2025年1月20日月曜日

快語碌 気づいてみたら 回顧録

気がついたんです、「快語碌」という単語をみていたら、なあんだ! これって回顧録だったんだ、と。

あの時、ホームページ立ち上げの時、助っ人の三輪先生から、ホームページのタイトルをつけなくては、といわれ、準備していなかったので、とっさに出てきた単語が「快語碌」だったというわけなのです。「録」のつもりが、「碌」となっていた、これは、後で気づいたことなのですが。ま、そういうわけで、後で考えたことなのですが、好き勝手なことを、碌でなし放題、そんな内容で、いいかな、と。

結果的には、自分の、これまでの体験を、思い出しながら、雑文を綴ってきたというわけであります。87歳も生き続けてきたので、その体験も、半端じゃない。

生まれたのが、東京の木挽町、現在の東銀座。疎開先の埼玉で、終戦を体験、小中学校時代は、親の放し飼い教育方針で、ガキ大将、ソフトボールを、都立高校時代は、バスケットボール部で活躍、落研にはまったのも、高校時代でした。大学時代は、学生運動にかまけて、ほとんど勉強らしい勉強はせず、もっぱらガリ版の印刷物(ビラ)の鉄板書きに専念していました。よく卒業できたものです。

「それから」の人生は、一転して、真面目に働く人たちのため、独立したばかりの途上国の人たちのため、を掲げての日々でした。運がよかったというか、その間に、留学体験をすることが出来ました。イスラエルでは、独立間もない国づくりに励むユダヤ人たちを、まじかに体験、アメリカ、西ドイツで、学ぶ機会を得ました。

こうした留学体験のおかげで、JICA(国際事業団)、そして国際機関・UNDP(国連開発会議)で働くことになりました。国際会議や、国際的な各種イベント、選挙監視団などへの出席、参加をしました。

海外の友人たちが、早め現役引退を決めるので、あとさき考えずに、「やめた!」、と隠居生活に。ちょうど、その年、1995年1月、あの阪神・淡路大震災。今年で、30年たったとのニュース。そうなんです、あれから、30年がたちました。大地震の映像を見ながら、隠居生活、30年も、と感慨深いものがあります。

もうすぐかな、もう少しかな、そんなことを思いながら、新しい年を迎えました。



2025年1月13日月曜日

ブレジネフ 次に会った ジミー カーター

アメリカ大統領だったジミー・カーターさんが亡くなった。長寿、100歳、の大統領。国葬が行われ、日本からは、元首相の菅さんが列席されたと報道されていた。

そのカーター大統領に、お会いしたことがあります。1979年、モスクワのクレムリンで、ヨーロッパの政党代表らと、当時の共産党書記長のブレジネフさんに会い、その足でワシントンを訪問。ホワイトハウスで、カーターさんと会いました。会談のテーマは、「軍縮問題」。その年の6月に、米ソ首脳よるSALT軍縮制限条約が調印され、その流れでの両首脳との会談だった。カーター大統領は、ニコニコ顔で、ひとり、ひとりと丁寧な握手を交わしておられたのを、思い出します。クレムリンでの仏頂面のブレジネフさんとは、対照的だったのを覚えています。

カーターさんは、大統領をやめてからも、中東和平や米中関係など、多岐にわたる活動でノーベル平和賞を受理されました。そういえば、大統領だったオバマさんも、ノーベル平和賞を受理されたいます。次期大統領の〇〇〇さんも、ノーベル賞を狙っておられるのか。

新しい年、2025年になり、なにか変わるのか、少しだけ、期待しています。

ウクライナ戦争が終わるか、人質を取り返し、ガザに平和の日がくるか、スーダンの内戦が終わり、人々が国に戻れるか。

日本は、どうなるか。国会が正常に機能するか、政治家たちが、国民のことを本気で考えてくれるか。国民は、といえば、人々が、「足るを知る」精神で、生活するようになれるか。もちょっと、居心地よく、日々を暮らしたい、新年の願いです。




2025年1月2日木曜日

幸せは ウイーンワルツの とし始め

1月1日、夜7時30分、ウィーンからのテレビの実況中継。「ウィーン ニューイヤーコンサート」。どこへも行かない正月を過ごすようになってから、毎年、楽しみな番組です。今年の指揮者は、リカルド・ムーテイ。いつものように、シュトラウスのワルツが主流です。2時間ほどの演奏、今年も楽しかった。イタリア人のムーテイさんが、イタリア語で「愛と平和の世界に」、と新年の挨拶。最後のラデツキー行進曲、観客といっしょに手をたたいていました。

このウイーン ニューイヤーコンサート、行ったことがあります。ウイーンのテレビ局勤務の友人に入場券を手配してもらい、日本のNHKのスタッフということにして、入場したのでした。音楽の都ウイーンの学友会ホール、独特の雰囲気でした。同じホールでの「ワーグナー週間」では、6日間、毎日、ワーグナーの曲を演奏するもので、この時は、近くの高級ホテルの一番安価な部屋を予約、ホテルのコンシェルジュのおじさんにお世話になり、ホールの、その日のキャンセル席を手配してもらい、2000円くらいの安い切符で、ワーグナーの歌劇など、名曲を堪能したのでした。

1月2日、今日は、朝から箱根駅伝。2日がかりで、大学のランナーたちが、箱根芦ノ湖を往復する、駅伝。2日は、往路、明日3日は、復路。

当時、旧街道の旅を楽しんでいました。江戸の日本橋(東京)から京の三条大橋(京都)間の旧東海道は、トータルで7往復しました。

この日は、三条大橋からの旅の道中でした。箱根駅伝に合わせての旅で、この時間帯に復路のランナーたちが、箱根の山を駆け下り、小田原の駅(小田急)あたりを走りおりてくる、その時間です。沿道には、各大学の応援処が設置されており、先輩や家族らがいました。「京都から走ってきた」、というと、用意されていたお菓子や、熱いお茶をふるまってくれました。レースで走っている選手たちのスピードは、とにかく速い。仲間の東海道旅人の友人が、公衆電話で、自宅に電話、「今、小田原、駅伝の選手たちが、走ってる」、「あっ今走っていく」、と実況中継。あの頃は、携帯電話は復旧していなかった。

今年も、1月2日、箱根駅伝の正月です。