2021年5月27日木曜日

日本売り込みキャラバンに参加

1981年、日本の自動車の対米輸出が問題になっていた。なんとかしなければと、民間レベルでの相互理解をという趣旨で各界の代表が、アメリカに派遣された。経済界、学界、ジャーナリズムなどから選ばれた中に、入ってしまった。たしか15名ほどで、慶応大の岩男寿美子教授、阿川尚之さん(当時、たしか20代で、弁護士)などがいた。

わがチームは、自動車会社の海外部長のGさん、会社社長で、アメリカの大学卒のIさんの3人。3月から4月にかけての2週間で、ミネアポリス、デトロイト、クリーブランド、バルチモア、ワシントンDC、ニューヨークをキャラバン。

なにをしたかというと、朝食会、昼食会、夕食会、とほとんど3食、訪問先の経済界、文化人、ジャパンソサエティの人たちとの会食・懇談会だった。日本に対するさまざまな話題が中心で、アメリカの人たちが、日本にどんなイメージを抱いているかが、わかって、とても面白かった。

それ以前、留学も含めて、なんどかアメリカを体験したことがあったが、この2週間ほど、凝縮した日々はなかった。そういえば、アメリカで、テレビ出演したのも、初めての体験だった。


2021年5月26日水曜日

多摩都市モノレール

 4月末、つまり大型連休前から、連休中、そして連休後の5月中旬まで、ステイホームだった。緊急事態宣言下で、文字通り神明町で過ごした。うーん、もう限界、とでかけたのが、モノレール乗り。東京を横断して、西のはずれ立川へ。

本日は、「多摩都市モノレール」。(立川駅まで2時間)

立川駅でのモノレール駅への連絡は、ふたつ。立川北駅と立川南駅。立川駅が真ん中にあり、モノレールは、北方向と南方向に走っている。まずは、北駅へ。

ここは、スイカでOKです。ホームのいちばん前で待つ。並ぶほどではないけれど、10人くらいの乗客が待つ。だいたい15分おきに走っている。列車到着。4輌編成で、運転手のみーワンマン車。最前列の入り口から乗車。と、すぐ前に並んでいた高齢者の女性、なんとなく品のある方。大きなお花をかかえて、さっと座席に。実は、多摩モノレールでは、運転手のすぐ後に、前向きの二人用の座席が、ふたつあり、そのひとつにさっと座った。この席をめざしていたことは、たしか。彼女は、いつもここに座っているのだ。もうひとつのシートに座ったわたしには、よくわかる。いいな、多摩モノレール、この席がたいへん気にいった。

立川北駅を出て、モノレールは、のろのろ走る。下は、車の走る道路だ。駅周辺は、ビル、マンションというか、アパートが多い。遠くに奥多摩の山々が、霞がかって見える。玉川上水の手前、駅の左側、広大な土地一面がお墓。お隣りの座席の女性が、花束をかかえて下車。そっか、お墓参りだったのだ。家に帰って地図を調べたら、某宗教団体の共同墓地だった。玉川上水駅、下を見ると川が流れている。前方には、多摩湖村山貯水池、ここは、埼玉県だ。野火止用水もたしかここら辺。以前、来たことがある。終点の上北台駅では、乗客は、2人だった。この間、運賃は、316円。下車して、駅周辺をひと周り。大型店があるのみ、コミュニテイバスを待つ高齢者が並んでいた。

南行き(多摩センター駅}に乗車。こんどは、段取りよく最前列シートをしっかりゲット。立川北駅に戻り、そのまま南駅へ。ここで、どっと乗客が乗っていた。へえー、このモノレールって、繁盛しているんだと。学生も多い。座れない人も。北方面とは、ちょっと景色が変わった。山というか、緑が多い。ビル建てよりも、戸建てが多い。多摩動物公園、柴崎体育館駅なんていうのもあった。多摩川を渡ると、甲州街道駅。高幡不動駅、ここへは、なんかいか来たことがある。境内の山内八十八巡拝路を廻った。比較的空いていた車内に突然、わっと客が乗ってきた。駅名が、中央大学、帝京大学駅。終点の多摩センター駅までの車内は、「密」状態だった。

山を削って造成した多摩センター、広大な団地だ。ここへは、Kさん主催のイベントで、なんどか来たことがあった。ここからは、小田急線で代々木に出て、千代田線に乗り換えて、まっすぐ綾瀬まで、いい案配でした。

多摩都市モノレールは、これまでのモノレールよりも、利用者が多く、いくつかの駅では、私鉄との連絡もあり、乗客kいいは、便利な乗り物であることがわかった。レールが下についている(モノ)機種で、速度は、かなりのろのろだった。




 







2021年5月23日日曜日

植村直己さんから貰った「石」

植村直己さんが、グリーンランド行きのVISAがとれずに困っているという話があり、たまたま来日中のデンマーク首相に直接会って、お願いしたい、とのこと。実は、首相ではなく、首相の息子と知り合いだったということで、仲介の役が回ってきたのだ。首相が公式訪問をした某国会議員の執務室で、上村さんを首相に紹介し、VISAの問題は、即解決した。

しばらくして、植村さんからのおみやげ、とグリーンランドの「石」といっしょに、直筆の色紙をいただいた。あの有名な植村直己さんから、ということで、友人たちに見せびらかしていたが、いつの間にか、忘れていた。ある日、自宅の机の上においてあった「石」がなくなっていることに、気づいた。大騒ぎして探したが、みつからない。と、職場から帰宅した父が、「あれかい、あの石なら、俺が捨てたよ」、というではないか。どこへ捨てたのか訊くと、前の道路の方に堀投げた、と。もちろん、道路に「石」はなく、せっかくの植村さんの「石」は、こうして、なくなった。

なお、色紙は、植村直己記念館(たしか兵庫県豊岡)へ行った際に、寄贈してきた。







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あの頃から、途上国問題に関心が・・・

 国際協力事業団(JICA)、国連開発計画(UNDP)で働くきっかけは、イスラエルに留学した際に、多くのアフリカの国々からの人たちとの出会いによる。ガーナやタンザニアからの友人たちが、目を輝かせて、自らの国づくりの夢を語っていたのを思い出す。

帰国して、日本国内にも、すでに活動をしていたNGO(非政府団体)があるのを知った。

アジア学院は、那須にあり、アジア・アフリカの農村指導者養成センターで、「共に生きる」をモットーに運営されていた。創始者の高見敏弘先生にお会いし、その日から3日間、センターでの研修に参加。畑仕事、家畜の世話などの作業、地域の開発のための講義などを、海外からの参加者たちと寝起きを共にしながら体験した。その後、ヨーロッパでの会議出席などの機会を利用して、インド、ネパール、バングラデシュなどの田舎を訪問、アジア学院の卒業生たちの活動現場を見せて貰った。帰国して、高見先生に報告したこともある。

難民を助ける会は、同会代表の相馬雪華さんが、尾崎行雄先生の娘さんというのを知り、祖父が尾崎行雄の選挙を手伝ったという話を思い出し、事務所へ行ってみた。現在ほど難民問題が深刻化していない頃だったが、アジア、中東などで、さまざまな活動をしていた。

オイスカ・インターナショナル、農村開発などアジアでの協力活動を展開していた。アジアの訪問先で、オイスカの名前をよく見かけた。一度、都内のホテルでのオイスカ主催のパーティに出席、宗教団体であることを知った。

これらの団体で、もしかしたら働ければ、なんて本気で思っていたようだ。






2021年5月13日木曜日

パラグアイの首相の家で一泊

現役だった頃の話。ブラジルで国際会議があり、そこで知り合ったパラグアイ人、パッサ・モーラさん。ギリシャ系のパラグアイ人で、野党の党首。パラグアイに行ったことがあるか、と訊かれたので、まだ、というと、帰りに寄らないか、というので、行くことになった。

会議が終わり、空路首都のアスンシオンへ。出迎えの車で、まず行ったのは、国会議事堂。車の中で待たされること30分ほどで、「じゃあ、これから私の家に」、と自分で車を運転。20分くらいで、「着いたよ、ここが我が家」、と。細長い平屋建ての家で、門もなく、庭もない。玄関は、道路からすぐで、駐車場は、道路の端。ベルを鳴らすと、女性が出てきた。「奥さんですか」、「いや、姉です」、とのこと。

部屋は、いくつもなく、案内されたのは、彼の仕事部屋で、ソファー兼ベッドで寝ることになった。トイレは、共用で、廊下を歩いて突き当り。

お姉さん手作りのスープがなぜかおいしかったのを、思い出す。なにを話したか、よく覚えていないが、その夜、3,4時間は、話していたような気がする。

翌朝、三人で朝食。車で国会議事堂へ行き、秘書みたいな青年の案内で内部の見学、彼の運転で、市内見物。午後空港から飛行機に乗った。それだけの話。

数年たったある日、日本の外務省から電話。パラグアイの首相パッサ・モーラ氏が来日、パーティーにぜひご出席を、との打診だった。あのパッサ・モーラさんが首相になったのだということを知った。自宅に一宿一飯させていただいたのを覚えいてくれたんだ、と。日本に知り合いがあまりいなかったからなのかも、などと思った。

なお、このご招待は、たまたま出張が定されていたので、残念ながら、パッサ・モーラ首相には、日本での再会は実現出来なかった。