2022年8月30日火曜日

虫が鳴き 朝夕めっきり 秋めいて

金町駅から、水元公園行のバスが出ている。バスが着き、首から虫かごをぶら下げた男の子が降りてきた。お父さんらしき男性も。

「一匹しか、でごめんね」、お父さん。「ううん、いいよ、一匹でもとれたんで」、息子。夏休みの宿題だったのか、水元公園で虫とりをしてきたようだ。本日は、夏休み最後の週末。ぎりぎりだったんだね。でも、よかった、一匹か、一匹でも、とれてよかった(他人のひとりごと。この日は、一日中曇り、ときどき、小雨っていう天候だった。

金町から新松戸駅まで行き、武蔵野線に乗車。北越谷駅で下車。駅構内の本屋さんに立ち寄った。この本屋さんは、有名な旭書店。大きな本屋さんで知られていいる。実は、最近発見したのだ。改札を出るんだけれど、ともかく駅構内にある。一時間ほど、あれこれ立ち読みをして、AERA 22.8.8No.34 「やっぱり鉄道が好き」、エコもミスト8・30「鉄道150年 復活の条件」、週刊現代プレミアム「にっぽんの追憶の旅 あの鉄道で どこまでも」、「新幹線に乗るのがおもしろくなる本」レイルウエイ研究会、「鉄道会社は どう生き残るか」、佐藤信之著、占めて5冊。ここのところ、ほとんど支出がないので、思い切って買ってしまった。鉄道が、これからどうするのか、今、マスコミでも連日のように取り上げられており、なんとなく、気になっていたので。

東武スカイツリーラインで、西新井駅へ。ここから一日5本しかないコミュニティバスで、綾瀬駅までのちょい乗り。4時、神明町に帰着。

曇ってはいたが、雨はやんでいた。虫が鳴いている、うるさいほどの虫の声。そういえば、この時間帯は、昨日まで蝉の声だった。虫も鳴いていたけれど、今日は、蝉の声がまったくしない。どうしたのかな。夏の終わりをつげて蝉たちは、退場。待ってましたの虫の大合唱。なんだか、秋を実感したのだった。

 

2022年8月26日金曜日

沢田久雄さんのこと

有楽町の日比谷公園よりの出口を出てすぐのビル「電気ビル」、玄関を入ってすぐのエレベーホールで、それほど大柄でない男性が、待っていた。「沢田です、どうも、どうも」とまず握手。日本人なのにやるね、というのが第一印象だった。この日が初めてだったが、その後、2,3年くらい、沢田さんとは、ちょくちょくお会いした。場所は、いつもここ、電気ビルに外国人記者クラブ。

沢田久雄さんが、大磯のエリザベスサンダースホームの沢田美喜さんの息子(次男)であることを知った。終戦直後、アメリカ兵とのあいだに生まれた子どもたち、ひきとり手のない子等を引き取って育てたホームとして、NHKなんかで、なんども放送されていた。彼がどんな仕事をしていたのか、定かでなかったが、なぜかいつも私たちは、外国人記者クラブを常用していた。

お母さんの沢田美喜さんは、岩崎財団の孫で、ご主人は、沢田康三氏(外交官)。神奈川の大磯にあった岩崎財団の土地に作ったのが、サンダースホーム。世話をした子どもたちがなんと2000人といわれている大プロジェクト。久雄さんによると、金策で大変だったよ、とのこと。久雄さんと、毎回どんな話をしていたのか、あまり覚えていないけれど、「大磯のホームをなんとか残しておきたい」、と話していたのを思い出した。

その間、歌手の安田祥子さんに、歌の個人レッスンを受けていたが、彼女が、沢田久雄さんの奥方であることは、しばらくの間、まったく知らなかった。月1~2回の練習は、四谷三丁目の由紀さおりさんの自宅兼事務所だった。ある時、安田先生の娘さんの留学のことで、相談があり、本名が沢田姓であり、久雄さんがご主人であることがわかった。ほんとうにびっくりだった。

しばらくして、久雄さんが、信濃町の慶応病院に入院。安田先生が、母上とご一緒にアメリカに出かけることになった。たしか娘さんの卒業式だった。留守の間、一日一回、病院に顔を出して欲しいとの依頼。お引き受けした。一週間くらいだったか、毎日、病院に久雄さんを見舞った。彼の希望で、毎日、新聞を届けたが、その新聞、フランス語の新聞で、日本橋の丸善でしか手に入らず、丸善経由でのお見舞いだった。彼のお父さんが、フランス留学だったのを、後で知った。

久雄さんとのご縁は、最後まで続いた。退院され、しばらく経った頃、安田先生からの電話で、ご主人が亡くなられたので、葬儀を手伝ってほしい、との依頼だった。東京タワー近くの教会での葬儀で、外国人参列者向けの受付のお手伝いをさせていただいた。そういえばお母さんの沢田美喜さんも、経験なクリスチャンだった。

そんなことを思い出しながらの半日のちょい旅、東武線(スカイライナー)で春日部へ、ここで、アーバンパークラインに乗り換え、おおたかの森で下車、TXつくばエキスプレでつくば駅へ。駅構内の産地直売店をのぞく。2軒のうち1軒がお休みだった。ここで、泥つきねぎを購入。夏休み中だからか、人影の少ない学園都市。近くのバス停から、土浦駅行きのバスに乗車。乗客5人。道路もそう混んでおらず、20分で到着。土浦駅からは品川行きの常磐線で松戸駅、ここで千代田線に乗り換えて綾瀬着。4時だった。電車は、どれもこれも乗客は、わずか。これじゃあ、やっていけない。本日も、心配しながらのちょい旅でした。


2022年8月23日火曜日

白河の関越えた 高校野球優勝校

 全国高校野球の決勝戦、始めから最後まで、テレビ観戦。ほぼ毎年、見てきたが、去年は、コロナで、余裕がなく、ついつい見逃してしまった。もとソフトボール選手で、ピッチャー、4番打者で、主将だった中学時代、なので、ルールは、熟知。昔、洗濯屋(クリーニング店)だった我が家は、あのジャイアンツ巨人のユニフォームの洗濯をしていたことがあり、父親は、ラジオでよくプロ野球の実況を聞いていた。

この高校野球、昨年は、観客なしで行われ、あの頃、毎日の雨で、8月末の決勝戦だったというのを思い出した。仙台育英高校と、下関国際高校の決勝対戦だった。どちらかを応援するほど思い入れはなかったが、どちらも、歩き旅で行ったことがあり、なつかしい思い出をいくつか。

下関は、山陽道歩きの西の起点。旅の第一日めに、下関側から小倉側へ、地下道で往復するという体験。なあんだ、こんなに近い、というのが、印象だった。下関から、山口、広島、岡山、姫路、兵庫を歩き、京都三条大橋までの旅で、安芸の宮島、錦帯橋などへも立ち寄った旅だった。そういえば、山口あたりで、大雨、集中豪雨に遭遇、新幹線のガードの下で、雨宿りをしたっけ。兵庫から大阪に入るあたり、新幹線から見えるサントリー工場では、見学後のウイスキーの試飲、うまかったな。でも、甲子園、優勝旗を逃して、残念。でも、よくやった、下関国際高校!

仙台育英高校の本拠地宮城県は、奥の細道の旅、奥州街道の旅などで、なんども歩いている。東北の高校が、念願だった「白河の関越え」、その白河の関には、三度行った。松尾芭蕉も通った白河の関は、福島県白河市だが、平安時代から、歌枕に出てきていて、いわゆる歌人たちのあこがれの地。ここを過ぎると都から離れて、東北地に入る、という境界の地であり、神社には、『白川の関』の文字、大きな碑が立っていた。近くの街道沿いの食堂で、大盛ラーメンを注文したら、洗面器サイズの丼に入ったラーメンが出てきて、びっくり。忘れもしない体験だった。

能因法師の詩「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集)という歌碑もあった。いよいよここから東北。甲子園で、これまで12回、負けてきた高校野球の決勝戦、いつかは、勝つ、必ず勝つを合言葉に、励んでいた、という。「白河越え」は、ようやく達成された、というわけ。 「おめでとう」。

2022年8月19日金曜日

あの時 機内で見た森英恵さん

今朝の新聞に「森英恵さん死去 世界的服飾デザイナー」、の見出し。皇后雅子さまの結婚衣装、オリンピックの日本選手のユニフォームなどのデザインを手がけた有名な女性。たしか文化勲章を貰っておられる。その森英恵さんと、同じフライトに乗ったことを思い出した。ヨーロッパ行きの機内。エコノミイが満席で、グレードアップでファーストクラスの席に。すぐ前の女性が、森英恵さんだった。実は、その時は、森さんを存じ上げていなかった。ファッションなんか、ほとんど関係ない、という日常だったので。席を立った姿、彼女の下半身が「もんぺ」だった。ところが、機内のスチュワーデスさんたちが、みな「先生」と呼んでいたので、トイレに立った時に、聞いてみた。「森さんですよ」、えっ森、なにさんですか、と尋ねると、「森英恵さん」、とのこと。 聞いたことがある名前だったが、それ以上でも、それ以下でもなく、たいした関心がなかった。その話を、山本寛斎さんにしたら、「そうなんだよ、彼女、パリ行きの際は、いつも、もんぺ、なんだ」と言っていた。

長い職歴だったが、そういえば、どんな格好していたのか、服歴、思い出してみた。

ごく普通の背広スーツ、季節毎に3~4着、男性一般とほぼ同じ。背広(上着)には、多少凝っていた。芸能人が、深紅を裏地に使っていたのを見て、香港で作ってもらった。Yシャッツは、シルクで有名なバンコックのジムトンプソンで、まとめて5~6着注文。結構、いいお客さんだった。シルクは、洗濯がたいへんだけれども、父親が洗濯屋さん、いつもアイロンがしっかりかかったYシャッツを着ていました。

アフリカスーダンに赴任した当時は、なせか、インドネシアで手に入れたバティック布地で作ったシャッツで過ごした。いくつものポケットのあるベスト、パスポートなども入るポケットが重宝した。

その後、国際会議などに頻繁に出席する環境になった頃、たまたま訪問したキエフで、民族衣装姿の人たちをみかけ、持ち帰えった写真を見本に作ってもらったのが、「ルパシカ」。これは、3年ほど着用。今、ロシアと戦っているウクライナ、ルパシカ姿の人は見かけない。

そうそう、モンゴル衣装は、着るチャンスがないまま、何着も持っている。

本日は、これから、ちょい乗り路線バス乗りに出かける。いで立ちは、Tシャッツ、Gパン、夏用のベスト。この3年、コロナ到来で、いつもこんな姿です。デイバッグに飲み水、あんぱん2個が入っている。3~4時間で戻ります。


2022年8月17日水曜日

急がず 転ばず 躓かず

「躓かず」、つまずく、という漢字、あるんですね。パソコンって、凄い。

実は、ここ数年、毎日、毎日、呪文のように繰り返し唱えてきました。現役時代は、とにかく他人に抜かれない、抜かれたら、抜き返す、だったこともありました。特にチャリの時は、相当のスピードで走っていた。高校生などが、前を走っていると、とにかく抜きたい、抜かねばならない、だった。減速してきたのは、10年ほど前、スペインのサンチャゴ巡礼の頃から。75,76歳頃で、そろそろ年季の納め時を実感していた。知り合いの同年配が、自宅で転んで入院したとか、厚労省の統計で、高齢者が怪我をするいちばんの原因が自宅での転倒だということを知り、80歳になったら、「急がず 転ばず 躓かず」、を実践しようと、決めていたのだ。

最近の乗り鉄、路線バス乗り、不要不急のこのご時世なので、そう遠出せず、近場めぐりを繰り返しています。都心は、感染地なので、だめです、近県です。それも、東方面。千葉、栃木、埼玉あたりです。水戸、宇都宮、千葉など、その前後の小さな駅を楽しみながら、通過する小さな旅。最近、ローカル線の見直しが始まり、赤字路線は廃線に、という検討がなされているようですが、乗ってみて、実情は、そう簡単ではない。ほとんどが都電並みの一両編成で、もちろんワンマン車、客は、始発でも数名、乗り降りほとんどなく、 駅は、無人駅。それでも、運賃の値段は、以前通りという現状。なのに、駅そのものには、エスカレーターとか、エレベータが完備されており、高齢者乗客を意識しています。赤字あたりまえの状況だ、と思われます。

そんなことを思いながらの乗り鉄の旅は、なんとなく、申し訳ない気持ちでいっぱいです。昨日は、4時間かけてのちょい旅で、つくばしエキスプレのつくば駅へ。駅の売店で、朝採りのトウモロコシを購入。茹でて食べたら、あまくておいしい。重たかったけれど、持ち帰った冬瓜、みそ汁に入れてみた。こちらも最高、夏の味でした。なんで、「冬瓜」っていうのか、夏の瓜なのに。

熱中症、コロナ感染、まだしていないけれど、こんなことを繰り返しながら、「秋」を迎えるのかな、と。