行は、国際機関で働く人のためのパスポートLAISSEZ PASSERレセパセ。内部文章は、英語、スペイン語、フランス語、中国語だ。ニューヨークの国連本部、アフリカスーダンの首都カルツームで働いていた時に使用していたものだ。特権というか、これを携帯している人は、空港などでの出入国ゲートが、一般旅行者とは、別のところだった。

あの頃のパスポートには、予防接種証明書がついている。アジア、アフリカなど途上国への渡航には、この証明書が必要だった。なぜか、今は、コロナの予防接種署名書が不可欠のようだ。

パスポートを忘れた夢をときどきみる。実際には、人生でたった一度だったが、忘れた、があった。アイスランドの首都レイキャビックへ行った時のこと。前の晩、現地の友人たちと盛大な飲み会だった。朝いちばんの飛行機に乗るため、タクシーでホテルを出た。走りはじめて、チェックしたら、パスポートがない。あわてている客の様子に気づき、運転手さんが「どうした?」、というので、ホテルにパスポートを忘れたみたい、というと、無線で会社に連絡、会社からホテルに連絡し、戻ったホテル玄関で、ホテルスタッフが待っていてくれた。なんと、ホテルの部屋のテーブルの上に置いてあったのだ。運転手さんは、空港にも連絡をしてくれた。まさに離陸寸前の搭乗機が、待ってくれていて、最後の乗客だった。あの時のタクシーの運転手さんには、ちゃんとお礼を言わなかったことが、今もすまない気持ちだ。そういえば、どんな人だったかも、思い出せない。でも、なぜか、今になっても、ときどき空港へ行く途中、パスポートを忘れた夢をみる。

2022年5月12日木曜日

咲く藤の 棚の下で深呼吸

 友人が西新井大師へ行ってきた、というので、地元じゃん、行かねばと行ってみた。普通の日だったのに、結構な人込みだった。牡丹は、すっかり萎れており、しかし、藤が最高、きれいだった。でも、カメラ(スマホ)を持って見上げている人、人。ほんのちょっと、棚の下に。空が見えないほどの藤の花。でも、藤といえば、やっぱり亀戸天神でしょう、なんどか行ったことがあるけれど。でも、いまは、もっと混んでいるんじゃないか。そうそう、駅から歩いて行く途中の豆屋さん、あそこ、まだやっているかな。

天気がよかったので、いつものように、ちょいと電車に乗った。東武スカイ線の新越谷駅で下車、武蔵野線で、北へ。次の駅が東川口、それからが続く。東浦和駅、南浦和駅、武蔵浦和駅、西浦和駅、と浦和が四駅も続くのだ。南浦和駅で京浜線に乗り替え、赤羽駅下車。ここから路線バスで、西新井駅まで行き、さらにバスで北千住駅へ出て、神明町まで。シルバーパスが活躍、だった。

4時すぎに帰宅。テレビをつけたら、ウクライナの現地報道。ハルキフの市民が、旧ソ連時代のモニュメントを破壊している映像。そういえば、モンゴルのウランバートルホテルの前のレーニン像は、どうなったかな。2019年のシベリア鉄道に乗った時、バイカル湖手前のウラン・ウディ市にも、巨大なレーニン像があった。そうそう、始発駅のウラジオストックの駅前の高台の公園、あそこにも海を見下ろすレーニンさんが立っていた。プーチン大統領も、そのうち銅像になるのかな。

新聞を見ていたら、こんな記事。「ラーメン議連、立ち上げ」。4月28日、国会内で、設立総会が開かれ、国会議員60人が出席、したんだそうです。石破茂さんが「ラーメンがさらに普及し、世界に広がって地方創生に」、と挨拶。ご当地ラーメンを振興し、地方創生と世界に発信する、んだそうです。いいですね、このご時世に、なんともノー天気な、私たち国民の代表である国会議員先生たちの昨今です。

生きていると、いろんなことがあります。

2022年5月7日土曜日

代掻きの すんだ田んぼに 春の風

不要不急が続いている。遠出を控え、不必要な移動はだめ、といい聞かせながら、本日もちょい旅。用事、なーんもないけれど、ま、行ってみるか、乗ってみるか、ではだめなんです。なんでもいい、旅には、目的が必要なんです。本日は、田植え前の水をはった田んぼを見ること、これが目的。方向は、東。大都市横断の西方面でなく、人気(ひとけ)の少ない房総半島。

つくばエックスプレス(TX)で、終点のつくば駅まで。なんども乗車の路線。大型連休中、各停は、申し訳ないほどの乗客。途中の景色には、田んぼはない。ビル、マンション、戸建て住宅群、急激に増えた感じ。つくば駅も、人影まばら、構内の店もほとんど閉まっていた。駅前のバスターミナルから、土浦行きに乗る。大丈夫かな、客は、3人だった。そのうち2人は、途中で下車。終点の土浦まで、ひとり占め。途中、残念ながら、田んぼなし。それじゃあと、土浦駅から乗ったのは、水戸行きの常磐線。友部駅、すぐに田んぼがありました。ひとつづつ駅に停まるし、特急列車待ちなどで、とにかく、よく停まる列車。こういうのがいい。列車好きには、たまんない。

車窓からの田んぼには、あちらにも、こちらにも、田植え作業の人たち。といっても、腰をかがめて、苗を一本づつ植えるなんていう姿はない。あれは、今やパフォーマンス。現代の田植えは機械です。だから、広い田んぼには、機械を操る人、ひとりしかいない。それでも、田植えの風景です。連休なのに、休みなし、の人たちがいるんですね。

そういえば、あちこちの千枚田へ 行きました。和歌山県だったか、三重県だったか、有名な千枚田。千枚田ではないけれど、ネパールの段々畑、あれは見事だった。あんな級な斜面にどうやって畑を作ったのか、人間の力を実感しました。

大型連休で、久々に新幹線も混んだらしい。帰省だったり、温泉だったり、レジャーだったり、「久々の、いい旅でした」、「実家で、ゆっくりしてきました」。

なんの目的もなく、用事もなく、それでも汽車に乗って出かける、なんて人はいない。最近は、家を出て、なにかに乗って、移動しながら、どこへ行くか、どこで降りるか、なんていうちょい旅が多い。連休だから行く、なんてことはせず、毎日が旅日和、楽隠居の旅です。

2022年5月5日木曜日

空高く コロナに負けるな 泳ぐ鯉

実は、この一週間、パソコンの回線がストップしていました。原因は、よくわからないけれど、ご近所のテレワークの男性から、「お宅のパソコン、回線、切れてませんか」、と聞かれ、やってみたら、出来ない、切れていたっていうわけです。我が家は、詳しいことは、わかりませんが、回線の都合で、電話もいっしょにダメになっていました。ということで、電話もかけられなかった、かかってこなかった。まあ、生命にかかわる事件もなく、よかった、です。

本日は、5月5日、大型連休真っ只中、毎日、高速道路の渋滞の実況、羽田、成田の混雑状態、東京駅の様子などの報道、そうか、みなさん、お出かけ中なんだ、と神明町の楽隠居。

先日、テレビ出演中の小池都知事が、「わたし、ウクライナの大統領選挙の応援に行ったことがあるんです」、とおしゃっていました(2014年)。私なんか、なんども行ったことがある。ざっと、こんな感じです。

ニュージーランド 労働党の党首だったマイク・モアさんの選挙だった。日本語で応援演説をすると、候補者の彼が英語に翻訳する、というやり方で、日本語がまったくわからないマイク、好き勝手な演説になっていたにちがいない。

イスラエル  マパイ・労働党のシモン・ペレスさん、後に大統領になり、ノーベル賞を受賞。ペレスさんの選挙区は、集団農場(キブツ)のひとつで、選挙期間中そこの食堂で働きながらの選挙運動だった。ペレスさんからは、その後、国際会議でなんども会う機会があり、その都度、「テイクバには、選挙で助けられた」と言ってくれました。テイクバとは、ヘブライ語で、「幸福、幸せ」という意味で、今でも、イスラエルの友人たちからは、「テイクバ」と呼ばれている。

オーストリア  政権与党だった社民党の選挙応援は、同党の党員だった友人フリッツイの選挙活動に同行。たまたま会ったザルツブルクで選挙運動中の党首クライスキーさん、「必ず勝つよ、日本人も応援してくれているんだから」と言い、コーヒーをご一緒。社民党は、歴史ある政党で、なんども政権を担当している。

マルタ  政党の名前は、憶えていないが、大統領の名前は、ドミントフさん。マルタ島で開催の会議に出席中だった。イギリスの軍隊が駐留していたマルタが、米軍が駐留している沖縄の状況と、似ているというので、現状報告ということで、短いスピーチをさせられた。その後、ドミントフ大統領と一緒に、「ビーバー、ドミントフ」、を叫びながらの行進に参加。大統領選挙だったことを知った。

モンゴル 25年間のソ連統治下から解放され、初めての総選挙だった。出来たばかりの社民党の選挙のために、日本から選挙活動用の印刷物をトランクに詰めてのモンゴル入りだった。社民党には、結党当初より、かなり入れ込んでいたので、不思議なくらい、頑張った。広い草原には、羊、牛、ラクダなど動物しかおらず、有権者のいるゲル(テント)をさがすのは、大変なことだった。一日中、ランドローバーで走っても、せいぜい20~30名ほどの人にしか会えない、かったるい選挙運動だった。初めての選挙だったが、友人たちが当選、社民党からは、感謝状をいただいた。その後、バイカル湖近い北のセレンゲ州での州議会議員選挙の手伝いに行った。冬、雪の中の個別訪問だった。やることがない老人たちと、2時間、3時間を過ごす選挙運動だった。ウオッカを飲み、羊の肉をご馳走になったりで、候補者といえば、まるで、手ぶらの個別訪問。候補者だった彼女は、今、州議会の議長を務めている。

スリランカ  選挙活動ではないけれど、選挙用のポスター、資金をヨーロッパの政党に頼まれて、コロンボに運んだことがあった。当時、ご主人の後を継いで首相になったバンダラナイケさんの自宅に。入口から車で、15分ほど走って自宅建物に到着というほど、広い敷地だった。応接間で首相にお会いしたが、何人ものお手伝いさんがいるのを目撃。持参の資金、本当に選挙に使われるのかな、と思った。

選挙監視ーカンボジア  大量虐殺が行われ後の民主化選挙、現地の責任者は、日本人の明石康さん(国連代表)だった。

選挙監視ーネパール  初の民主化での選挙、日本の監視代表団の一員としての参加だった。代表団の事務局長は、自民党の二階俊博さん。

選挙監視ーフィリピン  前大統領の妻だったアキノさんが立候補した大統領選挙。選挙集会では、ほとんどが、若者、女性たちで、その熱気は凄かった。

こうしたみると、外国の選挙にずいぶんかかわってきたことか。なのに、日本での選挙、いちどもかかわったことがありません。