2022年2月5日土曜日

 北京オリンピック

だめかな、と思いつつ、気がつけば、結局、ゼーンブ見てしまった。北京オリンピックのテレビ、です。いつもなら、9時半、遅くても10時には寝てしまうのが、なぜか、夕べは、大丈夫だった。9時からの開会式。

プロローグというか、初っ端は、中国国旗の入場、掲揚儀式。聞きなれた国歌の合唱があり、写し出された習近平さんは、マスクの下で、たしかに歌っていました。その習近平さん黒の、外国の来賓は、お揃いのブルーの防寒着だったが、なぜかバッハさんは、ひとり背広姿だった。ドイツ人って、なぜか、融通が利かないのかな。開会式の前に、習近平さんと中仏会談を終えたプーチン大統領は、ひとり離れた観客席(貴賓席)でした。政府高官ボイコットとはいえ、30か国の首脳級のゲストが出席していた。

特段目立つようなパーフォンマンスもなく、すぐに選手たちが、国別に入場。選手たちを待つボランティアたちが、両サイドに並んで手を振ったり、足を上げたり、飛び上がったりの動きをしながら迎える、あれっ、これってどこかで見た。そうです、つい最近、東京で行われたオリンピックの盛り初めてと、そっくりじゃあないですか。中国のパフォーマンス監督が、東京オリンピックのシナリオを、ぱっくった、みたいです。

国別の選手入場で、その国がどこにあるかの説明をNHKさんが、してくれるので、わかりやすい。とにかく、世界には、160くらいの国があり、小さい国は、日本のどこかの県くらいのサイズで、独立したばかりの国なんて、どこにあるのか、わからない。アフリカや、南米の国なんか、そもそも冬の季節がない。凍らないし、雪も降らない。どうやって、練習するかというと、アメリカや、ヨーロッパへ、出稽古に行かねばならない。それまでして、オリンピックに出たいんだろうね。アジアだって、南太平洋だって、選手ひとりっていう国がいくつもあった。アフリカの国で、ボブスレーっていうのも、驚きだ。「平和の祭典」っていうのも大変ですね。

それにくらべると、運河の多いオランダのスケート、酷寒の北欧諸国のクロスカントリースキーなどは、わかりやすい。クロスカントリースキー(XC)、10年近く、はまりました。結構なトシになってから始めたスポーツだったが、フィンランド、スウェーデン、スイス、ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、カナダなど、XC大会を遠征。どれも、速さよりも、耐久力、持久力を競う大会だった。も、ちょっと、遅れてやっていたら、冬季オリンピック大会の選手団に入っていたかもしれない、です。

ところで、今回に北京オリンピックには、日本は、かなりの人数を送ったはずなのに、開会式の入場行進には、20数名しか出ていなかった。なーんでだ! ちなみに、主催国の中国は174名の代表団だった。

そうそう、開会式最後、習近平さんが、「一起向未来」(未来に向かったかんばろう)と宣言した後、ジョン・レノンの「イマジン 」の音楽が流れてきた。これも、もしかしたら、東京オリンピックの、パクリ ?

                           北京オリンピック開会式観戦記






2022年1月12日水曜日

2022年1月になりました

パソコンが不調で、ご無沙汰の2か月でした。古い機器なので、仕方ない、とあきらめていました。と、頼もしい助っ人があらわれ、元に戻りました。今年は、「春から縁起がいぞ!」。

パソコンがダメになって、いちばん困ったことは、海外の友人たちとメールができないことでした。昔は、手紙ですんでいたのが、今は、メールでというトレンドになってしまった。そのメールができなくなってしまったわけですから、communicateの手段は、電話しかない。年金暮らしなので、高価な国際電話なんか、できっこないというわけで、こちらからの電話なし、状態でいました。年に2,3度、相手からの電話で、お互いの無事を確認していた二年間でした。ともかく、この二年間、友人たちは、皆、それなりに無事だったので、よかったです。

それでも、快語碌は、まあまあ適当に続けられてきたわけで、それらをまとめて「本」にすることも出来ました。これからも、あとどれくらい時間が残されているか、わかりませんが、続けていきたいと、思っています。

頼もしい助っ人、それは、三輪和彦先生です。

 

2021年11月22日月曜日

ちょい乗り 秩父鉄道

 ちょい乗り旅に出るには、ちょっと遅い時間(10時すぎ)だったが、西新井駅へ。秩父あたりが、紅葉がきれいらしいというので、それじゃあ、と出かけた。東武線(スカイツリーライン)で、館林行きに乗車。羽生駅下車。秩父線の始発駅だ。もちろん、何度もきたことがある。

ここから熊谷駅を経由して、秩父影森まで。羽生からは、3両編成で、乗客は、3名。時間が時間なので、少ないのはしかたない。それにしても、客が少ない。スイカが使えないので、無人駅は少ない。途中、行田駅で高校生の一団が乗車。満員になるほどなのに、静かだ、ほぼ全員、スマホに集中している。これだけ大勢がスマホを操作しているってことは、全員が、スマホの会社に、毎月、お金を払っているってことになる。稼いでいない人たちなので、親の負担。スマホをやっても、なんの収入をも生まないので、ただただ浪費するだけなのに、変な社会になったもんだ。

熊谷駅で、ほぼ全員が下車。列車は、このまま秩父まで走るが、乗客は数名。この路線もじきに廃線になるのかも。12時すぎだが、このまま乗車。実は、熊谷駅で、名物のうどんをたべたかったが、下車すると、次の列車まで、30分ほど待たねばならないので、まっすぐ行くことにした。

熊谷市内を走り、しばらくして、荒川土手を左にみながら往く。沿線の家、家には、なぜかゆずの木が多い。黄色に熟したゆずが、鈴なりだ。寄居を過ぎた頃から、秩父の山々が見えてきた。枯れた茅の白い穂先が、風に揺れている。秋ですね。

長瀞を過ぎ、西武線の秩父駅を過ぎた頃から、秩父らしい景色になった。といっても、全山紅葉ってわけではなく、もうちょっと先かな、という感じ。このあたりは、秩父34霊場巡りで、歩いたことがある。4回も歩いた。だから、どこら辺になにがあるか、どの寺か、詳しいのだ。影森駅に着いた時、乗客は、全部で、6名。

折り返しの羽生行きの列車で、戻る。実は、西武線で、池袋経由で、帰宅するつもりでいたのだが、熊谷駅のうどんが気になり、そのまま戻った。今朝の東京は、晴れたいたのに、午後の秩父は、曇り空。

熊谷駅下車、まっすぐにうどん店へ。8人しか入れない店なので、食事時には、行列ができる。時間がづれていたので、座席は確保できた。先客5人。待つこと10分で、うどんがきた。もちもちのうどん、かつお節の汁、これがうまい。このうどんのために、熊谷駅で下車したことは、多い。ずいぶん、あちこちで、駅うどんを食べているけれど、熊谷駅のうどんは、絶品だ。昼抜きだったので、とにかく、うまかった。

帰りは、高崎線で、上野まで。ボックスシートつきの区間快速に乗車。さっき食べたうどんで、今回の旅は、「最高だった」。秩父鉄道・羽生~影森62.9k。




2021年11月21日日曜日

日本全国、モノレール巡り

昨年、千葉市のモノレールが、ギネスブックに載っているというので、見に行った。そのノリで、湘南モノレール、多摩都市モノレールへも行ってみた。今回は、日本全国、どこにモノレールがあるのか、走っているのかを、調べてみた。

モノレールは、懸垂式=ぶらさがる、と、跨座式=またがる、 の二種類がある。いずれもドイツ製。( )は、距離。

東京モノレール(17.8)跨座式   湘南モノレール(6.6)懸垂式         

多摩都市モノレール(16.0)跨座式 千葉モノレール(15.2)懸垂式

舞浜リゾートライン(5.0)跨座式  スカイレールサービス(1.3)懸垂式

大阪モノレール(28.0)跨座式    北九州モノレール(8.8)跨座式

沖縄都市モノレール(17.0)跨座式

東京モノレールは、浜松町から羽田まで、スカイレールサービスは、広島駅から、大阪モノレールは、大阪空港から、北九州モノレールは、小倉駅から、沖縄都市モノレールは空港から、唯一の沖縄の鉄道。

実は、現役ではないけれど、姫路駅からも、モノレールがあった。1966年に開業したのだが、1967年に廃線に。その跡地を、実際に見たことがある。山陽道を下関から京都まで、歩き旅をした時、姫路駅近くに宿泊。駅近くに、見慣れない建造物があるのに気づいた。コンクリートの細長い塀のようなものが続いていて、その一階部分には、人が住んでいて、飲み屋などもあった。二階から上はなくて、聞いてみたら、元モノレール跡とのことだった。建造物は、姫路モノレールの軌道跡だった。今もモノレール終点の手柄公園には、モノレール展示場があるそうだ。

これらの他に、豊島園、上野公園、名古屋のモンキーセンター、奈良ドリームセンターなどでもモノレールがあった。大阪万博でも、跨座式のモノレールがあった。

現役で活躍している公園モノレール、それは、東京、王子飛鳥山のモノレールだ。48mの距離を16名の乗客を乗せて稼働(跨座式)中だ。その試乗式の日、実は、乗りに行った。ところが、身障者、子ども優先ということで、なんと、2時間も列に並ばされた。無料。今は、渋沢栄一ブームで、記念館のある飛鳥山公園は、混んでいるにちがいない。













 

2021年11月8日月曜日

『タテ社会の人間関係』中根千枝先生のこと

 JICA(国際事業団)時代、月刊誌の編集委員だった中根先生とは、親しくしていただいた。団地のような集合住宅にひとりで住んでおられ、なんどか伺ったことがある。こんな会話をしたのを覚えている。

「先生と、私って、似ていると思います?」、と聞くと、「そうね、似ているかな、似ていないかな」、と笑われた。

 実は、中根千枝先生と、間違われたことがあった。

 インドで、どこだったか、「あなた、ナカネ教授ですよね」、とたしか州政府の官僚だったか、役人にいわれたのだ。その頃、先生の著書・タテ社会は、有名になっていて、ベストセラーでもあった。とりあえず、買ったけれど、読んではいなかった。

 インド社会で、フィールドワークをされた先生は、あの広いインドのあっちこっちを歩いており、開発問題を理解していないまま、インド各地を歩き廻っていた日本人女性ということで、間違われたのだった。『タテ社会の人間関係』は、帰国して、すぐに読みました。

 日本の社会が、タテである、つまり、ヨコよりもタテの原理で成り立っているー会社などでも、先輩、後輩の序列が濃厚であるのに、インドでは、ヨコのつながりが強い、そういった内容の本だった。もちろん、日本国内でのフィールドワークもしっかりされたいる。

 東大教授で、文化勲章受章など、女性の研究者として、活躍された。『タテ社会、』はイスラエルのテルアビブ大学の図書館にもあった(英訳)。

 10月12日、中根千枝先生、94歳で亡くなられた。



 

2021年10月16日土曜日

人出の日光、ちょい旅

テレビで、北海道や東北の紅葉が伝えられ、それを見ていたら、こうしている場合じゃない、行くしかない、といつものように勝手に決意。10月15日朝、天気もよさそうだし、と6時半に神明町を出た。

朝7時。北千住駅の自動券売機の前で、一瞬、考え込んだ。どうするか、バスで湯元往復するか、それとも、わたらせ渓谷鉄道 にするか。金曜日だし、曇り空なので、そう人出は、ないはずだ。と、「大丈夫ですか」、と声がかかった。後ろをみると、駅員さんが立っていた。「ええ、まあ・・・」というと、「どこまで行きますか」、「日光まで・・・」というと、手に持っていたスイカをとって、券売機に挿入し、プツン、プツンと数字を押した。直通の特急は、1時間ほど待つけれど、下今市駅で乗り換えれば、7時42分のスペーシア「きぬ」に乗れる、という。切符を受け取りながら、よく見ると、駅員さんの制帽に赤い線があった。えっこの人って、駅長さんだったんです。恐縮して、最敬礼で「ありがとうございました」。

7時42分発の「きぬ」特急に乗車。到着した電車は、がらがらだったが、北千住駅でかなりの乗客。山歩き、観光客が8割ほど、なかには、7,8名の団体さんもいた。

車窓は、いつもながら楽しい。本なんか読んでらんない、スマホなんかいじってらんない。コスモスが満開だ、すすきの白い穂が風に揺れている、色づいた柿の実・・・

8時10分、東武動物公園駅通過、100人くらいの行列、通学のバス待ちの行列だ。ソーシャルデイスタンスをとっているので、列が長くなる。利根川を渡る。茨城県だ。1ダースほどの白鷺が、稲刈り終えたばかりの田んぼで、餌をさがしている。左に大平山、ぶどうの産地だ。梨も栽培している。しばらく、葉っぱが黄色になった豆畑が続く。ここら辺の蔵は大谷石が多い。

そうこうしているうちに下今市駅着。ホーム反対側の日光行に乗り換え、10分ほどで東武日光駅に着いた。途中、JR日光駅を通過、こちらは、立派な駅舎で、皇族ご使用の駅だった。

まっすぐバス停へ。日光のバスは、観光バスではなく、定期バスで、スイカ使用なのだ。待つこと20分。行列は、120人ほど。えっ、こんなに。結局、臨時バスが出たっぱいの乗客を乗せ、いろは坂へ。華厳の滝で20名ほど降りたけれど、同じくらい乗ってきた。乗ったり、降りたりを繰り返しながら、バスは、中禅寺湖畔を往く。空は、しっかり晴れてきた。男体山もよく見える。三本松、戦場ヶ原、光徳牧場などを経由、終点の湯本温泉の手前で、ほぼ全員下車。ここで湯滝見物へ。金精峠への道でもあるので、交通渋滞で20分ほど待たされる。

湯の湖の周辺のベンチは、ほぼ人でいっぱい。夏の上高地のようだ。11時10分、湯元に到着。10分後のバスで戻る。始発時は、3人だったが、途中は、団体さんや、ゴロ引きのトランクを持った観光客も乗り降りし、道路も混雑しているし、コロナ禍になってから、初めて、こんなに多い人間に会った。

宇都宮から来たという男性(70歳くらい)が、隣りに座った。中禅寺湖の遊覧船に乗るつもりで来たのだが、学生たちでいっぱいなので、やめた、と話していた。

ようやく振り出しに戻った。駅のホームのベンチで、持参のおにぎりを食べ、北千住へ。






2021年10月4日月曜日

お台場で屋形船

緊急事態宣言が解除され、だめだったことが、出来るようになった。その中に、屋形船の解禁も含まれており、女船主が、和服姿で、「感染予防をしっかりやっての営業、安心して、是非お越し下さい」、と言っていた。屋形船といえば、昨年、新型コロナ騒ぎの初っ端だった、お台場の屋形船から始まったのを思い出した。ずいぶんと昔のことだったよう思うけれど、まだ去年のこと。

で、屋形船の思い出。

いつの頃だったが、まだ現役時代。屋形船を借り切って、お台場の遊覧をしたことがある。ことの始まりは、友人のひとりKと、ある日、お台場が見える飲み屋での話。屋形船が通りすぎるのが見えた。

「屋形船、なかなか粋だね」、

「お酒なんか、いただきながら、海から東京を眺める、いいんじゃん」、

という会話から、屋形船を借り切る話になった。

Kは、深川の住民、こちらはといえば、銀座生まれ、話は、すぐにまとまった。どちらかといえば、Kは、遊び人。大学時代は、ダンス同好会で、女性にかなりもてたとのこと。当時、まだ始まったばかりのカラオケで、フランク永井の歌を得意としていた。車を所有していて、都内の移動は、自家用車、っていう人間。屋形船の段取りは、Kがやってくれた。

だれをよぶか、共通の友人たち数名に声をかけた。「招待」することにした。その後で、船主に交渉。結構な費用がかかるが、ま、「招待」すると言ってしまったので、もう後にはひけないな、と。

で、当日になった。たしか、品川あたりの船乗り場、友人たちが、やってきた。うちの奥さんも連れたきたよ、外国人の友人が、是非というので、などなどで、10名くらいのつもりでいたのに、なんと、40名ほどになっていた。船が出る前に、船主さんから、人数分の保険をかけて欲しいといわれ、書類にサイン。

さらに、人数が超過したので、2名、減らさなければ、というのだ。全員、乗船した状態で「降りて下さい」というわけにもいかず、船主側のスタッフが2名、下船することになった。2名は、船の中で料理した皿運び。屋形船は、予定通り出航し、主催者のふたりが、食事の皿を運ぶというはめになったのだ。屋形船の名物「東京湾のはぜの天ぷら」、揚げたてのはぜ天は、乗客のみなさん、とっても喜んで下さいました。

屋形船は、予定通り3時間ほどかけて、お台場あたりを運行した。乗船のみなさん、下船時、「ほんとうに、ありがとう」、「料理もおいしかったし、海からの東京ナイト、最高でしたよ」、なんて感謝されましたが、こちとら、はぜ天も口にせず、にこにこしながらの皿運び、なんとなく複雑な気持ちだった。

結局、屋形船の貸し切り代、保険料金、ひとりで、払うことになり、お金を貸してくれた友人に、3,4か月かけて返済したのだった。