2021年9月12日日曜日

2021年9月12日

 

2021年9月12日

紫色の朝顔の花、今季最後の花が、散った。暑い日が続いたわりには、長持ちした。大きな木の陰だったからかもしれない。

この朝顔は、数年前、木曽路の南木曽駅(なぎそ)でわけてもらったもの。高齢者グループを連れての中山道の歩き旅の南木曽駅のホームで咲いていたもの。旅から帰って、写真を見ていたら、駅の朝顔がとってもきれいだったので、駅長宛てに手紙で、わけて欲しい、と所望。さっそく送ってくださった。毎年、毎年、きれいに咲いている。

近年、鉄道の駅が、無人駅化しており、しかし、だれかが管理しているらしく、駅ホームには、花壇があり、花が咲いている。

最近、乗車した北陸本線は、ほとんどが無人駅だった。一年前の数字だが、全国の無人駅は、9465のうち半数以上の4564駅だという。昔は、いわゆるローカル線では、無人駅が多かった。運転手だけのワンマン車も多い。ICカードが復旧したことも原因だが、鉄道を利用する人が、激減したからだ。地方で、列車・電車に乗ると、朝、午後、の乗客は、通学の学生さん、それ以外の時間帯では、ひとケタで、これじゃあ、無人駅、無理もない。

飯田線の善光寺駅へ行った時のこと。善光寺へ行くために下車。駅に戻ったら電車が出たばかりで、昼の時間帯だったことから、次の電車がなかなか、こない。靴下を駅トイレで洗って、干したら、乾いた。停車しない急行列車の運転手さんが、スピードを落として、ホームにいた私たちに、手を振っていたっけ。ところで、善光寺というのは、山梨県の甲府市、長野市の善光寺さんの3寺だが、全国には、100くらいの善光寺がある。

九州の松浦鉄道に乗った時、平戸駅で下車。無人駅だったが、駅舎の掃除に来ていた女性が、お茶を入れてくれた。ボランティアとのこと。

無人駅でも、図書館になっていたり、喫茶店コーナー、床屋さんもあった。いろいろ利用されているのは、いいけれど、なんだかさびしい。切符を売らない駅、通過列車に旗を振る人がいない駅、が増えている。それよりも、乗る人、降りる人のいない駅が増えたいるというのが、現状だ。

 

2021年9月11日土曜日

2021年9月11日

2021年9月11日

マスコミというのは、ほんとうに変わり身が早い。まだ何日もたっていないのに、オリンピック・パラリンピックの話題は、皆無だ。自民党の総裁選挙の話で持ちっきりだ。

オリパラについては、どちらかというと、パラリンピックの方が感動が多かった。もちろん、うちテレでの観戦だが。その事で思い出すことがある。

原稿を頼まれて、初めて九州へ。大分の外科医の中村英次郎先生が、障害者スポーツ大会を主催していているので、取材することになったのだ。中村先生が

イギリスに留学され、そこで会ったのが、ルードヴィヒ・グッドマン博士、博士は、パラリンピックの提唱者で、整形外科の先生だった。その教えを受け、帰国後、日本でも障害者のスポーツを、と始められた。日本の「パラリンピックの父」といわれている。地元大分では、すでに障害者スポーツ大会を開催していた。いろいろ話を伺い、帰り際に「こんど東京で、国際大会が開催されるので、是非、ボランティアをして下さい」、と中村先生に言われた。

東京オリンピックが行われた1964年の11月、パラリンピックが行われた。

中村先生が、日本団の団長さんだった。大分で、言われたことが、気になり、あちこち電話をして、パラリンピックのボランティアを仕切っているのが、青少年赤十字という団体であることがわかった。代々木公園にあった事務局へ行き、赤十字語学ボランティアチームに入れていただいた。橋本裕子先生という方が、チームのボスで、もちろん、英語ペラペラで、先生の周辺には、語学達者な若者たちが、たくさんいた。手伝ったのは、3日間だったが、車椅子を自由自在に操る選手たちを身近に見た、はじめての体験だった。その後、目の不自由な人、視覚障害の人を、後ろに乗せて走るタンデム乗りのボランティアを月1回、2年間だったが、体験したことがある。タンデム、二人乗りの自転車。

1964年に会った語学ボランティアのひとりに、20年ぶりだったか、会った。彼は、その後、外務省に入り、海外の日本大使館に赴任、最後は、ネパール大使をされた。パラリンピックの語学奉仕で活躍、その体験を生かし、後には、日本の外交での活躍をされた。

もひとつ、あの1964年のパラリンピック大会の際、皇太子妃の美智子さん(現上皇后様)が、手作りのクッキーを、ボランティアのたまり場に差し入れて下さり、みんなすぐに食べずに、紙につつんで、持ち帰ったのを思いだした。

1964年のパラリンピック、21か国、378名、今回は、161か国、4403名、の参加者だった。 

2021年9月9日木曜日

2021年9月9日

 

2021年9月9日

毎朝恒例の3POの時間帯には、霧雨程度だったが、6時すぎから、大雨になり、午後2時頃まで、降り続いた。それでも、午前中は、雨の中を出かけた。

帰ってきて、テレビをつけたら、今どき珍しい光景。帽子を被った麻生太郎さん、自民党の副総裁。前後の護衛さんに囲まれて、国会内を歩いていた。男性が、帽子を被る、最近、ほとんど目にしない光景だ。アメリカの西部劇など見ていると、ガンマンが、帽子を格好良く被っている。いつから、被らなくなったのか。

万年筆の続き。

横浜の神奈川近代文学館で、たしか2012年だった、「作家と万年筆展」というのがあった。向田邦子、吉川英治など15,6名の作家の生原稿の展示があった。作家というのは、原稿用紙に一字、一字、こうやって書いているんだと、いたく感動した。あれから、10年くらいしか経っていないが、今、万年筆で原稿用紙に書いている作家さん、どれくらい、いるんだろうか。

万年筆が、はじめて日本にきたのは、明治28年(1895年)で、輸入先は、日本橋丸善。日本最初の万年筆は、ウオーターマンだった。だから、いまだに、「万年筆フェア」をやっている。その万年筆を愛用していたのは、夏目漱石。漱石さんは、万年筆を「まんねんふで」と呼んでいた、と。そういえば、永井荷風は、原稿を筆(毛筆)で、書いていた、とある(文房具の歴史)。

万年筆は、今も、条約などの現場で、使われており、ちょいと調べてみた。

   ポーツマス条約の調印、パーカー・アメリカ製 1905年

   第一次世界大戦終了のベルサイユ講和条約調印、

ウオーターマン  1919年

   ロンドンでの海軍軍縮条約 日本製パイロット 1930年

   ドイツが負けた第二次世界大戦終結の調印

                パーカー     1945年

   東西ドイツ統一条約の調印 モンブラン    1990年

   戦艦ミズリー号の日本帝国降伏調印式では、用意されていたのは、アメリカ製のパーカーだったが、日本全権大使重光葵は、自分の上衣の

     ポケットから取り出した愛用のパイロット万年筆でサイン。

これも、「文房具の歴史」(文研社)にあった。そういえば、トランプ全大統は

万年筆ではなく、ボールペンで、大きな文字でのサイン、だった。

2021年9月8日水曜日

2021年9月8日

 

2021年9月8日

太陽の出る日が少ない。本日も曇り。

日本橋の丸善から、「秋の万年筆フェア」のお知らせがきた。9月15日から一週間開催。毎年、この時季に行っている。今年は、仙台の万年筆づくりの方の実演があるとのこと。名の知れた万年筆づくりの職人さんだが、とにかく値段が高い。限定3本というこだわりの万年筆、その値段は、110、000円とある。ボデイが竹をイメージした、緋、碧、翠色の三色のエボナイト製で、漆を載せているという技法。毎年、行っているが、眺めるだけだ。少しづつ処分してはいるが、在庫100本くらいかな。万年筆歴は、長い。小学校5年の時に、買ってもらった。その時、日記帳と一緒に親から与えられ、それ以降、万年筆で日記を書いてきた。日記は、適当な時季に処分してはいるが、10年間くらいは、とってある。

アメリカに留学した時は、大学周辺の文房具店でパーカーを、フランスでは、カルチェラタンのユダヤ人経営の文房具店でモンブランを、フランクフルトでは、ペリカンを、という具合に買いためた。そうそう、中国では、あの頃、流行っていたヒーロー(英雄)を、あまりの安価だったので、10本、20本も購入し、友だちたちに配りまくったこともある。中国製のヒーローは、キャップがステンレスで、ボデイ、ペン先は、アメリカのパーカーのイミテーションだった。書き味は、固くて、長い時間の使用は、くたびれた。

モスクワのクレムリンで会ったブレジネフ書記長は、ペンテルのあの緑色のサインペンを使っていた。日本製ではなく、フランクフルト製だった。ワシントンのホワイトハウスでは、なぜか、「ホワイトハウス」名入りの、消しゴムつきの鉛筆で、こちらも名入りのメモ用紙と一緒に、おみやげに頂いてきた。

引退してから行ったカザフスタンのアルマトイで、本屋兼文房具店で聞いた話「学校で使う子どもたちの筆記具はじめ、筆記具は、一切、輸入品」だそうだ。

そういえば、パーカー、ロンソン、オメガは、紳士の三種の神器だった時代も。

その後は、モンブラン、ダンヒル、ロレックスという時代もあった。海外出張の際に、是非、買ってきてほしい、と依頼されたこともあった。随分、前のことのようだが、そんな時代もあった。

 

2021年9月7日火曜日

2021年9月7日

2021年9月7日

9月はじめなのに、暑くない。残暑お見舞いをせずまま、秋になるのか。

今夜は、なにを食べようか。毎日、なにを食べるか、午前中に考える、決める。とにかく、外で食事をしない、を守っているのだ。去年は、1年間で2回、今年は、いま9月だけれども、まだ一度も外食はしていない。

朝は、7時に朝食、といっても、バナナにヨーグルト、干しぶどうを20粒くらいまぶす。小ぶりのりんご一個。たべながら、時間をかけて新聞を読む。四紙(朝日、日経、産経、東京、ときどき英紙)、だいたい一時間。

昼は、ごく簡単に、ラーメンとか、パンとか、プラス豆腐など。また前夜のご飯で作ったおにぎり。つまみ喰い程度。

そして、夜は、しっかり料理をする。『失敗なしの、はじめての料理』、『じゃがいも、にんじん、玉ねぎのおかず』の二冊の本が、まあ、アンチョコ。

主食は、そば、うどん、焼きそば、もちろん、ご飯、茶粥、パスタ、すいとん、

炒飯、おじや、カレー、しちゅう、などなど。いちばん、食べるのは、四季を通じて、そば、うどん。これが好きなのです。

そばも、うどんも、旅先で買ったものが多い。最近は、奈良のそばが旨かった。 

茶粥は、三重県で買ってきた茶粥用のお茶を使う。土鍋で米から時間をかけて炊く。梅干、漬物、焼き魚でいただく。これが絶妙にうまい。おかずは、じゃがいも、にんじん、玉ねぎを使ったものが多い。玉ねぎは、特に好きだ。なまのまま、醤油をかけただけで、食べるのもいい。

他に野菜は、といっても、それほど意識はしていないが、食べるように努力している。魚は、干物がいい。肉は、ステーキがいい。週1、2回、それほど食べたいとは、思わないが。人生の前半で、ほぼ毎日外食だったので、これでいいのだ、と思っている。世界各国のホテル食、ずいぶん、いろいろ食べた。だから、最後は、質素な和食、ってことになったのだろう。

自分でいうのも、だけれども、料理の腕は、かなり上がったと、思う。自画自賛。本日は、これから、シチュウを作るつもり。バケットで、たべると最高。

  

2021年9月6日月曜日

2021年9月6日

 2021年9月6日

夕方になると、虫の声が賑やかだ。もう秋。いやいやまだまだ暑さが戻ってくると、長期予報はいっているが。オリンピックも、パラリンピックも終わり、あとは、パンデミック

だけになった。そのパンデミック、新しい首相で、どれほど好転するのか。

この夏の猛暑続きは、半端じゃなかった。どうせ緊急事態宣言下で、ステイホームなので、冷房つけて、うちにいることが多かった。ところが、である。我が家の一大事件発生。

冷蔵庫が壊れた、続いて洗濯機が壊れた、のだ。

普段は、それほど気づかなかったのだが、冷蔵庫って、必要な家具だった。さっそく、昔から我が家のご用達店があり、連絡した。綾瀬駅近くの電気屋だ。なんでも、かんでも大型店舗になっている昨今、個人店の電気屋さんは、ほとんど淘汰され、老夫婦がやっているこの店は、貴重な存在。なにしろ、高校生時代の綾瀬付近の昔話が、共通の話題になる人たちなのだ。

朝、冷蔵庫を開けたら、アイスクリームが、すっかり溶けており、冷凍室の氷が、水になっていた。猛暑続きの日々だったので、とにかく、すぐに新品を持って来て欲しい、と電話した。それでも、三日間、冷蔵庫なしの生活を強いられた。常温でだめになった食料などは、捨てた。いつ持ち込まれるのか、はっきりせず、三日間は、ご飯は炊けたが、コンビニおかずで、しのいだ。新しい冷蔵庫が到着。ところが、新品の冷蔵庫は、半分が冷凍室で、さっそく入れた野菜、バナナ、りんごなどが、朝になって見ると、凍り付いて、真っ黒く変色していた。野菜入れがないことがわかった。しかたなく、野菜入れのあるもうひとつの冷蔵庫を買うはめになった。最近の冷蔵庫は、冷凍ものを入れる人が多いので、大きい冷凍室になっているとのことだった。冷凍ものなんて、ほとんど買ったことがなく、理解に苦しむ。無駄な支出、と怒ったり、反省したりしていた矢先、こんどは、洗濯機が壊れた。

洗濯機は、父親が使っていたもので、かれこれ30年は経っている古道具。元洗濯屋だった父は、自分のもの、家族のものも、当たり前のように洗濯していた。現役時代は、シルクのYシャツなどを常用していたが、洗濯して、アイロンをかけるのは、プロの父親だった。その父が亡くなり、隠居生活に入り、ひとりになって23年間、ずっとこの洗濯機だった。電気屋のご主人は、「よく働いた、充分、モトはとったね」、と新しい洗濯機を持ってきた。

古い洗濯機は、二層式だったが、新品は、全自動式で、洗剤の量、水の量、洗濯物の種類、洗う速度などなど、やたらとボタンがあり、とにかく、複雑なのだ。まだ、いちども、作動していない。明日は、天気になり、太陽も出るらしいので、やってみるか。

2021年9月3日金曜日

2021年9月3日

2021年9月3日

昨日は、南アルプスだったので、今日は、北アルプスのこと。

山歩きをはじめて4,5年経った頃、上高地の河童橋を渡ったところに建物があり、入口に、日本山岳会の文字。聴いてみると、日本山岳会の会員向けの宿泊施設とのことだった。で、日本山岳会に入会しよう、と決心。入会するには、すでに会員になっている人の推薦が必要という。それで、たまたま山で会ったことのある男性が、会員で、頼んでみた。これまで、どんな山に登ったか、どんな季節の山行だったかなどのメモをつけて、お願いし、半年くらいかけて、ようやく日本山岳会会員の資格がとれた。推薦してくれたその男性は、あとでわかったのだが、ヨーロッパの山々、特に岸壁登りの体験もある、ほんもののクライマーだった。

上高地の山岳会の建物は、改築したばかりだった。名誉会員の皇太子さんの結婚式が決まっていて、山好きの皇太子が、新婚旅行で泊まる、という話があり、おふたりの部屋、様式トイレなどが準備されたのだ。結果は、残念ながら、おふたりは、上高地の帝国ホテルに泊まった。

そういう事情で、新装なった日本山岳会の上高地小屋(通称)を、3年間ほど利用させていただいた。たしか、一泊2000円くらいだった。

北アルプスの穂高、槍が岳など、ここをベースになんども往復した。土日は、利用者が多いけれど、それ以外は、ほとんど空いていた。島々の高齢者夫妻が、小屋番をしていて、結構仲良かった。小屋は、上高地と同じ時期、5月の連休からたしか秋の季節まで開いていた。朝は、明神池まで往復の散歩、夕方は、近くの上高地温泉へ、といういい時間を過ごした。贅沢な日々だった。

その頃から、梓川の反対側の霞沢岳が気になっていた。地図には、出ているものの、あまり注目されていない山。頂上から一気に下っている八右衛門沢をおりてみたい、という欲望。その後、いろいろと調べることになった。何人かの先人が、達成していることもわかった。遭難者もいた。

四年後、徳本峠から、六百山、霞沢岳から、八右衛門沢を、二人の男性登山家と共に下ることに成功。落石の多い、怖い沢くだり、だった。この日の夜の宿泊は、上高地帝国ホテル。幸せな夜だった。