2019年11月11日月曜日

 あれから30年、ベルリンの壁崩壊

 11月9日で、「ベルリンの壁が崩壊」して30年という記事を見た。
 現役時代、ヨーロッパでいちばん足しげく訪問したのは、西ドイツだった。当時、仮首都だったボンのドイツ社会民主党の本部(バラックだった)の地下の資料室で、マルクス
エンゲルスの資本論の原本を見た時は、感動した。興奮したものだ。
 東西冷戦時代、その象徴だったのが西ベルリンだった。そのベルリンにも、何度か行ったことがあった。東ドイツ内に孤立するように存在していたベルリンへは、空路のみだったような気がする。当時は、西ベルリンの市民は、食料はじめ生活必需品を、西側からの空輸でしのいでいた。東ベルリンでは飲めないアメリカのコカ・コーラが貴重品だった。
東地区へ行くには、市電の停留所で、パスポートコントロールがあり、東地区内では、西側からきた人たちは、行動が制限されており、監視されているような気がした。
 そのベルリンが解放された。西、東間にあった「壁」が壊されたのだ。壊された翌日の朝(11月10日)、たまたま西ベルリンに滞在していたので、こわされた「壁」を見に行った。ブランデンブルグ門を通り、東ベルリンだった地区に行ってみた。多くの人たちが、写真を撮ったり、花束を道行く人たちにプレゼントしている人たちもいた。道端では、軍服姿の元兵士たちが、持ち物を並べて売っていた。その時に買った双眼鏡、今も持っている。そういえば、ゴルバチョフの顔絵のTシャツも買ったけれど、どうしたか。
 その2,3年前のこと。国際会議でモスクワへ行った。会議がおわり、昼すぎのフライトで、ウイーンへ行くことになっていた。と、ホテルにソ連(当時)側のスタッフがやってきた。この男性は、モスクワ滞在中、ずっとわたしに張り付いていた諜報部員だった。
「今日の午後、ウイーンへ行きますよね」、というので、そうだ、と答えると「たまたまウイーンへ行くフライトがあるので、乗りませんか」、という。ウィーン行きの切符は持っているので、と断ると、「まあそういわずに」、と熱心にすすめるので、乗ることにした。空港では、一般の乗客が手続きをするホールでない、別の場所へ案内された。男性の乗務員らしき人の案内で乗った飛行機は、ソ連製だということは、すぐにわかった。これ
本当にウイーンへ、と尋ねると、「ダー」(イエス)とのこと。周囲を見ると、他に乗客らしき人は皆無。ただ、前方の座席部分に、2~3人、人がいるらしい。乗務員は全て男性だった。じきにウイーンとのアナウンスでなく、乗務員が伝えにきた。
 ウイーン空港に到着。ここでも特別の通路を通り、空港内のロビーへ。二時間ほど早くに着いてしまったので、出迎えの友人を空港で待った。
 友人に、早くに着いてしまったいきさつを話したら、この日の午後、モスクワから空路
チャウセスクの息子がウイーンに着いたとの報道があった。乗せてもらったのは、彼と同じ飛行機、チャーター機だったのだ、と。ルーマニアの大統領チャウセスクの息子なら、ソ連はVIP待遇するはず。知らずにご一緒していたのだ。
 当時のルーマニアでは、チャウセスクの独裁政権全盛期で、ソ連共産党ともいい関係にあった。しかし、親分のソ連共産主義が崩壊しかかり、1989年の12月、チャウセスク夫妻は、処刑された。息子は、どうなったのだろうか。
 その後、民主化がすすむルーマニアの首都ブカレストを訪問した際、独裁者チャウセスクが作った宮殿を見学した。案内してくれた友人が、チャウセスクの奥さんエレナは、悪妻だったといっていたのを、思い出した。
 







































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