4月24日の朝
起きても、寝ても、「コロナ」、「コロナ」で明け暮れているが、一日の時間割、変更なしの生活。
夕べの記者会見で都知事は、「stay home],[stay in Tokyo],[save life],と言い、「スーパーは、3日おきに」、とおしゃっておりました。その通りにしています。
朝4時に起きて、明るくなった頃、いつもの通り3POに
出かけます。近くの遊歩道を焼一時間歩く。今、花がきれいです。さくらは、さすがに花が落ち、しかし、緑の葉っぱがきらきらしています。花みずきの花が、ちょうど満開です。
白、ピンク、チョコレート色、三色の花mにずき、運河の埼玉県側に咲いています。運河の長さ、街路樹になっている。
こちら側(東京都)には、黄色い山吹の小さな花が満開です。運河の水は、きれいではないけれど、かもの子どもたちが、群れを組んで泳いでいる。
それにしも、木々の若葉は、日に日に緑が濃くなっており、五月の上高地に負けないくらいです。
畑で、ほうれん草、小松菜、大根、それにふきなどをいただいてきました。ご近所さんにも差し上げます。
帰宅して朝食。食べながら、ゆっくり新聞を読みます。四紙も、とっているので、支払いもたいへんだけれど、読み終わるまで時間もかかります。ま、それが、楽しみなのですが。
三月に、雑文の集大成というか、本を出しました。自費出版です。隠居にとっては、かなりの出費でしたが、シンガポールの友人の支援もあり、とにかく大事業でした。そんなこともあり、それに、コロナ騒ぎで、「快語碌」どころではなかった。長生きすると、いろいろあるね、来る5月22日で、なんと82歳になりますj。
2020年4月24日金曜日
2020年3月14日土曜日
世界の万年筆展へ
日本橋の丸善へ行ってきた。世界の万年筆展、毎年、この時期にやっている。コロナのせいか、例年に比べると、入場者は少なめ。というこちらは、10年くらいは、通っている。なにせ、「開催するよ」、の連絡があるのだ。
最近は、字を書く習慣がだんだんなくなり、コンピューターとか、スマホが当たり前の世界になってきた。丸善の文房具コーナーでも、筆記具のスペースが小さくなりつつあり
買う人も減り、なんだかさびしい。東急ハンズなんかでも、鉛筆は、特別扱いで、「新入生グッズ」で置いているくらいで、ほぼシャーペン。削るのがたいへん、ってことらしい。だから消しゴムも少ない。
ましてや、大枚はたいて、万年筆なんて、。。。。変わりもん。
さて、今年の万年筆のトレンドは、特に新製品なし。ペン先の工夫がみられない。しかし、アクセサリーパーツは、たしかに進化している。ボデイに漆をつけたり、キャップが
からーできれいぽっくなったり、っていう具合。
この先は、自慢話。
ウオーターマン:最高価格の世界で〇〇本限定はじめ、10本ほど。フランス製。
パーカー:今は、市場には、ほとんど出回っていない。ペン先が、もぐっている独特の
スタイル、これを見事に模倣したのが、
英雄・ヒーロ:中国製で、流行っていた頃は、1000円くらいだった。中国や香港み
やげで、よく買ってきたもんだ。
ペリカン:ドイツ製、ペンのキャップがペリカンのあごになっている。これはとにかく
書き心地がよろしい。20本くらいは、持っている。
モン・ブラン:スイスと思っていたら、ハンブルグ(ドイツ)製。安くはないが、なん
となく、エリートっぽく、やわらかい書き味で、国会議員なんかが、背広の
胸にさしていた。10本くらいかな、持っている。
オノト: 1906年に、日本に入ってきたという記録がある、いちばん古い万年筆
で、日本人がはじめて使った万年筆、イギリス製。
ラミー: あの社会党の委員長だった土井たかさんが、愛用していた。海外での行事
で、なんどかお会いする機会があったが、万年筆自慢をすると、「やっぱり
万年筆は、ラミーよ」、とおっしゃっていた。で、何本か購入してみたが、
それほど感動しなかったが、6本持っている。
異業種の参入で、万年筆も手がけたのが、
カランダッシュ(鉛筆屋)、デユポン(ライター屋)、ダンヒル(ライター屋)などが金、銀をボデイにした豪華筆記具をつくっている。
チュニジアのカダフィ大佐、お洒落な人で、ダンヒルのボールペンを、胸にさしていた。アフリカのセネガルで会ったが、パリ仕込みのスーツ、香水がプンプンだった。ボールペンといえば、アメリカのクロス、トランプ、それにオバマさんが、サインで使っている。万年筆ではないけれど、クレムリンでの会議で会ったブレジネフ書記長、日本のサインペン(フランクフルト工場製)、緑色のボヂィー、黒色を使っていた。最近では、韓国の現大統領お気に入りで任命され、すぐに家庭の事情で辞めさせられた〇〇元教授は、日本製不買運動中に、日本のボールペンを使っていたということで、糾弾された。
日本のパイロット、セイラ―も、なかなかだが、収集箱には、あまりない。しかし、日本が戦争に負けた昭和二十年九月二日、ミズリー号上の降伏調印、用意されたパーカー
でなく、ご愛用のパイロットを内ポケットから取り出してサインをしたのが、重光葵全権大使だったと、「とっておきの話」(半藤一利著)にあった。
最近は、字を書く習慣がだんだんなくなり、コンピューターとか、スマホが当たり前の世界になってきた。丸善の文房具コーナーでも、筆記具のスペースが小さくなりつつあり
買う人も減り、なんだかさびしい。東急ハンズなんかでも、鉛筆は、特別扱いで、「新入生グッズ」で置いているくらいで、ほぼシャーペン。削るのがたいへん、ってことらしい。だから消しゴムも少ない。
ましてや、大枚はたいて、万年筆なんて、。。。。変わりもん。
さて、今年の万年筆のトレンドは、特に新製品なし。ペン先の工夫がみられない。しかし、アクセサリーパーツは、たしかに進化している。ボデイに漆をつけたり、キャップが
からーできれいぽっくなったり、っていう具合。
この先は、自慢話。
ウオーターマン:最高価格の世界で〇〇本限定はじめ、10本ほど。フランス製。
パーカー:今は、市場には、ほとんど出回っていない。ペン先が、もぐっている独特の
スタイル、これを見事に模倣したのが、
英雄・ヒーロ:中国製で、流行っていた頃は、1000円くらいだった。中国や香港み
やげで、よく買ってきたもんだ。
ペリカン:ドイツ製、ペンのキャップがペリカンのあごになっている。これはとにかく
書き心地がよろしい。20本くらいは、持っている。
モン・ブラン:スイスと思っていたら、ハンブルグ(ドイツ)製。安くはないが、なん
となく、エリートっぽく、やわらかい書き味で、国会議員なんかが、背広の
胸にさしていた。10本くらいかな、持っている。
オノト: 1906年に、日本に入ってきたという記録がある、いちばん古い万年筆
で、日本人がはじめて使った万年筆、イギリス製。
ラミー: あの社会党の委員長だった土井たかさんが、愛用していた。海外での行事
で、なんどかお会いする機会があったが、万年筆自慢をすると、「やっぱり
万年筆は、ラミーよ」、とおっしゃっていた。で、何本か購入してみたが、
それほど感動しなかったが、6本持っている。
異業種の参入で、万年筆も手がけたのが、
カランダッシュ(鉛筆屋)、デユポン(ライター屋)、ダンヒル(ライター屋)などが金、銀をボデイにした豪華筆記具をつくっている。
チュニジアのカダフィ大佐、お洒落な人で、ダンヒルのボールペンを、胸にさしていた。アフリカのセネガルで会ったが、パリ仕込みのスーツ、香水がプンプンだった。ボールペンといえば、アメリカのクロス、トランプ、それにオバマさんが、サインで使っている。万年筆ではないけれど、クレムリンでの会議で会ったブレジネフ書記長、日本のサインペン(フランクフルト工場製)、緑色のボヂィー、黒色を使っていた。最近では、韓国の現大統領お気に入りで任命され、すぐに家庭の事情で辞めさせられた〇〇元教授は、日本製不買運動中に、日本のボールペンを使っていたということで、糾弾された。
日本のパイロット、セイラ―も、なかなかだが、収集箱には、あまりない。しかし、日本が戦争に負けた昭和二十年九月二日、ミズリー号上の降伏調印、用意されたパーカー
でなく、ご愛用のパイロットを内ポケットから取り出してサインをしたのが、重光葵全権大使だったと、「とっておきの話」(半藤一利著)にあった。
2020年3月11日水曜日
9年真のこと
今朝、新聞を見たら、「あれから9年、福島は、今」という記事が載っていた。そうか、あれから9年、経ったんだ、と思った。まだ原発は、解決していない。汚染水が毎日出ており、その処理方法も決まっていない。だから、帰還困難な人たちがおり、難儀な生活は、まだまだ続く。
あの日、1945年3月11日、あの時間、京浜東北線の
電車の中にいた。浦和駅と蕨駅間だった。電車が突然止まり、なんだろうと思っていたら、余震で、電車が大きく揺れ、外を見たら、線路上の電線が大揺れに揺れていた。車掌のアナウンスが「地震です、地震のため、電車が停止しています」、そんなことわかってるよ、と。夕方のラッシュには、間がある時間帯だったので、車内は、がら空きで、10人くらいだった。
こりゃあ長引くと直感。すぐにトイレへ。まだ水が出た。この行動「当たり」。その後、トイレは、水が出なくなり、ドアも自動なので、閉まらなくなり、女性客が入る時には、入口に人が立って「番」をしていた。
携帯は、つながらず、どこが震源地なのかわからず、歩いて回ってきた車窓も、情報がないようで、「しばらくお待ち下さい」、を繰り返すばかりだった。余震がなんどもあり、車窓から外を見ると、家の外に人々が出て、心配そうにしていた。
デイバックの中から取り出した携帯ラジオで、震源地が東北であることを知った。それから、周辺の乗客が集まってきた。ラジオの情報を実況中継。2時間くらい車内に閉じ込められていたが、最後部の列車から、下車。学校帰りの子どもの手をひいて、浦和駅まで線路を歩いた。駅構内は、倒壊のおそれがあるので、急いで外へ出るように促された。駅前の
広場は、いっぱいの人、人、人だった。
先日、M先生の調神社の狛犬見学で、帰りがけに浦和駅広場を通った。そうか、あの時は、あそこにいたんだ、としばらく立ち止まった。
あの時、携帯がだめで、いくつかあった公衆電話に長い列が出来た。その時、取り出しましたテレフォンカード、実は、携帯を持っておらず、カードは常備していたのです。みなさんのお役にたちました。
結局、7時頃、広場を出て、歩きはじめた。調神社の前を通り、よく知った旧中山道を東京に向けて歩く。都心からは大行進が押し寄せ、都心に向けて歩く人はほとんどおらず、人にぶつかりながらの歩きだった。
背中のバッグの中には、水、手袋、てぬぐいなどが入っており、懐中電灯も持っていて、歩き旅で困ることなし。その上、川越で買った、豆腐一丁も、持っていて、戸田橋のたもとで食べた。なにしろ、途中のコンビニには、食べるものはなーんにもなかった。普段の心がけが大切です。
橋をわたり、都内に入り、環七に出て、鹿浜橋を渡り、車も走っていない、人もほとんど歩いていない環七を北綾瀬まで歩き、神明町のわが家に。深夜2時だった。
あの日、1945年3月11日、あの時間、京浜東北線の
電車の中にいた。浦和駅と蕨駅間だった。電車が突然止まり、なんだろうと思っていたら、余震で、電車が大きく揺れ、外を見たら、線路上の電線が大揺れに揺れていた。車掌のアナウンスが「地震です、地震のため、電車が停止しています」、そんなことわかってるよ、と。夕方のラッシュには、間がある時間帯だったので、車内は、がら空きで、10人くらいだった。
こりゃあ長引くと直感。すぐにトイレへ。まだ水が出た。この行動「当たり」。その後、トイレは、水が出なくなり、ドアも自動なので、閉まらなくなり、女性客が入る時には、入口に人が立って「番」をしていた。
携帯は、つながらず、どこが震源地なのかわからず、歩いて回ってきた車窓も、情報がないようで、「しばらくお待ち下さい」、を繰り返すばかりだった。余震がなんどもあり、車窓から外を見ると、家の外に人々が出て、心配そうにしていた。
デイバックの中から取り出した携帯ラジオで、震源地が東北であることを知った。それから、周辺の乗客が集まってきた。ラジオの情報を実況中継。2時間くらい車内に閉じ込められていたが、最後部の列車から、下車。学校帰りの子どもの手をひいて、浦和駅まで線路を歩いた。駅構内は、倒壊のおそれがあるので、急いで外へ出るように促された。駅前の
広場は、いっぱいの人、人、人だった。
先日、M先生の調神社の狛犬見学で、帰りがけに浦和駅広場を通った。そうか、あの時は、あそこにいたんだ、としばらく立ち止まった。
あの時、携帯がだめで、いくつかあった公衆電話に長い列が出来た。その時、取り出しましたテレフォンカード、実は、携帯を持っておらず、カードは常備していたのです。みなさんのお役にたちました。
結局、7時頃、広場を出て、歩きはじめた。調神社の前を通り、よく知った旧中山道を東京に向けて歩く。都心からは大行進が押し寄せ、都心に向けて歩く人はほとんどおらず、人にぶつかりながらの歩きだった。
背中のバッグの中には、水、手袋、てぬぐいなどが入っており、懐中電灯も持っていて、歩き旅で困ることなし。その上、川越で買った、豆腐一丁も、持っていて、戸田橋のたもとで食べた。なにしろ、途中のコンビニには、食べるものはなーんにもなかった。普段の心がけが大切です。
橋をわたり、都内に入り、環七に出て、鹿浜橋を渡り、車も走っていない、人もほとんど歩いていない環七を北綾瀬まで歩き、神明町のわが家に。深夜2時だった。
2020年2月24日月曜日
「心に残る贅沢な船旅を」[
今朝の新聞広告です。「心に残る世界一周クルーズを」、半ページを使った広告です。今や、新型クルーズ肺炎真っ盛りで、新聞でも、テレビでも、このニュースばっかり。こんな時に募集ですか。
夕べの銭湯での話。
「うちの隣りの○○さん、船に乗るつもりだったらしいんだよ」、
「船って、あの大きな客船かい?」、
「それがねえ、なにしろ、高いんだって。100万以上もするんだってさ」、
という具合のご近所噂話。
(続き)このご近所さん、奥さんが熱心で、死ぬまでに、一度乗ってみたいと、いい、船に乗る準備をしていたとのこと。英会話の勉強、ダンスの練習、何着か洋服も新調したらしい。ご主人はといえば、それほど、乗り気でなく、でも、奥さんの熱心な希望で、同行することになり、ま、楽しみにしていたらしい。
ところが、です。エリザベス・クイーンズ号のニュースで、「やっぱり、やめよう」ということになった。そりゃあそうですよ!
「でもねえ、奥さん、行くつもりで、いろいろ準備してきたんだから、やっぱり行くときかないんだって。目下、旦那と口をきかない状態だそうよ」。
へえ、近くにクルーズ船乗り希望者がいたことを知った。
今回のダイヤモンドに乗っていた多くは、70歳、80歳代の客が多かったよう。船旅3回めという人もいた。持病もちで、薬、飲み飲みの旅だった人も。足どめされた船室で、「おれは、来たくなかったんだ、云ったこっちゃない」、なんて夫婦喧嘩をしていた夫婦もいたんじゃないか。それにしても、船旅は、お金がかかる。にもかかわらず、日本人の多くの高齢者たちが、これに参加しているって、すごい。金持ちが多いんだね。
昨日、綾瀬駅近くのヨーカ堂で、行列が出来ており、「マスクが入りました、ひとり一箱です」、と係りの人が叫んでいた。お隣りのマツモトキヨシの店頭には、「マスクは品切れです」、との張紙。
2020年2月15日土曜日
和歌山件湯浅町
和歌山県湯浅町、昨日テレビを見ていたら、「湯浅町」の町長が出ていた。町の病院の医師が、あの新型コロナウイルス肺炎の感染者になったという。ここ毎日のように、新型肺炎の感染者のニュースが伝えられている。
湯浅町は、熊野古道の宿場であり、西国巡礼の宿場でもある。熊野古道の旅、西国巡礼の旅、双方で、なんどか行ったことがある。西国巡礼時には、いちばんの青岸渡寺から二番の三井寺までは、二日がかりの距離で、途中の湯浅町で泊まったことがあった。
街中には、二メートルもある大きな道標が立っており、『熊野古道ー西国巡礼路』の大きな文字が彫ってある。
近くの海岸には、あの有名な「いなむらの火」のモニュメントがあった。浜口悟陵、が村長時、安政の大地震の際、大津波の来襲を村人に知らせるため、刈ったばかりの稲棚に火をつけた、村人は、おかげで、全員無事だった、こういう話で、防災の教訓として、小学校の教科書にも載っている。実際には、隣町の広川町だが、湯浅といえば、いなむらの火として記憶している。
銭湯さがしで、町じゅうを歩いたが、銭湯はなく、醤油のニオイがした。ここは、周瑜発祥の地でもあった。そういえば、あの紀伊国屋文左衛門の出身地でもある。
ところで、今回の新型肺炎騒動、この先、どうなるのか、オリンピック、大丈夫なのか、それよりも、81歳の老体、大丈夫なのか、いろいろ考えてしまう。でも、ま、考えたってしょうがない。それにしても、豪華客船なんかに、乗れなくて、本当によかった。
湯浅町は、熊野古道の宿場であり、西国巡礼の宿場でもある。熊野古道の旅、西国巡礼の旅、双方で、なんどか行ったことがある。西国巡礼時には、いちばんの青岸渡寺から二番の三井寺までは、二日がかりの距離で、途中の湯浅町で泊まったことがあった。
街中には、二メートルもある大きな道標が立っており、『熊野古道ー西国巡礼路』の大きな文字が彫ってある。
近くの海岸には、あの有名な「いなむらの火」のモニュメントがあった。浜口悟陵、が村長時、安政の大地震の際、大津波の来襲を村人に知らせるため、刈ったばかりの稲棚に火をつけた、村人は、おかげで、全員無事だった、こういう話で、防災の教訓として、小学校の教科書にも載っている。実際には、隣町の広川町だが、湯浅といえば、いなむらの火として記憶している。
銭湯さがしで、町じゅうを歩いたが、銭湯はなく、醤油のニオイがした。ここは、周瑜発祥の地でもあった。そういえば、あの紀伊国屋文左衛門の出身地でもある。
ところで、今回の新型肺炎騒動、この先、どうなるのか、オリンピック、大丈夫なのか、それよりも、81歳の老体、大丈夫なのか、いろいろ考えてしまう。でも、ま、考えたってしょうがない。それにしても、豪華客船なんかに、乗れなくて、本当によかった。
2020年2月8日土曜日
ご詠歌を習っています
浅草へ、月2~回、通っています。
千葉は、銚子のお寺が、東京でご詠歌を教えており、これに、かれこれ10年間、参加しています。月2~3回、寺らしくないマンションの一室が会場です。
ご詠歌をはじめて聞いたのは、四国遍路に行った時、山奥のお寺で、4~5人の遍路者たちが、合唱していたのを聞いた時です。静寂の山の奥から、詠うような、語るような声と、ときどき鳴らされる鉦(しょう)の音色、なんともいえない響きでした。
感動して、すぐにはじめました。鐘は、ネットで800円でゲット。付属品の「ふさ」は、七五三の、女の子がふところに入れる、なんていうのか、お財布みないなのに、ついているふさふさの糸、ひもで、これは、千住のごみ捨て場でみつけたのを代用しています。
ご詠歌は、ほぼ五七五七七で構成されており、仏教のいろんな行事で詠われます。
たとえば、興教大師をたたえるご詠歌は、「ありがたや、高野の山の岩かげに、大師は
いまもおわしまします」という具合です。
葬式の際には、追悼和讃ご詠歌、供養のご詠歌を、巡礼時にお接待をいただいた際には
お茶接待答礼和讃などがあります。四国遍路、西国巡礼の際には、各寺で、それぞれご詠歌があり、同じ調子で、巡拝時に詠います。こどもが亡くなった時には、児童追弔和讃があります。10年もやっていると、ほぼ暗記していますが、教本をみながら、声、鉦を確認します。
参加者は、10名前後で、男性が3~4名、女性の方がやや多く4~5名。いずれも高齢者で、男性のひとりは、初日、ネクタイ、スーツ姿で現れたのには、驚きました。女性たちは、海外旅行もほぼ全て終了、そろそろご詠歌でも、という方、鎌倉から東京駅に着いて、ときどきタクシーでいらっしゃるセレブの方、元交通公社の添乗員だった方、こちらは、国内地図がからだにしみこんでいるらしく、地図がやたらと詳しい。声が小さい主婦業の77歳。先生は、銚子の寺の住職で、ご詠歌の声がすばらしい、ほれぼれするようないい声をしておられる。1回の参加費が、1000円、これがありがたい。
ご詠歌の他に、写経会、巡礼講座などもやっていて、これには、住職の父上(名誉住職)が、銚子から通ってくる。
珍しく長つづきしている「なりいごと」です。
2020年2月2日日曜日
ニュージーランドの友人の訃報
シンガポールの友人からのメールで、マイク・モアが亡くなったことを知った。
マイクは、ニュージーランド労働党の国会議員から、WTO(国連貿易機構)の事務局長になった。ニュージーランド労働党内の権力闘争で、ヘレン・クラーク女史(後に首相)に敗れ、なぜか、いつも間にか、国連機関のボスになっていた。ニュージーランドが、小国なのに、英連邦の一員であることから、国連の重席がとれた、そんな噂話をしていた。
こんなことがあった。東京で学生運動が激しかった頃、羽田空港(当時は、羽田しかなかった)から「今、羽田空港についたが、革命はどこか?」、と男性の声。どこの国の、だれか、”who are you?", ニュージーランドからきた、労働党のマイク・モア、と名乗った。ともかく事務所にきて、というと1時間ほどで到着。学生運動のデモが、「革命だ」と勘違いしたらしい。
翌日の夕方の便で、韓国へ行くというマイクのために、外務省や丸善で、日本に関するパンフレット、書籍類をかきあつめてやった。
それから一年後ほど経った頃、マイクから電報が届いた、「選挙に出馬するので、ぜひ応援にきて欲しい」、というもので、たまたま会議出席のためにオーストラリアのメルボルンへ行くことになっており、ま、ついでなので、ウエリントンへ。
空港に出迎えてくれ、そのまま、彼の車で、選挙運動へ連れていかれた。たしかクライスラー(アメリカの自動車会社)工場の門のところが演説会場。工場を退出する人たちが、通って行く。空港から直行の日本人が、選挙演説に立つと、「今、日本から、はるばる私の為の応援に来てくれた同士タグチです」、と紹介。その後、日本語で、挨拶すると、彼、マイクが、それを英語に翻訳する、で役30分のスピーチ。マイクは、日本語はまったくだめなのに、自分がいかに日本はじめ、東南アジアに精通しているかをひけらかす英語の見事なスピーチだった。
このパターンで、三日間、選挙運動に加わった。日本語=英語、別々の内容だったが有権者者のみなさん、結構、納得していたみたいで、今から考えると、なんとも恥ずかしい次第です。彼は、日本からの応援もあり、見事当選。後に労働党政権で、貿易大臣になった。なお、マイクの政敵だったヘレン・クラークは、首相の後、UNDP・国連開発機構の
総裁になった。
マイクは、ニュージーランド労働党の国会議員から、WTO(国連貿易機構)の事務局長になった。ニュージーランド労働党内の権力闘争で、ヘレン・クラーク女史(後に首相)に敗れ、なぜか、いつも間にか、国連機関のボスになっていた。ニュージーランドが、小国なのに、英連邦の一員であることから、国連の重席がとれた、そんな噂話をしていた。
こんなことがあった。東京で学生運動が激しかった頃、羽田空港(当時は、羽田しかなかった)から「今、羽田空港についたが、革命はどこか?」、と男性の声。どこの国の、だれか、”who are you?", ニュージーランドからきた、労働党のマイク・モア、と名乗った。ともかく事務所にきて、というと1時間ほどで到着。学生運動のデモが、「革命だ」と勘違いしたらしい。
翌日の夕方の便で、韓国へ行くというマイクのために、外務省や丸善で、日本に関するパンフレット、書籍類をかきあつめてやった。
それから一年後ほど経った頃、マイクから電報が届いた、「選挙に出馬するので、ぜひ応援にきて欲しい」、というもので、たまたま会議出席のためにオーストラリアのメルボルンへ行くことになっており、ま、ついでなので、ウエリントンへ。
空港に出迎えてくれ、そのまま、彼の車で、選挙運動へ連れていかれた。たしかクライスラー(アメリカの自動車会社)工場の門のところが演説会場。工場を退出する人たちが、通って行く。空港から直行の日本人が、選挙演説に立つと、「今、日本から、はるばる私の為の応援に来てくれた同士タグチです」、と紹介。その後、日本語で、挨拶すると、彼、マイクが、それを英語に翻訳する、で役30分のスピーチ。マイクは、日本語はまったくだめなのに、自分がいかに日本はじめ、東南アジアに精通しているかをひけらかす英語の見事なスピーチだった。
このパターンで、三日間、選挙運動に加わった。日本語=英語、別々の内容だったが有権者者のみなさん、結構、納得していたみたいで、今から考えると、なんとも恥ずかしい次第です。彼は、日本からの応援もあり、見事当選。後に労働党政権で、貿易大臣になった。なお、マイクの政敵だったヘレン・クラークは、首相の後、UNDP・国連開発機構の
総裁になった。
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