毎週末、土曜日の夕方、上野駅、コップ酒、駅弁を買う。乗るのは、寝台車、当時は、青森駅行きの夜行列車は、上野駅から2本でていた。そのどちらかに乗れた。いつ発ったか、目がさめると八戸あたりで、青森駅には、7時頃到着。そうそう思い出した。上野駅でいつものように、ぐっすり眠って、いつものように目がさましたら駅員が、この列車は、上野駅から発車しておらず、寝ておられたお客さんに弁当を配っているとのこと。事故だったのか、台風だったのか、原因については、覚えていないが、弁当を二個もらって、帰宅したことがあった。
さて、青森駅で出迎えてくれた人、浪岡のUさん。60歳すぎの、東北弁のきついおじさん、Uさんとお会いしたのは東京で、「おれ、百姓だ」というのが、やたら気に入り、何回か会っているうちに、「頼みごとがあるんだが、」と。
彼の頼みごとというのは、りんご畑の小作人騒動のリーダーだったUさんに、地元東奥日報から原稿依頼があった。連載もので、「書いてもらえんだろうか」、という頼みごとだった。小作人騒動、ということに関心があり、即答OK。聞き取りのための青森行きがはじまった。勤務中だったので、週末しか行けず、それでも三か月くらいかけての聞き取りで、原稿はなんとか終了。
そのお礼に「なんか欲しいもん、ないか」、というので「土地が欲しい」、と言ってみた。この頃、山登りに熱中していたので、山小屋を、なんて思っていたので、ついつい土地なんて言っていまったのだ。東京に戻り一週間ほど経った頃、書留速達が届いた、Uさんからだった。中には、土地の贈与・登記書が入っていた。びっくりして、すぐに青森へ。登記書はホンモノで、この日から地主になった。現場へ行くと、山の中の一区画で、近くに沢が流れており、沢水をためて、田螺を飼ったり、りんごの木(紅玉)を植えたりした。地主が東京なので、そういろいろ活用は出来なかったが、それでも、月1~2回の青森通いが続いた。東京の友人たちに「わたし、青森の地主でーす」なんて、いいふらし、いい気分でした。
3~4年ほど、春、夏、秋、冬の青森を、Uさんの車でまわった。りんごの花の咲く頃、収穫時の手伝い、秋の十和田湖などへも連れていってもらった。考古学会のメンバーだったUさんと、県内の亀ヶ岡石器時代遺跡の「穴堀り」も体験した。三内丸山遺跡は、まだの頃だった。そのUさんは、生存中、贈与した土地の税金も払ってくれていた。Uさんが亡くなり、土地は、ご遺族にお返ししたが、気分のいい思いをさせていただいた。地主だったあの土地は、その後に開港した青森空港近くだった。
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