2018年9月11日火曜日

関東八十八か寺巡拝ー三泊四日

『遠心会』巡礼
4年前に立ち上げた巡礼をする隠居の会(遠心会)、今年3回めの前半は、関東八十八寺。群馬県、栃木県、茨城県の40か寺を、8月29日から9月1日までの四日間。本家お四国の八十八寺を模した弘法大師を祀った寺が、関東の七都府県内の寺によって結成れたものだ。残りの千葉県、神奈川県、東京都、埼玉県の寺は、10月に継続して巡る予定になっている。
 第一日めは、JR高崎駅に集合、有名な、遠くからも見える高崎観音へ。前に二度来たことがある。ここから中山道の宿場でもある松井田に出て、不動院、金剛寺へ。あいにくの曇り空、妙義山も浅間山も見えなかった。藤岡、伊勢崎、桐生、太田の寺をまわり、宿泊は、足利駅前のビジネスホテル。途中通った下仁田、毎週末に通った西上州の山歩きを思い出した。南牧村から佐久までの山道を歩いたこともあった。
 第二日めは、栃木県。夕べは風雨が激しかったが、朝の出発時にはやんでいた。足利市、栃木市、宇都宮、鹿沼、益子などの寺をお詣りし、宇都宮駅近くのホテル泊。移動の車のエアコンの故障、お詣りの寺までの歩き道、ともかく暑かった。夕方小雨。
 第三日めは、栃木の残った寺、茨城の寺へ。水戸周辺、鹿島、土浦、石岡など。午後から筑波山あたりが暗くなり、夕立模様に。鬼怒川、那珂川などの橋を渡った頃、大粒の雨が降り出し、あっちでも、こっちでもという具合に稲光、雷が始まった。宿泊の土浦への途中、筑波の学園都市あたりでは、走れないほどの激しい雨だった。目の前で、落雷、こわかった。ホテルに入り、テレビのニュースを見ていたら、午後、通過した町の多くが落雷で停電になったとか、雷が落ちて火事になったとか、とにかくひどい悪天候だった。
 第四日めは、茨城の続きで、古河、坂東、常総、取手などの寺を巡り、早々に引き揚げることになり、3時には、東京駅に帰着。
 朝7時から夕方6時すぎまで、車に乗ったり、降りたり、本堂でお経を挙げ、ご朱印をいただき、寺によっては、住職さんの法話を聞かされたりで、休む時間なし。昼食は、コンビニ弁当。これが四日間も続くと、さすがにくたびれる。
 ところで、地方のコンビニは、大きなトラックが数台も駐車できるほどの広さ。運転手さんたちが、車の中で食事をしていた。コンビニのスタッフの多くは、中高年の日本人。
神明町など東京のコンビニでは、外国人(中国人が多い)がメインだが、地方では、高齢者に職場を提供しているようだ。
 お詣りした寺で、賽銭箱なし、がいくつもあった。はした金はいらない、ということか。麦茶、お菓子などのお接待を下さった寺もあった。
 群馬では、こんにゃく畑が広がり、穀倉地帯の栃木、茨城では、稲刈りが始まっていた。紅葉には、まだまだ早いけれど、山々は、うっすら黄色になっていた。
 かなりの強行日程だったが、同行のみなさん(男三人)、「これもお大師さんのおかげ」、と異口同音。次回は、暑さも和らぐ秋の10月。

2018年8月26日日曜日

猛暑、酷暑の夏は、映画館で避暑

シベリア帰りには、堪えるこの暑さ
 行く前も暑かったけれど、帰ってきた東京の暑さには、さすがにぐったりの毎日。お盆の期間中は、涼しい所は、どこも混んでいるので、神明町でじっとしていようと決心したのに、終日、じっとしているなんて、無理。
で、冷房ばっちりの映画館へ。

岩波ホール『祈り』ージョージア(グルジア)映画   8月7日
 旧ソ連時代、70年間モスクワの下にあったジョージアは、黒海に面した国。北海道よりも面積は小さく、人口も370万。レーニン、スターリン下の共産主義時代は、苦難なジョージアだったが、戦後独立国となった。
しかし、現ロシア政府による軍事介入が後を絶たず、南地域、北西地域には、ロシア軍が常駐している。ウクライナ介入と同じように、プーチンがジョージアもロシアに併合するのではないか。そんなこともあり、この映画は、見ておくべき、と決めていた。内容は、ロシア国境でもあるコーカサスの山地でのキリスト教{正教)とイスラム教徒間の抗争の場面に終始する。モノ黒映画で、グルジア語の訳文字が出てくるのだが、これが、まことにわかりにくい。訳文を訳してもらいたいほど。異教徒同士が殺し合うシーンが多く、全体のあらすじがほとんど理解出来ず、納得いかない気分で終った。「祈り』の文字と共に、イスラム教徒の女性の映像のあるパンフレット、これがまことにインパクトがあり、内容など気にせずに、映画館へ、という人たちが多かったようだ。
岩波なら、いい映画、見るべき映画、というイメージ、自分もそうだったのだろう。

愉快だった、笑った『スターリンの葬送狂騒曲』    8月17日
 ロシアで上映禁止、というキャッチコピーを見て、出かけた。前日、年表を見ていたら、スターリンが死んだのが、1953年とあり、なーんだ、まだ、それほど前のことではないんだ、ちょっと前のことじゃあないの。
スターリンの前のレーニンは、自分の後継者にトロッキーを選んだのに、なぜかスターリンが後継者になった。
党幹部の多くを粛清し、独裁政権が続く。そのスターリンの急死で、またまた後継者選びで、残された党幹部たちが画策する様子が、なんとも可笑しい。スターリンの国葬の責任者選び、新政権の大臣選び、党幹部の同志らを排斥、追放しようとする幹部が、袋叩きになり、彼も粛清される。政治の裏面、今もこんなのかな。
 結局、スターリンの後継者には、フルシチョフがなり、戦後続いてきた米ソ冷戦構造が終焉し、彼は、デタント時代の主役を務めた。続くブレジネフは、ワシントンを訪問するなど、対米関係を進め、平和路線を主導するゴルバチョフにバトンが渡された。そのブレジネフ、ゴルバチョフ、ふたりの書記長にクレムリンで会ったという自らの歴史へのコミットメントを、実感した映画だった。
 イギリス人が作った映画、ロシア語でなく、英語を喋るソ連共産党幹部たちだった。

2018年8月24日金曜日

ちょい旅  長野駅から路線バスで小谷村栂池へ

シベリア帰りで、日本の新幹線初乗り
 旧盆休日が終わった8月21日、6時58分、上野駅から新幹線乗車。この日からジパング割引が使える。長野行きの朝の新幹線は、通勤客でほぼ満席。神明町は小雨だったが安中あたりから、晴天。軽井沢では、うっすらと紅葉が始まっていた。暑い、暑いを繰り返しながら、今年も季節は、確実に「秋」に向かっているのだ。
 8時40分長野駅着。2時間足らずで長野へ行けるのです。シベリア鉄道乗り旅から戻って、初めての「乗り旅」。新幹線は、速い、快適だ、でも、早ければいいってもんではない。心地よい速さっていうのもある。新幹線は、早すぎる。車窓からの景色なんて、まるで見えない。目が回る。その点、シベリア鉄道は、窓近くの白樺林、野に咲く花々ひとつひとつが、しっかり視野に入る速さである。線路を往く車輪の音がいい。人間の心臓の鼓動に逆らわないのがいい。
 
長野駅発路線バス
 駅からの路線バスは、善光寺方面への西口より東口が多い。上高地行きバスも出ており、東京や関西からの長距離バスの客たちの長い行列が、上高地行きバスに乗り換えていた。栂池高原行バス停には、人影ゼロ。あと1時間後発だが、いちばんに並ぶ。路線バスなら、定座席に乗らねばならないから.発車10分前に、ようやく客がきた。大きな、立派なバス。冬の最盛期には、スキー客で満員になるのだろうが、この日の客は6名。運転手さん横の定席で、ご機嫌な路線バス旅。大糸線の白馬駅経由で、白馬村、八方尾根ターミナルなど経由で、栂池高原着。たしか3年前だったが、白馬駅から長野駅間は、このバスに乗ったことがある。

雪のない栂池高原の夏景色
 ホテルや民宿が集中しているこのあたり、まず人っけがまるでない。大きな駐車場には
数台の乗用車。ホテルも、売店も開いておらず、12時なのに食事すらできない。道路には夏草、雑草がはえており、夏のスキー場は、なんともわびしい。同じ長野県の乗鞍高原スキー場のある安曇村の夏、やっぱり同じ景色だった。

小谷村の千国街道、あった
 バスターミナルから、しばらく歩いたところに、あった、「千国街道」の標識をみつけた。今回の目的は塩尻から糸魚川までの千国街道歩き旅の際に、たしか白馬からここら辺栂池を通ったのではないか、を確認することだった。千国街道は、信州から日本海へ出る街道で、塩尻(塩の尻)へ塩を運んだ街道でもある。太平洋側からは、愛知の足助(あすけ)から伊那谷を通り、塩尻までの「三州街道」。10年くらい前だったか、こちらも完歩している。いずれも海側から信州に「塩」を運んだ塩の道だ。標識で、このあたりを千国街道が通っていたこと、自分が歩いたことを確認することが出来た。簡単に目的が済んでしまったのに、長野駅行きバスまで1時間もあり、やることなし。昼ご飯なし状態で、バス停の小屋のベンチですごす。それでも山の風は心地よい。なんたって、立山からの風
だ。台風といっても、九州。雲は多いけれど、山も見える。秋の虫も鳴いている。すすきも、茶色になっていて、高原は秋の気配。コスモスも満開だ。小さな白い花をつけたそば畑。信州そば、食べたいな。帰途のバスも、定席確保。白馬駅までの登山客が7名。あとは、貸し切り状態のバスで長野駅へ。往復共、定席、ご機嫌な路線バスだった。15時20分発の新幹線に飛び乗り。栂池高原バスターミナルのトイレで入れた貴重な水を飲み、飲み上野駅帰着。上野駅で買った焼肉弁当を、駅ホームのベンチで食べた。

2018年8月13日月曜日

乗り旅 シベリア鉄道

ウラジオストクへは、成田からプロペラ機で
 7月22日、成田空港。持参の茹でたとうもろこしと玉子を食べながら、慣れてるはずなのに、やや緊張。銀行で、ルーブル換金。搭乗ゲートからバスに乗る。国際空港だから飛行機は、数えきれないほど見えるが、これから乗る飛行機まで15分ほどバスに乗る。まだ工事中の滑走路(?)のまだ先、川崎方面が見えるあたりにポツンと停まっていたのが
これから乗るABPOPA(オーロラ)。【ロシア語では、PはR発音】。プロペラ機じゃあないですか。機内も狭いけれど、機内乗務員は、背の高い、あまり若くないロシア人女性ひとり。出発国の日本語、国際語の英語も使わず、ロシア語のみのアナウンス。2時間ほどの
搭乗中にオレンジジュースが出てきたが、期待していた昼食なし。搭乗時間が12時40分だったのに。
 成田からロシアへというので、当然、北海道上空を飛んで、北方領土の上も飛ぶんじゃ
ないかと、わざわざ窓際席をとったのに、それなのに、飛行機は、離陸すると東に向かわず、左旋回。じきに富士山が見えてきて、「あれっ、乗り間違えたかな」。と、中央アルプス、北アルプス、で次は、海に出て佐渡島。そうこうしているうちに着陸モードに入り
着いてしまった、ウラジオストク空港。神明町から成田空港への所要時間とおんなじ。

ウラジオストクは、シベリア鉄道始発駅
 空港手続きがめんどうだと聞いてきたが、あっという間に済み、乗客数も少なかったし
どうも、先のワールドサッカーを機に簡易化したらしい。白タクまがいのおっさんの運転する車で市内のホテルへ。白髪の、気の弱そうな、英語が下手な運転手さんで、なにを言っても、イエス、イエスを繰り返す、昼間だし、ルーブル現金もあることだし、ま、いいか、と。乗ったタクシー、メーターはついてはいたが、稼働していなかった。30をくり返していたので、ま、いいか。20分くらいでホテル着。
 チェックインして、さっそく市内探索。近くの中央駅に行ってみた。明日は、ここから列車に乗るのだ。駅舎は、見栄えのする建物で、日曜日なので、家族連れや、ヨーロッパ人らしき若者たちの旅行者が、着いたばかりの列車から降りてくる。駅構内は、広い待合室、ベンチが100人分ほどあるだけ。天井は高いけれど、冷房なし。よく見ると冬用の暖房施設はしっかりある。ヨーロッパの駅のように、駅構内に売店など、さまざまな施設があるのでは、期待していたが、ゼロ。切符の窓口は、待合室の隣りへの廊下の先に、トイレは、地下室に、という具合。もともと改札口がないことは知っていたが、ほんとうに駅舎としての機能がない駅だ。この建物の下にも線路があった。
 出入り自由なホームを通り、階段を上がっていくと、海が見え、大きな建物、こちらは
船舶乗車のターミナル。日本の新潟、韓国の東海(トンへ)との間に、定期客船がある。
実は、シベリア鉄道の旅を企画した当初、韓国の東海から船でウラジオストクへ、と考えていたのだが。このターミナル建物の中には、みやげモノ店、ドラッグストア、宝石店、モバイル店、電気製品の店など、店舗が10ほどある。船旅の人たちを目当ての店には、結構多くの客がいた。韓国語、中国語が聞こえていたが、日本人は、いなかった。
 建物から外へ出ると、海。港の向うには、ロシア軍艦も見える。対岸への長い、立派な
橋がかかっていて、完成式に参列したプーチン大統領の写真が、ターミナルビルに貼って
あった。プーチン大統領は、モスクワにいるので、時差7時間の極東ウラジオストクは、
ヨーロッパの国々へ行くよりは、はるかに時間がかかる、遠ーい地であるわけだ。この港は、日本海に続いている。満州事変、第二次大戦時、日本軍が軍の拠点にしていた地でもある。地理的には、モスクワよりも、日本からの方がよっぽど近いウラジオストク。

いよいよ乗る、シベリア鉄道
 出発は、夜なので、それまで、港を一望する公園で、すごした。海からの風が心地よい
地元の人たちの憩いの場であるらしい。飲み物持参で、買物帰りの主婦らも、一時談笑していた。とにかく、この公園が気にいった。なにしろ、公園の南の端に、巨大なレーニンの銅像が立っている。海を眺めて立つレーニンは、かっこいい。時々、鳩がレーニンさんの頭や、肩にとまっており、ロシア革命の指導者レーニンも、鳩と平和に過ごしている、なーんて、勝手にうれしがった。ナロード(人民)や、多くの同志たちをも虐殺したスターリンよりも、レーニンの方が、好きだ。
 夜の駅構内に入るには、セキュリティチェックがある。ちょっと外で買い物をしてくるのでも、チエックされる。駅のスタッフは、チェック係りのおっさんが3人だけで、他に見当たらない。列車の出入りのアナウンスもロシア語だけ。時刻表もあるけれど、駅名も全部ロシア語。その上、時刻表の発着時間が、なんとモスクワ時間なのだ。待合室の乗客た
ちの様子から、出発時間が遅れているようだ、あれっ、あわてて出ていったけれど、間に合ったかな、と。ここでも、日本人には、ひとりも会わなかった。70人ほどの韓国語の団体が入ってきて、30ほどで、出て行った。ハバロフスク行きの夜行寝台列車に乗ったようだ。
 地下のトイレの横に立っていたスタッフらしき男性に、ロシア語で書いてあるクーポン
(これが切符なのだ)を見せて、ウランウデイに行く列車のホーム番号を聴いてみた。6
番、と英語だった。6番のホームへ行ってみたら、うす暗いホームに、人影があった。列車がすでに着いていたが、デッキのドアは開いておらず、乗客はなんとなく並んでいた。
10分ほどたち、ドアが開いて、制服姿の女性が降りてきた。車輛が17の列車の12番
車輛専属さん。クーポンとパスポートを念入りにチェックして、いよいよ乗車。入口のデッキの階段が高く、大荷物だと大変だ。周りの男性たちが、助けてくれる。車内に入る
右手に細い通路があり、指定コンパートメント12は、この車輛の最後の方だった。4人
ベッドの下段に座った。「やれやれ、長い一日だった」。
 列車は、まだ止まったままだ。あの車掌さんが、シーツ、毛布カバー、枕カバー、それに日本風のタオルを持ってきてくれた。コンパートメント(室内)の中をあっちこっち眺めたり、触ったり。日本の寝台列車とそう変わらない内部構造だ。
 この列車は、Novosibirsk(ノボシビルスク)行きで、ウラジオストクからは、モスクワ行きは、何本も出ている。ノボシビルスクは、イルクーツクの先でウラジオストクからは
5956キロ。今回のシベリア鉄道は、途中下車のウランウデイまで、3650キロ、
3泊6日の旅だ。さらに、ウランウデイから、南下する北京行き列車で、モンゴルのウランバートルまでの600キロ、一泊二日の旅。
 予定の時間から20分遅れで、発車。シベリア鉄道の旅が始まった。外は、真っ暗。

発車は、しずーかに、しずーかに、 発車オーライ
 線路も、車輛自体も、日本の鉄道と比べるとはるかに大きく、17もの車輛という長い
列車、なのに発車があまりにも静かなのだ。ガッタンゴー、じゃないのだ。5分もたたないうちに、列車は、暗闇の中を走っていた。四人部屋だが、上段は客なし。揺れも少なく
心地よいシベリア鉄道、初日の夜、いつの間にか寝入っていた。

列車内の設備いろいろ
 2等寝台車12号には、四人用のコンパートメントが13あり、乗客は65人可。乗客が乗降するデッキに入ったところに、車掌室とサーモスタット(湯沸し器)があり、24時間熱いお湯が出る。トイレは、最後部で、男女共用で、昔の日本の国鉄列車のような大小とも、線路上にポットン式で、停車中は、施錠されてしまう。車掌さんが、こまめにトイレ掃除をしており、まあまあのトイレ。通路側は、大きな窓があり、窓は開かないけれど、やることないし、いつも、だれかが立って外を眺めている。ごみ箱が、トイレの前にあり、停車するたびに、車掌さんが、回収していた。エアコンは、冬がメインで、夏は、
冷房なし。二日めは、かなりの暑さだったが、なんの神明町の暑さとくらべれば、なんてことない。

食堂車、行かなかったワケ
 シベリア鉄道に乗ったら、食堂車でロシア料理、なーんて期待していた。7号車という食堂車まで、まづは、偵察にと、出かけてみた。12号と11号車の連結部分でのこと。こちら側とあちら側のドアが、両手で、全力で、よいっしょしないと開けることができない。その上、連結部分の鉄板が揺れるたびに、下の線路が見え、おっこちたらえらいこっちゃ、で「やーめた!」。結局、四日間、三食とも、メニューは、ウラジオストクで買ってきたロシアパン、チーズ、サラミソーセージ、ウオッカ、ビール、プラス、停車駅の露店で買った、茹でたトウモロコシ、ピロシキ、食堂車で焼いたばかりのパンの車内販売で過ごした。日本から持参のつまみ、日本茶、コーヒーは、なかなかだった。

心地よし 車にぬかれるこの速さ
 とにかく列車のスピードがよろしい。線路からの音もよし。ガタン、ガタン、の音がなんともやさしいのだ。外の風景は、ほとんど変わらない。白樺の原野が続く。線路わきの草が朝露で光っているのも見える。東(車窓右側)から太陽が出てくる頃、白樺がうす赤く染まる。と一面朝もやがかかり、今度は、景色は、真っ白に。そっか、冬は、一面風景は、雪の白一色になるのだ。
   音よし 揺れよし シベリア鉄道

停車駅 たばこ吸える それ急げ
 停車駅に着くとの車内アナウンス(ロシア語のみ)があると、あっちこっちから男、女乗客が出口デッキに並ぶ。露店でなにか買うのか、と見ていると、喫煙者たちだった。足元には、吸い殻がいっぱい。列車が着くたびに、乗客たちが捨てていくのだろう。
 反対側には、先も、後ろも見えないほど長ーい貨物車が停車している。停車駅だけでなく、走行中でも、頻繁に貨物列車とすれ違う。ロシア、特にシベリア地方では、物流の主
役は、どうも鉄道のようだ。木材、石炭、石油など満載らしき長ーい貨物列車。

停まる駅、通過する駅
 二日めの午前11時頃、ハバロフスク駅に停車した。駅舎は、さすが立派だ。ここで何人かの客が降りた。60分ほど停車していたが、下車の許可がなかった。ここは、ロシアの極東の拠点地区でもあり、軍の施設もあるようなので、下車が許されていないのではないか。敗戦日本の兵士たちが抑留されていたハバロフスク、たしか日本人墓地もある。ウラジオストクから12時間のハバロフスク駅を出ると、大きな川、鉄橋を渡る。アムール川だ。中国との国境も近い。空室だったお隣のコンパートメントに、ハバロフスク駅で乗車の家族三人。この家族は、ウランウデイ駅の先に行った。

夜がきて、朝になっても まだ車内
 白樺と草原がどこまでも、いつまでも続く。西に向かって列車は走る。白樺が、夕日に染まる。専属車掌さんが、ユニフォームを替えて、通路、各コンパートメント内の掃除に
やってきた。一日、2回、丁寧に掃除をしてくれる。ウオッカを飲みながら、夕日をぼんやり眺めている。山頭火の詩(うた)を思い出す。   
   走っても 走っても まだシベリア

朝のお茶タイムは、日本茶と羊羹
 三日めの朝。熱い日本茶、羊羹をいただいた。線路すぐの草っ原に、だいだい色の花の群生が続く。この花、たしかモンゴルのセレンゲ地方で見たことがある。その時に命名したのが、「モンゴルきすげ」。日光きすげによく似た色、花、だ。ロシアにもあったモンゴルきすげ。三日めになっても、シベリア鉄道の感動は続く。

あーあ あこがれーの シベリア鉄道
   晴ーれた空 こーの景色  続ーく 続ーく どこまで続ーく
   赤 白 黄色の 花先みだれ  白樺林も ま夏を謳歌
   あーあ あこがれーの シベリア鉄道     (替え歌してみました)

持ち込み食料が、底をついた最終日
 食料が底をついたが、午後には、目的地のウランウデイに着く。時々ロシアの田舎の風景。たまーに民家が現れる。敷地内には、白いじゃがいもの花が満開だ。11時すぎ、食堂のお姉さんが、あったかいパンを売りにきた。なんどか買ったので、愛想がいい。英語で、サンキュウ、なんて言う。日本の菓子パン、ピロシキはないと。食べていたら、車掌がやってきて、あと1時間でウランウデイと教えてくれた。14時40分、なんと時間通りに到着した。ここでは、モスクワとの時差は、一時間。
 ホームには、モンゴルから迎えにきてくれた友人たちが、待っていた。

ロシア最大の仏教センター ウランウデイ
 ロシアは、ロシア正教の国だが、ここウランウデイは、ブリヤード共和国の首都で、仏教センターがある。チベット宗教だ。スターリン時代、弾圧されたブリヤード人たちが隣国モンゴルに逃げ、その子孫がウランバートルに住む友人たち。彼らから、ブリヤード民族の歴史をなんども聞かされていたのでの、いつかは、ウランウデイへ、との念願を抱いていたのだ。その念願を達成するのが、今回の旅の目的。
 三日間のウランウデイ滞在中、チベット仏教総本山、市内のブリヤード民族博物館などを見学。友人の親戚・親類の家訪問。150キロ先のバイカル湖へも連れていってもらった。バイカル湖は、琵琶湖のなんと50倍の大きさとか。1時間ばかり遊覧船にも乗ったが、その広さ、大きさは、実感すらできないほどだった。

ロシア(ウランウデイ)からモンゴル(ウランバートル)へ
 車でウランバートルへ、という友人たちと別れて、ウランウデイ駅から寝台列車に乗った。モスクワから来た北京行きの列車だ。600キロを15時間かけて走る。実際には、ロシアとモンゴルの国境で、ま夜中の2時間ほど出入国検査のための停車だった。この列車には、韓国人ファミリー、メキシコ人団体が同乗していた。いずれもモンゴル観光とのこと。韓国人の大学教授という男性と、英語で会話。なんか、ほっとした。
 この列車(シベリア鉄道)は、近代的で、トイレもバキューム式で、男女別、各車輛の連結部分は、タッチ式自動だった。モンゴル内の走行が夜だったので、見慣れたモンゴルの景色を見ることはなかったが、早朝のウランバートルが見えてきた時、なんだか、とてもなつかしい気がした。

 8月2日、暑い、暑い神明町に帰着。長年の念願だったシベリア鉄道、ウランウデイ訪問、無事終了。白樺のシベリアの夏を思い出しながら、しばらくは、じっとしていよう。
 なお、今回の旅は、4年前のスペイン巡礼を共に歩いた友人とのふたり旅だった。旅は
道連れ、の良きパートナーだった。

2018年6月30日土曜日

ちょい旅   直行列車ロマンスカーメトロ乗車

梅雨のはずなのに、雨が降らない。温度も、まるで夏のようで、暑い日が続いている。水道の水も、ぬるま湯のようだ。神明町、ご近所の紫陽花(あじさい)は、満開をすぎて、花の色が変色しはじめたが、山の中だから、まだ、まだ大丈夫だろうと、出かけた先は、箱根。東京の東のはずれ北千住駅から、箱根湯本へ直行のロマンスカーに乗ることに。
朝9時47分発、11時41分終点湯本着、帰路は、14時44分発、16時56分北千住駅着。平日は、これ1本のみ。
ラッシュアワーの終わった駅ホームには、20名くらいのそれらしい乗客が、次々に到着、発車する地下鉄に乗らず、ロマンスカーを待っていた。小田急は、新宿発のロマンスカーを何本も走らせており、地下鉄千代田線を使ってのロマンスカーは、北千住駅のみだ。名称も「ロマンスカーメトロ」、なんとなくダサイ。
定刻通りの発車、ここで乗る客は、全て1号車、ざっと見渡して30名くらい。走りだしてすぐ、まだ西日暮里駅を通過したころ、車内販売のお姉さんがきた。アナウンスが、「ご乗車ありがとうございます。ただいま、みなさまのお席に『アテンダント』がお伺いしております。ご利用ください」、小田急では、弁当、飲み物売りのお姉さんを地下鉄、アテンダントって呼んでいることを知った。なにしろ、客が乗っているのは、この一両しかなく、従って、このアテンダントが、ちょくちょくやってくる。
大手町、霞が関、表参道に停車するものの、乗客なし。ちなみに、これらの停車駅での下車ができない。代々木上原までは、地下を走り、地上に出ても、町田、本厚木、小田原、
期待はしていなかったものの、車窓から、見るべき風景もない。そうこうしているうちに
定刻通り箱根湯本駅に着いた。
ホーム反対側に止まっていた電車・強羅行き登山電車に飛び乗る。日本人客は、たまにしかいないほど、外国人客ばかりの車内。トランク、ゴロひきなどの大荷物の客ばかり。彼らは、みな箱根の温泉宿に行くのだろう。
お目当てのあじさいは、花が茶色に変色し、なんとも惨めな風景。登山列車なので、ゆっくり、ゆっくり速度なのがいい。スイッチバックが2か所。昔の信越線碓氷峠、今でも篠ノ井線の姥捨て駅も、たしかスイッチバックだ。12時すぎ、終点の強羅着。昼でも食べるか、と3軒のそば屋を覗いたが、名物箱根そば屋のはずなのに、ラーメン、カレーライス、丼物などもメニューにあり、なかなかの値段、だったので、即ギブアップ。入ってきたばかりの電車で、湯本に戻った。この電車は、ガラすきだった。北千住駅行きのロマンスカーメトロ発車まで30分あったので、駅前のみやげもの店を覗く。と、小田原のかまぼこが、どの店でも売られていて、味見用の箱に、大きめに切ったかまぼこが、しこたま入っており、まわった3軒で、しっかり食べたおかげで、昼飯替わりになりました。味見しすぎで、買う気がおこらず、空腹解消のかまぼこだった。
帰りのロマンスカーは、朝よりも客が少なく、この先、営業が続くのかと心配だった。

ちょい旅  路線バス乗りは、花小金井から青梅まで
箱根の翌日6月26日、この日も晴れ。4時に洗濯をして、農家のHさんちで、出荷する枝豆採りを2時間ほどお手伝い。朝刊を読みながら朝食。お天気図では、東京は本日も上天気。
一昨日、路線バス同好のSさんと話していた青梅街道の路線に乗ってみるか、と都内バス案内本を見ているうちに、行く、乗る、と決めた。
高田馬場から西武線で田無、花小金井へ。駅前バスは、みな西武なのに、唯一都バスなのが青梅行きだ。1時間に1本、あと30分でくる。なんとしても、いちばんに乗車しなければならないのだ。で、持参の水分を補給しながら待つ。建物の日蔭で、こちらを見ながらいう立っている御仁、どうやらこの男性、ご同好の方とみた。バス到着のちょっと前に、駅前のいなげやの袋をさげた買物客ら7名が並ぶ。全員高齢者男女。さきほどのご同好さんも乗車。Sさんが言っていたように、バスは、ひたすら青梅街道を走る。
どこにでもある郊外、新興住宅地。いい景色はないけれど、車窓は、おもしろい。
「アートペットクラブ」、停まった信号先の看板。なにかとおもったら、動物葬儀社。東村山に入ると、「宿・すく」とか、「岸・きし」など、一字のバス停地名があった。岩蔵街道、どこから、どこへの街道か。13時35分、青梅駅着。最後は、始発からのあの男性とふたりっきりだった。駅から、東京駅行き特快がすぐにきたので、乗車。神明町わが家前のコンビニで買ってきたパンを食べながら、心地よい冷房の電車で御茶ノ水駅へ。駅そばの丸善で、立ち読みして、帰宅。             

2018年6月29日金曜日

「ヒットラーとわたし」  映画『ゲッベルスと私』

雨降り日は、映画、と決めている。夕べの予報では、雨だったのに、朝起きら、降ってはいなかったが、せっかくなので、映画日。神保町の岩波ホール。前回のマルクスでは、超満員だったのにこの日は、200あまりの座席、ほぼ半分の入りだった。
ゲッベルスは、ナチス・ドイツの宣伝大臣で、ヒットラーに次ぐナンバーツーの、あの戦争の実力者。彼の秘書だった女性が、当時を思い出しながらの、インタービュが映画の内容だ。103歳になった女性ーブルンヒルデ・ポゼムさん、の顔が、白黒映像の中心だ。103歳になると、人間の顔ってこんなになるんだ、と。深ーい皺の彼女が、しっかり語る内容に、当時の記録映像が、時々、写し出される。
この時代のヨーロッパでは、イタリアには、ムッソリーニ、ロシアでは、スターリン、そして、ドイツのヒットラー、という3人の独裁者が、活躍していた。ロシアのスターリンは
ウクライナの300万の農民を餓死させ、1934年には、反スターリン派300人を粛清したことなど、このあたりの歴史は、学んだ、読んだことがある。
ヒットラーが、オーストリアを併合し、第二次大戦開始となった1939年、なんと自分が、東京京橋の木挽町(東銀座)で生まれた年であることに、ふと気づいた。1942年にヒットラーのドイツ軍がスターリングラードで敗退、1943年ムッソリーニが失脚、
1945年、ヒットラーがベルリンで自殺し、終戦となった、こうした時代に子ども時代を過ごしてきたことを、今になって、そうだったのか、と実感している。
生き残ったソ連のスターリンの誕生日、モスクワでの式典に、中国の毛沢東、朝鮮のキム・イルソン(金日成、現金正恩の祖父)らが並んでいる写真、みたことがある。
ヒットラーの狂気の時代に、遠い極東の国で、わたしは、幼少を過ごしていたのだ。
映画のポゼムさん、
   「なぜ みんな、あんなにゲッベルスの演説に熱狂したのか」、
   「私は、罪を犯したのか、もしそうなら、ドイツ国民全員が罪を犯したと」。
日本人は、「あの戦争時、なぜ戦争に反対しなかったのか、日の丸を振って、多くの男
      たちを、戦地に送り出したのか」、と。
   原題は、A German Life (あるドイツ人の人生)。        6月19日

翌日は、日本映画『モリのいる場所』
昨日の映画館で、もらってきたパンフレットにあった映画を観ることにした。なんと2日続けての映画鑑賞。銀座4丁目の映画館。ついでに久しぶりで伊東屋へ行ってみるか、と
出かけた。雨だった。30分前から傘をさしての行列。評判の映画らしい。ほぼ全員が女性客。有名な画家熊谷守一さんご夫妻の日常生活が内容。高名な日本画家の先生だそうだ
が、知らなかった。94歳と76歳ご夫婦が主役。30年もの間、自宅から一歩も出かけたことのない画家先生が、自宅お庭で、植物や蟻などを終日鑑賞(?)している日々。文化勲章も辞退する、なんとも時代離れの御仁には、ただただ驚き、感心するばかり。
昨年だったか、『人生フルーツ』という映画を観た。建築家だった夫と3歳年下の妻が、
雑木林の中の一軒家で、野菜、果実などの自家栽培をしながら、ゆったり暮らしている様子は、感動モノだった。
   「風が吹けば、枯葉が落ちる。枯葉が落ちれば、土が肥える。土が肥えれば、
    果実が実る。こつこつ ゆっくり、人生フルーツ」

この5月22日、待望の八十歳になった高齢者の目線、まだまだ迷いを引きづっている。





2018年6月8日金曜日

米朝階段直前のシンガポール

「やる」、「やらない」・一喜一憂

平昌オリンピックで、北朝鮮が選手団派遣、政府要人も参加。その後、板門店で、北朝鮮の、あの金正恩と韓国の文在寅、両首脳が会談。あれよ、あれよという進展ぶりで、敵対関係の米朝が会談をすることとなった。いずれも、超変わり者トップのトランプ大統領と
金正恩労働党委員長、本当に実現するのか、と当初いわれていたが、トランプの「やらない」、発言、そして、結果的には、「やっぱりやる」、の結論だった。
会談の場所貸しシンガポールでは、政府だけでなく、一般の人たちの間でも、会談のやる、やらない、が話題になっていた。
「北朝鮮からシンガポールまで、直行便で飛べるヒコーキ、持っているのか」、「外貨不足の北朝鮮、シンガポールの高級ホテル代、はらえるのか」、「奥さん連れてくるのか」
などなど。オーチャードロードの高島屋地下の食品売り場では、朝鮮のキムチの特売をし
ていた。ちなみに、ここの回転寿司、平日の昼、行列が出来ていた。

他民族「都市国家」シンガポール
滞在中の5月22日、通いの運転手が来ないので、聞いたら「今日は、祝日だ」とのこと。仏教徒の祝日『仏誕節』。シンガポールには、中国人、マレ―人、インド人が共存しており、それぞれキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教の4つの宗教が、教会や寺、モスクなどを持っている。4つの宗教の祝日が設定されていて、お休み日。この日に祝日繁華街へ行ってみた。街中の寺では、お詣りの人たちでいっぱい。環境によくないということで、伝統の長ーい、お線香、
自粛。車椅子の高齢信者も多くみられた。外食大好きの国だけあって、昼も夜も、食堂は、どこも満員だった。日本食が大流行りのようで、
ラーメン、たこ焼き、寿司、今川焼、すき焼き、うどん・そば、しゃぶしゃぶ、看板が目にはいる。寿司は、生の魚を東京の築地から週1~2回、空輸便で運んでくるとのこと。

ハイソサエティ(上流社会)の暮らし
50年来の友人宅に宿泊。プール、テニスコート、屋内ジムなどありの金持ち。夫妻共、毎朝、コーチつきのテニス、週1~2回は、早朝ゴルフ。滞在中、セントーサ島でゴルフ、といっていた。ここには、米朝会談の会場になるホテルがある。街の中心地へ、車で20分とのロケーションなのに、緑いっぱいの静かな高級住宅地。ご近所を、今回も、毎朝散歩ついでに覗きまわった。アテネのパンテオン風の真っ白な柱の門構えのお宅、玄関脇の車庫には、超高級自家用車が7台も並んでいるお宅。テニスコートは、ほぼ、どこにもある。お手伝いさんが、夕べ落ちたばかりの葉っぱをひろっている。犬の散歩も、スクールバスを待つ子らの付き添いも、お手伝いさん。お手伝い(家政婦ーベビーシッター、洗濯係、食事係など)は、2~3名おり、フィリピン人女性がメイン。友人宅のお手伝いさんは、40年くらい前からの女性。25歳になったこの家の息子(医師)は、彼女に育てられたという具合で、生涯、この家で過ごすことになる。
今年の誕生日ー5月22日は、あのシャングリラホテルの中華レストランで、祝ってもらった。自宅のコレクションから、ワインを持ち込むことが可能で、しかし、持ち込み料金が高い、2~3本、買えてしまうほどの高額にショック。シャングリラホテル、米朝どちらの首脳が宿泊するのか。
外の温度は、35~6℃。屋内は、20~23℃、どこへ行っても、寒い、寒い、シンガポールでした。散歩の途中で、毎朝、買ってくる日経新聞(480円也)を1時間ほどかけて読むのが、なんとも楽しい時間でした。