2021年11月22日月曜日

ちょい乗り 秩父鉄道

 ちょい乗り旅に出るには、ちょっと遅い時間(10時すぎ)だったが、西新井駅へ。秩父あたりが、紅葉がきれいらしいというので、それじゃあ、と出かけた。東武線(スカイツリーライン)で、館林行きに乗車。羽生駅下車。秩父線の始発駅だ。もちろん、何度もきたことがある。

ここから熊谷駅を経由して、秩父影森まで。羽生からは、3両編成で、乗客は、3名。時間が時間なので、少ないのはしかたない。それにしても、客が少ない。スイカが使えないので、無人駅は少ない。途中、行田駅で高校生の一団が乗車。満員になるほどなのに、静かだ、ほぼ全員、スマホに集中している。これだけ大勢がスマホを操作しているってことは、全員が、スマホの会社に、毎月、お金を払っているってことになる。稼いでいない人たちなので、親の負担。スマホをやっても、なんの収入をも生まないので、ただただ浪費するだけなのに、変な社会になったもんだ。

熊谷駅で、ほぼ全員が下車。列車は、このまま秩父まで走るが、乗客は数名。この路線もじきに廃線になるのかも。12時すぎだが、このまま乗車。実は、熊谷駅で、名物のうどんをたべたかったが、下車すると、次の列車まで、30分ほど待たねばならないので、まっすぐ行くことにした。

熊谷市内を走り、しばらくして、荒川土手を左にみながら往く。沿線の家、家には、なぜかゆずの木が多い。黄色に熟したゆずが、鈴なりだ。寄居を過ぎた頃から、秩父の山々が見えてきた。枯れた茅の白い穂先が、風に揺れている。秋ですね。

長瀞を過ぎ、西武線の秩父駅を過ぎた頃から、秩父らしい景色になった。といっても、全山紅葉ってわけではなく、もうちょっと先かな、という感じ。このあたりは、秩父34霊場巡りで、歩いたことがある。4回も歩いた。だから、どこら辺になにがあるか、どの寺か、詳しいのだ。影森駅に着いた時、乗客は、全部で、6名。

折り返しの羽生行きの列車で、戻る。実は、西武線で、池袋経由で、帰宅するつもりでいたのだが、熊谷駅のうどんが気になり、そのまま戻った。今朝の東京は、晴れたいたのに、午後の秩父は、曇り空。

熊谷駅下車、まっすぐにうどん店へ。8人しか入れない店なので、食事時には、行列ができる。時間がづれていたので、座席は確保できた。先客5人。待つこと10分で、うどんがきた。もちもちのうどん、かつお節の汁、これがうまい。このうどんのために、熊谷駅で下車したことは、多い。ずいぶん、あちこちで、駅うどんを食べているけれど、熊谷駅のうどんは、絶品だ。昼抜きだったので、とにかく、うまかった。

帰りは、高崎線で、上野まで。ボックスシートつきの区間快速に乗車。さっき食べたうどんで、今回の旅は、「最高だった」。秩父鉄道・羽生~影森62.9k。




2021年11月21日日曜日

日本全国、モノレール巡り

昨年、千葉市のモノレールが、ギネスブックに載っているというので、見に行った。そのノリで、湘南モノレール、多摩都市モノレールへも行ってみた。今回は、日本全国、どこにモノレールがあるのか、走っているのかを、調べてみた。

モノレールは、懸垂式=ぶらさがる、と、跨座式=またがる、 の二種類がある。いずれもドイツ製。( )は、距離。

東京モノレール(17.8)跨座式   湘南モノレール(6.6)懸垂式         

多摩都市モノレール(16.0)跨座式 千葉モノレール(15.2)懸垂式

舞浜リゾートライン(5.0)跨座式  スカイレールサービス(1.3)懸垂式

大阪モノレール(28.0)跨座式    北九州モノレール(8.8)跨座式

沖縄都市モノレール(17.0)跨座式

東京モノレールは、浜松町から羽田まで、スカイレールサービスは、広島駅から、大阪モノレールは、大阪空港から、北九州モノレールは、小倉駅から、沖縄都市モノレールは空港から、唯一の沖縄の鉄道。

実は、現役ではないけれど、姫路駅からも、モノレールがあった。1966年に開業したのだが、1967年に廃線に。その跡地を、実際に見たことがある。山陽道を下関から京都まで、歩き旅をした時、姫路駅近くに宿泊。駅近くに、見慣れない建造物があるのに気づいた。コンクリートの細長い塀のようなものが続いていて、その一階部分には、人が住んでいて、飲み屋などもあった。二階から上はなくて、聞いてみたら、元モノレール跡とのことだった。建造物は、姫路モノレールの軌道跡だった。今もモノレール終点の手柄公園には、モノレール展示場があるそうだ。

これらの他に、豊島園、上野公園、名古屋のモンキーセンター、奈良ドリームセンターなどでもモノレールがあった。大阪万博でも、跨座式のモノレールがあった。

現役で活躍している公園モノレール、それは、東京、王子飛鳥山のモノレールだ。48mの距離を16名の乗客を乗せて稼働(跨座式)中だ。その試乗式の日、実は、乗りに行った。ところが、身障者、子ども優先ということで、なんと、2時間も列に並ばされた。無料。今は、渋沢栄一ブームで、記念館のある飛鳥山公園は、混んでいるにちがいない。













 

2021年11月8日月曜日

『タテ社会の人間関係』中根千枝先生のこと

 JICA(国際事業団)時代、月刊誌の編集委員だった中根先生とは、親しくしていただいた。団地のような集合住宅にひとりで住んでおられ、なんどか伺ったことがある。こんな会話をしたのを覚えている。

「先生と、私って、似ていると思います?」、と聞くと、「そうね、似ているかな、似ていないかな」、と笑われた。

 実は、中根千枝先生と、間違われたことがあった。

 インドで、どこだったか、「あなた、ナカネ教授ですよね」、とたしか州政府の官僚だったか、役人にいわれたのだ。その頃、先生の著書・タテ社会は、有名になっていて、ベストセラーでもあった。とりあえず、買ったけれど、読んではいなかった。

 インド社会で、フィールドワークをされた先生は、あの広いインドのあっちこっちを歩いており、開発問題を理解していないまま、インド各地を歩き廻っていた日本人女性ということで、間違われたのだった。『タテ社会の人間関係』は、帰国して、すぐに読みました。

 日本の社会が、タテである、つまり、ヨコよりもタテの原理で成り立っているー会社などでも、先輩、後輩の序列が濃厚であるのに、インドでは、ヨコのつながりが強い、そういった内容の本だった。もちろん、日本国内でのフィールドワークもしっかりされたいる。

 東大教授で、文化勲章受章など、女性の研究者として、活躍された。『タテ社会、』はイスラエルのテルアビブ大学の図書館にもあった(英訳)。

 10月12日、中根千枝先生、94歳で亡くなられた。