本日は、12月31日。明日は、1月1日、令和2年。
という昨日、一昨日、なぜか終日テレビ漬けに。
まず、12月29日
終戦スペシャル・子どもたちの戦争 「東京大空襲」
17:00~19:00 NHK
12月30日
がウデイの謎に挑む 「サグラダファミリア」
08:00~09:30 NHK
英雄たちの選択 令和で大注目 万葉集最古の歌集誕生の秘密
09:30~11:30 NHK
激動の日 2019 米・中・露
11:00~17:30 TBS
天安門事件から30年 なぜ起きた流血惨事、共産党元幹部の激白、
銃口を向けた兵士の悔恨。
17:00~19:00 NHK
激動の世界をゆく 香港、台湾の選挙戦に密着、 中国の影響は?
19:00~21:00 NHK
こんなにテレビ漬けになったのは、生まれて初めてのこと。81年間、生きてきたが、これは、まさに新記録だった。疲れて、銭湯へも行かなかった。
天安門事件の映像を見て、香港、台湾の現状を重ねると、中国共産党の実態が見えるような気がした。
東京大空襲では、子どもたちを含む10万もの人たちが殺されたこと、戦争で孤児になった子どもたちが、全国で12万もいたこと、上野駅の地下街に子どもたちが暮らしていたことなど、「戦争は、だめ、絶対にだめ」と生き残りの元戦争孤児の方(83歳)が
叫んでいた。昭和史研究家の保坂正康だんは、「戦争という状況下では、人々は、自分のことだけで手いっぱい、子どもといっても、助けるどころじゃない」と云っていた。
こうしている今、どれほどの子どもたちが、戦争の犠牲になっていることか。
新しい年も、そんなことが続くのだろう。
2019年12月31日火曜日
2019年12月26日木曜日
クリスマスカード
クリスマスカードが、8通届いた。こちらから一通も出していないので、毎年、数が減っているが、それでも、律儀にくれる友人たちがいる。
そのひとり、イスラエルのヌザット・カザッフだ。彼女との関係は、旧い。一番はじめに会ったのが、1961年だった。ノルウェーのベルゲン。アジア・アフリカの青年たち20名くらいだったか、ノルウェーの労働党の招待でよばれたチームで、ヌザっトはイスラエル代表だった。帰国後も、カード交換はしていたが、そのうち、不通に。ところが、1968年にはじめてのイスラエル、留学したわたしに、突然やってきた彼女、「イスラエルで会えるなんて」、と驚かした。
ヌザットは、エチオピアからのユダヤ人で、顔かたちは、アラブ系で、旦那のルーベンも、髭のアラブ男性。彼女は、ヒストダルートと呼ばれた労働組合組織のアラブ女性局の局長、旦那は、新聞局の局長だった。その後、ヌザットは、クネセット(国会)の議員になり、イスラエル国会で、主に消費者問題で活躍した。
留学後も、なぜか、公私にわたり、イスラエルをなんども訪問する機会があり、その都度、会いつづけた間柄。こちらが引退、隠居してからも、3、4年にいちどは、会ってきた。夫妻で、日本にきた時もあった。たしか、世界消費者大会が東京で開催された時、旦那同伴での来日で、浅草の寿司屋に招待したが、その時、旦那がナマのさかながダメなことをはじめて知った。かんぴょう巻きをもくもく食べながら、ヌザットと日本の友人が、
おしゃべりに熱中している様子を、楽しそうに、ニコニコ、聞いていた。
その旦那、ルーベンが病気と聞いて、イスラエルへ。2001年1月。自宅療養中で、意識はしっかりしていたが、フィリピン人の介護師女性がきていた。ヌザットは、自宅の一部屋を事務所にして、アラブ人の女性たちの相談役をしていた。中東情勢が収まらず
アラブとの問題を抱え続けるイスラエル国内で、さまざまな困難を抱えるアラブ系の女性たちの相談相手をしている。
楽隠居を決めて、日々を暮らしている自分、これでいいのか、ちょっとだけ考えた。
そのひとり、イスラエルのヌザット・カザッフだ。彼女との関係は、旧い。一番はじめに会ったのが、1961年だった。ノルウェーのベルゲン。アジア・アフリカの青年たち20名くらいだったか、ノルウェーの労働党の招待でよばれたチームで、ヌザっトはイスラエル代表だった。帰国後も、カード交換はしていたが、そのうち、不通に。ところが、1968年にはじめてのイスラエル、留学したわたしに、突然やってきた彼女、「イスラエルで会えるなんて」、と驚かした。
ヌザットは、エチオピアからのユダヤ人で、顔かたちは、アラブ系で、旦那のルーベンも、髭のアラブ男性。彼女は、ヒストダルートと呼ばれた労働組合組織のアラブ女性局の局長、旦那は、新聞局の局長だった。その後、ヌザットは、クネセット(国会)の議員になり、イスラエル国会で、主に消費者問題で活躍した。
留学後も、なぜか、公私にわたり、イスラエルをなんども訪問する機会があり、その都度、会いつづけた間柄。こちらが引退、隠居してからも、3、4年にいちどは、会ってきた。夫妻で、日本にきた時もあった。たしか、世界消費者大会が東京で開催された時、旦那同伴での来日で、浅草の寿司屋に招待したが、その時、旦那がナマのさかながダメなことをはじめて知った。かんぴょう巻きをもくもく食べながら、ヌザットと日本の友人が、
おしゃべりに熱中している様子を、楽しそうに、ニコニコ、聞いていた。
その旦那、ルーベンが病気と聞いて、イスラエルへ。2001年1月。自宅療養中で、意識はしっかりしていたが、フィリピン人の介護師女性がきていた。ヌザットは、自宅の一部屋を事務所にして、アラブ人の女性たちの相談役をしていた。中東情勢が収まらず
アラブとの問題を抱え続けるイスラエル国内で、さまざまな困難を抱えるアラブ系の女性たちの相談相手をしている。
楽隠居を決めて、日々を暮らしている自分、これでいいのか、ちょっとだけ考えた。
2019年12月22日日曜日
本日は、冬至
あらいやだ 向うがまる見え 冬木立 読み人知らず
朝の散歩コースの枯葉も、ほぼ落ちて、木々は裸(はだか)姿になり、ああ、冬到来か・・・
本日は、冬至。ゆず湯の日。ゆずって漢字で書くと「柚子」。ご近所銭湯でも、ゆず湯
になり、しかも、風呂代が230円、いつもの半額になる。だから、混む。ゆずがプカプカ浮いている風呂に入ると、あったまる。ま、無病息災に効果あり。
昼の時間が一年中で、いちばん短い日。日の入りが4時48分、日の出が6時28分。夏は、おてんとうさんが、まだ明るいうちに風呂に入っていたのが、今は、行きも帰りも真っ暗。そうそう、明日は、かぼちゃを食べなくちゃあ、など、風呂友たちが、昨日、話していた。
あとは、クリスマス。でも、ほぼ関係ないな。そして、お正月。
正月になっても、きょうびは、凧あげない、独楽まわさない、正月。あの「もういくつ寝ると、お正月」って唄は、滝廉太郎がつくったんだって。
好きな歌に「冬の夜」ってのがある。
燈火(ともしび)ちかく 衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの楽しさ語る。居並ぶ子ども
は指を折りつつ 日数(ひかず)かぞえて喜び勇む
ほんものの俳句、一句。
ともかくも あなたまかせの 年の暮 一茶
朝の散歩コースの枯葉も、ほぼ落ちて、木々は裸(はだか)姿になり、ああ、冬到来か・・・
本日は、冬至。ゆず湯の日。ゆずって漢字で書くと「柚子」。ご近所銭湯でも、ゆず湯
になり、しかも、風呂代が230円、いつもの半額になる。だから、混む。ゆずがプカプカ浮いている風呂に入ると、あったまる。ま、無病息災に効果あり。
昼の時間が一年中で、いちばん短い日。日の入りが4時48分、日の出が6時28分。夏は、おてんとうさんが、まだ明るいうちに風呂に入っていたのが、今は、行きも帰りも真っ暗。そうそう、明日は、かぼちゃを食べなくちゃあ、など、風呂友たちが、昨日、話していた。
あとは、クリスマス。でも、ほぼ関係ないな。そして、お正月。
正月になっても、きょうびは、凧あげない、独楽まわさない、正月。あの「もういくつ寝ると、お正月」って唄は、滝廉太郎がつくったんだって。
好きな歌に「冬の夜」ってのがある。
燈火(ともしび)ちかく 衣(きぬ)縫う母は 春の遊びの楽しさ語る。居並ぶ子ども
は指を折りつつ 日数(ひかず)かぞえて喜び勇む
ほんものの俳句、一句。
ともかくも あなたまかせの 年の暮 一茶
2019年12月21日土曜日
2019年、お見舞いの旅、ウイーンへ
もういくつ寝ると、の頃になりました。
で、この一年、どうだったかな、と考えてみることに。
4月、ウイーンへ行ってきました。友人のお見舞いです。彼女の名前、フリッツイ。同じ年ごろで、ウイーンの高齢患者施設に入院している。お互いに、先が短くなってきたので
会っときたい、とメールをしていたところ、スポンサーが現れ、旅費を出すとの申し出が。自身もフリッツイと知り合いだったシンガポールの友人から、東京~ウイーン間の航空券が贈られてきた。たまたま全日空が羽田~ウイーン間を就航したばかり。行ってきました。
フリッツイとは、かれこれ50年以上になるが、旧い友人のひとり。最初にどこで会ったか、忘れたが、オーストリアのTV局の音楽担当のデイレクターで、あの有名なカラヤンの担当でもあった。カラヤンが、楽屋では、かなりワンマンだったという話を聞いたことがあった。彼女のアパートは、ウイーンの遊園地のそばで、ヨーロッパへ行った時、アフリカへ行った時など、ちょくちょく泊めてもらった。ニューイヤーコンサートも、チケットをとってもらい、二泊三日の旅
でいったことがあった。
フリッツイも、10日間ほど東京のわが家に泊まって、日本の観光を楽しんだこともある。
入院中といっても、鉢植えの木、花がいっぱいのかなり広い部屋で、鼻からのくだを除けば、元気な時とそうかわらない様子だった。5日間、ウイーン滞在期間中、毎日、会いにいった。日本でいちばん有名な歌、と教えた「娘さんよくきけよ、山オトコに、掘れるなよ」を、ふたりで合唱したり、施設のレストランに注文して、シュニッツエル料理を食べたり、共通の友人たちの噂話をしたりして、過ごした。
最後の日、もう会えないかな、とちらっと思いつつ、でも
「じゃあ、また来るよ」、と言っていた。こういうシーンって、たまらない、ほんと。
ウイーンでは、やはり旧友の、元国連の職員だったインドネシア人の奥さんと、ドイツ銀行のアジア担当をリタイアしたばかりのビルマ人の友人宅に泊めてもらった。
隠居の海外旅行、カネを使わず、友人が頼りの旅だった。
で、この一年、どうだったかな、と考えてみることに。
4月、ウイーンへ行ってきました。友人のお見舞いです。彼女の名前、フリッツイ。同じ年ごろで、ウイーンの高齢患者施設に入院している。お互いに、先が短くなってきたので
会っときたい、とメールをしていたところ、スポンサーが現れ、旅費を出すとの申し出が。自身もフリッツイと知り合いだったシンガポールの友人から、東京~ウイーン間の航空券が贈られてきた。たまたま全日空が羽田~ウイーン間を就航したばかり。行ってきました。
フリッツイとは、かれこれ50年以上になるが、旧い友人のひとり。最初にどこで会ったか、忘れたが、オーストリアのTV局の音楽担当のデイレクターで、あの有名なカラヤンの担当でもあった。カラヤンが、楽屋では、かなりワンマンだったという話を聞いたことがあった。彼女のアパートは、ウイーンの遊園地のそばで、ヨーロッパへ行った時、アフリカへ行った時など、ちょくちょく泊めてもらった。ニューイヤーコンサートも、チケットをとってもらい、二泊三日の旅
でいったことがあった。
フリッツイも、10日間ほど東京のわが家に泊まって、日本の観光を楽しんだこともある。
入院中といっても、鉢植えの木、花がいっぱいのかなり広い部屋で、鼻からのくだを除けば、元気な時とそうかわらない様子だった。5日間、ウイーン滞在期間中、毎日、会いにいった。日本でいちばん有名な歌、と教えた「娘さんよくきけよ、山オトコに、掘れるなよ」を、ふたりで合唱したり、施設のレストランに注文して、シュニッツエル料理を食べたり、共通の友人たちの噂話をしたりして、過ごした。
最後の日、もう会えないかな、とちらっと思いつつ、でも
「じゃあ、また来るよ」、と言っていた。こういうシーンって、たまらない、ほんと。
ウイーンでは、やはり旧友の、元国連の職員だったインドネシア人の奥さんと、ドイツ銀行のアジア担当をリタイアしたばかりのビルマ人の友人宅に泊めてもらった。
隠居の海外旅行、カネを使わず、友人が頼りの旅だった。
2019年12月10日火曜日
j昔のこと、思い出した
あと20日、新しい年になる。新年5月になると82歳。
先日、緒方貞子さんが亡くなられてから、こんどは、中曽根康弘氏が亡くなった。そして、中村哲さんが亡くなられた。
中曽根さんは、102歳というから、大往生。今から何年前だったか、中曽根さんが、科学大臣だった頃、たまたま出席した会議で、スピーチをされた。それが、なんと英語でのスピーチで、びっくりした。その後、何年か経ち首相になった中曽根さんに会うという機会があった。場所は、モスクワ。
ソ連共産党の書記長だったアンドロポフの葬儀に出席していたのが中曽根さんだった。あまり印象はなかったが、翌年の6月に、モスクワで軍縮会議があり、その会議に、ゴルバチョフが出席していて、「ナカソネさんには、同志アンドロポフの葬儀に参列れ、よろしくお伝え下さい」、となぜか伝言があり、帰国して、秘書さんにお伝えしたことがあった。ブ
レジネフが亡くなり、ゴルバチョフが書記長になる前のことだった。
中村哲さんとは、これまた、ずいぶん昔のことだが、バングラデッシュの北部の村(場所の名前は、忘れた)で、お会いしたことがある。20名くらいのアジアの青年代表が、中村先生に、これからの開発についての講義を受けていた時のこと、開発にとって、今、私たちは、なにをしたらいいのですか、と質問をしたら、「古着を出さない生活をして下さい」、だった。今でも、そのことは忘れない。その言葉が、その後の自分の仕事につながった。国際事業団へ、さらにニューヨークの国連開発機構へ、そして、アフリカのスーダンへ、という活動の場だった。
73歳、まだまだ生きていて欲しかった。
先日、緒方貞子さんが亡くなられてから、こんどは、中曽根康弘氏が亡くなった。そして、中村哲さんが亡くなられた。
中曽根さんは、102歳というから、大往生。今から何年前だったか、中曽根さんが、科学大臣だった頃、たまたま出席した会議で、スピーチをされた。それが、なんと英語でのスピーチで、びっくりした。その後、何年か経ち首相になった中曽根さんに会うという機会があった。場所は、モスクワ。
ソ連共産党の書記長だったアンドロポフの葬儀に出席していたのが中曽根さんだった。あまり印象はなかったが、翌年の6月に、モスクワで軍縮会議があり、その会議に、ゴルバチョフが出席していて、「ナカソネさんには、同志アンドロポフの葬儀に参列れ、よろしくお伝え下さい」、となぜか伝言があり、帰国して、秘書さんにお伝えしたことがあった。ブ
レジネフが亡くなり、ゴルバチョフが書記長になる前のことだった。
中村哲さんとは、これまた、ずいぶん昔のことだが、バングラデッシュの北部の村(場所の名前は、忘れた)で、お会いしたことがある。20名くらいのアジアの青年代表が、中村先生に、これからの開発についての講義を受けていた時のこと、開発にとって、今、私たちは、なにをしたらいいのですか、と質問をしたら、「古着を出さない生活をして下さい」、だった。今でも、そのことは忘れない。その言葉が、その後の自分の仕事につながった。国際事業団へ、さらにニューヨークの国連開発機構へ、そして、アフリカのスーダンへ、という活動の場だった。
73歳、まだまだ生きていて欲しかった。
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